「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<4>
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <4>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行
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インドからの招待状
コミューンは解体し雑誌も存続出来なくなったが、ほのかにインドに行ってみたいという気持ちが次第に大きな新しい目標となっていった。日本山の影響やOSHOにひかれたこともあり、また国内は何度も旅していてもまだ外国に行ったことがないことと、精神世界に旅立つにはどうしてもインドへの旅は欠かせないように思えたからだ。
ところが印刷会社で働き始めると、技術も身につき自分の生活にそれなりに満足し、旅行資金がたまってもインドに行く必要性を感じなくなっていた。マクロビオティックにも関わっていた社長は漫画家の石ノ森章太郎の同郷の友人だったりして、毎日の仕事がそれなりに楽しかったのである。
そんな晴れたある朝に、私は出勤途中で九死に一生を得るような大きな交通事故に巻き込まれ、一命は取り留めたものの仕事で一番大事な右手の人差し指の筋を21針縫うけがを負った。数ヶ月しか乗っていない新車はオシャカになり、仕事は出来なくなって自宅で休んでいると、何度も事故の瞬間が思い出された。
どうしてあの事故は起きたのであろう、ほとんど死亡事故だった。どうせあの時死んでしまったのなら、やりたいことをやろうと決心し、一番何をやりたいのか自問自答してみると、それはやはりインドに行くことであった。77年の7月のことである。
ようやく周囲の反対を押し切り環境を整えてインドに旅立った11月、政治的活動家は地下に潜伏して行き「東アジア反日武装戦線・大地の豚」の加藤三郎ことのちのSwデバムは最後の個人的爆弾闘争を決行していた。彼がもう少し早くOSHOに触れていたらのちに獄中の人になることもなかったかもしれないし、また私がOSHOに触れなかったら、もうひとりの加藤三郎になっていたかもしれない。
この頃Swプラブッダはあぱっちと同居し、日本にただ一つの瞑想センターは石神井の「ミルキー・ウェイ」に間借りしてSwアディナタガリードしており、OSHOは日本において先ずカウンター・カルチャーに受け入れられたと言うべきであろう。
ようやくインド・プーナにたどり着き、彼の前に行くと、OSHOは、議論をしている人間には神が宿ることはない、愛と瞑想を通じて神に至りなさいと語り、彼の弟子・サニヤシンとして私につけてくれた名前は愛と感性の神という意味であった。
ある時瞑想をしていて、何故私は今ここにいるのだろうと思われ、ふとあの交通事故出出来た手の傷を見ていると、OSHOの写真の入ったマラ(数珠)の大きさと合致することに気付いた。あの事故は実はインドからの多少手荒い招待状で、このマラを握るためにここに呼ばれてきたのだ、という不思議さに、納得する私だった。
インド生活が丁度一ヵ月過ぎた日にOSHOとの個人面談ダルシャンがあり、この日は満月のクリスマスでもあった。この夜は私の生涯の中でも特別な人なり、打ち続く頂上体験から来るエクスタシーを一晩中全身に感じていた。しかし、この個人的な内面の世界に起きたことを翌朝になってルームメイトに話そうとしてもうまく伝えることが出来なかった。瞑想の道を歩む人にはきっと誰にもこんな神秘が起こっているのだろうが、他人に語ることなくひとり旅を続けているのだろうか。
夕焼けに昇る満月
78年の正月に当時プーナに滞在していた20数人が集まり日本人パーティをすることになった時、みんなで星占いをしてみたら、驚いたことに約70パーセントの人が偶然三月生まれであった。西洋占星術では三月はユニークさを表す魚座と、冒険を表す牡羊座にあたるが、なるほど確かに日本に飽き足らずに飛び出してしまうようなユニークな人々や、海のものとも山のものとも分からないOSHOと直観的に旅を始めた冒険的な人々がプーナに集まっていたことは間違いない。
Swプラブッダ、Swアディナタ、Swシャンタン、Swアイコ、その他沢山の人々とともに私も三月生まれであったが、また多少無鉄砲な次男坊体質のサニヤシンが多いようだった。世界から集まってきたサニヤシンの平均年齢は30歳位であったが、日本人の平均は5歳位低く、社会経験の少ない学生上がりという感じの人達が主流だったように思う。
この頃プーナではアメリカのエサレン研究所などから大挙してやって来たセラピスト達によって、世界で一番最先端のセラピーの実験が行われていた。東洋の伝統的な瞑想と西洋で開発され発展してきた心理セラピーが見事に融合しており、私は初めての海外旅行から受けるカルチャーショックも相まって、「私は誰か」という問い掛けの中で自分の仮のアイディンティティが一挙に崩壊して行く体験をしていた。
やがて三ヶ月が過ぎてビザ延長申請が不許可となり、一週間以内にインド国外に退去するよう命令され、これを幸いと吸引力の強いプーナを離れて空路スリランカへと向かった。私がインドに来たのは日本山妙法寺の人々に触れるという目的もあり、丁度この時に山主であり日本仏教界の最高峰とも目される藤井日達上人がスリランカの仏足山に仏舎利塔の建設竣工法要のために長期滞在していたのだ。
サニヤシンになったとは言え、まだまだその意味を知らず自覚も足りなかった私は、もし可能ならばこの高僧の元で出家して、法華経の行者になりたいと思った。ところが同じオレンジ色の衣を纏い数珠を首にかけているとは言え、彼らは激しい断食をしたり、火の着いた一束の線香を大腿に縛り付けて長時間に亘り題目を唱えるなどの難行苦行の修行を行ない、OSHOの瞑想法とはまた違う世界であった。
歓迎されて彼らとともに一ヶ月間その行に参加しているうちに、私の中では一つの理解が起こった。日本山の出家者たちはオレンジ色の衣を着るが、それは美しくもまぶしいが夕焼けの美しさであり死体を焼く炎のまぶしさだ。
OSHOのサニヤシン達もオレンジを着るが、それは朝日のまぶしさであり、誕生に伴う鮮血の鮮やかな美しさだった。仏教はその使命を終えつつあり、最後の法華経を奉じる彼らがインドに沈もうとしていた。その時水平線上からかすかに新しいOSHOの光が上り始めたのだ。
法華経や大集月蔵経にあるように、日の国・日本の仏法を月国・インドに返すために、1931年、藤井日達上人はインド・ボンベイに渡った。こうしてインドの誕生した仏法は中国・日本に渡り、二千五百年の後に日達上人によって再びインドに帰ったのである。この年、ボンベイの北部ウチワダでOSHOは最後の肉体を持って誕生した。
仏足山でうちわ太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」を唱えていた満月の夜、私はひとつの不思議なビジョンを見た。地球、月、太陽が一直線に並び、その延長線上に私は立っている。それは私とOSHOと日達上人のことであり、時に私23才、OSHO46才、日達上人92才、この数字の中に合わせ鏡の様に共振するエネルギーが存在していた。彼らは私の父であり、祖父でもあった。
私は再びインドにもどりポンジェシュリーのシュリ・オーロビンドのコミューンを訪ねたり、北インドの仏跡を回ったりしながら世界からやってきたジャンキー達と旅を続けたが、やはりOSHOの持っている重要性は動かし難いと感じ始め、再びプーナにもどり瞑想をしたりセラピーを受けた後、一年間の旅を終えて帰国することにした。
法華経にあるごとくゴータマ・ブッダが肉体を離れてから500年サイクルを5回繰り返し終わって、今や人類のエネルギーはOSHOを通じて新人類を生みだしつつある。再びインドに宿された種子は、再び日本に渡り満開の花を咲かせることだろう。
以前は帰国後あぱっちの新しい雑誌「やさしいかくめい」の編集を手伝いたいと思っていた私は、だんだんと仙台に帰って瞑想センターを始めようと思い始め、OSHOから「スバガット」の名前をもらった。スバガットとはウェルカムというサンスクリット語で、全ての宗教は私達に属するという意味であった。
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