「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<6>
<5>からつづく
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <6>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行
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開かれた神秘の扉
87年夏、OSHOに会うため家族とともに10年振りの懐かしいインドに向かった私は、もう何時の間にかプライベートな旅にもネクタイを帯行し、妻と二人の子供を連れたちょっと太った日本人のお父さんになっていた。
インドのボンベイ空港に到着すると、ああ、ここはやはり熱風とバクシーシのインドであった。久し振りのOSHOとの再会を喜ぶ間もなく、紙おむつをリックに詰めてプーナにたどり着いた私たちを襲ったのは強烈な下痢と伝染病だった。一才半の下の子はみるみる針金のように痩せて行き、3才の上の子は遊んでいてぶつけて出来た頭のコブが化膿して、現地の病院で手術を受けることになった。
しかし、その手術も日本の医療レベルに比べるとだいぶずさんなものであり、過酷なインドの気候と生活環境の中で憔悴し切って行く子供たちの姿を見ていると、ここまで来て私は一体何をしているのだろうか、と思う程であった。
それでもどん底の精神状態をくぐりながら、一ヵ月もすると幸いにもインドの民間療法によって回復し、その後は4ヵ月間のトレーニング・コースに参加することが出来て、家族みんなでインド・スタイルの生活を満喫したのだった。
その半面、アメリカ滞在中にキリスト教原理主義者達によって害されたOSHOの肉体はますますデリケートになって行き、インド国内における彼のあり方は身体的にも法的にもまったく不安定なものだった。
世界の21ヵ国に入国を拒否されながらワールド・ツアーを終えてようやく自国に帰り、ゴルバチョフが率いるソビエト連邦の革新に愛を送り、日本における東洋と西洋、精神と物質の出会いの可能性に讃辞を送る彼には、世界の何処でもよいから早くゆっくり休める場所が必要であると感じられた。
プーナ滞在を終えて日本に帰国することになった時、ネパールの王族に属するサニヤシンのインスピレーションによるものとして、「OSHOはまもなく東に移るであろう」という誠しやかな噂が流れた。「東」とは一体何処であろうか、インド国内のカルカッタであろうか、それとも考えてみれば日本も「東」であるし、もし本当に可能なのであればぜひ日本に来て健康を回復して欲しいと思った。
日本に来るとすれば、それはやはり富士山の近くであろうかと考えた人々は、彼を迎える地の準備として静岡県伊豆の保養地のもと民宿だった建物を借りて、Swシャンタン・Swリンザイを中心としたスペース「ユニティ」の活動を始めた。
文化的な特殊性と英会話のギャップなどで、世界でもやや遅れ気味だった日本のOSHOムーブメントが、その感性と技術力でOSHOの絵を元にシルクスクリーンの版画を制作販売し始め、世界に向けて一気にユニークな運動を展開できたのは、「ユニティ」に関わる人々がその大きな使命に気づいたからである。
イラストレーター横尾忠則氏などの協力もささやかれながら、展覧会は日本のニューエイジを含めた精神世界のメッカになりつつあった奈良県の天河神社で最初に行なわれ、客観芸術としてその純粋性が高く評価された。この時OSHOはインドの神秘的な芸術家として日本神道に入って多くの新しい出会いを作り始め、88年3月3日の桃の節句に寄せてインドから数万年前の隕石とメッセージを送り、柿坂宮司の口を借りて、ついにマイトレーヤ宣言をしたのである。
続いてOSHOの展覧会は4月8日から三日間、仙台のサニヤシンが経営するフラワーショップ「花天竺」で行なわれ、新聞やラジオのニュースにもなり瞑想やOSHOの世界が広く求められていることを確認した。プーナの出会いの中で起こったこの新しいムーブメントは、やがて日本のみならずドイツやアメリカなどにも展開し、さらに多くに人々との出会いの機会を作り豊かな個性が混じり合うきっかけを作った。
そのころ、仙台でも珍しい春雪の降った「花祭り」をお祝いしている時、プーナではモンスーン地方特有の雨期の暴風雨に、一万人収容のブッダホールの大きなテントが裂け、講話の音声がかき消される中、OSHOとともに人々は笑い転げ泣き叫び、混沌たつマインドから静寂な世界へと誘われていた。
「ある日突然私は行ってしまうだろう。ちょうど嵐が行ってしまうように。私が行ってしまう前に私はあなた方に出来る限り大きなバラとなって花咲いてほしい。私にとって自分自身の肉体を保持するのは困難なことだ。私はいかなる瞬間にも消えてしまい得る。そうなってしまったら、あなた方の涙は私を呼び戻しはしない」OSHO 1988/04/09
「神秘のバラ瞑想」や「ノーマインド瞑想」などの新しい瞑想を紹介しながら、彼は好んで多くの禅を語り、弱った目にサングラスをかけながら、一瞬たりとも目の離せないワークを用いて一人一人に働きかけ、神秘の扉はひとつひとつ開かれて行くのであった。
ミステリー・コミューン
やがて日本にいる私達も遠くプーナから離れていても、何時の間にかコミューンのブッダホールに居るような感覚を持つ瞬間が多くなった。それは新しいミステリー・スクールがスタートしてより一層一体感が高まったことと、各国のコンピューターを国際電話回線で繋いだパソコン通信ネットワークが完成して、電子のコミューンが機能する時代へと突入したからである。日本では、「創造的科学と芸術と意識のための世界アカデミー」の日本事務局にもなったSwアナンドボーディ達の「ユニティ・ソフトウェア・ブレーンズ」がホスト局になった。
世界アカデミーの創設計画にあたって、OSHOはその代表に人類の成長に益する放射線研究をしていた日本の超科学研究家・通称ドクター村越氏に白羽の矢を当てた。しかし、OSHOのラブコールに反して、ドクター村越はプーナまでおもむいたものの、OSHOのアメリカの風評などを気にしたのか結局前面に出ることはなく、やがてアカデミーは尻切れとんぼにに終わった。
この頃長い間地にもぐっていた日本のカウンター・カルチャーの流れは、86年のチェルノブイリ原発事故をきっかけとして息を吹き返し、88年8月におおえまさのり氏らを中心として八ヶ岳のスキー場で行われた「いのちの祭り」として見事に復活した。
精神世界の進行とともに長い間視点が内向化し、結婚や子育てに集中していた団塊の世代が、思春期を迎えた二世達の行動範囲の拡大とともに、再び目が社会や環境問題へと外に向かい始めたのだ。一体この子供達に原発と核兵器と荒廃した地球以外の何が残せるのか、危機感は再び人々のハートに火をつけたのである。
日本を代表するセンターである横浜の「OSHOイア・ネオ・サニヤス・コミューン」のSwヤスヒデ達スタッフも参加し、ここで再びOSHOの流れとカウンター・カルチャーの流れは交流したかに見えた。こんな時、鹿児島の屋久島に住んでいたSwプラブッダは、OSHOの遺伝子操作についての積極的推進と取れる発言を批判し、いわゆる彼の言う「グルイズム」からの離脱宣言の声を上げた。
OSHOは少年期より7年サイクルで自分の人生のワークの局面を変え、成人してからも哲学教授からジャイナ教の指導者へ、また心理学的セラピーを駆使する精神世界のマスターへ、あるいはまた自立したコミューンに住まう沈黙の来訪者へと幾度も劇的な変貌を遂げ、そのたびに一部の人々は失望して去り、そしてより多くの人々が真実を求めてやってきた。
彼はこの時その7年のサイクルの転換期にあり、地球人類を盲目的な自殺へと追い込む無意識から、より自由と愛に満ちた意識を招く旅の中で、「ヤフー!」のマントラとともにまたまた新しいステージへと私達を誘っていたのである。
丁度この88年8年頃名古屋でOSHOの絵の展覧会があり、それがきっかけとなってOSHOについてのニュースがやがてキーパーソンの一人となる三重県伊勢市に住む石田カツエ女史のもとに届いた。仙台近郊に生まれ、結婚して北海道に渡った彼女は20数年前に、近い将来ある人物を通じて21世紀が導かれるというビジョンを見ていた。
彼女は真珠販売と関わりながら70年代末に三重県の伊勢神宮の近くに居を移し、ローマ法王、ダライ・ラマ、桐山靖雄といった人々に想いを託すが失望するだけだった。そんな彼女はOSHOの写真を見て「この人だ!」と深く打たれるものがあった。さっそくインドに送られた彼女のメッセージを受け取ったOSHOは、彼女をプーナに招待するとともに、彼女の予言どおり数週間の間に4度名前を変えた。
この時からかつて「セックス・グル」や「リッチマンズ・グル」のバグワン・シュリ・ラジニーシとして知られていた彼は、インドに滞在していた日本人サニヤシン達の提案もあって、和尚ラジニーシとなり、また親愛なる友人として単にOSHOと呼ばれるようになった。そして89年1月に和服を着てインドに渡った石田女史はサニヤシンとしてMaシャルノになり、OSHOのメッセージを日本に伝えるOSHO日本大使に任命されたのだった。
個人面接の時、OSHOは彼女の手をとり涙ながらに「わたしの仕事をやりなさい」と3度繰り返したという。OSHOの見るところインドから日本にはかつて達磨大師や他の祖師達によって確実に仏教の禅が伝えられたが、講話録「究極の旅」にもあるように十牛図の十番目、酒瓶を携えて巷に出て子供や人々と交わるという最大のポイントが伝わらずに中国で止まってしまっているので、これを日本に届けてほしいと言うのである。
Maシャルノはインドで受けたバイブレーションを日本の中心に入れるために伊勢に帰り、彼のメッセージを伝えるための学校を作ることをOSHOに提案、日本マルチバーシティと新しく命名された学校作りの可能性を模索し始めた。
彼女の想いは、インドのOSHOを、すでに干からびてしまった宗教という形ではなく、学校という形で日本に伝えたいというところに結実した。計画にあたってはサニヤシンを初めとして多くの人々の意見を取り入れたいと希望し、候補地については三重県の数十万坪の可能性があると言うことであった。
日本スピリットとの葛藤
マルチバーシティとは、大学としてのユニバーシティが巨大化して統一性を欠いたものという概念もあるが、OSHOはこれを積極的な意味にとらえ、かつて人類が精神性を探求してきた全ての方法について、賛成であれ反対であれ、誰もが体験できる場として、この時初めて創案されたものである。
一方、Maシャルノの言っていた日本マルチバーシティの要点は、大きく3つのポイントに搾ることが出来る。幼稚園から大学まで一貫した教育形態が必要であるという点。次にその敷地に大きなブッダ・ホールを用意しOSHOも招待して滞在できるようにする点。そして大事なポイントは音楽から始めることで、プーナの音楽を日本に入れることによって、音は言魂(ことだま)だから、日本に最も入り易く一般の人々にも理解されるという点であった。
かつて最初、若者文化やカウンター・カルチャーに瞑想マスターとして受け入れられ、次に絵を通して純粋な客観芸術家として再認識されたOSHOは、今や21世紀を拓く鍵を持つ神秘家として、日本神道の裏の天河神社から表の伊勢神宮へと抜けようとしていたのである。
87年のある時、OSHOは天皇ヒロヒトをプーナに呼ぼうと言ったことがあるが、この世紀の対面は結局実現せず、また20世紀を揺るがした二人はもうすでにこの世の人達ではないが、ひょっとすると、今頃彼らは黄泉の国でゆっくりと対談でもしているかも知れない。
Maシャルノは伊勢神宮に祀られるアマテラスの太陽エネルギーを、月のマスターOSHOに入れようと、10年はかかると言われる学校法人設立に向けて正面突破の意向だった。彼女のもとに全国から期待が集まったものの、多くの日本人サニヤシン達にとって、アマテラス大神を中心とした日本神道に対して天皇制批判を抜きには進めなかった。周囲の期待はふくれあがっても組織形態や資金作りがはっきりしないまま、混沌とした状況の中で計画はスムーズに進まなかった。
89年4月にもまた仙台のフラワーショップ「花天竺」で展覧会が開かれ、より緻密なリーラ・シリーズやMaミーラの水彩画が展示され、Maシャルノも来仙し生地に帰って再スタートする姿勢を見せた。彼女はなかなか進展しない建設計画について沖縄や長野などいくつかの国内の候補地も考え始め、自分の関わりのある仙台近郊の土地も模索していた。
そんな時、映像作家アライタダヨシのちのSwニラーブの紹介で、宮城県内のある土地が一気に浮上し、北上川沿いの一万坪の土地に周辺のサニヤシン達の期待は集まった。ここはMaシャルノの予言にも適合する土地でもあるし、OSHOの健康状態から見て早期の着工が必要であり、最小の状態から始めてコミューンなどに向けた最大の拡大の可能性があった。
周囲の住民達は源氏ボタルの保全やシベリヤからの白鳥を迎える自然環境運動を行なっており、歴史的にも隠れキリシタンをかくまった慈悲心や、明治時代に大勢してカナダに渡航を企てた先祖の村民達の冒険心を受け継いでいた。
普段は比較的に言葉も少なく静かな仙台周辺のサニヤシン達は大いに関心をひかれ、OSHO弓道のSwアサンガなども加わり、私達一家も住民票を移しコミューン建設に向けて準備を始めた。
しかし役場や町長や地元の有力者などへMaシャルノとともに挨拶回りをし、正式のゴーサインを待ったが、結局交渉はなかなかはかどらなかった。マルチバーシティを作るという動きの中で、OSHOと日本の出会いが形を持つことに対する有形無形の霊的な葛藤が起きていたのである。
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コメント
この記事にアクセスが集中することは、とても光栄なことだと思う。原文を書いてからすでに四半世紀が経過した。状況もだいぶ変わった。されど、当時の思いを書き留めることができたのは幸運だった。そして、だからこそ書き手としては、からまで、全体を読んでほしい、と切に願う。
投稿: Bhavesh | 2018/08/19 01:29