「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<5>
<4>からつづく
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <5>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行
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「オレンジ白書」をもう一度
勢いついて仙台に帰った私を待っていたものは、冷めたカウンター・カルチャー・シーンと就職し結婚した仲間達で、飛び上がった私だけが戻るべき大地を失い、さまよっている風だった。しかし彼らから見れば、帽子から靴下までオレンジ一色に染まり切って帰って来たドン・キホーテを誰もがどのように取り扱ったら良いか戸惑っていたのだ。今や日本にも何万人もいると推定されるサニヤシンも、当時はまだ数十人しかおらず、東北では私が最初だった。
インド・プーナではオレンジ一色が当たり前になっていたとしても、日本には現色は強烈すぎて、理解できる仲間やサニヤシンのいない中で、自分だけが愚かに見えるのだった。こんな現象は全国的に起きており、当時アメリカ西海岸から帰国して翻訳でトランスパーソナル心理学を紹介し始めていたC+Fの吉福伸逸氏にもからかわれた記憶が残っている。
「やさしいかくめい」創刊号では、OSHOの「ダイヤモンド・スートラ」が紹介されていたが、編集長のあぱっちもやや狂信的ではないかと批判的になっており、日本のラジカルな人々にとってもOSHOはなかなか受け入れ難いものであった。
私は仙台での瞑想センターの足掛りをつかむことが出来ずウロウロしている間に、周囲の機転で県の全寮制の農業大学校に入学することになった。午前中はエコロジーから経営マネジメントまで学び、午後は農場に出て実践的に農業を学ぶこの学校は、時折インド時代のフラッシュ・バックが続いていた私にとってリハビリとして結構快適な空間であった。だが中心となる農薬体系・機械化体系は、本当に私が学びたいと思っていた農業とは違っていた。
この時、近くの禅寺に通い寮の座禅愛好会の仲間達と瞑想したことは、私にとって忘れることの出来ない一座となった。寺の裏の竹林が風に吹かれ笹の葉が触れ合い、田植え直後の蛙の合唱の中での瞑想。この時の仲間の一人がつれあいのMaゲーハである。
私の心の中には流れるままに流れなさいというOSHOの声が聞こえ、松任谷由美の「『いちご白書』をもう一度」が何度も響いて、時代が変わってしまったのを感じていた。・・・・就職が決まって、髪を切って来た時、もう若くないさと、君に言い訳したね・・・・
しばらくして甲状腺を煩ったのか頸部リンパ線炎になって、国立病院で半年の余命と診断された(当時は家族しかしらなかった)。思えば結構自由にやりたい放題やって来たし、その帰結として身を持ち崩したのなら全責任は自分にある。ここで人生が終わるならそれもまた一つの運命だろうと、入院したベッドの上で私なりに覚悟を決めた。
この頃、ひとりの宮城県出身のサニヤシンが帰国後の社会適応に苦しんで井の頭公園で首をつり、ある友人は多量のドラッグを服用してプーナの河に消えて行った。死は身近にあり、もう死んでもいいと嘘ぶいてみても、高熱でうなされ悪夢に襲われると必死にもがいて逃げようとする自分に、なるほど、まだ私はしにたくなのだナと悟った。
血液製剤と放射線治療で体力が衰え髪が抜け落ちながらも周囲の献身的な介護のお蔭で一命を取り留め、有難いことにタイム・リミットであった筈の半年後にはなんとか回復退院することが出来た。
その後さらに半年自宅で療養し農業大学校も無事卒業、体調が少しづつ回復して社会復帰したいと思っていた時、一人のサニヤシンが仕事をもってやって来た。忙しいから気軽に手伝って欲しいと言われ腰掛けのつもりで始めたのだが、この家庭用ミシン関連の仕事を現在に至る迄10年以上に渡って続けているのだから、人生とは何処でどうなるか分からない。
後に数十人のサニヤシンが関わるこのとになったこのサニヤス・ビジネスはやがて年商数億円に膨れ上って行き、これに勢いづいて私達は、市内のビルにあるサウナ風呂を借りて全面的に改造a happy new year 2018 http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/a-happy-new-yea.htmlし、ようやく本格的に瞑想センターを始めることになった。
静かな確信
この時期OSHOは沈黙に入りインドからアメリカに旅立ち、インドのコミューンに滞在していた人々が続々と帰国し、各地で瞑想センターを開始し、活況を呈した。Swソメンドラがやって来ておおきなセラピーのワークショップをやったり、テレビの「知られざる世界」で二週に渡ってプーナや日本のサニヤシン達が報道されたり、シルク・ロードの喜多郎がサニヤシンSwセトゥになったりと、日本におけるOSHOムーブメントのピーク時のひとつであった。
アメリカのコミューンは急ピッチで工事が進み、仙台からも82年ワールド・フェスティバルに21人で参加した。アメリカのコミューンはとても素晴らしいものであったが、その運営に当たりOSHOの筆頭秘書であるMaシーラが人材や経済力をアメリカのコミューン一極に集め始め、日本の瞑想センターは少しづつ運営が苦しくなり、やがて東京のシャンティ・ユガひとつにまとめられることになった。
またアメリカからの意向で、京都のSwトシヒロが中心となって日本ラジニーシズムとして宗教法人化の模索が行なわれたが、政治家や弁護士を通じてロビー活動をするに留まり、実際に組織されることはなかった。
29年3月29日3時29分生まれの私は3と29という数字が好きで、自分が29才の時に画期的な何かが起きるのではないかと思っていた。ブッダは29才で出家し、キリストは29才で人々の前で説法を始め、日蓮は29才で一寺一宗の主たらんと誓いを立て、道元は29才で禅を求めて中国へ渡った。
私にもきっと宗教的な回心が起きるに違いないと期待していたが、この時期に私は結婚し子供をもうけ経済的に自立するために葛藤していた。別段特別なことも起きはしなかったが、29才の誕生日に近くの河原で瞑想していた時、私は一生OSHOと生きて行くだろう、という静かな確信を得たのであった。
やがて日本のサニヤシンの草分けのひとりだったswアディナタは、アメリカのコミューンにあるクリシュナムルティ湖え水泳中に心臓マヒで死亡、コミューン発表によれば彼はエンライトして肉体を離れたという。ジャイナ教の開祖マハビーラに先立つブッダ達24ティータンカラの最初のブッダの名前を持つアディナタは、OSHO下で日本人として最初のブッダになったのだろうか。
同じ頃、公衆に対して沈黙中だったOSHOは、人々の話題に上り始めたエイズについて秘書を通じて大きな警戒を発した。日本にいる私達にとってははなはだ突拍子もないことで、大半の才に野心が戸惑ってしまったが、アメリカの成人男性の100人に一人がエイズに冒され、日本においてさえすでに8000人の潜在患者がいることを厚生省が認めている現在となれば、その先見性は高く評価されなければならない。
OSHOとサニヤシンによるオレンジ革命は静かに世界中で着々と進行していた。月食のあった85年9月の満月の夜、私はSwシャンタンと山形の月山に登っていたが、アメリカではOSHOがいわれなき罪によって逮捕された。アメリカのコミューンから次々に帰国する人々のレポートから、秘書ミーラのもとコミューンでは沢山の矛盾を抱えていたことが分った。
OSHOは釈放された後、数少ない十数人のスタッフ達と自家用ジェット機で世界の旅に出て弟子達の目の前から姿を消し、ワールドツアーの中の21ヵ国から入国を拒否されながら旅を続けた。この機を見てかつての側近ガードマンSwシバがかつてのキリストの直弟子達のような心境に落ち込んだのであろうか、裏切り者ユダのような役割を演じて「堕ちたグル」を米国で出版した。
ようやくOSHOがインドのプーナに戻ったのは87年初頭、長いこと彼に会えなかった世界中のサニヤシン達が新しい友人たちを連れて昔懐かしいインドに向かい始め、私達もスバガット再開の手続きを取って瞑想会をスタートし、このチャンスを逃すまいと1才と3才の子供たちを連れてインドへと向かった。
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