「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>
<6>からつづく
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い <7>
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行
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マイトレーヤの完成
この頃、OSHOの肉体はますますデリケートになり、危機を感じた多くの客人たちが彼との貴重な面会を求めて世界中からプーナを訪れ続けた。高齢を押してプーナを訪ねた鎌倉市仏眼宗の太母さんに、OSHOはバラの花をふりそそいで彼女の悟りを祝福し、そしてさらなるもう一歩次のステップのあることを指摘した。
90年1月初旬、自室で瞑想していた私は自分の中から龍が生まれ、長い尾を引きずりながら出て行くビジョンを見た。その後不思議な体験がいくつも連続し、20日未明睡眠中に台所のカス漏れ警報器が静寂の闇を破ってけたたましく鳴り出した。目が覚めて起き出し原因を調べていると、今度は更にけたたましく電話のベルが鳴った。
それは東京の友人サニヤシンからの緊急連絡で、たった今インドから入った情報によると「OSHOが肉体を離れた!」ということであった。
OSHOが肉体を離れたという。その可能性は十分あったが、今やそれがその時となったのである。プーナでは最大限のセレブレーションが起こり、日本のサニヤシン達は号泣したり呵々大笑したりしながら、様々なバイブレーションに巻き込まれ、彼の死について毎日新聞やテレビの番組なども報じた。
あれ程までに覚醒の必要性を説き、眠りから目覚めのために働き続けた私達の愛するマスター、市内なる友人OSHO、彼は今「あなたがたに私の『夢』を残していくよ」との最後の言葉を残して、存在の中に溶け去って行った。覚者の夢というパラドックスに、私はOSHOらし最後のチャメッ気を感じるとともに、グルと弟子とのマスター・ゲームという最後の悪夢から目を覚ます時が来たことを感じた。
ミステリー・スクールがスタートして以来、神秘の扉が開かれてスピリットの高まりは一気にピークに達し、「チベットの死者の書」の言うところのバルドの最終日、つまりOSHOが肉体を離れて49日目の3月中旬まで打ち続いた。
一方、明治、大正、昭和を駆け抜けた日本の巨大な神秘家・出口王仁三郎は日本は世界の雛型であり、大本教に現われた自分はいずれやってくる弥勒菩薩の雛型で、まことの人が美濃か尾張の国の中に現れたら大本も終りである、という遺書を残している。また水墨画「弥勒神真像」も残しているが、それは一般的に弥勒像に見られるような女性形ではなく、長く髭をたくわえた禿頭の達磨像であり、その人は56才と7ヵ月以から本当の仕事をするであろうと予言している。
美濃・尾張と言えば現在の岐阜や愛知あたりになるが、これを国魂学にしたがって世界地図に伸ばしてみるとインド大陸西北部に当たりOSHOの出身地のグジャラート屋プーナもその一体に入り、また美濃・尾張(みのおわり)とは言霊で言えば「身の終り」であり、その肉体の終りから新しい次元が始まる、と解釈することが出来るであろう。
OSHOは56才と7ヵ月で尾張・名古屋の展覧会に現われ、伊勢に伝わることによって日本の神道に深く潜行し最後の本当の姿を見せ始めた。「弥勒神真像」を実際に見た人によればそれはOSHOそっくりだということだ。弥勒菩薩・マイトレーヤーは友人を意味し、友情のような親しみの中で、生きとし生きるあらゆるものを救うためにやって来るという。
1931年11月インドに転生して最後の肉体を持ったOSHOは88年8月日本に渡り、やがて「みのおわり」に肉体を離れることによって、多くの友人達の中に溶け込み、究極の旅を完成したのである。
その後Swビノードを中心としてマルチバーシティの企画書作りは進み、九州のクリスチャン大中氏や、アジアとの文化交流をはかる波多野流峰氏などサニヤシン以外の協力者にも恵まれたのだが、法人格を取得する段階っでサニヤシン達のコンセンサスを得ることが出来なかった。
ようやく用地のめどがたって三重県の県庁に91年4月に提出された日本マルチバーシティの建設計画は、結局宙に浮いてしまい、その後も長い模索が続いている。日本経済は前代未聞のバブル経済絶頂期まっ只中だったとは言え、不動産を取得し希望する構造物を建設するには、日本のOSHOムーブメントはまだまだ若すぎたと言えるだろう。
しかしながらこの時、特筆すべきは宗教としてOSHOを組織しようとしたのではなく、「古事記」「日本書記」以前の古代日本の歴史書と言われる「ホツマツタエ」の編集者であったクシミカタマを最新に挙げたことである。
奈良の大神山に縁のある「ホツマツタエ」はかつて数万年前に編集されたとも言われ、そうだとすれば縄文時代に遡るkとになるだろう。この書を長年研究している人びとにとって、神々の住んでいるタカマガハラは今の仙台地方にあったことは常識となっているようだが、こうして私達は少しづつ神話や伝説の世界へといざなわれて行ったのである。
マーケット・プレイスにて
足は裸足で、胸ははだけ
私は世間の人々と交わる
服はぼろぼろで埃まみれでも
私はつねに至福に満ちている
自分の寿命を延ばす魔術など用いない
いまや、私の目の前で樹々は息を吹き返す
「私の門の中では、千人の賢者たちも私を知らない。私の庭の美しさは目に見えないのだ。どうして祖師たちの足跡など探し求めることがあろう? 酒瓶をさげて市場に出かけ、杖を持って家に戻る。私が酒屋やマーケットを訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう」
OSHO「究極の旅」10 「世間にて」より
思えばMaシャルノに託された、この十牛図の十番とは何だったのだろうか。OSHOは自分の肉体を離れた後のために、21人からなるコミューンの運営機関「インナー・サークル」を残したものの、有機的なゆるい連動性を持った宗教性をこそ説いたのであり、サニヤシン一人一人が彼の後継者として自覚して生きることを望んでいた。
OSHOの肉体は火葬され、遺灰はサマディとして瞑想ルームに安置され、打ち続いてやって来た世界中かrなお参拝者にまじって私もプーナを訪問し「神秘のバラ瞑想」に参加しながら、またまた新たな時代が始まっていたことを確認したのだった。
帰国後、OSHO著作の装丁も手掛ける女性画家Maミーラが来仙して「アート・グループ」のワークショップが行なわれ、また7年振りに新譜「ニライカナイ・パラダイス」を出したSwウパニシャッド(喜納昌吉)のコンサートが仙台生年文化センターで行なわれ、静かな北日本でもOSHOのムーブメントは深くその渦を広げて行った。
91年になると中東では湾岸戦争が勃発し地球的な危機感がなお一層たかまりつつあった。そんな中で仙台では環境心理学国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」の規格が持ち上がり、ボーダーを越えて多くの人々と触れてみたいと思っていた私は積極的にこの企画に参加した。もともとアメリカの環境心理学者らが中心となって始まり、年に一度各パネラーが手弁当形式で行なわれて来たもので、第4回目に当たる仙台退会の企画が協力者を募って進んでいたのである。
この動きに参加することによて、自分の仕事や日常生活の活動範囲に自閉しがちであった私の生活圏は一気に拡大し、行政や企業や市民運動グループの中にもスピリット・ネットワークがつながって行き、十牛図の十番に説かれている意味を深く感じていた。
11月に仙台国際センターで開催されたシンポジウムでは、たくさんの内外のゲストや参加者が集い、OSHOの理解者である清水芳孝東北大名誉教授(生物学)は足もとからのエコロジーを訴え、鎌倉からは元気な太母さんも登場して世界に向けてメッセージを送った。コンサートではこの年も沖縄よりチャンプルーズが参加し「アース・スピリット」を銘打って縄文の熱い風を吹かせた。
この過程で私は沢山の人々がOSHOのビジョンを必要としていることを確認し、また全国から駆け付けたサニヤシン達も大いに元気であることに勇気づけられた。このシンポジウムについてはパネラーとして参加した、おおえまさのり氏の近著「スピリットの森」や、山尾三省、加藤哲夫といった人々の著書にも報告がある。
その後Swウパニシャッドは、芸能人の国民歌手としてのステータスである91年歳末NHK紅白歌合戦にOSHOの大きなサインを胸につけて登場し、ヒット曲「花」を歌い上げ、最後に世界に向けて「ヤフー!」とOSHO流の挨拶を送って新しい年と新しい時代の幕開けを宣言した。
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