« 「アイアムヒッピー」 日本のヒッピー・ムーブメント’60-’90 2013増補改訂版<2> | トップページ | 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<2> »

2014/04/02

「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<1> 

Tuku
「湧き出ずるロータス・スートラ」 私の見た日本とOSHOの出会い
阿部清孝(Sw Prem Bhavesh) 1992/06 「TSUKUYOMI」 京都・ツクヨミ・プロジェクト swモンジュ編集発行

 ドロップ・アウトする若者文化

 OSHOが日本に紹介されて早20年近くが経ち、講話録もすでに60数冊発行されたが、彼とともに生きた人々について、あまり語られて来なかった。比較的早く彼の著書に触れ、瞑想センターの運営にも関わってきた立場から、私なりのアウトラインとして、この20年間を走り書きしてみたい。

 日本の社会的現象と個人的な体験を切り口としてOSHOを模索することは、すでにOSHOが大きな現象になっていることを思えば、群盲象を撫でるの喩えどおり、全体の把握は出来ないとしても、一人分の真実を語る試みにはなるだろう。

 第二次世界大戦後の日本は見事に経済を復興させ、東京オリンピックやビートルズ来日などに象徴されるような華々しい文化の成長を遂げていたが、60年代後半になると様々な矛盾が噴き出し、政治や文化に大きな問題として現れるようになった。

 私が高校に入学した69年には東大安田講堂事件が起こり、大阪万国博覧会の盛り上げる高度成長のムードの反面では、70年安保を象徴とするいわゆる学生運動がますます激しさを増してエスカレートして行った。

 私たちの高校でも上級生たちが政治的主張から、職員室のバリケード封鎖を企てる事件が起きた。マスコミは数週間トップ記事で大きく報道したが、現場を知っている私達はどの新聞を見ても問題の本質に触れていないことや、マスコミ同士の報道自体に食い違いがあることにも、深く失望した。

 この事件を学校新聞部としてカメラ取材していた私は、犯行グループの一員と目され、不当に連行されて取り調べを受けた上に、登下校の際に私服刑事達の尾行がつくことになった。小学校時代からずっと新聞部に属し、将来はジャーナリズムに進みたいと思っていた私の幼い正義感は、メチャメチャに打ちのめされてしまい、これをきっかけとして自己表現の個人ミニコミ誌「すくりぶる」を発行することにした。

 この誌名は英語で三文文士を意味し、価値観多様の中で見失いがちな自分自身のアイディンティティを模索しようという、ひとつの小さな究極の旅の始まりであった。友人たちには好評で、やがてNHKや「朝日ジャーナル」などマスコミでも取り上げるところとなって、それなりの手答えと自分の世界の拡大を感じることは出来たが、本当のことを知りたいという漠然とした想いが心の中から消えることはなかった。

 このような70年安保と言われた社会現象の中で、社会的問題から目をそらして受験勉強に狂奔する気にはなれず、将来のために現在を犠牲にするなんて考えられなかった。そんな時、沖縄反戦ディに全国全共闘の秋田明大や「ベトナムに平和を!市民連合」の作家・小田実が仙台にやって来て、大きな集会やデモが展開され、いつしか私もフォーク集会やフランス・デモに参加して行った。

 時代は過激ではあったが、ジェネレーション・ギャップから壮大な親子げんかををしているような一面もあり、ちなみに機動隊の武装車の上から学生たちに警告を発していた中央署々長の息子は同じクラスの友人であり、そばでデモ隊の救援活動をしていた。

 そんなある日の集会で、当時共通のスタイルとなっていたヘルメット・軍手・Gパンというゲバ学生姿の群れの中で、ひときわ異様な男に出会った。そこら中に「安保粉砕、闘争勝利、沖縄奪還、世界革命」などの四角い文字が乱舞する立看板をよそに、彼は長髪に段ボールで作った4本の角を生やし、そこに一文字づつ「人・間・解・放」の文字を掲げていた。

 これが私の青春に大きな影響を与えた冬崎流峰との出会いであった。東京出身の彼は新宿フォーク・ゲリラやTBS深夜放送・桝井論平の「パック・イン・ミュージック」で名前を馳せたあと、東北大学の学生として仙台に来たばかりであったが、一向に勉学にいそしむ風はなく、むしろ東京脱出を親に納得させる手段として仙台に進学したのであった。

 彼はアルベール・カミュの小説の主人公の名前をとって「ムルソー」というミニコミ誌を発行していて、後で分かったことだがswプラブッダと同じ高校の同期生だった。

 日米安保条約は批准延長されアパート・ローラー作戦などの展開で学生運動は次第に鎮静化し、全体的な敗北感の中で一部の過激派はよど号ハイジャックや浅間山荘事件などで孤立して行き、心情的な共感とは裏腹に、全体的な方向性は失われ、運動としての広がりを持てないものに変質して行った。

 高校を卒業した私は進学も就職もせず、行先知らずの暴走急行列車からドロップ・アウトし、勇気を持って自分の足で歩こうと、流峰らハイティーン4人でアパートを借り、共同生活を始めることにした。まだだま燃焼し切っていない私たちには頼りになる方針は何もなく、むしろ新しい運動の模索のための根拠地作りを目指したのだった。

<2>につづく

|

« 「アイアムヒッピー」 日本のヒッピー・ムーブメント’60-’90 2013増補改訂版<2> | トップページ | 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<2> »

24)無窮のアリア」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<1> :

« 「アイアムヒッピー」 日本のヒッピー・ムーブメント’60-’90 2013増補改訂版<2> | トップページ | 「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<2> »