「ケヴィン・ケリー著作選集 1」
「ケヴィン・ケリー著作選集 1」
ケヴィン・ケリー (著), 堺屋 七左衛門 (著) 2012/11 単行本: 173ページ Total No.3251★★★★★
WECの編集者スチュアート・ブランドの後継者と目されるケヴィン・ケリー、「WIRED」の創刊編集者でもある。その数々の発言をコンパクトにまとめたもの。わずか173ページほどの新書本みたいな本だが、2000円もする。ええ~~、それは高いでしょう、と思うのだが、なんと、ネット上では無料で読める。
つまり、この本は二段構えなのである。オープンでフリーでありながら、キチンとビジネスラインは残すという、ケヴィン・ケリーらしいスタイルだ。
本書に掲載されている翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示・非営利・継承2.1 日本(CC BY-NC-SA2.1)」の下に提供されています。そのため、このライセンスに違反しない限りにおいて、読者の方は本書の翻訳を自由に複製・加工・再配布することができます。裏表紙
いわゆるコピーライト(著作権)ならぬ、コピーレフト、ってやつだ。この辺のセンス、わからない人にはわからない。それがどうした、となる。ところが、これが付いていると、なんだか全部許したくなるような、私のような輩もいる。お、分かってるね、なんて通ぶっている。
この本、前半は、いわゆる商売の本だ。生計を成り立たせるためには、何人のお客さんがあればいいか、というような話しである。例えば、八百屋さんとか魚屋さんが、地域の半径何キロ内に、何人のお客さんがいて、お得意さんがいて、上御得意様が何人いるかで、商売が成り立つかどうか判断する、ってのは、まぁ商いの常道であろう、ぜんぜんめずらしくない。
ところが、この八百屋さんや魚屋さん、米屋さん、本屋さん、レコード屋さん、自転車屋さん、花屋さん、その他、たくさんの商店が、近くのショッピングモールに、お客をがっぽりかっさらわれて、商売あがったりになっている。いわゆるシャッター商店街の登場である。もう旧聞に属することだ。今さらの問題ではない。
ところが、これが、例えば、画家だとか、ミュージッシャン、写真家、造形家、作家、小説家などなどの芸術家の世界にも深く及んでいる。これらの芸術家たちの「商売」は、もちろんシャッター商店街とは別な問題を抱えている。半径何キロに上お得意を何人という世界ではない。
現在は、ネット上に作品を貼りつけたり、通販もあるので、ある一定程度の購買層、あるいは支持者がいれば、その芸術家たちが、ミリオンセラーを出さなくても、普通の暮らしができるのではないか、と主張するのが、この本の趣旨である。
それをケヴィン・ケリーは「1000人の忠実なファン」と表現する。例えば、この1000人の人々が、年に一回、一日分の給料(たとえば8000円位?)を自分のために使ってくれるなら、別に有名な芸術家ではなくても、普通の生活が成り立つので、生活費稼ぎの仕事をしないで、芸術活動に専念できるだろう、と主張する。
もちろん、これは扱っている商品や作品の種類にもよるし、目指す生活スタイルにもよるので、必ずしも1000人と限定しているわけではない。仮に「n人」としておこう。だが、このnは、100万人とか、もっと多い数字ではなくてもよい。購買層や顧客、ファンにダイレクトにつながることができるなら、このn人の値は、限りなく少なくてすむだろう、という論旨だ。もちろん、nは余りに少数でも困る。ある一程度のファンが必要だ。
で、ここまでなら、当たり前の話なのだが、ここからがミソで、結局、ロングテールのヘッドの部分のほんの一握りの芸術家たちだけが芸術家たちではない、テールの末端のまったく無名でニッチな芸術家たちでも、n人の忠実なファンがいれば、普通にマイクロセレブな生活が成立するはずだ、というのだ。つまり、ネットつながりなら、別に地域半径何キロなんて決めなくていい。とにかく地球全体から、自分のニッチ(かもしれない)な芸術を理解してくれるファンをn人見つければいい、と言うのだ。ごもっとも。
この本は、カウンターカルチャーの旗手と自他ともに自認するケヴィン・ケリーの本だけに、どこかDIY、手作りの香りがする。なにか商売をする、というより、家一軒を大工さんに頼まないで、自分の手で作ってみる?という感覚である。ビジネスだって、材料があり、道具があり、ビジョンがあれば、むしろ専門家に頼まないでも、あるいは専門家に頼まない方が、より理想の自慢の一軒が建つよ、という。しかも安価で。
もちろん、ここで語られているのは、家ではなくて、ネットを使った芸術家などの話である。レーベルや中間マージンを搾取する関連中間組織に邪魔されないで、理想の作品を作るには、とにかくn人のファンの心をつかめ、という。ここでは「1000人の忠実なファン」と表現されている。
この小さな本は、極めて論争的だ。恣意的な仮説(自説)をポンと投げ出し、キチンと分かりやすく説明する。そして、それに対する反論に対しても、実に受容的だ。場合によっては、反論に説得力があれば、簡単に自説を曲げる。ある意味、自由自在だ。そして、その自在さゆえに、ケヴィン・ケリーの主張が、だんだんと余裕のある正論に見えてくるから不思議だ。
当ブログは、婉曲ながら、なぜにスチュアート・ブランドは「勧」原発派に「転向」したか、を追っている。彼の近著は2011年にでた、その名も「地球の論点」である。つまり、彼らは、「論争」を「仕掛けてきている」。決して、反論を「拒否」しているわけではない。あえて、反論を「拒否」しているのは、「脱原発派」ではないのか、という「突っ込み」が見え隠れする。
そうは言われても、私は、3・11におけるFukushimaを見るまでもなく、原発には反対である。そう簡単に意見は曲げることはできない。曲げることができるわけがないではないか。
そう頑なになるこちらの、さらに頭上を、スチューアート・ブランドあたりは高跳びしているのではないか、という予感が、この頃してきた。地球をみよ、人間をみよ、と。彼らの視点は、かなり厳しい。都市化の波で、都市に人が集まることは、出産率が低下して人口が減る要因になるが、地球上の人口は増えすぎたのだから、減少するのはいいことではないか、と来る。
むしろ、都市化を進めることは、人口減少を促進するから、都市化はどんどん進めるべきなのだ、という、ある意味、とんでもない所へと、彼らは飛んで行ってしまっているのではないだろうか。原発など爆発したって、住めない地域には住まなければいいのではないか。都市に住めばいいじゃないか、と言っているようにすら、私には読めてきてしまう。これが、大いなる誤読であるなら、いずれスチュアート・ブランドの「忠実なファン」には謝罪しなければならない。
さて、この本のシリーズには「2」もあるのだが、図書館には入っていない。ネット上では無料で読める。私は本当は、最近老眼も進んでいるので、明るい部屋で紙の本で読みたいのだが、ネットもやむなしであろうか、と覚悟している。
でもブランドやケリーなら、もっと読みやすい紙のようなKindleを使えばいいじゃないか、と言ってくるような気がする。図書館もいらないし、紙の本を作るために、森林も伐採しなくてもいいし、製紙工場からの排水も問題にならない。地球温暖化防止の一助になるよ、と言っているようにさえ、思う。
とにかく、視点を、大きく変えられてしまう可能性がある。ミイラ取りがミイラになる、という喩えもある。スチュアート・ブランドの首に鈴をつけてやる、と、鬼が島の鬼退治に旅立ったBhaveshが、まんまと彼らの配下になり、あるいはミイラになってしまう、なんてこともあるやもしれん。もしそうだったら、ああ、あの時がきっかけだったんだな、と今、このポイントを偲んでほしい。ははは、友人たちへの伝言。
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