ヒッピーたちは、なぜパソコンに魅せられたのか? 「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><5>
<4>からつづく
「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <5>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
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文芸評論家と称する中俣暁生「ヒッピーたちは、なぜパソコンに魅せられたのか?」p084~093を読んでいた。さて、ヒッピーとは何か? 「スペクテイター」誌は別なところで定義している。
1955年10月、ビートニックの詩人アレン・ギンズバーグは、ジャズとマリファナに浸りながら「吠える」という詩を書き、消費を煽りつづけるアメリカ政府を批判した。
彼らは人間をその生き方を基準にして二つのタイプに分けていた。現実の社会のシステムや価値観にかかわって生きている人たちを「スクェア」、社会のシステムや価値観の外側を生きていくことにした自分たちのことを「ヒップスター」と称し、両者を明確に峻別した。
この「ヒップスター」がのちに「ヒッピー」と呼ばれるようになった。p053赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」
つまり50年代後半から使われた「ヒップスター」が「ヒッピー」と変化したのであり、「スクェア」な価値観に対抗(カウンター)する生き方と考えればいいだろう。象徴的には、1969年8月のウッドストック・フィスティバルに集まった人々のファッションと考えることもできるだろう。
この記事に書いてあることはともあれ、私個人的には、パソコンに対するイメージは、1980年を境に大きく変わった。それまでは、コンピュータというと、銀行のオンライン化とか、郵便局の郵便番号の実施で、職場が奪われるというような労働者側からの視点に共感することが多かった。
そのイメージを大きく払拭したのは、私の場合には、1980年に出たアルビン・トフラーの「第三の波」(1980/10 日本放送協会出版局)だった。この本は、当時、農業を学んでいた私は大病を患い、がんセンターに入院することとなり、お見舞いにもらった「趣味の園芸」(NHK出版)の裏表紙に、この本の宣伝が大きく掲載されていたことが、きっかけとなり取り寄せたのだった。
「農業化」の第一の波、「工業化」の第二の波、そして、これからやってくるであろう第三の波は、「情報化」である、とコンピュータ化した社会を鮮やかに描きだしていた。詳しくは他に譲るが、もっとも私を魅了したのは、未来の宗教は、オーケストラ型からジャズ型に変わるだろう、という部分と、消費者=生産者いわゆるプロシューマー社会の象徴としての、エレクトロニック・コテッジのイメージだった。後の時代でいうところのSOHOである。
前後してテレビでNHK特集を組んだ。その中の一シーンが、鮮やかに私の脳裏に刷り込まれた。山中のログハウスでロングヘアーがソフトを制作し、それを記憶媒体に入れて、バックパックを背負い、自転車で、湖に停泊していた水上セスナ機まで行く。そして彼はそこから湖面を滑空して、飛び立ち、大都会にソフトを売りに行く、というビデオが放映されたのだった。(この動画いつか見たいと思うのだが、今のところ誰もアップしていない)
この時から私の中にはパソコンの影が住みつくようになった。ちょうど、その頃、病院の隣にある工業専門学校の文化祭があり、当時めずらしいパソコンが提示されていた。1979年に発売になったばかりのNEC-PC8000である。具体的には、どう使い道があるのか分からなかったが、デモで掲示されていた、ルービック・キューブが、自動的に並んでいくソフトが目に飛び込んできた。
前後するが1978年の暮れに帰国したとき、喫茶店など中心としてインベーダー・ゲームというものが大ヒットしていたが、私は、あの手の反射神経を競うようなコンピュータには魅力は感じなかった。
さっそく、ラップトップならぬポケットコンピュータを手にいれたのも、病院のベットの上だった。ポケコンでのルービック・キューブは無理だったが、私はお見舞いにもらったルービック・キューブそのものに夢中になり、見事、ツクダオリジナル認定のキュービストの称号を得ることが出来たのだった(笑)。1980/12のことである。
この後、携帯コンピュータ資格なども取得したが、さしたる実績も効果も私は持っていない。ただし、瞑想会に参加する人びとの中には、1980年代前半から、コンピュータ関連の仕事を持つ人もちらほら参加するようになり、私も仕事場で、NEC-PC6000や、互換のエプソンPCにドットプリンターを繋いだりして使っていたが、値段に比するほどの業績が上がっていたか、というと疑問である。
一方、スティーブ・ジョブズは1974年にアタリに職を見つけ、旅費を稼いでインドを旅するが、1975年にはアタリに復職している。アップルコンピュータでプログラミング電卓を発売したのが1976年。1977年6月にアップルⅡを発売、爆発的人気を呼んだ。試行錯誤を経て、1984年にはマッキントッシュを発売、以降、1985年5月にアップルを追放されるまで、ジョブズはアップルの中に君臨した。
この頃、明示的に私がアップルを意識したのは二回ほど。一回は、隣県の友人が、このマッキントッシュをまるでアイコンのように自室に飾っていたのを見たことがある。それは、パソコンで何かをるする、というより、そのマッキントッシュを「所有」するという、そのこと自体がブランドであったのである。
次には、1988年頃、伊豆のOSHOアートユニティを尋ねた時のこと、メンバーの一人金ちゃんが、自室にやはり、「仕事用」としてアップルを持っていたことが印象に残っている。デザイナーだけに、「筋がいいでしょ」とアップル礼賛を繰り返した。
しかし、1976年頃から印刷会社で写植機をいじっていた関係上、私は、一番コンピュータに期待しているものは、ワープロ機能であったため、80年代後半は、いろいろ国内互換PCをいじっていたものの、機能としてはプリンターと一体化した専用ワープロのほうが一段上で、使いやすかった。
90年代になっても、国内のパソコン状況は大きくは変わらなかった。情報化の波が叫ばれたが、まだまだコンピュータは専門家のモノだった。1991年の国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」では、パソコン使いの一団が大きくウェイトを占め、大きなテーマを提示したが、やはりまだマニアックな世界であることには変わりなかった。(余談だが、このシンポジウムのポスターは、今回のこの「スペクテイター」の表紙と見まがうようなデザインであった)
しかし1994年頃になるとインターネットが大きく議論される時代になり、1995年末にウィンドウズ95日本語版が発売され、いよいよ日本もインターネット幕開けとなる。最初、私は互換機とワープロ専用機で、いわゆるワープロ通信を楽しんでいたが、結局96年になって、ウィンドウズ機を使うようになった。
この時期の記憶しておくべきことは、「OSHO TIMES」 1996/05で「サイバースペースのOSHO」が語られたことだろう。この号で、サニヤシン同志のネットワークの募集が行われている。この号については、後日、詳述する。
さて、ここまで書いていて、私自身は、ヒッピーであったのか、カウンターカルチャーであったのか、ということが気になるのであるが、いずれにせよ、そう思っていたとしても、1970年代後半までであり、OSHOサニヤシンとなった1977年以降は、自らを、敢えてヒッピーであるとか、カウンターカルチャーであるとか、思わなくなったようだ。
ニューサイエンスとかニューアカデミズム、あるいはニューエイジなどと、さまざまな形容詞が浮遊したが、あれ以降、今日に至るまで一貫している私自身の自覚は、「OSHOサニヤシン」である。カウンターカルチャー、ジアザーカルチャー、ユースカルチャー、などさまざまな言い方がされるが、少なくとも私が1980年代以降葛藤していたのは、「Meditation in the Marketplace」であっただろう。
確かに70年以降、ドロップアウトを標榜してしていたが、80年以降は、むしろドロップインを試み続けていたと思う。必ずしも、「ヒッピーたちは、なぜパソコンに魅せられたのか?」というタイトルにはそぐわない私の人生だが、思いついたので以上メモしておく。
ついでだが、日本版WECとして名高い「別冊宝島」だが、第一号以来、気にはなったが、本当に私の中でヒットしたのは、1996年以降の、パソコン関連特集のシリーズであった。毎号買い求めて、赤と青と黄色のマーカーを盛んに引いて、なんとかパソコン文化の進化について行こうとしていたのだった。
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