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2014/05/11

「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><1>

<前篇>よりつづく

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「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<1>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ
Total No.3233★★★★★

 「前篇」につづいて「後篇」も開いてみる。息せき切ったように、あわてて読んでいる自分がおかしい。まずは、この後篇においては、あぱっちの文章を読んでしまえば、まぁ80%とは目的は達成したことになる。

 お目当ての文章は、p108からp114まで。7ページに渡る文章はB5版で三段組。決して長文ということではないが、想像していたよりも長かった。そして、その内容も、結局は、一読者として期待していたストーリーをほぼカバーしていたので、私はおおいに留飲を下げた。

 タイトルは、「『ホール・アース・カタログ』と もうひとつの出版史」浜田光(p108)。「もうひとつの出版史」とは、もちろん「名前のない新聞」の歴史であり、また「名前のない新聞」の歴史とは、あぱっちこと浜田光そのひとの人生である。スケールとしては、おおよそあますことなく含まれていた。

 逆にいえば、私が知っているあぱっちと、おおよそ私に想像し得るあぱっちの姿の合成であり、その領域を大きくはみ出してはいない。たぶんそうなのだろうな、ということが、この文章でおおよそ確認できた。

 しかし、あぱっちには、まだまだ細かいディティールがある。この「スペクテイター」誌において、いつか一冊まるまんま「名前のない新聞」特集が組まれたっておかしくないのである。場合によっては、本家「アース・ホール・カタログ」を大きく凌駕するであろう。

Da

 あぱっちは、私の知る所、ヤギ座生まれである。私は十代から西洋占星術を学んできた。まぁ女性陣となかよくなるためには星占いの知識は不可欠である(笑)。そんな不純な動機で始まった私の西洋占星術も、結構、信ぴょう性がある。

 私は、ヤギ座というと、すぐあぱっちのことを思い出す。2014年の今日において、すでに40年を超す年月を「名前のない新聞」とともに暮らしてきたあぱっちを思うのではなく、1972において、最初にあった時から、その新聞のスタート地点から、彼はヤギ座なんだなぁ、とそう感じてきた。

 私の知る所、ヤギ座は、土の宮である。しかも、土の中でも、凍てついたる大地を表すのだ。果てしなき凍てついたる大地を、とくとくと、ひたすら一定の調子で歩き続けるのがヤギ座である。ある意味、長期ローン型である。ひとつの目的を持ったなら、ただただひとつの方向に歩き続けるのだ。そのヤギ座の姿の典型サンプルとして、私の中ではいまだにあぱっちが筆頭に来る。

 つまりどういうことかというと、「名前のない新聞」は、創刊された時から、永遠と40数年続くことを運命づけられていたとさえいえる。派手でもなく、誰かを押しのけるでもなく、かと言って、たゆまず、ゆっくりではあるが、確かに、確実に、しかも、かなりの実効性を持って、その歩みは続いてきた。

 私が一番最初にあぱっちに会ったのは、吉祥寺の駅前だった。1972年の冬。彼のアパートを訪ねたのだが、家人に、駅に行けばあえますよ、と言われて、ただ行った。そして行って、その意味がわかった。

 彼は、駅前の一番目立つところで、マフラーをし、オーバーコートを来て、大きな看板を持って、サンドイッチマンのアルバイトをしていたのである。彼は寡黙である。少なくとも私の知る所、多く駄弁を弄してうるさくするような男ではない。ゆったりとわかりやすいことをしゃべり、時には寡黙にもなり、無口にもなる。

 その感じにプラスするところが、、大きな丸眼鏡をして、しかも流れるような長髪、お尻までくるような見事なロングヘアーである。ととのった、大正ロマンの画家・高畠華宵が描くような美少年である。当時は20代半ばであったから、少年とは言わないが、 それでも、彼の存在は、それだけでひとつのカテゴリーを成立させるような存在感があった。

 そんな無口な彼のもとに、夜の街の人の群れの中から、たびたび仲間らしいロングヘアーたちが歩き寄って来る。彼は、ちっとも表情を変えずに、なにごとかひとことふたこと言葉を交わす。すると、その仲間らしき男たちは、またふたたび夜の街に消えていくのである。

 スマホどころかケータイやポケベルなんてもんはまったくなく、自宅アパートの電話だって贅沢品の時代である。連絡は直に会うのが一番だった。町の中にいて、しかもサンドイッチマンをしながら、街の中の情報センターの司令塔をしている、そんなイメージだったのがあぱっちだった。

 これは私の勝手なイメージであろう。私に小説を書くセンスがあったならば、あのシーンのことを何倍にも誇張して書いたやろうと、40年も思ってきたが、私にはどうやら小説を書くまでには才能がないので、ここに初めて書いておくわけである。

 私が初めて「名前のない新聞」を読んだことについては、以前書いたことがあるけれど、1972年の初夏のことである。思えば新聞の歴史のほんのスタート地点であった。場所は鳥取にあった東京キッドブラザーズの実験的コミューン「さくらんぼユートピア」でだった。友人元木たけしを尋ねたのだが、彼は階段下の物置のようなスペースを改造して自室にしていた。あの時、あのスペースで、あの丸まったあぱっちのガリ文字を読んだのだった。

 彼のその新聞の歴史については、いろいろ思うところがあるが、実にその長期ロングランの中の、私が知っている部分は、実はごくごく一部であろう。しかし、その体験は、私の人生の中で、素晴らしい輝きを増し続けている。今回、この「スペクテイター」の文章を読みながら、いろいろな想いにふけってみたいな、と思う。

<2>につづく

 

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