「メディアラボ」―「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<3> スチュアート・ブランド
<2>からつづく
「メディアラボ」 「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<2>
スチュアート・ブランド (著), 室 謙二 (著), 麻生 九美 (著), 1988/04 福武書店 単行本 342p
<こころの社会>を綿密に調べ、まねする一方で、コンピュータは<社会のこころ>を具体的な形として見せている。コンピュータとコミュニケーションはすでに混じり合い、いまのところひとつの活動を行なっている。
ところが依然として、その共同活動をいいあらわす動詞はない。同時にまた、わたしたちは自分の体の中の神経活動を示す言葉さえもっていない。それは、<考える>とか、<感じる>とか、<話しかける>というのとは、ちがう言葉のはずだ。
体の中の(あるいは社会の中の)、すべての活動やエネルギー活動については、その活動をひとまとめにした<代謝>という言葉がある。だが一つのシステムの中で行なわれるコミュニケーション活動を示す言葉はない。
あるものを示す言葉がないということは、そのことについての重大な無知を示している。なにが健全なコミュケーションを構成するのか、わたしたちは知らないのである。
人間をほかの生物と区別するものが、その複雑なコミュニケーションであるならば、来るべき新しいレベルでの世界コミュニケーションは、人間を越えるなにものかの到来を意味する。サイボーグ文明、そうかもしれない。
あるいは、認識力をもった地球、かもしれない。ふだんにも増して、政治はこういう経過に非常な遅れをとっている。p290スチュアート・ブランド「ブロードキャッチの政治学」原著1987
現在、70年代のカウンター・カルチャーを中心とした埋もれた資料のアーカイブズの作成プロジェクトに誘われている。私自身は、それほど多くの当時の資料を持っているわけではないが、それらがどのように保管されていて、今後どのようにアーカイブズ化されるのかは興味ある。そして、さらにはそれらが、今後、未来に向かって、どのように活用されていくのか、さらに興味あるところだ。
当ブログでは、結果的に、物事を「コンテナ」、「コンテンツ」、「コンシャスネス」の三つの柱に喩えている。コンテナは物理的な箱、生産技術、科学的実証性などを意味する。コンテンツは、表現される作品、活用技術、芸術的な創造性、などを意味する。コンシャスネスは、共有されるべき意識、コミュニオン、存在の無限性、などを意味している。
上の範疇でいうと、パーソナル・コンピュータは、コンテナである。パソコン自体はただの箱である。ただただ、その存在の登場自体が画期的な発明だった時代もたしかにあったのだ。
今現在、Facebookやtwitter、mixi、Youtubeなどソーシャル・ネットワークは、コンテンツのつながりである。Lineやその他のビットコインなど新しいサービスも、コンテンツと言うことが可能かもしれない。しかし、時代は次を求めている。次なる、来るべき時代とはなにか。
パーソナル・コンピュータの時代には、パーソナルであることが重要な課題だった。一人で所有できる物理的なコンピュータだ。ソーシャル・ネットワークでは、社会的に繋がるサービス技術であることが重要だ。個人が社会へと拡大し、機械がサービスへと、進化した。
では次はなにか、と問う時に、当ブログでは現在、コンシャス・マルチチュード、という概念を検討している。物でもなく、事でもなく、「在る」ことが重要になる時代が来るのではないか。「意識」が重要テーマになるであろうことは必至である。しかし、「意識」だけが独自に存在することはできない。依るべき「存在」が必要なのである。
そして、いろいろ検討してみた。人々の在り方として、市民とか国民、あるいは村民、地域住民、などなど検討してみるのだが、いまいち納得するところがない。これらの人々の「意識」的な「つながり」を表す言葉としては、ネグリ&ハートの「マルチチュード」が最後に気になっている、というところである。
このマルチチュードはイタリアの思想家アントニオ・ネグリが、スピノザの哲学に語源を借り、そして現代アメリカの若い研究家マイケル・ハートのIT知識に援助されながら作り上げている最中の概念である。
しかし、その道半ばにして、いまいち納得できないところもある。特に、いわゆるスピリチュアリティについては抜け落ちている。そこで、敢えてネグリ達のこの言葉を借りながらも、換骨奪胎して、もうすこし新しい装いをさせてみたらどうかと思うのだ。
日本語では群衆と翻訳されるけれど、すでに意味合いはもっと次元の高いものになっている。多くの人々が、ある方向性を持って繋がっている状態、しかもその方向性は、ある「意識」に基づいている、というところがキーポイントである。決してピラミッド型ではなく、同時多発的であり、しかも多くの多様性を持っていながら、結果的にひとつの傾向性を持っているのだ。
これはおそらくネグリ&ハートがいうところの<帝国>に対峙し、やがてはそれを越えていく力になりうるポンテンシャルを持っている。ただ、現在の彼らの研究は「政治」にかたより過ぎている。そうではなくて、もっと「意識」について、今、マルチチュード達が立ち上がっていることを認識する必要があると思うのだ。それで、当ブログでは、新しい概念として「コンシャス・マルチチュード」という意識の在り方を問うことになった。
現在、進んでいる当ブログもそうだが、誘われている70年代的アーカーブズ形成のプロジェクトも、このような方向性の中で、再構成されていけばいいなぁ、と思っているところだ。この「メディアラボ」はすでに27年前に書かれた本だが、さすがにインスピレーションを受ける箇所は多い。「地球の論点」で「勧」原発を唱える現在のスチュアート・ブランドだが、まずは、虚心坦懐に現在までの思想のプロセスをなぞってみることも必要かな、と思う。
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