« 再読したいこのカテゴリこの3冊「来たるべき地球人スピリット1」編 | トップページ | 「サイバースペースのOSHO」 OSHO TIMES 1996/05 »

2014/05/19

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<50>「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリについて

<49>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<50>「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリについて

 書かれたのは2014/04/08から2014/05/19までの40日余りの日々。割とあっという間にここまで来てしまった。柳生かやの木資料作りや、他のSNS、特にFacebookとの繋がりがさらに色濃くなって、かなりの書込みが進んだ。それはそれで悦ばしいことであった。

 テーマとしての「来たるべき地球人スピリット」は、結局、この108の書込みでは終息しなかった。終息しなかったというより、これは終息しないのだろう、ということに気付いた、というべきだろう。

 このカテゴリで池田純一の三部作「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(2011/03 講談社)「デザインするテクノロジー」(2012/10 青土社)「ウェブ文明論」(2013/05 新潮社)と出会ったことは興味深い体験だった。文面ではひどく否定的に書いてしまっているが、これは、ひとつの気付きをもらたしてくれた、という意味では、偉大な本たちであった。

 コンテナ、コンテンツに比較するところの、コンシャスネスとは何か、と問う旅にでているわけだが、明快な定義ができているわけではない。むしろ、コンテナではないもの、コンテンツではないもの、それがコンシャスネスである、という逆説的な定義が成立するのではないか、とようやく気付いてところである。

 非コンテナ、非コンテンツ、それがコンシャスネスである、というのが、このカテゴリを終了しての結論である。コンテナ論で表せるものはコンテナ論で済まし、コンテンツ論で表すことができることはコンテンツ論で済ます。しかし、そこで表現できないもの。そこで済ますことができないものが、コンシャスネス論である、ということになる。

 つまり、結局は、多弁をいくら繰り返しても、コンシャスネスには届かないだろう。表現が繰り返されれば繰り返されるほど、コンシャスネスは遠のくのである。逆に、気付いて見れば、コンテナも、コンテンツも、すべて、つねにコンシャスネスに取り込まれていた、という事実がある。

 そこんところに気付かせてくれた池田純一三部作には、逆説的な表現ながら、感謝したい。今のところ、コンテナ、コンテンツに関わるテーマでは最強の布陣を引いたシリーズであった。

 「再読したいこのカテゴリこの3冊」は、

「WIRED×STEVE JOBS」 
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌  kindle版 

「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 

「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 

「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック 2014/01  晋遊舎  

の三冊(プラス一冊)だった。

 次のカテゴリは、「来たるべき地球人スピリット2」となる。テーマは、「1」の継続であるが、結局は、当ブログとしては、究極のテーマに辿り着いているようであるし、また、永遠とこのテーマを繰り返し続けることもできるし、また、サドンデスで随時終了も可能であることが分かった。

 マイペースで気楽に行こう。もう、急ぎの旅ではない。旅は終わって、すでに帰路についている。あるいは、すでに帰宅した。そして、結局、最初から、旅などにでてはいなかったことを確認することとなる。

<51>につづく

|

« 再読したいこのカテゴリこの3冊「来たるべき地球人スピリット1」編 | トップページ | 「サイバースペースのOSHO」 OSHO TIMES 1996/05 »

23)来たるべき地球人スピリット」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<50>「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリについて:

« 再読したいこのカテゴリこの3冊「来たるべき地球人スピリット1」編 | トップページ | 「サイバースペースのOSHO」 OSHO TIMES 1996/05 »