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2014年5月の62件の記事

2014/05/31

「 Kindleセルフパブリッシング入門」電子書籍でベストセラー作家になろう 小泉 俊昭 (著)

<1>からつづく 


2013/4/13 日本実業出版社 単行本(ソフトカバー) 262p

 おや、前回この本をめくってから、気付いてみれば、ちょうど1年目にあたるのが今日であった。1年間、ナニをやっていたんだろう、と、ちょっと気になるところだが、この間に私には2人の孫が生まれ、育爺もやったりしたから、これでもけっこう忙しかったのである。

 孫と一緒にくらすには、部屋をかたづけなければならないと、だいぶいろいろ片付けたし、スペースを広げた。それと、このキンドルに流すための文章を、ガリ版刷りだったものを、ワープロに入れたり、画像を探したり、いろいろと準備してきたのである。

 と、まぁ自己弁護したところで、そろそろこの本にとっかかろうか。第3章、実際に本を作ろう!電子書籍の基礎(p79)からだ。と意気込んだのだが、ちょと気になるところが目についた。

 なぜ売れないかというと、他人からの視点がないからです。他人が読んで面白いか、感動するか、役に立つか、という視点から文章を書いていないからです。自分史や社史、日記などは、他人からすれば「ただの無意味なデータ」なので、そこから得られるkとは、ほとんど何もありません。どうしてもそういうものを出版したければ、ブログという便利なツールがありますので、そちらで発信していくのがピッタリでしょう。p56「セルフパブリッシングで成功する秘訣」

 あらら、せかっく本気になりそうだったのに、出鼻をくじかれた感じ。これじゃぁ、ブログに逆戻りというか、ブログから脱出できない。ここはなんとか、実力行使だ。

 ブラウザ型の場合は、グーグルクロームに組み込むリーディアム(Readium)という電子書籍リーダーが便利です。また単体のソフトとしては、アドビ社のデジタルエディションズがよいでしょう。どちらも無料でダウンロードできます。p87「イーハブ形式の電子書籍を読む方法」

 ここは一気にアドビ社のデジタルエディションズをインストール、してみたが、あれ、これって、読む方法か。私は出版する方法がしりたかったのだが。

 シジル(SIGIL
 イーハブ形式の電子書籍が作れるフリーソフトで、ウィンドウズ版とMac版の両方があります。オープンソースのため頻繫にバージョンアップするのもよいところでしょう。ヘルプなどが英語なのでわかりにくい部分もありますが、機能が豊富ですから、使えるようになれば、かなり強力なツールになります。本書ではこのシジルを使って説明していきます。
p110 「実際に電子書籍を作ってみよう」

 お、なんとかインストールして、日本語に設定できたぞ。そして、準備しておいたテキストと画像を読み込み、表紙も読み込み、目次もとりあえず簡単につくって、保存できた。なんだか、むかしホームページつくっていた時の感覚だな。

 作成したイーバブファイルを保存して、電子書籍リーダーアプリで表示させてみましょう。(中略)
 ここではPC用の電子書籍リーダーアプリとして、アドビ・デジタル・エディションという無料で利用できるソフトウェアを使います。
p128「リーダーアプリで確認する」

 おお、ここで、さっき間違ってインストールしてしまったリーダーアプリが生きてきた。見てみると、なんとか恰好がついているぞ。

 さて、これを出版しなければならないな。

  ということでキンドルのKDPに登録、したつもりなのだが、いくつかの不具合があるかもしれない。もう眠いので、ここで一休み。でも、だいぶ雰囲気がわかってきた。なんとか、出版までもっていけるかな。

つづく

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「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004 <3>

<2>からつづく 

1106360924
「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック<3>
2014/01  晋遊舎 ムック  97ページ 
★★★★★

 いやはや、この本、読みにくいなぁと思っていたのだが、実に文字がコマい。なんとも、わが老眼では、この文字は読めんぞ。ようやくこの本を読む機会が訪れたのは、名前の登録を変えてみようかな、と思い立ったからだった。

 「ケヴィン・ケリー著作選集 1」 を読んでいて、「1000人の忠実なファン」という単語がでてきた。ケヴィン・ケリーの論争的な戦略だが、まぁ、当たり前と言えば当たり前のことなのである。今さら、と思わないわけでもない。

 しかしながら、私自身は、ネットの中において、「1000人の忠実(true)なファン」と向き合おうとしてきただろか。私のブログは基本モノローグであった。誰に向けて語っているわけでもない。ただ、自分の防備録みたいなものでしかなかったのだ。ましてや、これをなにか自分の活動のツールにしようとは思ってもいなかった。

 そこで私は考えた。そろそろダイアローグだろう。あるいはソーシャルであろう、と。

 私の仕事は、実にありふれた仕事である。大都会のど真ん中にも存在し、必要とされ、地方の中都市でも必要とされ、ど田舎の突端どころか、海にでても、山に登っても、必要とされる仕事である。全国に約5~60万の同業者がいるらしい。

 その中にあって、ほとんどが1億3000万の人口を分け合っているのだから、おおよそ、一業者あたり200強の「true fan」がいればいいことになる。そして、その200強のtrue fanが、私が提供するサービスをどの程度利用してくれれば、私の生活が成り立つのか、ということは、すでに何度も計算してきた。

 私の生活はそのギリギリのラインである。まぁなんとか暮らせるだろう、というレベルだ。しかし、それをよしとしてきたのだから、今さら、直す気はない。

 ところが、問題なのは、私は、本当はこの仕事は生活のためだから、とネットで発信する情報とは、クロスさせないできた。そのことは、ある意味、業務上仕方なかったとも言える。守秘性や専門性が高く、いたずらに宣伝などできないのだ。だから、おのずと無口になり、説明不足になってきた。

 しかし、本当の私の中の本性は、じつはいつもフラストレーションでいっぱいだった。だから、本業で満たされない部分を、ブログでモノローグすることで穴埋めしてきたのである。

 で、ケヴィン・ケリーの本を読んで、すこし反省した。私は、私のニッチな創作活動を抑え過ぎている。そして、その情熱は、決して私の生活に益しないはずはない、ということに気づいたのだ。

 そういうわけで、私は、すこしづつ、当ブログをダイヤローグの方向に舵を切る。そのために、私は気付いた。人々は、私を何と呼べばいいのか。私は自分の名前をハンドルネーム一本で乗り切ってきた。これはこれで構わないのだ。

 しかし、「1000 true fans」に向かって、「私は誰か」をいわなければならない時、私は、もっと私として認知してもらえるような名前にしていかないといけない、と気付いた。

 そんなわけで、なんとかFacebookの名前変更をしようとして、実は、失敗してしまったのだった。あへー

 なんとFBでは、実名登録が原則になっているので、変更するにはあと60日またなければならないという。それはそれは、しらなんだ。あへ~  そんなこんなをやっていたのだ。このマニュアルの一番最初にようやく到達した、ということである。

<4>につづく

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2014/05/30

「ケヴィン・ケリー著作選集 1」

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「ケヴィン・ケリー著作選集 1」 
ケヴィン・ケリー (著), 堺屋 七左衛門 (著) 2012/11 単行本: 173ページ Total No.3251★★★★★

 WECの編集者スチュアート・ブランドの後継者と目されるケヴィン・ケリー、「WIRED」の創刊編集者でもある。その数々の発言をコンパクトにまとめたもの。わずか173ページほどの新書本みたいな本だが、2000円もする。ええ~~、それは高いでしょう、と思うのだが、なんと、ネット上では無料で読める。  

 つまり、この本は二段構えなのである。オープンでフリーでありながら、キチンとビジネスラインは残すという、ケヴィン・ケリーらしいスタイルだ。

 本書に掲載されている翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示・非営利・継承2.1 日本(CC BY-NC-SA2.1)」の下に提供されています。そのため、このライセンスに違反しない限りにおいて、読者の方は本書の翻訳を自由に複製・加工・再配布することができます。裏表紙

 いわゆるコピーライト(著作権)ならぬ、コピーレフト、ってやつだ。この辺のセンス、わからない人にはわからない。それがどうした、となる。ところが、これが付いていると、なんだか全部許したくなるような、私のような輩もいる。お、分かってるね、なんて通ぶっている。

 この本、前半は、いわゆる商売の本だ。生計を成り立たせるためには、何人のお客さんがあればいいか、というような話しである。例えば、八百屋さんとか魚屋さんが、地域の半径何キロ内に、何人のお客さんがいて、お得意さんがいて、上御得意様が何人いるかで、商売が成り立つかどうか判断する、ってのは、まぁ商いの常道であろう、ぜんぜんめずらしくない。

 ところが、この八百屋さんや魚屋さん、米屋さん、本屋さん、レコード屋さん、自転車屋さん、花屋さん、その他、たくさんの商店が、近くのショッピングモールに、お客をがっぽりかっさらわれて、商売あがったりになっている。いわゆるシャッター商店街の登場である。もう旧聞に属することだ。今さらの問題ではない。

 ところが、これが、例えば、画家だとか、ミュージッシャン、写真家、造形家、作家、小説家などなどの芸術家の世界にも深く及んでいる。これらの芸術家たちの「商売」は、もちろんシャッター商店街とは別な問題を抱えている。半径何キロに上お得意を何人という世界ではない。

 現在は、ネット上に作品を貼りつけたり、通販もあるので、ある一定程度の購買層、あるいは支持者がいれば、その芸術家たちが、ミリオンセラーを出さなくても、普通の暮らしができるのではないか、と主張するのが、この本の趣旨である。

 それをケヴィン・ケリーは「1000人の忠実なファン」と表現する。例えば、この1000人の人々が、年に一回、一日分の給料(たとえば8000円位?)を自分のために使ってくれるなら、別に有名な芸術家ではなくても、普通の生活が成り立つので、生活費稼ぎの仕事をしないで、芸術活動に専念できるだろう、と主張する。

 もちろん、これは扱っている商品や作品の種類にもよるし、目指す生活スタイルにもよるので、必ずしも1000人と限定しているわけではない。仮に「n人」としておこう。だが、このnは、100万人とか、もっと多い数字ではなくてもよい。購買層や顧客、ファンにダイレクトにつながることができるなら、このn人の値は、限りなく少なくてすむだろう、という論旨だ。もちろん、nは余りに少数でも困る。ある一程度のファンが必要だ。

 で、ここまでなら、当たり前の話なのだが、ここからがミソで、結局、ロングテールのヘッドの部分のほんの一握りの芸術家たちだけが芸術家たちではない、テールの末端のまったく無名でニッチな芸術家たちでも、n人の忠実なファンがいれば、普通にマイクロセレブな生活が成立するはずだ、というのだ。つまり、ネットつながりなら、別に地域半径何キロなんて決めなくていい。とにかく地球全体から、自分のニッチ(かもしれない)な芸術を理解してくれるファンをn人見つければいい、と言うのだ。ごもっとも。

 この本は、カウンターカルチャーの旗手と自他ともに自認するケヴィン・ケリーの本だけに、どこかDIY、手作りの香りがする。なにか商売をする、というより、家一軒を大工さんに頼まないで、自分の手で作ってみる?という感覚である。ビジネスだって、材料があり、道具があり、ビジョンがあれば、むしろ専門家に頼まないでも、あるいは専門家に頼まない方が、より理想の自慢の一軒が建つよ、という。しかも安価で。

 もちろん、ここで語られているのは、家ではなくて、ネットを使った芸術家などの話である。レーベルや中間マージンを搾取する関連中間組織に邪魔されないで、理想の作品を作るには、とにかくn人のファンの心をつかめ、という。ここでは「1000人の忠実なファン」と表現されている。

 この小さな本は、極めて論争的だ。恣意的な仮説(自説)をポンと投げ出し、キチンと分かりやすく説明する。そして、それに対する反論に対しても、実に受容的だ。場合によっては、反論に説得力があれば、簡単に自説を曲げる。ある意味、自由自在だ。そして、その自在さゆえに、ケヴィン・ケリーの主張が、だんだんと余裕のある正論に見えてくるから不思議だ。

 当ブログは、婉曲ながら、なぜにスチュアート・ブランドは「勧」原発派に「転向」したか、を追っている。彼の近著は2011年にでた、その名も「地球の論点」である。つまり、彼らは、「論争」を「仕掛けてきている」。決して、反論を「拒否」しているわけではない。あえて、反論を「拒否」しているのは、「脱原発派」ではないのか、という「突っ込み」が見え隠れする。

 そうは言われても、私は、3・11におけるFukushimaを見るまでもなく、原発には反対である。そう簡単に意見は曲げることはできない。曲げることができるわけがないではないか。

 そう頑なになるこちらの、さらに頭上を、スチューアート・ブランドあたりは高跳びしているのではないか、という予感が、この頃してきた。地球をみよ、人間をみよ、と。彼らの視点は、かなり厳しい。都市化の波で、都市に人が集まることは、出産率が低下して人口が減る要因になるが、地球上の人口は増えすぎたのだから、減少するのはいいことではないか、と来る。

 むしろ、都市化を進めることは、人口減少を促進するから、都市化はどんどん進めるべきなのだ、という、ある意味、とんでもない所へと、彼らは飛んで行ってしまっているのではないだろうか。原発など爆発したって、住めない地域には住まなければいいのではないか。都市に住めばいいじゃないか、と言っているようにすら、私には読めてきてしまう。これが、大いなる誤読であるなら、いずれスチュアート・ブランドの「忠実なファン」には謝罪しなければならない。

 さて、この本のシリーズには「2」もあるのだが、図書館には入っていない。ネット上では無料で読める。私は本当は、最近老眼も進んでいるので、明るい部屋で紙の本で読みたいのだが、ネットもやむなしであろうか、と覚悟している。

 でもブランドやケリーなら、もっと読みやすい紙のようなKindleを使えばいいじゃないか、と言ってくるような気がする。図書館もいらないし、紙の本を作るために、森林も伐採しなくてもいいし、製紙工場からの排水も問題にならない。地球温暖化防止の一助になるよ、と言っているようにさえ、思う。

 とにかく、視点を、大きく変えられてしまう可能性がある。ミイラ取りがミイラになる、という喩えもある。スチュアート・ブランドの首に鈴をつけてやる、と、鬼が島の鬼退治に旅立ったBhaveshが、まんまと彼らの配下になり、あるいはミイラになってしまう、なんてこともあるやもしれん。もしそうだったら、ああ、あの時がきっかけだったんだな、と今、このポイントを偲んでほしい。ははは、友人たちへの伝言。

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2014/05/29

山崎浩一の「世紀末ブックファイル」 1986‐1996 <2>

<1>からつづく

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山崎浩一の「世紀末ブックファイル」 1986‐1996   
山崎 浩一 (著) 1996/04 小学館 単行本 253ページ
★☆☆☆☆この本、零点

 できるだけ感情を押し殺して、メモだけすすめておこう。この本には、「DIME」1986‐1996   に連載された著者の書評500冊のうちの約半分が収録されている。なにか当ブログと同じ本について語っているのではないか、とパラパラめくってみたが、見事にかすっていない。わずかに数冊の村上春樹の小説と、昨日当ブログでもふれた「メディアラボ」だけである。 

 と思っていたところ、もう一冊あった。
    (これをクリックする↓と見ることができる。)

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 このような文章は、わがブログに貼り付けること自体、はばかれるし、そもそも手打ちで転写すること自体、あほらしい。

 このひと、いよいよ、私とは別世界のひとのようである。一時は壁ひとつの隔たりではあったが、まったく私とは逆転している世界の人のようだ。

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「お産の学校」: 私たちが創った三森ラマーズ法<1> 

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「お産の学校」 私たちが創った三森ラマーズ法 <1>
お産の学校編集委員会 編 1980/3 BOC出版部 単行本 444p
Total No.3249

 まず、自己紹介しましよう。名前は三森孔子。孔子(こうし)と書いて、よしこと読みます。職業は産婆です。いまは産婆が好きで好きでたまらない、しあわせな人間です。どうして産が好きかって言いますと、人が人生でいちばん喜ぶ瞬間、いちばん感動する瞬間に立ち会えるからじゃないかと思います。p25「無理をしないで楽しく産もう」

 この三森さん(1928年福島県生まれ)を迎えて、西荻のほびっと村で「産婆の学校」が始まったのは、1977年のことだった。

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「地球の上に生きる」アリシア・ベイ=ローレル 深町真理子訳(1972/07 草思社)p179

 70年代カウンター・カルチャーの中では、自分たちで自宅出産しようという雰囲気があった。私たちも、他のコミューンでのレポートをもとに勉強会をひらいて準備をしたのだった。

Img_0002雑誌「時空間」10号(1975/04雀の森の住人達)p65 札幌のコミューン「ピキピキ舎」のレポート

 当時20歳代を中心とした若い世代の仲間たちである。どこからどこまで分かっていたのかは、ちょっと危なっかしいものであったことは確かだ。

キク 私は仙台にいたころ、仲間と共同生活をしてたんだけど、そこに住んでいた女の子たちが、みんなで出産をやっちゃおうなんて・・・・・。あのころ、ああいうのはやっていたのよね、75年のころだったかな。それで、北海道に1人で産んじゃった人がいるって聞いて、みんなで「女のからだ」なんかを参考にして勉強したんだけど、みんな、わけがわからないわけよ。 

 経験者は1人しかいなかったし、ラマーズ法も何もわからなくて、決死の覚悟のなかである人が産んだってわけ。 

 その時の彼女は、自然分娩を自分でやりたいってことがあったんだけど、周りとの関係がうまくいってなかった。そういうところで産むのは、すごく不安だったでしょうね。でもやっぱりみんなの中に、自然分娩はいいことという意識はあるから、不満をパッとぶちまけることはできなくて、結局、育児の中で、そういう関係が露骨にでてきた。 

 彼女がどんな不安と不満を持っていたかなんて私は全然知らなかった。その子が3か月になってから、そのお産のテープを聞いて、えらく感動して、これからは自然分娩は絶対多くなるから、だれかできる人がいたらいいな、と思ったわけネ。 

 まさか私が助産婦になるとは思わなかったけどね。ツテを聞いて、友達に看護婦の子がいると聞いたからその子のところに行って、「助産婦にならない?」って、そんな感じだったのよ(笑)。

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雑誌「時空間」11号(雀の森の住人達1975/07)p63 イラスト・パトラ

 それで、私は仙台から東京に戻ってきて、「やさしいかくめい」という本の編集をやりだしたけど、そのとき編集室に女は私1人だったの。何となくさびしくって、「珠裸衣(じゅらい)」という女の子のグループをつくったの。

 そこで自然分娩とか、女のからだのこととか話に出て、私は男との関係や自然分娩にすごく興味があったのね。で、「やさしいかくめい」でも、それをとり上げようってことになったとき、たまたまお産婆さんで、すごくいい人がいるって話になって・・・・。友達どうしできこえてくるの。あの人も三森さんで産んだ、この人も産んだっていうふうに・・・・。

ユキ ああ、そのころから三森さんとこで始まってたわけね。

キク で、三森さんに、自然分娩の原稿を書いてほしいて頼んだわけ。まずはお話を聞きたいって。それでここに来て、私がいままでどれほど知らなかったか、よーくわかってサ。

みえ 知らなかったって、お産に関して?

キク いろいろ。まず分娩に関して言えば、それまでカッコよく言っていたわけね、自然分娩じゃきゃだめでだとか、医者なんか絶対悪いとか・・・・・。ところが、自然分娩のどこが、どうしてよいのか、全然知らなかった。

ユキ そのへんはピッタシね、私たちが始めたころと。それが三森さんと結びついたことによってかなりの部分、ピシャっとはっきりしたわけね。

キク 一回話を聞いて、自分のからだのことはともかく、お産の何がよくて何が悪いのかってことがわかったわけ。

 そのとき、たまたま私の友達がおなかが大きかったの。4か月くらいだったかな。で、三森さんとこで産んでみないか、と言ったら、彼女も、病院はいやだ、自然分娩にしたい、と思っていたから、さっそく一緒に行ったの。

 でも、私がお産に立ち会うなんていうのは、その子がすごくいやがると思ってたんだけど、そのうち、向こうのほうから「立ち会ってくれないか」って、コロッと言ったわけ。その立ち会いで、私、三森さんと親しくなったのね。それまでは、編集者と原稿書いてくれる人の関係だったんだけど・・・・。

 そのころ、いっしょに編集やってた男の子が、そんないいお産をやってる人が見つかったんなら、「産婆の学校」をやってみないかって言われてね、三森さんに「産婆の学校やってもらいたいんだけど」って話したら、三森さんもけっこう乗って、「あ、いいですね、いいですね」って言ってくれたわけ。p261「ひょんなことから『産婆の学校』を」

 この時、キクが仙台で体験した出産は、雑誌「時空間」にまとまっているし、「名前のない新聞」でもレポートされた。

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「名前のない新聞」
1975/06/15 p4~5
photo:サキ

 この本がでてからすでに35年。私たちが自分たちのコミューンで自宅出産を体験してからすでに40年の時間が経過しようとしている。この本の経緯についても、ほかのさまざまなストーリーがあったことを、すこしづつ知ることができる時代となっている。

 うちの子供たちが生まれる時も、立ち会いたいと医師に申し出た。たくさんの妊婦さんたちに交じって、むさくるしい髭面の私も、実際的な妊婦体操などの「性教育」を受けた頃が懐かしい。そんな私はもうアラ還に達している。もうすぐ、4人目の孫が生まれるらしい。

<2>につづく

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「サイバービア」 電脳郊外が“あなた”を変える ジェイムス ハーキン

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「サイバービア」 電脳郊外が“あなた”を変える
ジェイムス・ハーキン (著) 2009/07 吉田 晋治 (翻訳) 日本放送出版協会 単行本: 304ページ 
Total No.3248★★★★★

 デジタル・コミュニケーションについて理解しようと人々が取り組んできたあらゆることについてわたしがはじめて疑問を持ったのは、セカンドライフでセックスをしているときだった。2006年10月11日のことで、セカンドライフにハマっていたのには理由があった。p004「序文」

 いきなりセカンドライフか。それもしかたないこの本は2008年に書かれた本で、当時は、日本でもまだこのヴァーチャル・ゲームは人気を誇っていた。出版史でみるかぎり2007年がピークだが、その年末に「セカンドライフ・マガジン」が創刊されて、松岡正剛が提灯記事を書いていた。

 翌年8月にその3号がでてそれっきり、見事に三号雑誌で休刊となり、これを象徴として日本におけるバーチャル・ゲーム「セカンド・ライフ」の凋落は決定的になったようだ。いまじゃぁ、お笑い草にしているハッカーたちも多い。

 ネット上のヴァーチャル空間でセックスするという発想にはおおいに笑った。通常の人間なら、そのへんはピンピンジメジメとなるところなのだが、セカンドライフでは、アバターの股間に、部品として購入したペニスを「装着」して、コトを始めるのである。なんとも、摩訶不思議な世界ではあった。

 この本を読んでみようと思ったのは「スペクテイター」29号のWEC特集<前篇>に紹介があったからだった。

 ●「サイバービア」も参考になると思う。ジェイムズ・ハーキングというウェブジャーナリストが1章をさいて「WEC」のことを振り返っている。ソーシャルメディアの中の位置づけとして書いているね。「スペクテイター」29号p035「ホール・ホール・カタログ伝説をめぐって」

 紹介文にたがわず、なかなか面白い一冊だった。一回読んだだけでは勿体ない。いずれ再読して、読み漏らしたところをチェックする必要がありそうだ。サイバービアとは、サイバースペース(cyberspace)+郊外(suburbia)から作られた造語。電脳郊外。

 1993年1月、ブランドの古くからの仲間で「ホール・アース・カタログ」の編集者の一人でもあったケヴィン・ケリーがサンフランシスコで「ワイヤード」誌という新しい雑誌を創刊する。「ワイヤード」誌は、ニューエコノミーというアイデアのすべての面における先駆者として重要な役割を果たすことになった。p105ジェームズ・ハーキン「ネットワーク効果」

 スティーブ・ジョブズが亡くなったあと、「WIRED×STEVE JOBS」 『WIRED』 保存版特別号(2013/10 コンデナスト・ジャパン)がでた。「『WIRED』はいかにスティーブ・ジョブズを伝えたか?」というコピーがカッコイイ。でも、どうして「ジョブズ/アップル傑作記事アーカイヴ」が「1995-2012」となっているんだろうと、ちょっと不思議だった。

 2012は、ジョブズがなくなったタイミングということは分かったが、1995とはどういうことかと思っていた。今回、それはこの「WIRED」誌が創刊されたタイミングに関係していたのだ、とようやくわかった。

 ケヴィン・ケリーは「スペクテイター」誌30号でインタビューを受けている。WECを語る上では重要人物である。

 ケヴィン・ケリーは1995年の著書「『複雑系『』を超えて システムを永久進化させる9つの法則」(1999アスキー)の中で、ネットワーク化された世界で経営を続けるとしたら、コントロールするのをやめ、人々が自分たちで組織を作っていくのに任せるしかない、と示唆している。p106同上

 ケヴィン・ケリーはWECの考え方を一歩前にすすめているようだ。

 ケヴィン・ケリーによれば、2015年までにわたしたちの知る現在のインターネットはなくなり、代わりに「地球規模の人工的な意識」が出現するという。このように主張する人は少なくない。p243「多層性」

 文脈から考えて、これは2008年ころのケヴィン・ケリーの述懐だと思うが、「地球規模の人工的な意識」と名づけているところは興味ぶかい。翻訳前の単語はどのような英文だったのだろう。「地球規模」であることは間違いないが、そこにどんな英語を割り当てただろう。グローバルサイズ?だろうか。「人工的な意識」の「意識」には、おっと、驚くが、さて、コンシャスネスを使っているのだろうか。でもここでの「人工的」ってフレーズは好きじゃないな。もとの単語を知りたい。

 いずれにせよ、ここでさらに注目すべきは、その「グローバル・コンシャスネス」(と勝手に言っておこう)が出現すると「預言」していることである。2015年とは、もう来年のことである。うん、たしかに、グッドイアーの深化を遂げ続けるIT技術の世界である。そろそろ、来ても、いいんじゃないかい。

 この本には、サイバネティクスのノーバート・ウィナーや、メディア論のマイケル・マクルーハンが多く語られている。そのあたりも別な側面から底上げしながら、もっと多層的に、もっとアクティブにこの本を再読する日がくるのではないか、と思う。

つづく・・・かも

 
 

 

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2014/05/28

「メディアラボ」―「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<3> スチュアート・ブランド

<2>からつづく

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「メディアラボ」 「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<2>
スチュアート・ブランド (著),  室 謙二 (著), 麻生 九美 (著),  1988/04 福武書店 単行本 342p

 <こころの社会>を綿密に調べ、まねする一方で、コンピュータは<社会のこころ>を具体的な形として見せている。コンピュータとコミュニケーションはすでに混じり合い、いまのところひとつの活動を行なっている。

 ところが依然として、その共同活動をいいあらわす動詞はない。同時にまた、わたしたちは自分の体の中の神経活動を示す言葉さえもっていない。それは、<考える>とか、<感じる>とか、<話しかける>というのとは、ちがう言葉のはずだ。

 体の中の(あるいは社会の中の)、すべての活動やエネルギー活動については、その活動をひとまとめにした<代謝>という言葉がある。だが一つのシステムの中で行なわれるコミュニケーション活動を示す言葉はない。

 あるものを示す言葉がないということは、そのことについての重大な無知を示している。なにが健全なコミュケーションを構成するのか、わたしたちは知らないのである。

 人間をほかの生物と区別するものが、その複雑なコミュニケーションであるならば、来るべき新しいレベルでの世界コミュニケーションは、人間を越えるなにものかの到来を意味する。サイボーグ文明、そうかもしれない。

 あるいは、認識力をもった地球、かもしれない。ふだんにも増して、政治はこういう経過に非常な遅れをとっている。p290スチュアート・ブランド「ブロードキャッチの政治学」原著1987

 現在、70年代のカウンター・カルチャーを中心とした埋もれた資料のアーカイブズの作成プロジェクトに誘われている。私自身は、それほど多くの当時の資料を持っているわけではないが、それらがどのように保管されていて、今後どのようにアーカイブズ化されるのかは興味ある。そして、さらにはそれらが、今後、未来に向かって、どのように活用されていくのか、さらに興味あるところだ。

 当ブログでは、結果的に、物事を「コンテナ」、「コンテンツ」、「コンシャスネス」の三つの柱に喩えている。コンテナは物理的な箱、生産技術、科学的実証性などを意味する。コンテンツは、表現される作品、活用技術、芸術的な創造性、などを意味する。コンシャスネスは、共有されるべき意識、コミュニオン、存在の無限性、などを意味している。

 上の範疇でいうと、パーソナル・コンピュータは、コンテナである。パソコン自体はただの箱である。ただただ、その存在の登場自体が画期的な発明だった時代もたしかにあったのだ。

 今現在、Facebookやtwitter、mixi、Youtubeなどソーシャル・ネットワークは、コンテンツのつながりである。Lineやその他のビットコインなど新しいサービスも、コンテンツと言うことが可能かもしれない。しかし、時代は次を求めている。次なる、来るべき時代とはなにか。

 パーソナル・コンピュータの時代には、パーソナルであることが重要な課題だった。一人で所有できる物理的なコンピュータだ。ソーシャル・ネットワークでは、社会的に繋がるサービス技術であることが重要だ。個人が社会へと拡大し、機械がサービスへと、進化した。

 では次はなにか、と問う時に、当ブログでは現在、コンシャス・マルチチュード、という概念を検討している。物でもなく、事でもなく、「在る」ことが重要になる時代が来るのではないか。「意識」が重要テーマになるであろうことは必至である。しかし、「意識」だけが独自に存在することはできない。依るべき「存在」が必要なのである。

 そして、いろいろ検討してみた。人々の在り方として、市民とか国民、あるいは村民、地域住民、などなど検討してみるのだが、いまいち納得するところがない。これらの人々の「意識」的な「つながり」を表す言葉としては、ネグリ&ハート「マルチチュード」が最後に気になっている、というところである。

 このマルチチュードはイタリアの思想家アントニオ・ネグリが、スピノザの哲学に語源を借り、そして現代アメリカの若い研究家マイケル・ハートのIT知識に援助されながら作り上げている最中の概念である。

 しかし、その道半ばにして、いまいち納得できないところもある。特に、いわゆるスピリチュアリティについては抜け落ちている。そこで、敢えてネグリ達のこの言葉を借りながらも、換骨奪胎して、もうすこし新しい装いをさせてみたらどうかと思うのだ。

 日本語では群衆と翻訳されるけれど、すでに意味合いはもっと次元の高いものになっている。多くの人々が、ある方向性を持って繋がっている状態、しかもその方向性は、ある「意識」に基づいている、というところがキーポイントである。決してピラミッド型ではなく、同時多発的であり、しかも多くの多様性を持っていながら、結果的にひとつの傾向性を持っているのだ。

 これはおそらくネグリ&ハートがいうところの<帝国>に対峙し、やがてはそれを越えていく力になりうるポンテンシャルを持っている。ただ、現在の彼らの研究は「政治」にかたより過ぎている。そうではなくて、もっと「意識」について、今、マルチチュード達が立ち上がっていることを認識する必要があると思うのだ。それで、当ブログでは、新しい概念として「コンシャス・マルチチュード」という意識の在り方を問うことになった。

 現在、進んでいる当ブログもそうだが、誘われている70年代的アーカーブズ形成のプロジェクトも、このような方向性の中で、再構成されていけばいいなぁ、と思っているところだ。この「メディアラボ」はすでに27年前に書かれた本だが、さすがにインスピレーションを受ける箇所は多い。「地球の論点」で「勧」原発を唱える現在のスチュアート・ブランドだが、まずは、虚心坦懐に現在までの思想のプロセスをなぞってみることも必要かな、と思う。

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「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004 <2>

<1>からつづく 

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「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック<2>
2014/01  晋遊舎 ムック  97ページ 
★★★★★

 ああ、この本、本格的にFB参戦と思いつつ、いつも枕元にあるのだが、どうも開く気になれない。なんでだろう。具体的には、どんどんFBの新機能に気づいて、あれ、これはこうするとこうなるのか、と新発見はつづいている。

 思えば、この手のマニュアル本が他にもある。「ブログ運営テクニック100 」(コグレ マサト するぷ 2012/8)と、「Kindleセルフパブリッシング入門」2013/4/13 日本実業出版社)あたりである。順序としては、ブログを書いてキンドルを作ってフェイスブックでワイワイやろう、という魂胆である。

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 このあたり、これから、もっと充実しようとしてきたのだが、どうも本気にならない。どうしてだろう。もっと電脳社会に溶け込もうとするのだが、こちらが老齢化して、いまいち感性がにぶくなっているのか、そもそも才能がないのか。

 でも、待てよ、と考える。こいつらの本の性格が悪いのではないか。「必ず結果がでるプロ・ブロガーが教える"俺メディア"の極意」。このキャッチフレーズ、なんだか気持悪いな。どっかの受験雑誌みたいで、おいおい、ブログって、なにか結果を出すために、書いてんのかよ。変だぞ。

 「電子書籍でベストセラー作家になろう」 ってのもおかしい。別に作家になろうとしているわけでもなく、ましてやベストセラーを書いてやろうなんて思っているわけではない。むしろ、ニッチな小出版こそが電子書籍のメリットなのではないか、とさえ思っているのである。技術はともかく、方向性がまるで真逆ではないのか?

 「超便利になる『裏ワザ』を集めました」って、これも変だろう。別に裏ワザを知りたいわけじゃない。オモテ技でいいのである。とにかく使えて、みんなが、それは当然でしょう、というあたりまで分かっていたら、それでいいのだ。なにかズルして得しようなんて、(すこししかw)思ってないのだ。なんか、こちらをくすぐってやろう、という魂胆が見え過ぎる。

 この三冊、以前から気にはなっているのだが、どんどん古くなる。くすぐられっぱなしで、結局は、いつの間にか、次のサービスが始まって、やがて、忘れ去られていくのかな。とまぁ、逡巡するが、この辺、むしろ、私の性格のほうに原因があるのかもしれない。_| ̄|○

<3>につづく

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2014/05/27

「朝日ジャーナル」特集:ミニコミ’71---奔流する地下水1971/03/26号<5>

<4>よりつづく    

Asj

特集「ミニコミ’71---奔流する地下水」<5>
「朝日ジャーナル」 1971/03/26 朝日新聞社

 800誌に上るリストの中から、アトランダムに、関係のありそうなミニコミをピックアップしておく。(暫定版・編集中)

p05 「極北の思想」 北海道家宝大学出版会 札幌市北八条
p06 「北海通信」 ヤマギシズム北海道試験場 野村群別海村
    「週刊ののこ」 安田慎 青森県板柳町 中学生諸君徹底的に頑張ろう
p07 「盛岡べ平連通報」 岩手県胆沢郡
    「上映運動の記録」 東北小川プロダクション 仙台市小田原
    「すくりぶる」 阿部清孝 宮城県名取市 書きたい時に書きたいことを書く
    「のりひび」  全国原子力科学技術連合仙台支部 東北大反公害闘争委員会 仙台市東北大工学部内・女川原発実力阻止
p08 「ムニョ」 石川裕二 宮城県名取市 自己欺瞞ミニコミ”私の求めてるものは鍵穴です”
    「たいまつ」 たいまつ新聞社 秋田県横手市
p09 「ニュー・ヴァーブ」 菅原秀 山形県山形市 人間的な音楽を作るためのメディア。産業協同粉砕!
p10 「サルボダヤ」 日印サルボダヤ交友会 千代田区九段 インドのサルボダヤの同志と提携し、慈愛と非暴力の実践を通して人類の平和に貢献する
p12 「月刊キブツ」 日本キブツ協会 港区赤坂 権力や私的所有によらぬ新たなる共同体の創出を
p13 「黒の手帖」 黒の手帖社 新宿区北山伏町 日本全土を黒い霧で覆わんことを
    「PEAK」 末永蒼生 新宿区西落合 コミュニティPEAK ストリートファイティングロックを実現 HEAD REVOLUTIONをめざす、新人類の共和国の創出に向う
p24 「土ともぐら」 土が欲しいもぐらの会 千葉県松戸市 実践的共同体の模索グループ
p32 「ゴミ姦報」 美術館を告発する会 名古屋市中区 権力の一方的な表現の自由の圧殺に対し権力を告発 創造的な表現を圧殺するものに対して闘おう
p35 「ヤマギシズム」 ヤマギシズム出版社 名古屋市瑞穂区
p48 「釜ケ崎通信」 竹島昌成和 大阪市西成区
p50 「週刊月光仮面」 村上知彦 兵庫県西成市 ブルジョアマスメディア粉砕! 万国の月光仮面団結せよ!
p52 「かわら版」 神戸市垂水区 片桐ユズル あなたがつくるうたのしんぶん
p53 「メタ」 日本ミニコミセンター 神戸市須磨区
p54 「むすび」 交流の家 FIWC関西委員会 むすび編集部 ライ快復社復帰センター 交流の家の新聞 ライ快復者の差別反対 社会復帰を支援
p57 「伊方原発反対ニュース」 伊方原発反対共闘委員会 愛媛県西宇和郡
p60 「沖縄ヤングべ平連」 沖縄ヤング・べ平連書記局 沖縄県那覇市

(文中のハイパーリンクは暫定的なつながりや恣意的なものを含んでいます。2014/05/27記)
 

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2014/05/26

宝島編集室 「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><7>

<6>からつづく

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「スペクテイター」
<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<7>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

★★★★★

 そんなかれらを一点に集合させ結びつけるという、日本のヒッピーにとっては歴史的といえる役割を果たしたのは、本誌では馴染みの「宝島」誌---当時、渋谷駅から歩いていける青山の木造モルタル仕様のアパートの一室にあった、その編集室だった。

 1975年夏ごろのことだ。
「どうぞ」という声を聞いてドアを開けた途端、絶句するようないい匂いがした。
 それもそのはずで、六畳を二間続けたほどの手狭な編集室の、天井から三分の一ぐらいまで濃い紫煙が漂っており、編集者と来訪者たちの顔がかすんで見えるほどだった。
 いちばん奥から手を上げたのはチーフ。

 その手前に、アイヌのような濃いひげを生やした年長の編集部員、通称、青ちゃん(故青山貢)がいて、もう一つ手前に、一見して、実質的に編集を取り仕切っていることが見て取れる女性エディターさんがキレのいい動きで原稿の受け渡しをしていた。

 その他、ぼくのように原稿を持ってきたらしいヒトや友人と思えるヒトなどで編集室は立錐の余地もないほどだったが、無駄口は一切聞こえず、ストーンした時間とクリーミーといえるほど和らいだ空気がゆったりと流れていた。

 「すごいね」と紫煙を指して小声でいうと、青ちゃんが目を細め、当惑したような笑顔を浮かべていった。
 「みなさん、お土産を持ってきてくれるし、その度にお相伴するもんだからサー」
 その返答に、さざ波のような軽い笑い声が広がった。

 日本でタバコでない紫煙に包まれた編集室に出会ったのはこのときがはじめて、おそらくは日本初、そして、そうではないことを祈りたいが、この時期の「宝島」編集部を除いて絶後ではないだろうか。p098細川廣次「ヒッピーたちはお金とどう向き合ったのか?」

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 三冊のカタログを見つめ、じっくり考えてみた。この本を更に煮詰めて、たった一語づつにまとめてみるとしたら、なんとなるだろう。そもそもそんなことは無理なのだが、ましてや時代をたった一冊に求める事自体無理だったのだ。しかし、敢えて、私はそれを楽しみでやってみた。

 まず、70年的「朝日ジャーナル」ミニコミ特集を今ひろげてみると、地域闘争やら、政治活動など、さまざまなミニコミが800誌リストアップされている、が、敢えてその中から目につくものをピックアップするとしたら、それは象徴的な意味で「べ平連」とすることも可能なのではないだろうか。

 今となっては、べ平連などと言っても、もう意味が分からない人も多いだろうが、「ベトナムに平和を!市民連合」と云えばなんとなくイメージができるかもしれない。しかし、ここでは、そんなに長い名前ではなくて、やはり「べ平連」でなくてはならない。その略語で分かる者同志の合言葉みたいなものとして、このシンボルは存在し得る。

 では、80年的「精神世界の本」の、このごった煮の中に、たった一語で象徴させる言葉はあるだろうか。いろいろ逡巡してみたが、それは「瞑想」でいいのではないか。それは「メディテーション」でもなく、「禅」でも「ZEN」でも、おそらく「修行」でもないだろう。

 ヨガ、神道、ニューエイジ、身体論などなどがごった煮になっているこの本の、本当の中核にあるものは、ずばり「瞑想」であろう。誰もがその意味を分かっていたわけでもなければ、できていたわけでもない。しかし、時代を象徴する言葉としてひとつ選べと言われたら、私なら、やっぱり「瞑想」を選ぶ。

 さて、それでは75年的「別冊宝島 全都市カタログ」を何に象徴すればいいだろうか。「都市生活者のフォークロア」とか、「シティカタログ」とか言ってはみても、基本、結局本当は何をいいたいのであろうか。そして、ずばりシンボルとなり得るものは何か。

 「マリワナについて陽気に考えよう」
 マリワナに関しての知識を集めたものとしてこの本を推薦する。どうしてもっとたくさんこのようなものが出版されないのだろうか。やはり、タブーなんだろうね、ほんと。
「全都市カタログ」p77

 おそらく75年的「別冊宝島」をたった一言でアイコン化するとしたら、この言葉が適当なのではないだろうか。この本がこれ一色で書かれているなんてことはない。他のたくさんのことが書かれている。しかし、文化の基盤として、なにかひとつの共通項を、しかも実質というのではなくとも、シンボルとしてなら、この言葉が、きっとあの時代を色濃く象徴しているだろう。

 だから、70年代というものを、本当に大雑把に、ざっくりと、たった三つの言葉で締めくくってしまうとすると、「べ平連---マリワナ---瞑想」と言いきってしまうことが可能だろう。この三つのアイコンの裏で、現実を生きていた若い年代が、実に多くあったのだ。

 おそらく、この三題話で、かなり多くの人々があの時代を共有しながら、多くのことを語り合えるのではないだろうか。賛成する人も、反対の立場を取る人も、体験のある人も、あるいは体験したくない人も、あの時代をこれらの糸口から語ることが可能であろう。そして、ここから繋がる沢山の支線も見つけることができるにちがいない。

<8>につづく

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「朝日ジャーナル」特集:ミニコミ’71---奔流する地下水1971/03/26号<4>

<3>よりつづく     <5>につづく→

 長文注意 一挙60ページアップ

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特集「ミニコミ’71---奔流する地下水」<4>
「朝日ジャーナル」 1971/03/26 朝日新聞社 

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<5>につづく

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「朝日ジャーナル」特集:ミニコミ’71---奔流する地下水1971/03/26号 <3>

<2>からつづく    

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特集:ミニコミ’71---奔流する地下水 <3>
「朝日ジャーナル」 1971/03/26 朝日新聞社 

 70年代の文化史、あるいは精神史を考えていた。70年代があるということは、60年代もあり、80年代もある、ということだ。その前も、その後もある。ということは、さらにずっと前もあり、やがて、今現在までつながってくる道があるはずである。

 しかしながら、今は敢えて70年代にウェイトをおいてみる。時あたかも、1975年周辺の話題が、SNS繋がりの友人達の中で話題になっている。その中心に置いてみるのが、別冊宝島「全都市カタログ」(1976/04 JICC出版局)である。70年代中盤の文化史、精神史を象徴する一冊としては、まずまずであろう。

 そして、私なら、先立つ70年前後を象徴する一冊として選ぶのは「朝日ジャーナル」ミニコミ特集(1971/03/26朝日新聞社)であろう。当時高校生だった私にとって、この雑誌、この特集が、当時の社会状況にアクセスするためには、多大な影響を受けた一冊である。

 さらに、80年代の入口を飾る一冊するには何がいいのか悩むところだが、ニューエイジや精神世界という言葉が乱舞する80年代の入口としては、「精神世界の本」メディテーション・カタログ(1981/08 平河出版社カタログ刊行会・編集)あたりはどうだろうか。雑誌「ザ・メディテーション」(1977/10 - 1979/04)をステップとして「精神世界」という潮流を形成しようとしていた一冊である。 

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 もちろんこの三冊で時代をすべて包括することなどできはしない。むしろ、今、私たちが今取り組んでいるのは、文化史であり、精神史である。イベントや音楽、美術、演劇、写真など、多彩な文化史を網羅することなどできはしないし、瞬間に消えていくスピリチュアリティなど、記録できるものではない。

 しかしながら、この三冊をひとつの誘引剤として、互いに共有しながら、そこに表現されたものと表現されなかったもの、埋もれてしまったもの、隠れてしまったもの、静かに眠ったものなどを、今一度、想起し、記録しなおしておくのも悪くあるまい。

 さて、そう思い立つと、その時、私はどこにいたのだろうか、が気になって来る。それぞれの三冊の中に私自身の消息を見つけることが出来ない訳ではない。いや、むしろ、私は、この三冊の中に自らの消息を見つけていたからこそ、この三冊を思い出したともいえるだろう。

 「朝日ジャーナル」誌のミニコミ特集の時、私は高校生で、個人ミニコミ誌「すくりぶる」を発行していた。この朝日ジャーナルの募集に応じて特集にリストが掲載された(p7)とたん、全国から連絡が相次いだ。友人石川裕人(p8)とともに、ミドルティーンの私たちは、世間の荒波の中へと歩み出したのだった。

 76年の「全都市カタログ」では、前年に、私たちのコミューン「雀の森の住人達」が発行したミニコミ雑誌「時空間」10号がp112~113に収容されている。このカタログは「アース・ホールド・カタログ」に色濃く影響されていたものであり、その出版にまったく関与するものではないが、このカタログ作成の中に、私たちの雑誌がアクセスされたというのは不快ではない。

 そして81年にでた「精神世界の本」カタログになると、もう私なぞは何にも関与しているわけではないが、むしろ、私のほうからアクセスすると、この本には当時発行されていたOSHOの翻訳本がp28~29に渡って10冊紹介されている。当時まだ少なかったOSHO瞑想センターを運営していた私には、まったく無関係な本とも云えない。10冊の最後を飾っているのは「マイウェイ」(ナルタン訳OEJ改訂版1984/03)である。

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 さて、この三冊の本の中に、さらに私自身の痕跡、消息を見つけることができるだろうか。「すくりぶる」誌は不定期に続いた二年間で12号まで続いたわけだが、その表紙の次の頁に、自画像を書いている。まぁ、高校生としての自己イメージはこんなもんだっただろう。

 「時空間」もまた季刊として12号まで続いた訳だが、当時のカウンターカルチャー「星の遊行群」などの流れの中で、敢えて自己イメージを探るとすると、前後して出た9号の表紙にでている青年剣士のイメージであろうか。大正ロマンの画家・高畠華宵の絵をコラージュしたものだが、外面はともかく、内面はこのようなものであった。

 さてすでにOSHOサニヤシンとなっていた80年代の私は、すでに「筆を折って」いたが、この「マイウェイ」の中に私の写真が収容されている(p313)のは珍しい一枚となる。撮影されたのは1978年当時のインドのOSHOアシュラムの中のブッタホール。エクササイズ風景である。

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 そしてまた、こうして時代の文化史の中に、自らの位置を見つけて、確認したとしても、本来、精神史や、そのスピリチュアリティにこそ焦点があるとしたら、実際には、この自画像や作品、写真の中にも、本当の、自分は、いない、ということになる。

<4>につづく

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2014/05/25

「ミシンと日本の近代」 消費者の創出 アンドルー・ゴードン<2>

<1>よりつづく   

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「ミシンと日本の近代」―― 消費者の創出<2>
アンドルー・ゴードン   (著), 大島 かおり (翻訳) 2013/7 みすず書房 単行本: 434p

日曜の午前中、ケータイのベルが鳴る。

G「もしもし、元気? お久しぶり、Bってさ、ミシンに詳しいよね。ちょっと質問があるんだけど」

B「まぁまぁ、知らないわけじゃないな。どうしたの?」

G「ぼくの彼女がミシンが欲しいっていっていて、中古ってどうなの?」

B「中古ねぇ。どうして中古が欲しいの? 昔のとか、欲しいものがあるのかな」

G「いや、こだわっているわけじゃないが、ぼくはほらお金ないからさ、安いのがいいかな、と思って」

B「う~ん、必ずしも中古だから安くていい、ってことはないよ。今だったら、結構新品で使えるミシンが安価で流通しているよ」

G「大体どのくらいするものなの?」

B「それはピンからキリまでだけど、まぁ、3万もだせば、いいのが手にはいるよ。もっと安いのがいいのかな・・?」

G「その位ならなんとかなりそうだけど、メーカーとか関係ないの?」

B「例えばシンガーなんてブランドは今はインチキと言われるようになっているよ。ブラザーやジャノメってのもあるが、ジューキはまずまずミシンが好きな人たちには人気があるんではないかな」

G「へぇ、そういうメーカーがあるのね。ジュ・-・キ、ね。今ネットを見たら、15万とか20万って書いてあるよ」

B「それは、ミシン屋さんのためのミシンであって、通常使うミシンなら、そんなのは要らないよ。彼女ミシンで何したいんだろうね」

G「服とか作りたいらしい」

B「服をつくるなら、ふちかがり機能があるジグザグミシンが必要だね。ミシンには、家庭用、職業用、工業用とあって、家庭用は普通のわれわれの家庭で使うもの、職業用は背広とか職人さんが作る時に使うもの、工業用とは工場などで動力と繋いで使われるもの。一般的には家庭用で十分だよ」

G「ジューキのページを見ると、コンピュータミシンとかロックミシンとか書いてあるよ」

B「ロックは、さっき言った、ふちかがり専門のミシンで、服を作る人なら欲しがるだろうけれど、ジグザグミシンでもその機能を果たせないわけではない。ロックミシンはそれ専門で、切りながら縫うけれど、ジグザグミシンは切った後に、そのふちをかがるわけだね。」

G「う~ん」

B「家庭用にはさ、さらに三種類があって、電動ミシン、電子ミシン、コンピュータミシンってのがあるんだけど、電動はモーターが付いていれば電動ミシン。いまや足踏みミシンはないからね、全部電動ミシン。で、電子回路が組み込んであって、いろいろな模様が縫えるようになるのは、電子ミシンと言われている。それにもっともっと付加価値をつけたものが、コンピュータミシンと言われているけれど、実際は、そんなもの必要とする人は少ない。一般的には、電動ミシンで十分」

G「なるほど。安いものでも十分なんだ」

B「そうだね、価格コムなどで情報を得て、家電店やホームセンターなどで現物を見て、あとは実際に触ってみれば、買いだと思うよ」

G「あれ、ネット見ると、ブランド品でも2万とか、1万五千円なんてのもあるね」

B「そうだよ、現物見て気にいったら、それで十分だよ。リサイクル・ショップなどに行ったら、それこそ、昔20万もしたような高級ミシンがゴロゴロ8,000円位で売っていて、分かっている人なら、それで十分だが、あまり慣れていない人なら、むしろ調整するのが難しいかな」

G「重さもあるよね」

B「昔はポータルブルミシンで10キロくらいの重さがあったが、いまじゃ、3キロなんてのもある。まあ、あまり軽すぎると布を縫っている時に倒れたり、モーターの振動で揺れたりする可能性があるので、出きれば4~6キロ程度がいいんじゃない。1~2キロなんてのは、リカちゃんミシンのようなおもちゃと考えた方がいい」

G「う~ん、なんとなく分かってきた。どうもありがとう。彼女に話してみるね」

B「お役にたてればうれしいです。またね」

<3>につづく

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あぱっち 「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><6>

<5>からつづく

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「スペクテイター」
<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<6>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

★★★★★

「『ホール・アース・カタログ』と もうひとつの出版史」 浜田 光
p108~123

 この雑誌、面白いので通読したいのだが、どうもビジュアルに凝り過ぎているところがあり、アラ還の私なんぞは、部屋を明るくし、老眼鏡をかけ、ルーペを片手に、目を細めて読むのだが、どうも読み切れない。あちこちに面白そうなことが書いてあるのだが、すこし目が疲れる。

 そこで、最初に、ざっと書いておいた浜田光(あぱっち)の文章を再読することにした。はっきり言って、あぱっちの持ち分は、この雑誌においては特別扱いである。なんせ、張本人であるスチュアート・ブランドより、さらに多くのページが割かれているのだ。

 私は、もうこれ以上、あれこれもう言いたくないな。心あるひとは、この雑誌を買うべきだ。はっきり言って、952円+税で1028円。安すぎる。これは永久保存版だ。私なんぞは、ブログを書いていて、わずかばかり発生するアフェリエイトを貯めていたものだから、そのポイントを使って、ただでこの号を手に入れてしまった。

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 あぱっちの長文。かなり長い。私は、いずれあぱっちに一冊モノしてもらいたい、と思っていたが、病み上がりの今、これだけ書いてくれたら、もう御の字だろう。写真ひとつひとつも感慨ぶかい。アパッチのプロフィール写真もある。

 それと凄いのは「名前のない新聞」全目録。リストと画像入り。ああ、これだけあれば、当面あそべるじゃないか。いずれこれ以上の「完全版」がでるとしたら、もうネット上でのアーカイブスになるしかないだろう。

 あぱっちについては、いろいろ断片的に書いてきて、いままで当ブログではまとめて書いたことがないが、それは、あまりに膨大すぎるからだ。ひとまとめにかけない。しかし、今夜は一つだけエピソードを書いておく。

 1977年にインドに行く前、ミルキーウェイに泊めてもらい、私はあぱっちのところに行って、帰って来たら、「やさしいかくめい」を手伝いたい、と伝えておいた。彼は、彼流のやさしさで、いいとも悪いともいわず、それを受けいれてくれた。

 一年して、帰国する時になって、Oshoに手紙を書いた。そして、日本に帰ってからの計画を相談した。でも、そこで、私は彼から自分の地にもどって瞑想センターをやることを勧められた。

 東京にもどって、またあぱっちの所に泊めてもらい、翌日、吉福さんのところに連れていってもらったりした。しかし、私は自分の地にもどり、瞑想センターを始め、農業を学ぶことになった。そして病気をすることになったりしたが、サニヤシンの仲間も多くできた。

 結局、私は、あぱっちの仕事をあの時手伝いできなかったのが、ちょっと惜しい気もしている。しかし、全体的に、自分や、他の人の人生を考えると、なるようになっていったのだと思う。

 つまりどういうことかというと、あぱっちにはあぱっちの道があり、私は私なりに自分の足で歩まなくてはならない道があった、ということだ。当たり前のことだが、私もようやくアラ還になって、すこしづつ分かりかけてきたことがある。

 いずれにせよ、この「スペクテイター」あぱっち特集号(笑)、今後のネタ本になりそうだ。この雑誌、もうすこし寝かして、ちびりちびりやってみよう。

<7>につづく

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2014/05/24

「退屈なパラダイス」 山崎 浩一

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「退屈なパラダイス」
山崎 浩一 (著) 1988/12 筑摩書房 単行本: 295ページ 
Total No.3247★★☆☆☆

 「世紀末ブックファイル」 1986‐1996(1996/04小学館)に先立つこと8年前に出た著者の初期の代表作となるものだろう。すでに時代がかった本なので、今さらどうのこうのと言うのはフェアではない。また、読み手としての、こちらも情熱が持続しない。ただ、著者一連の作品群があるということを確認する意味では、多分、重要な一冊となるのだろう。

 <カタログ文化>---清水の舞台から飛び降りる覚悟がなければ、いまや口に出せない死語だけれど、ぼくは実はこの死語に今でもヒソカにこだわりを持ち続けているのだ。ここだけの話なのだが、本当にあればいったいなんだったんだろう、と今さらしみじみと考えてみると、これはいまだにけっこう深い問題を孕んでいるように思えてならない。

 70年代のカタログ文化の出現というのは、実は日本民族の精神史上、画期的な事件であり、まったく新しいラジカルな思想と世界観の出現だったのではないか!とさえ本気で思う。ただ、それがあまりに流行や風俗のレベルで急激に起こったため、ぼくたちはそれをあまり真剣に自覚も論議もしないまま今日まできてしまっただけの話なのだ、たぶん。p176「10年目の<カタログ文化>再考」

 なかなか、コジャレタ文章である。ここでいうところのカタログ文化とは、当然のごとくWECを意識しているわけだし、1988年において、日本の10年目のカタログ文化、という時、1976年にでた、別冊宝島の「全都市カタログ」から始まる日本的WECエピゴーネンたちが作った文化のことを言っているのは間違いない。

 しかし、ここでひとつ気になるのは、著者もまた、その作り手のなかの一群に属していたはずなのだが、どうも評論家的に、引いて達観風につぶやいてみせていることについてだ。君はほんとうは、ナニをしたかったのかね。評論家然として、高見の見物を決めることが「やりたいこと」だったのかな、と、ちょっと毒づきたくなる。

 この、一方的に、こちらから仕掛けた泥仕合、もうすこしつづきそうだな。(笑)

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山崎浩一の「世紀末ブックファイル」 1986‐1996

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山崎浩一の「世紀末ブックファイル」 1986‐1996   
山崎 浩一 (著) 1996/04 小学館 単行本 253ページ
Total No.3246★★★★★

 1995年4月に、コイツは「週刊ポスト」にトンデモないことを書いている。あれを読んで以来、こいつはいつか一矢報いてやろうと、構えていた。ケチをつけるにしても、まずテキを知らなければならない。そこで何冊か書いているらしい本として取り寄せてみた。いったい、コイツ何書いてんじゃい?

 って、鵜の目鷹の目で、パラパラめくってみたのだが、はっきり言って、こいつ、面白い。タイトル通り1986年~1996年の10年間にわたって、DIME誌に書いた文章がまとめられている。一般に流通している雑誌であるがゆえに、編集者の手を通り、多くの読者の目にさらされてきた文章だからだろうが、そうとうに洗練されている「雑文」だと言える。

 こいつ、トンデモない奴だと思ってきたが、私とは二次の繋がり。多くのルートがある。場合によっては、壁ひとつの隔たりだったこともある。なんじゃぁ、隣人かよ。時には、「名前のない新聞」のあぱっちと数年にわたって、同じフロアを共有していたらしいから、ほとんど他人として罵ってはいけないな。すこし、トーンを落とそう(汗)

 最先端のテクノロジーによる未来のコミュニケーションを模索し創造し続けている<MITメディア研究所>の活動をルポした「メディアラボ」は「第三の波」や「メガ・トレンド」が提示したよりも、さらに鮮明で新しい未来のヴィジョンを見せてくれる。

 あらゆるメディアをひとつのテクノロジーとして扱う<情報の収束現象>と、情報が双方向に流れる<対話性>が、この本全体のキー概念だ。

 ヒューマニズムと情報民主主義へのあまりに楽観的な信仰と、産業共同体の影が随所にチラつくのがやや気になるうらみはあるものの、少なくとも今ぼくたちの周囲で進行しているテクノロジーの進化が、全体としてどんな意味と可能性を持っているかは、把握することができる。

 ちなみに著者はあの「ホール・アース・カタログ」の編集発行人。p45 1988/07/07 「耳タコ的常套句<コミュニケーション>の正しい意味」

 「メディア・ラボ」を初めとするWECやスチュアート・ブランド関連を読み込み中の当ブログとしては、この本を見つけたのは貴重だ。このブックファイルには、当時の数百冊の本の書評が含まれている。

 冷やかし半分で開いた本書であったが、これはいずれ、ゆっくり通読する必要がありそうだ。後日にためにとっておこう、

<2>につづく

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2014/05/22

続スチュアート・ブランド「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><5>

<4>からつづく

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「スペクテイター」
<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<5>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

★★★★★

<スチュアート・ブランド> p064~076

 失敗ね。たとえば「ドラッグ」、「コミューン」、「フリー・ラブ」なんかがそうだ・・・・・あとはバックミンスター・フラーのドームも忘れてはいけないね(笑)p071「スチュアート・ブランド」 

 少なくとも、ここで、スチュアート・ブランドが、カウンターカルチャーや、いわゆる「ヒッピー派」の中のアイコンの中から、4つの「失敗例」を提出しているのは興味深い。

 まず、「フラー・ドーム」。「宇宙船地球号」とともに、カウンターカルチャーの象徴的位置を占めてきたアイコンだが、実際には、現実的ではない部分が多い。日本においては、少なくとも、他の建築物を作るのと同じ様な法的規制があり、また経費もかかる。

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 同じ経費をかけるなら、もっと簡易で住みやすい建物は他にたくさんある。「宇宙船地球号」は、地球を「機械」に見立てたものだが、それと類するものにラブロックの「ガイア理論」がある。こちらは、むしろ地球を生命体として見立てたものだが、ともに、いわゆるカウンターカルチャーとか「ヒッピー派」からは距離が生まれている。

 その中にあって、スチュアート・ブランドは、ラブロックの影響をもろに受けて、「勧」原発派に転向していると推測できる。いずれにせよ、ブランドは、フラードームだけではなく、「宇宙船地球号」の概念も、失敗例として否定しているのだろう。

 二つ目、「コミューン」。これを共同体とか、コミュニティとか、拡大解釈していくと分からなくなるが、狭義として60年代カウンターカルチャーの中の「コミューン」に限定するならば、多くの夢を誘ったものの、そのようなライフスタイルを徹底的に追求できたところは、皆無に近いだろう。規模にもさまざまあり、ザ・ファームなど、珍しいケースもあるが、それぞれに追試が必要だ。少なくとも、ここでブランドに失敗例として「コミューン」を上げられば、それに有効な反論をできる「ヒッピー派」は多くないだろう。

 三つめ、「フリー・ラブ」。この言葉でもってブランドが意味しているところは何処にあるか定かではないが、少なくとも、対関係をなさずに、子供を育てたり、経済活動を基本とする家庭(あるいは共同性)を築く、という意味にとれる。

 私自身が、私自身のカウンター・カルチャーの試みだったと、自覚し得るのは1972年から1975年までの4年間だが、結局、その試みに個人的に終止符を打ったのは、このポイントに要因があった。つまり、「若者文化」である分には「コミューン」は成り立つが、そこに当然の帰結として、次の世代を、生み、育てる、と言った場合、私たちが見た、70年前後からのカウンターカルチャーの中での「コミューン」は、決して力強いものではなかった。ブランドの一言に、強い反論をできるものではない。

 さて、第4のドラッグだが、多論あってしかるべきだろう。少なくとも、ここで言われているのは、LSDなどのケミカル系と、大麻系のことが言われているだろう。そして、強く「失敗」とブランドが言っているのは、LSDによる「サイケデリック」のことを言っているのではないか。

 さまざまな異論があるだろうが、私個人は、1977年にOshoのもとで「LSD : A Shortcut to False Samadhi」というサジェッションを得た時、わが意を得たりと思った。他のあちこちで、さまざまな瞑想法で、過呼吸を使うような技法もあるようだが、まるでLSDの追体験を装うような誘いは、ずいぶんとアナクロだ、といつも思う。

 原発に対する姿勢など、私には理解できない現在のスチュアート・ブランドのライフスタイルだが、すくなくとも、この4点については、彼が「失敗例」として挙げることに、同意できないものではない。

<6>につづく

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スチュアート・ブランド「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><4>

<3>からつづく

Spectator301_3
「スペクテイター」
<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<4>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

★★★★★

<スチュアート・ブランド> p064~076

 わたしの2009年の著書「ホール・アース・ディシプリン」(略)でも、ネイティヴ・アメリカンに関した章があるが、文化を「ややロマンティシズムにあふれた、現実味のない文化」と書いた。日本語に、いま話したようなことを訳す言葉があるかな?(笑)

ジェフリー オリエンタリズム・アプライ(オリエンタル志向)、とかですかね?

 ふむ・・・それはおもしろい。オリエンタリズムというのは完璧なコトバだな。p064「スチュアート・ブランド」 

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            wikipediaより

 1938年生まれのブランド、76歳。それに79歳のロイド・カーンが絡み、67歳のハワード・ラインゴールドと、62歳のケビン・ケリーが従う、という構図である。なんとも爺くさいと言えば爺くさい。

 (前略)そのビディオでジョブズは「コンピュータは自転車に似ている」という考え方を最初に発表した作品だ。すなわち「意識のための自転車」ということだ。 

-----「パソコンは乗り物」という意味ですか? 

 というより、むしろアンプだね。生物界では人間はそれほど早く走れない生き物だが、自転車に乗れば高速で移動できるようになる。そのようにコンピュータを使えばマインドを増強させることが出来るということだ。

ジェフリー 自転車は世界を平等化するというか、自転車は環境に対してもフレンドリーですよね?

 そうだね、自転車という乗り物はシンプルで、現代は誰もが自転車の恩恵に授かっている。同じような存在にパーソナルコンピューターもなっていくのではないかというアイディアだ。

-----「ジョブズは元ヒッピーだった」という話がありますけど。

 このビデオはやはりジョブズはヒッピーだと言える証拠でもある。なぜならヒッピーは自転車が好きだから(笑) p068「スチュアート・ブランド」 

 いきなりこの辺を抜き書きしても、ますます混乱するような内容だが、「意識のための自転車」という考え方は面白いと思うが、「マインドを増強させる」ということとは、全く違うことだと、私は捉える。

------あなたが近著「ホール・アース・ディシプリン」(略)を書いた強い動機は何だったんですか。

 ふーむ・・・(すこし間をおいてから)60年代から70年代にかけて、私は「モダン・エンヴァイロメンタル・ムーブメント(現代環境運動)と呼ばれるムーブメントの創始者であり、それを牽引してきた一人でもあるわけだが、2000年頃から、その環境運動の世界で言われていることが正しくないことが解ってきた。p069「スチュアート・ブランド」 

 ここで少し間をおいたということは、単刀直入の質問にとまどったとも言えるかもしれないし、また、何度も繰り返されただろうこの様な質問に対して、もっと別な答えを出してやろう、というブランドのサービス精神でもあったかもしれない。決して、これをすぐ第一義と捉える必要はないと思う。

 1960年代は全体的、科学的な考え方をしていた人々も存在していたが、2000年頃から「反科学」とも言えるような考え方が見られるようになってきたんだ。

 ロマンティシズムという概念を持ったヒッピーたちは、物事を具体的な問題として直視せず、ロマンティックな視点を通じて物事を見て、ある種の悲劇として環境問題を捉えてしまう嫌いがある。そこが問題なのだ。p069「スチュアート・ブランド」 

 アメリカと世界各地の状況は違っているけれど、これでは、環境運動はヒッピーとイコールで、ロマンティシズムは科学と離反している、ということになる。この2000年頃あたりに、何が起きた、とブランドは捉えているのだろうか。

 世界全体が近代化されるにつれ、地球はますます汚染されている。にもかかわらず、その問題を解決するのではなく、ロマン派はただ、足掻いているだけだ。

 そもそもわたしは大学で科学を専攻していたし、この数年でよく会うようになった連中のなかにエンジニアも増えてきた。彼らエンジニア---たとえばウォズニアックやジョブズのような連中とつきあってみると、彼らは「問題は問題」と純粋に捉え、それを解決することに力を注ぐのだ。けれど、ヒッピー環境運動家は解決策を探そうとはしていないように思えてきた。p070「スチュアート・ブランド」 

 ますますこれでは、環境運動=ヒッピー、ということになってしまうな。すくなくとも、アメリカ国内にいて、ブランドには、2000年頃においても「ヒッピー」の存在が気になり、敢えてそのヒッピーたちの目を覚ましてやろう、というような「サービス精神」を持ったのかもしれない。

 この時の日本から行った「スペクテイター」誌のインタビュアーたちというのは、どういうスタイルで行ったのだろうか。ロングヘアーにTシャツ、ジーンズなどという典型的な「ヒッピー」スタイルだったのだろうか(邪推だが)。もしインタビュアーたちが、ビジネススーツを着込んだ連中なら、ひょっとすると、ブランドはまた別なサービス精神で、別な答えを言ったかもしれない。

 ひとつの例として、GMO(略)つまり遺伝子組み替えの問題がある。わたしは科学者として、遺伝子組み換えはまったく問題がないと理解しているのだけれど、環境運動の世界では、遺伝子組み替えはタブーだ。

 誰もがニュートラルに現実を捉えることもなく、とにかく御法度というような暗黙のルールが出来あがってしまっている。

 別な例としては原子力があるね。

-----あなたは最初、原発に反対してましたね。「ホール・アース・カタログ」にも反核の記事などを掲載していましたが。

 当初はわたしも原発反対派だったけど、地球温暖化を防ぐという命題と、原発を使わないということは、完全に矛盾しているんだ。環境保護活動家はそう言ったことを一向に話そうとしない。

 「人口爆発」という問題に関するリサーチもだいぶ変わってきている。活動家は70年代から変化がないと考えがちだけれども、世界中のアーバニゼーション(都市化・スラム化)は、とりわけ発展途上国でも重要な問題で、田舎から都市部(スクワッターシティ)へ引っ越しするにつれて、子供の出生率が激減したという調査がある。都市へ人が移住することで、人口爆発のシナリオは防ぐことが可能だ。p070「スチュアート・ブランド」 

 ちょっと長かったけれど、ここまで引用してみた。この文脈で語られているのは、遺伝子組み替えであり、原発であり、人口爆発、だ。ここで、このように、パターン化した思考をすることが、「科学的」なことなのだろうか。まずは、この問題を三つ、それぞれにバラして考える必要を感じる。そして、いま特に問題なのは、原発だ。

 原発推進の論拠は、ブランドの場合は「地球温暖化」である。これは2014年の3月に行なわれたインタビューだが、ここにおいても3・11フクシマ原発事故については、いっさい触れられていない。この態度を「科学的」というのだろうか。使わざるを得ない、という結論は、本当に「科学的」だろうか。

 都市化するにつれて人口は減少する、という喩えは本当だろうか。子育てに不適な劣悪な生活状況だからこそ、出生率が減っているだけではないのか。一方的に、それを「科学的」と言いくるめることはできるのか。

 ロイド・カーンにおいても、原発に対してはニュートラルで、遺伝子組み替えには絶対反対、というような発言があったけれど、どうも、アメリカにはアメリカの事情があるように思う。すくなくとも、ブランドは、自らがある種の集団性(ヒッピー派、環境保護派)といわれる潮流に囲まれており、また、その牽引役のひとりと見られてきていることを、当然自覚しつつ、そこに「嫌気」をも持ち始めているようだ。

 そして、そこから、どことなく、みんなにひどく嫌われることのないような人柄と説得力もあることを自覚しつつ、サービス精神で、また新しいこと言いだそうとしているようでもある。

 たしかに、何かの免罪符よろしく、反原発さえ唱えていれば、他のことは目をつぶろう、というような不逞な輩がいないわけでもない。その反対の論理が、かなりいい加減で、感情的で、一時的な付和雷同であったりもする。しかし、ここでブランドに一理あることを認めつつも、彼をこの周辺の言及を持って、「科学的」と見なすことはできない。

 ブランドについては、退役軍人であった、とか、ギンズバーグらのとの深い交流があった、というようなプロフィールが語られることがあるが、このインタビューにおいては、軍の体験は短いものだったし、ビートニック達の交流はさほどなかった、と否定的である。

「ホール・アース・カタログ」は、世界を少し替えたと思いますが・・・」

 ノー! カウンターカルチャーは「ちょっと」じゃなくて「完全に」世の中を変えたじゃないか(笑) p071「スチュアート・ブランド」 

 この自負は、一体どこからくるだろう。世界各地でこの言葉を考えることができるだろうか。すくなくとも、日本において「カウンターカルチャーは完全に世の中を変えた」と認識できる人はいるだろうか。そもそも、日本においてカウンターカルチャーという概念が根づいただろうか。日本では、同時期に流布された言葉に「反体制」という言葉ある。日本において、反体制派が、完全に世の中を変えた、と認識している人はいるだろうか。

 失敗ね。たとえば「ドラッグ」、「コミューン」、「フリー・ラブ」なんかがそうだ・・・・・あとはバックミンスター・フラーのドームも忘れてはいけないね(笑)p071「スチュアート・ブランド」 

 ブランドは三つ四つの具体例を、的確にピックアップする。フラー・ドームを初めとする「ヒッピー・ムーブメント」の中のアイコンたちを、見事にひっくり返すセンスは、なるほど、かなり論争的な人柄である。長身で、細身で、笑顔で、説得力がある、とはいうものの、個人攻撃はしない人なのかもしれないが、かなり意図的に論争を仕掛けてくる人物ではあるようだ。

 その一方で、ヒッピーがもたらした利点と言えば、スティーブ・ジョブズのように、ヒッピーの考え方をビジネスの世界に持ち込んで成功した例も少なくない。p071「スチュアート・ブランド」 

 すくなくとも、日本におけるジョブズ人気はiPadの成功によるもので、しかもそこでジョブズが自分の人生を終えたという追悼の意味も含んでいる。もしこの地点でジョブズが話題にならなかったら、カウンター・カルチャーも、WECも、ヒッピーも、ふたたび話題になることもなかったかもしれない。すくなくとも、「iPadのジョブズ」からそれらの背景を初めて知った若い層がそうとうに多いだろう。

 ジョブズは、その背景を取り込んだから、ビジネスに成功したのだろうか。あるいは、その背景を、自らの背景にうまく取り入れることによって、自らのビジネスをフレームアップしたのだろうか。このあたりの論理のすり替え、つまり、ブランドのいう、失敗や成功の、レトリックは、注意して見ておかなければならない。

 ヒッピー時代の利点ということで言えば、いろんなものを試してみるやり方と、とりあえずは良い人でありたいという願いだろう。
 ヒッピー時代に新しいことをはじめて、のちにビジネスとして成功させている人は大勢いる。
p071「スチュアート・ブランド」 

 このあたりの言葉使いも要注意である。言わんとすることは分からないでもないが、ジョブズもまた、そのスタッフをむりくり変なオーラで説得してしまう力を発揮していたが、ブランドもまた、ここで、変なブランド・オーラを発射しているように、私には思える。

青野 では、カウンタカルチャーをどう考えていますか?

 カウンターカルチャー・・・・・(遠くを見つめながら、スー、ハー、スーと三回息を継いで)「ホール・アース・カタログ」は確かにカウンターカルチャーの本ではあったが、カウンターカルチャーに反しているところもあった。例えばテクノロジーを尊重する考え方など、完全にカウンターカルチャーの王道を行っていたわけではないんだ。p072「スチュアート・ブランド」

 ここで大上段に構えてしまった青野という人の質問も、まぁ、あまりにも真正面すぎるが、日本からの、燃え上がるWEC礼賛の背景を携えていった質問者としては、一度はしなければならなかった質問なのだろう。

 逆に考えれば、これこそが「完全にカウンターカルチャーの王道だ」と言えるものなど、本当はなにひとつないだろう。 やはり一番近いのはWECなのだ。

 例えば、現代の「コーダー」(ウェブ上にプログラムを書く人)の世界、そこにはクリエイティヴな可能性を求める感覚がある。
 アンダーグランドな、カウンターカルチャーのような文化も存在するかもしれない。彼らはヒッピーと違って金を持っているけどね。
 もっとも、彼らがお金に対して興味を持っていないところはヒッピーと似ているところでもなる。ヒッピーも金に関心がなかった。
 当時のヒッピーで金を持っていたのはドープ(大麻)ディーラーだったヤツだけだけど、現代のコーダーたちは皆金を持っている。コーダーたちは金を社会的地位やアイディンティを決めるものではなく、ひとつの道具、あるいは資源として考えている。
p072「スチュアート・ブランド」

 この辺の言葉使いは、アメリカ独特のものであろうし、現場に行ってみないとわからないことが多くあろう。少なくとも、ここで、ヒッピー負け組、コーダー勝ち組のように表現されていることは興味深い。

 いまの社会のほうが、柔軟性がある部分も多い。かつてはドロップアウトしなければ逃れられない激しい現実があった。もちろん現代社会にも問題はあるし、新しい問題も増えてはいるが、現代のほうが、たとえばバックパッカーにならなくても気軽にアジアへ行ける機会も増えているし、完全にドロップアウトしなくてもすむ方法が増えた。p072「スチュアート・ブランド」

 ブランドの言わんとするところはわかる。しかし、独特のロジックで、なんだか、いつの間にか説得されてしまっている。これは、決して論理や科学ではなくて、ブランド自身が、「ロマンティスト」だからだと、私には思える。

 私は自分のことを「エンヴァイロニスト」ではなくて「コンサベンタリスト」(保護活動・エコの世界でよく言われる言葉)と言っている。

 -----お時間をいただき感謝します。(2014年3月3日・サンフランシスコ・サウサリート、スチュアート・ブランドの事務所にて) p072「スチュアート・ブランド」

 思えば長時間にわたるインタビューである。原発についての論議は熟されていない。思うところいろいろあるが、ブランドの著者三冊などの再読を含め、いずれ、全体を再考しよう。

<5>につづく

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カウンター・カルチャーは終わったのか「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><3>

<2>からつづく

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「スペクテイター」
<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<3>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

★★★★★

 さて、いよいよ本丸である。ハワード・ラインゴールド、ケヴィン・ケリー、そしてスチュアート・ブランド。少し早目に目が覚めて、寝床の中でこの記事に目を通しながら、ふ~~、とため息がでる。やはり、いずれ、魅力的な人物たちではある。

<ハワード・ラインゴールド>p048~053

 1947年生まれ。1985年からバーチャル・コミュニティ<THE WELL>に参加。ケヴィン・ケリーの後を後継ぎとして「Whole Earth Review」二代目編集長(1990年~94年)。インタビューを受けている自室のスナップ写真(カラー)がすてきである。誰か、友人の部屋を訪ねたような雰囲気。

---「地球の論点」というスチュアートの著書についてですが、彼の主張はどう感じましたか。

 彼は人の考え方をそれまでと異なる新しい方向に導いていく。「ホール・アース・カタログ」を創刊する前も「地球全体を一望した写真を誰も見たことがない。なぜそれを誰も見たことがないんだ」というように、みんなが気付かない不思議な問い掛けをしてくる。p053「ハワード・ラインゴールド」

 そもそも「地球の論点」の原著は2009年に刊行されている。本人だって、周囲の人々だって、もはやそのリアクションはかなり視点がぼけてきているのではないだろうか。2011年に出た邦訳こそ、3・11直後だったから、論争を生んだが、さて、本人たちはどうだったのか。少なくとも、ここでハワード・ラインゴールドは、「論点」を、意識してぼかしている。

 1947年生まれと言えば、団塊の世代の日本のジェネレーションと同じような時代背景だろう。ちょっと軽めのアメリカ人の同世代人だ。

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<ケヴィンン・ケリー>p056~063

 こちらは1952年生まれ。学年としては、私の一学年上。

 ケヴィン・ケリーはそれまでのコミューン臭のするカタログから、無臭のコンピューター時代へ「ホール・アース・カタログ」を脱皮させた編集者だと言えるだろう。p057編集者「ケヴィンン・ケリー」

 関わっていたのは、1984~1990。この時代に、このようなプロセスを経たのは、ある種、当然だったとも云えるし、「大衆」より半歩だけ先んじていた、という意味では、ジャーナリズムの王道であろう。

----スチュアート・ブランドについての印象を教えてください。

 彼は家族を除いて、私が最も大きな影響を受けた一人だ。30年くらい、毎日連絡を取りあっている。そのあいだ、人を卑下したり、良くないところを見たりしたことは一度もない。彼がとりわけ例外的なのは、他の人にはない掴みどころのない才能があるところだ。計算がじょうずとか科学に長けているとか、そういう簡単な話ではない。

 彼はとびきりの説得力のある人物だ。他人の立場になって考えられているせいか、相手が説得する際に、相手にとって、スチュアートが主張していることが、最も有利だと思わせる力があるんだ。p062「ケヴィン・ケリー」

 スチュアート・ブランド、ってどんな奴だろう、と、彼の著書だけを読んでいるだけではわからない。インタビュアーのように、実際会ってみればいいのだろうが、こうして長い付き合いの周囲の人々の印象も大きな情報源となる。

青野(前略) もうカウンターカルチャーはないと考えているのですか。

 カウンターカルチャーは、もはや存在していないと思うね。カウンターカルチャーは勝利したんだよ。どこへ行ってもオーガニックフーズが売れているし、ベトナム戦争も終わった。もはや一般社会と対立するようなものは、なくなったのだ。p063「ケヴィン・ケリー」

 いわゆる60年代的「カウンター・カルチャー」はたしかにもはや存在しない、という意見に、賛成できないではない。むしろ、そこから脱出できない60年代的「ヒッピー」がまだ、いるとしたら、それはたしかにケヴィン・ケリーの意見が正しい。

 しかし、2010年代の若者たちの目に見えてる「ベトナム戦争」的なテーマは、むしそ増大していると言っていい。これらに対峙するカウンター性は、まだまだ必要だ。60年代的「ベトナム戦争」がなくなったからと言って、地球上から戦争がなくなったわけではない。

 当ブログでは、その「対抗性」を明示するために、ネグリ&ハートの「マルチチュード」という概念はまだまだ必要だと思う。オーガニックフーズが何処でも売っている時代になったから、問題がなくなったわけではない。そもそも、世の中、ホントはすべてオーガニックフーズだったんだもの。

 もっと先の子供たちの世代にはカウンターカルチャーも生まれるかもしれない。ピットコインとかオープンソースの世界にはカウンターカルチャーを感じることもある。しかしMakerのシーン(略)には感じられない。バーニング(略)にも、ほんの少しカウンターを感じるけど、彼らはむしろ新しい経済慣行をつくったという感じかな。

 それぞれニッチなところにはカウンターカルチャーが存在しているかもしれないが統一性がない。いつかそれらが集まって、あたらしいカウンターカルチャーになるかも知れないが。p063「ケヴィン・ケリー」

 オープンソースは旧聞に属するが、ビットコインについての言及は意義がある。少なくともここで彼がこう発言していることはとても興味深い。だが、全体的にはいずれ再考が必要である。

 さていよいよ、スチュアート・ブランドだ。インタビューのリクエストになしのつぶてだったのに、ようやく他人経由で届いたOKのメールには「短時間だけ」と限定がついていた。なんといういやな奴、と思ったが、実際につづくインタビュー記事を読むと、相当に長いインタビュー記事だ。突っ込みもまずまずである。

 当然、ここには書ききれないので、別途、書く。

<4>につづく

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2014/05/21

ロイド・カーン「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><2>

<1>からつづく

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「スペクテイター」
<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<2>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

★★★★★

 スペクテイターは今年15年を迎えます。p019「Dear Readers」

 へぇ、そんなに続いている雑誌だったのか。

 気がつけば、今やペーパー・メディアは絶滅危惧種のような扱いをされつつあります。p19同上

 たしかにその傾向はある。少なくとも私は、宅配の日刊新聞を読むのをやめたし、雑誌の類も銀行か床屋の待ち時間に備え付けのものしか読まない。ただし、単行本を読むチャンスは増えた。

 ネット情報は便利だが、固定性がない。多くの人々、とくに時間や空間を超えて、遠大なテーマを語り会いたいな、という時は、印刷物として固定されているものがいいように思う。印刷物を共有するのはなかなか難しいが、ただ、図書館ネットワークが、その活動を助けてくれている。

 私の見るところ、この「スペクテイター」は、雑誌というよりも、ムックの感覚に近く、印刷物として、多くの仲間たちとネットを通じたりして、論じるには、ちょうどいいように思う。

 翻訳されたスチュアート・ブランドの近著「地球の論点」(仙名紀訳・英治出版・2011)に対しての違和感だ。p034赤田祐一「『注目すべき人々』に会いに行く」

 まさにそのとおり。著者は<前篇>でつぎのように締めていた。

 2011年、「地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト」という翻訳書が日本で出た。ブランドの近著である。気候変動、地球温暖化問題に対する現実的な解決方法を数々のマニフェストとして提唱した内容で、一種「文字による『ホール・アース・カタログ』」といったおもむきがある。

 同書でブランドは、原子力推進に関して肯定的に書いており、かつての『ホール・アース・カタログ』のファンたちを仰天させた。p63<前篇>赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 このテーマは、2012/07/17に「地球の論点」に目を通して以来、ずっと気になっている問題である。

 ブランドは「原発はクリーンエネルギーだ」と言い「勧原発」を唱えている。かつて「ホール・アース・カタログ」で反原発の意向に賛成していたブランドは、いつのまにか、原発推進論者になっていた。

 その論旨は、じつにきめ細かく説明された見事なものでであるのだが、それでもおぼくは、なんとも奇妙な感覚におそわれた。p034赤田祐一「『注目すべき人々』に会いに行く」

 まさにそのとおり。面喰ってしまった。

 ブランドが書いていることは、理論的にはすべて「正しい」のかもしれない。しかし何かがちがうのだ。「地球の論点」における近年のブランドの主張は、テクノロジーの誇るべき成果とみなすべきなのか? それとも、もしかしたらカネ儲けのための、悪どく巧妙な戦略と見るべきなのか・・・・? 「ホール・アース」運動の完成が「地球の論点」なのか?p034赤田祐一「『注目すべき人々』に会いに行く」

 まさにそのとおり。この問題意識は、まったく当ブログと同じである。ここから始めなければならない。

 こうした疑問に決着をつけかねて、すこし憂鬱な気分を抱えたまま、ぼくたちはベイエリアにやってきた。

 なんとか現地でスチュアート・ブランドをつかまえて、彼の”真意”をぼくなりに聞きださなくてはならない----そんなささやかな使命を帯びつつ、「サンフランシスコ狂想曲」が始まった。p034赤田祐一 同上

 おお、この使命は、けっしてささやかではない。よくぞやってくれた。で、一体それはどうなったのだろう。あの本は、日本では2011/06に出版されたものだが、原著「Whole Earth Discipline」は2009年にでている本である。2011年の3・11の大災害を挟んで、ブランドの心境にいかほどかの変化というモノは発生していないものであろうか。

 と意気込んだところで、まず登場したのは、WECに深い関係がある建築家ロイド・カーンだった。3・11を挟んで、森の生活を計画していたときに、すでにカーンを参考にしていたが、WEC関連の人だとは、最初気付かないでいた。彼の関連著書は次のとおり。

「シェルター」(2001/10 ワールドフォトプレス) 

「小屋の力」(2001/05 ワールドフォトプレス)日本語の本だが、カーンは紹介文を書いている。

「家を建てたくなる力がわく『ホームワーク』」 ロイド・カーン( 2005/10 ワールドフォトプレス)

 このおっさんの本はなかなかヘビーだ。75歳のスチュアート・ブランドのさらに3歳年上の78歳。ヒエー・・・・。まだまだ、俺はアラ還だ、なんて威張っている場合じゃない。アラ還なんて、まだまだひよっこだなぁ(笑)。

 「2011森の生活」プロジェクトでは、実際にカーンの本を参考に、現地で調達できる資材を考慮して、その完成図をイメージしたが、なかなか、日本において彼の写真にあるようなビルドを実行するのは、至難の業だな、と痛感した。

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  (2011森の生活プロジェクト mt.ZAO)

 スチュアートは最近、本を書いただろ(「地球の論点」)。原子力発電所を肯定するというような内容の本。原発に関しては彼の意見がただしいかもしれないし、間違っているかもしれない。わたしには判断がつかない。ヤツの言うように石油や石炭に比べると(原発は)環境を汚染する割合は少ないのかもしれない。だけどGMO(遺伝子組み換え。Genetixaliy Modified Organismの略)、あれは本当に嫌いだ。だから、この本は本当に好きじゃない。p044「ロイド・カーン」

 ここでは、カーンも、原発についての発言は控えめである。3・11前なら、私も表現としては、これくらいにとどめていたのではないだろうか。GMOについては、私はまだ研究段階だ。

 おれたちは神じゃない。人間は地球を構成するひとつの生命で、天から地球を見下ろしている神なんかじゃない。科学者などの主張のすべてには同意できない人も大勢いる。p044「ロイド・カーン」

 カーンは、ブランドのブレーンと見なされつつ、年齢も3歳年上ということもあり、あるいは長年の友人であるだけに、フランクに、ブランドの主張にも堂々と意見を述べる。

 わたしはまた新しいネットワークをつくっているんだ。それが「シェルターブログ」(ロイド・カーンのウェブサイト)だ。よりグラフィックな手法でね。p046「ロイド・カーン」

 <前篇>の橘川幸夫がいうように、新しいWECは、新しいデジタル・ネイティブ世代が作るべきという意見にも賛成だが、80歳を目前とするロイド・カーンのような生き方も素敵ではないか。思えば、当ブログも、実は、かなりWEC的な部分がある。

 まず、タイトルに「地球」を入れているところ。検索しておよそ3000冊の本のレビューを読むことが出来ること、ネットを活用し、あるいは、1人でも安価に作成して、時にはアフェリエイトが発生したりすること。

 残念ながら、この私のWEC的ブログは、私の、私のよる、私のためのブログである。Googleの窓に、本のタイトルと「Bhavesh」という単語をプラスしてやると、あっという間に私の書いたレビューに行き着く。私にとっては、こんなに便利なカタログはない。一応、本に限ってだが。

 いろんな人がいるし、誰もが既存の価値観を転覆させようというのではなくて、自分の手でやってみることの良さを発見しているいうか。自分の家を建てられるなら高額なローンを払う必要もなくなるし、たとえ都会で暮らしてていても自分のアイディアを活かして手で何かをつくることができる。そのほうが自由度が高いからね。p046「ロイド・カーン」

 私の現在の住まい方は、決して都会というわけでもないが、田舎でもない。普通の住宅街の住まいだが、カーンのように、いろいろ手を入れて、天井ロフト、ガレージオフィス、ガーデンハウス、など、出来る範囲で自分のアイディアを活かしているのは確かだな。

 いいね、このオジサン。このインタビューでは結論はでなかったけど、あまり相手を決めつけるものでもないし、場合によっては、互いの意見が逆転する、って可能性も常に開いておきたい。だが、原発はなぁ・・・・・。現在進行形だよ。

<3>につづく

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><6>

<5>からつづく

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <6>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
★★★★★

 さて、そろそろ<後編>も読みたくなったので、残りの部分は急いで目を通して、メモだけ残しておくことにする。

 「ホール・アース・カタログ」概論 ぱるぼら p064~071

 ここには歴代のWECが掲示されているが、正直言って、あまり関心が湧かない。ひとつひとつを熟読していた読者であれば、想いも深いだろうが、このような形でWECをモノ化してしまうことに、大きな意義を見い出すことは私にはできない。

 1972年に最初にWECを見た時のショックは、雑誌そのものというより、それをDIY的な衝動に代えていくもの、その誘惑力にあったのであり、モノとして雑誌ではなかった。そして、あの中で、確かに一番私の目を引いたのは、フラードームだった。

 「バックミンスター・フラーの影響力」デザイン評論家 柏木博インタビュー p094~105

 フラー・ドームは魅力的であり、たまに車の中から、その建築物を見たりすることがある。住宅街の一角に見つけたりすると、いいなぁ、と思うとともに、それを維持する人びとが実際に満足しているかどうか心配になることがある。

 フラー・ドームに魅力を感じ、実際に具体化しようとすると、かなりなハードルがある。まず、高い。安く確実な住居スペースを作ろうというフラーのもともとの発想だろうが、建築キットなど買うと、普通の住宅を建てるのとほぼ同じ値段と手間がかかる。

 そして、さらに面倒そうなのは法制上の問題である。およそ永住住宅として建築するとすれば、許可も必要だろうし、インフラ整備もままならない。内部空間も本当に使いやすいものであろうか。

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 この画像は2011年に森の生活をしようと、私が住まいの骨組を作ったところである。例のフクシマ縁発の事故により、プロジェクト全体が崩壊したため、これ以上すすめなかったが、なんせ、家を建てるのは楽しい。このくらいお手軽に、本当にお遊び程度にDIYで作るんだったら、フラードームはぜひやってみる価値がある。

 「べジタリアニズムと『ホール・アース・カタログ』」 鶴田静 p106~p117

 私は雑食人間だが、別に肉食に偏っているわけでもなく、また菜食主義というほど偉そうなことは何もしたことがない。まぁ、いくつかの試みを繰り返したことは確かにあるのだが、結果的には、雑食で落ち着いた、というべきか。

 著者の本「ザ・ファーム ベジタリアン・クック・ブック」(1982野草社)は、リアルタイムで購入し読んでいると思うが、読み物として楽しむ以上のことはなかった。私自身は、マクロビオティックを実践して体調が良くなったこともあったし、菜食に近いようなことをして体調を崩したこともある。

 また、体調を崩した友人が、西洋医学を拒否し、食事で体調を整えようとして、治療に励んだケースもいくつか知っている。時に命を落とす仲間もいたりして、必ずしも、ベジタリアン崇拝者ではない。ただ、味そのものを楽しんだり、おいしいベジタリアン料理に会ったりすると、飛び上がるほどうれしい。

 彼女の文章の中には、プラサード書店のきこりとの交流がしるされ、またきこりの文章の一部が引用されている。

 「『ホール・アース・カタログ』と『自分を育てる教育』」 末長蒼生 p118~129

 このわずか10ページほどで著者の魅力が表現されているとは思わないし、さて、このような形で著者が登場するのもどうかとは思うが、私は10代の高校生時代に見た「黒の手帖」以来、一貫してこの方の後塵を拝して来た。その教室を訪問したことや、氏の生地である長崎でのイベントの手伝いや、雑誌への原稿の依頼など、さまざまな関わりを持たせていただいた。

 当ブログでもすでに追っかけ済みである。ただ一点、この方でいまでも気になっているのが、2006年の「クレヨン先生と子どもたち」あたりを見ると、 1999年にはホノルル大学で心理学博士号を取得したとある(裏表紙)。あらま、ご立派と最初は思ったのだが、どうもこの大学については、私は今のところ、まだ眉唾である。検索するといろいろでてくる。

 「ウルトラ・トリップ」長髪世代の証言! (1971大陸書房)が、私がリアルタイムで読んだ、著者の最初の単行本だが、今回の読書ブログとしては、まだ図書館等で発見していなくて、再読の機会がない。いよいよ流峰に連絡して、まだ持っているなら、貸してもらおうかな。

 「『ホール・アース・カタログ』の成果、および全球時代の幕開け」 津村喬 p132~142

 私個人は、この方をカウンターカルチャーやヒッピーという概念で捉えることは、なかなか難しい。それより新左翼とか評論家という概念で捉えたほうがいいように思う。したがって、ここで書かれている内容や方向性は、あまりこちらのハートには繋がってこない。

 著者には、1991年の「スピリット・オブ・プレイス」のパネラーとして参加していただき、一度軽くご挨拶しただけだが、それだけでも、身近な人だと感じている。なにやらきこりとは深い関係のようだ。

 以上、<前篇>をざっと、目を通してみたところ、かなり共感できる部分と、やはりそれぞれだな、と思う部分といろいろあった。一番面白かったのは、「70年代、日本の若者雑誌になにが起こっていたのか?」橘川幸夫、あたりだろうか。

<後篇>につづく

続きを読む "「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><6>"

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ヒッピーたちは、なぜパソコンに魅せられたのか? 「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><5>

<4>からつづく

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <5>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
★★★★★

 文芸評論家と称する中俣暁生「ヒッピーたちは、なぜパソコンに魅せられたのか?」p084~093を読んでいた。さて、ヒッピーとは何か? 「スペクテイター」誌は別なところで定義している。

 1955年10月、ビートニックの詩人アレン・ギンズバーグは、ジャズとマリファナに浸りながら「吠える」という詩を書き、消費を煽りつづけるアメリカ政府を批判した。
 彼らは人間をその生き方を基準にして二つのタイプに分けていた。現実の社会のシステムや価値観にかかわって生きている人たちを「スクェア」、社会のシステムや価値観の外側を生きていくことにした自分たちのことを「ヒップスター」と称し、両者を明確に峻別した。
 この「ヒップスター」がのちに「ヒッピー」と呼ばれるようになった。p053赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 つまり50年代後半から使われた「ヒップスター」が「ヒッピー」と変化したのであり、「スクェア」な価値観に対抗(カウンター)する生き方と考えればいいだろう。象徴的には、1969年8月のウッドストック・フィスティバルに集まった人々のファッションと考えることもできるだろう。

 この記事に書いてあることはともあれ、私個人的には、パソコンに対するイメージは、1980年を境に大きく変わった。それまでは、コンピュータというと、銀行のオンライン化とか、郵便局の郵便番号の実施で、職場が奪われるというような労働者側からの視点に共感することが多かった。

 そのイメージを大きく払拭したのは、私の場合には、1980年に出たアルビン・トフラーの「第三の波」(1980/10 日本放送協会出版局)だった。この本は、当時、農業を学んでいた私は大病を患い、がんセンターに入院することとなり、お見舞いにもらった「趣味の園芸」(NHK出版)の裏表紙に、この本の宣伝が大きく掲載されていたことが、きっかけとなり取り寄せたのだった。

 「農業化」の第一の波、「工業化」の第二の波、そして、これからやってくるであろう第三の波は、「情報化」である、とコンピュータ化した社会を鮮やかに描きだしていた。詳しくは他に譲るが、もっとも私を魅了したのは、未来の宗教は、オーケストラ型からジャズ型に変わるだろう、という部分と、消費者=生産者いわゆるプロシューマー社会の象徴としての、エレクトロニック・コテッジのイメージだった。後の時代でいうところのSOHOである。

 前後してテレビでNHK特集を組んだ。その中の一シーンが、鮮やかに私の脳裏に刷り込まれた。山中のログハウスでロングヘアーがソフトを制作し、それを記憶媒体に入れて、バックパックを背負い、自転車で、湖に停泊していた水上セスナ機まで行く。そして彼はそこから湖面を滑空して、飛び立ち、大都会にソフトを売りに行く、というビデオが放映されたのだった。(この動画いつか見たいと思うのだが、今のところ誰もアップしていない)

 この時から私の中にはパソコンの影が住みつくようになった。ちょうど、その頃、病院の隣にある工業専門学校の文化祭があり、当時めずらしいパソコンが提示されていた。1979年に発売になったばかりのNEC-PC8000である。具体的には、どう使い道があるのか分からなかったが、デモで掲示されていた、ルービック・キューブが、自動的に並んでいくソフトが目に飛び込んできた。

 前後するが1978年の暮れに帰国したとき、喫茶店など中心としてインベーダー・ゲームというものが大ヒットしていたが、私は、あの手の反射神経を競うようなコンピュータには魅力は感じなかった。

 さっそく、ラップトップならぬポケットコンピュータを手にいれたのも、病院のベットの上だった。ポケコンでのルービック・キューブは無理だったが、私はお見舞いにもらったルービック・キューブそのものに夢中になり、見事、ツクダオリジナル認定のキュービストの称号を得ることが出来たのだった(笑)。1980/12のことである。

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 この後、携帯コンピュータ資格なども取得したが、さしたる実績も効果も私は持っていない。ただし、瞑想会に参加する人びとの中には、1980年代前半から、コンピュータ関連の仕事を持つ人もちらほら参加するようになり、私も仕事場で、NEC-PC6000や、互換のエプソンPCにドットプリンターを繋いだりして使っていたが、値段に比するほどの業績が上がっていたか、というと疑問である。

 一方、スティーブ・ジョブズは1974年にアタリに職を見つけ、旅費を稼いでインドを旅するが、1975年にはアタリに復職している。アップルコンピュータでプログラミング電卓を発売したのが1976年。1977年6月にアップルⅡを発売、爆発的人気を呼んだ。試行錯誤を経て、1984年にはマッキントッシュを発売、以降、1985年5月にアップルを追放されるまで、ジョブズはアップルの中に君臨した。

 この頃、明示的に私がアップルを意識したのは二回ほど。一回は、隣県の友人が、このマッキントッシュをまるでアイコンのように自室に飾っていたのを見たことがある。それは、パソコンで何かをるする、というより、そのマッキントッシュを「所有」するという、そのこと自体がブランドであったのである。

 次には、1988年頃、伊豆のOSHOアートユニティを尋ねた時のこと、メンバーの一人金ちゃんが、自室にやはり、「仕事用」としてアップルを持っていたことが印象に残っている。デザイナーだけに、「筋がいいでしょ」とアップル礼賛を繰り返した。

 しかし、1976年頃から印刷会社で写植機をいじっていた関係上、私は、一番コンピュータに期待しているものは、ワープロ機能であったため、80年代後半は、いろいろ国内互換PCをいじっていたものの、機能としてはプリンターと一体化した専用ワープロのほうが一段上で、使いやすかった。

 90年代になっても、国内のパソコン状況は大きくは変わらなかった。情報化の波が叫ばれたが、まだまだコンピュータは専門家のモノだった。1991年の国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」では、パソコン使いの一団が大きくウェイトを占め、大きなテーマを提示したが、やはりまだマニアックな世界であることには変わりなかった。(余談だが、このシンポジウムのポスターは、今回のこの「スペクテイター」の表紙と見まがうようなデザインであった)

 しかし1994年頃になるとインターネットが大きく議論される時代になり、1995年末にウィンドウズ95日本語版が発売され、いよいよ日本もインターネット幕開けとなる。最初、私は互換機とワープロ専用機で、いわゆるワープロ通信を楽しんでいたが、結局96年になって、ウィンドウズ機を使うようになった。

 この時期の記憶しておくべきことは、「OSHO TIMES」 1996/05で「サイバースペースのOSHO」が語られたことだろう。この号で、サニヤシン同志のネットワークの募集が行われている。この号については、後日、詳述する。

 さて、ここまで書いていて、私自身は、ヒッピーであったのか、カウンターカルチャーであったのか、ということが気になるのであるが、いずれにせよ、そう思っていたとしても、1970年代後半までであり、OSHOサニヤシンとなった1977年以降は、自らを、敢えてヒッピーであるとか、カウンターカルチャーであるとか、思わなくなったようだ。

 ニューサイエンスとかニューアカデミズム、あるいはニューエイジなどと、さまざまな形容詞が浮遊したが、あれ以降、今日に至るまで一貫している私自身の自覚は、「OSHOサニヤシン」である。カウンターカルチャー、ジアザーカルチャー、ユースカルチャー、などさまざまな言い方がされるが、少なくとも私が1980年代以降葛藤していたのは、「Meditation in the Marketplace」であっただろう。

 確かに70年以降、ドロップアウトを標榜してしていたが、80年以降は、むしろドロップインを試み続けていたと思う。必ずしも、「ヒッピーたちは、なぜパソコンに魅せられたのか?」というタイトルにはそぐわない私の人生だが、思いついたので以上メモしておく。

 ついでだが、日本版WECとして名高い「別冊宝島」だが、第一号以来、気にはなったが、本当に私の中でヒットしたのは、1996年以降の、パソコン関連特集のシリーズであった。毎号買い求めて、赤と青と黄色のマーカーを盛んに引いて、なんとかパソコン文化の進化について行こうとしていたのだった。

<6>につづく 

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2014/05/20

「来たるべき地球人スピリット」<27>コンシャス・マルチチュード

<26>から続く

「来たるべき地球人スピリット」--読書ブログから見たポスト3・11--

<27>コンシャス・マルチチュード

 新緑が素晴らしい季節である。図書館までいく道筋を、いつもは車でいったりするのだが、最近は自転車に変え、しかも道筋をできるだけ緑の多いコースに変えた。庭々の木々、河原の土手、畑の作物。樹木が大きく成長して緑のトンネルを作っているところもある。

 この「新」緑が、「真」緑になり、「深」緑になっていくのだ。一年の中で、一番外出が楽しい季節でもある。のんびりとペダルを踏みながら、私の頭の中では、何事かの活性化が起きた。

 パーソナル・コンピュータは、コンテナであろう。パーソナルである。

 ソーシャル・ネットワークは、コンテンツである。ソーシャルである。

 であるなら、次なるものはなにか。非パーソナルであり、非ソーシャルであるもの。非コンテナであり、非コンテンツであるもの。それはやはり、コンシャスであろう。

 パーソナル→ソーシャル→コンシャス、でいいのではないか。

 では、コンピュータ→ネットワーク→ の次はなんだろう。物でもなく、事でもなく、それは「在る」ことであろう。

 在る、とは、人間として生きている、ということである。当ブログの中で、ずっと気になり続けている概念、マルチチュード。それは多様性を意味する。マルチタレント、マルチメディア、マルチバーシティ、と親和性がある。

 マルチチュードは、ネグリ&ハートの用語だが、そのルーツであるスピノザや他の哲学者たちもそれぞれの意味合いで使っているが、そこにこだわることもあるまい。再定義しなおすことも可能であろう。

 ということで、コンシャス・マルチチュード、という単語ができた。

 人間が、政治家や宗教家のドグマから離れて、パーソナルを獲得することは大きな成果だった。それは、人間としての尊厳だった。個人がソーシャルを獲得することも大きな確認だった。愛であり、受容であり、相互交流である。そして、パーソナル、ソーシャルの次は、コンシャスだ。

 スティーブ・ジョブズは、PCを作ることによって、巨大コンピュータに対峙した。それをタブレットの時代にバトンタッチし、Facebookがソーシャルを繋ぎ続けている。もし、ジョブズが、56歳と7ヵ月以上の生命を持っていたとしたら、今、何をやっているだろう。

 iRobotを作っているだろうか。ビル・ゲイツのように新しい原発をつくり始めるだろうか。たぶん、違うと思う。彼なら、新しいZENに取り組み始めるはずだ。テーマはコンシャスだ。

 そして、今、市民でもなく、国民でもなく、人間を表現する言葉としてマルチチュードを使おう。マルチチュードだけでは、群衆、と訳されてしまう。そうではなく、それは一人の人間を表す。一人の中にマルチなディメンションがある。そして、繋がりを持ち得る。そして、全体的な一つをつくり出すことができる。それは意識だ。

 パーソナル・コンピュータ、ソーシャル・ネットワーク、の次は、コンシャス・マルチチュードだ。

「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版<8>につづく

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><4>

<3>からつづく 

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <4>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
★★★★★

この雑誌を読むスピードはどんどんゆっくりになっている。時には休み休み、一呼吸も二呼吸もおいて、ゆっくり、大事に読み進めたいと思う。その点、併読していた池田純一の三冊シリーズとは、まったく別な感覚だ。

 池田のほうは、年代が1965年生まれと、世代が一回り下である上に、視点が2010年代の現在から過去を見るという解説的な点にあり、なお、大きなテーマがアメリカを舞台に展開している。それに比すると、「スペクテイター」の編集者・青野利光も、おそらくはリアルタイムで、70年代のカウンターカルチャーを知らないだろうが、その歩み寄りは、かなりかゆい所に手がとどくような気使いが多い。

 今朝は橘川幸夫「70年代、日本の若者雑誌になにが起こっていたのか?」(p072~083)を読んでいた。わずか10ページの文章なのに、ふーと、ため息をついたり、天井を見上げたりしながら、あるいは朝飯を食って、お茶を飲みながら、読み進めていた。

 橘川幸夫という人、どこかで名前を見ているはずなのだが、当ブログの読書記録では簡単にはでてこない。著書リストを見てみるのだが、確かに20冊近くある著書のタイトルには記憶がない。ただ、雑誌「ロッキング・オン」を除いては。この人、名前だけみていると、細身で神経質そうなイメージだったが、巻末の小さなプロフィールを見てみると、丸まっこいお顔で、賑やかな感じの人のようである。

 この方は1950年生まれだから、私より3学年上で、しかもその青春を東京で過ごしているわけだから、一貫して地方にいた私などとは、時間も空間もずれていることは確かなのだが、1975年前後のことについては、実に、ほとんどリアルタイムでクロスしていることを感じる。

 大型の写植機を買い込み、東中野の駅前のマンションの一室を借りて、「たちばな写植」を開業する。23歳の時である。
 大学はそのまま行かなくなる。そして、その事務所に、事務所代を払えない「ロッキング・オン」も同居することになった。
p074「『ロッキング・オン』創刊」

 1950+23で、1973~4年頃のことだろう。私は音楽ファンでもロックマニアでもなかったのでこの雑誌を深く読んだわけではないが、地方都市の書店に並んでいた時に、何度も手にとって頁をめくった記憶がある。

 別冊宝島の創刊号は、1976年の「全都市カタログ」である。この本こそが、日本のある種のカルチャーに大きな影響を与えた「ホール・アース・カタログ」の日本での最初の紹介本であり、コンセプト・ブックであっただろう。p075「『全都市カタログ』と『名前のない新聞』」

 「全都市カタログ」については別途書いておいた。ここでもこの書名がでたので、そうだよね、と共感度が深まる。あの本に私たちのミニコミ雑誌も収蔵されたことを、今でも誇りに思う。

 当時のメディアで、もっとも「ホール・アース・カタログ」の実体に近い感覚で発行していたのは「名前のない新聞」だろう。それはあぱっちという人が編集していて、日本の古くからの生活の知恵から、インディアンなどの暮らしや考え方、反原発などの記事が小さな新聞形式の紙面に、ぎっしり埋まっていた。p076同上

 あぱっちについては、当ブログでも何回も取り上げているが、「名前のない新聞」を個別にピックアップしたことはない。実に膨大な実体で、取り上げるのは難しい。いずれあぱっちに総まとめとして一冊ものして欲しいと思っているところだが、量的にも本家WECをはるかに凌駕している「しんぶん」をまとめることは難しいだろう。おそらく創刊号から現在号までの「縮刷版」をつくることがベストアンサーなのかも知れない。

 あぱっちは、早稲田の学生だった山崎浩一と同居しており、「名前のない新聞」のイラストなどは山崎くんのものもあった。p076同上

 これはおそらく77~8年前後のことであろう。その後ライターに転じたと思われる山崎という人は、1995年、麻原集団事件かまびすしい時代に、「週刊ポスト」の署名記事でまぎらわしい形でOshoを取り上げている。当時、私は編集部に抗議文を送ったが、いつか一矢報いたいと思っていた。彼は77年に当時のGFのロマンポルノ女優と共にプーナを訪れている。

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  「週刊ポスト」1995/04/28号p76~77

 週刊誌とは言え、事件後の直後のこと。あまりのタイミングに、売文稼業のていたらく、ここに極まった、と私は感じた。2014年の現在時点で、この文を書いたご本人が自らに誇りを持てるなら、反論を待っている。私と同じ年の生まれだから、この方ももうアラ還なんだね。早いもんだ。

 さて、こちらの「スペクテイター」p078には、シルクスクリーン印刷のやり方が、イラスト入りで懇切丁寧に説明してある。英文だが。「WEC」1975年での紹介ページだという。ああ、なんとも懐かしい。当時、私の手元には日本語のシルクスクリーンの本は一冊しかなく、それを教則本として、独学で印刷していたのだった。涙。

 「ホール・アース・カタログ」は、インターネット上で復刻されたが、本来の趣旨から言えば、復刻ではなく、インターネット上で、全く新しく再構築されるべきものであろう。それらは、60年代も70年代も80年代も知らない、若い世代が担うべきだと思う。橘川幸夫p83「インターネット時代、『WEC』とは?」

 激しく同意する。ボールド体で強調しておこう。

 「ホール・アース・カタログ」は(バックンスター)フラーという父と、(ディヴィット)ソローという母の結合により、生まれた概念であり、ムーブメントであろう。

 自然を生きる技術と、自然を愛する力の両方がなければ、本当の生活にはならないということを、僕は「ホール・アース・カタログ」のムーブメントの中から学んだ。インターネットが普及した、この時代こそ、もういちど、学んだことを振り返る時かもしれない。p083同上

 この方の文章はここが結句である。これでいいのだと思う。

<5>につづく

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2014/05/19

「サイバースペースのOSHO」 OSHO TIMES 1996/05

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「サイバースペースのOSHO」
OSHOTIMES INTERNATIONAL 日本版81号 和尚イア・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 1996/05 ニューズレター(雑誌) p64
Total No.3243★★★★★

 さて、新たなるカテゴリ「来たるべき地球人スピリット2」が始まるに当たって、三点、確認しておきたいことがある。最近、SNSつながりで、1975年の見直しが続いているが、その1975年のカウンターカルチャーの流れの中で、理解されていることと、今後理解を求める必要があることとがあるように思っている。

1)1975年の「存在の詩」をきっかけとして、私はOSHOのサニヤシンとなった。このところは、理解してもらわなければならない。先入観で、ひとつのパターンとしてではなく、私がOSHOを理解したプロセスを分かっていただければ、なお有難い。

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2)カウンターカルチャーのひとつとしてOSHOは取り上げられることが多いが、その要素の一つであるドラックカルチャーについて、OSHOはLSD : A Shortcut to False Samadhi」1970において、明確に否定しているので、ここはできるだけ明確にしなければならない。

3)カウンターカルチャーの中の一部には、インターネットやITについては、積極的に取り組まない傾向があったが、OSHOやそのムーブメントは、積極的にその流れの中にあった、ということを確認しておくことも必要である。そのためには、この和尚タイムス1996年5月号は象徴的な一冊である。

 以上、この三点については、このカテゴリにおいては重要なキーワードとなる。

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地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<50>「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリについて

<49>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<50>「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリについて

 書かれたのは2014/04/08から2014/05/19までの40日余りの日々。割とあっという間にここまで来てしまった。柳生かやの木資料作りや、他のSNS、特にFacebookとの繋がりがさらに色濃くなって、かなりの書込みが進んだ。それはそれで悦ばしいことであった。

 テーマとしての「来たるべき地球人スピリット」は、結局、この108の書込みでは終息しなかった。終息しなかったというより、これは終息しないのだろう、ということに気付いた、というべきだろう。

 このカテゴリで池田純一の三部作「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(2011/03 講談社)「デザインするテクノロジー」(2012/10 青土社)「ウェブ文明論」(2013/05 新潮社)と出会ったことは興味深い体験だった。文面ではひどく否定的に書いてしまっているが、これは、ひとつの気付きをもらたしてくれた、という意味では、偉大な本たちであった。

 コンテナ、コンテンツに比較するところの、コンシャスネスとは何か、と問う旅にでているわけだが、明快な定義ができているわけではない。むしろ、コンテナではないもの、コンテンツではないもの、それがコンシャスネスである、という逆説的な定義が成立するのではないか、とようやく気付いてところである。

 非コンテナ、非コンテンツ、それがコンシャスネスである、というのが、このカテゴリを終了しての結論である。コンテナ論で表せるものはコンテナ論で済まし、コンテンツ論で表すことができることはコンテンツ論で済ます。しかし、そこで表現できないもの。そこで済ますことができないものが、コンシャスネス論である、ということになる。

 つまり、結局は、多弁をいくら繰り返しても、コンシャスネスには届かないだろう。表現が繰り返されれば繰り返されるほど、コンシャスネスは遠のくのである。逆に、気付いて見れば、コンテナも、コンテンツも、すべて、つねにコンシャスネスに取り込まれていた、という事実がある。

 そこんところに気付かせてくれた池田純一三部作には、逆説的な表現ながら、感謝したい。今のところ、コンテナ、コンテンツに関わるテーマでは最強の布陣を引いたシリーズであった。

 「再読したいこのカテゴリこの3冊」は、

「WIRED×STEVE JOBS」 
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌  kindle版 

「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 

「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 

「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック 2014/01  晋遊舎  

の三冊(プラス一冊)だった。

 次のカテゴリは、「来たるべき地球人スピリット2」となる。テーマは、「1」の継続であるが、結局は、当ブログとしては、究極のテーマに辿り着いているようであるし、また、永遠とこのテーマを繰り返し続けることもできるし、また、サドンデスで随時終了も可能であることが分かった。

 マイペースで気楽に行こう。もう、急ぎの旅ではない。旅は終わって、すでに帰路についている。あるいは、すでに帰宅した。そして、結局、最初から、旅などにでてはいなかったことを確認することとなる。

<51>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「来たるべき地球人スピリット1」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊

「来たるべき地球人スピリット1」編

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「WIRED×STEVE JOBS」
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌 p178 kindle版 

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <1>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ 
「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

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「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック
2014/01  晋遊舎 ムック  97ページ

後につづく 

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「ウェブ文明論」 池田 純一

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「ウェブ文明論」
池田 純一 (著) 2013/05 新潮社 単行本 333ページ [Kindle版]
Total No.3242★★★★☆

 残念ながら、この本読めなかった。それなりに努力はしたのだが、ダメだった。面白そうなのだが、読めない。なぜなのか、考えてみる。

「新潮」の連載を続けた三年の間に、連載をきっかけとして、「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(講談社)と「デザインするテクノロジー」(青土社)の二冊を上梓することができた。内容としては、前者は本書の第1部と第2部、後者は第3部と第4部と関わるところが多い。p331「あとがき」

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 この三冊は、著者の近著として、ひとまとまりのものとしてとらえて、できれば精読してもいいかな、と思っていたのだが、現在は、もう再読の気力がない。

 「ウェブ進化論」をアメリカ賛美や技術決定論として退けるのは早計だ。むしろ「進化論」がウェブが実際に社会に定着した2010年代だからこそ、丁重に再読されるべきであろう。p31「コードが支える大陸の夢」

 たしかに梅田望夫の「ウェブ進化論」(2006/02 筑摩書房)の精読から当ブログは始まったのだった。ブログ・サービスの活用というエリアのなかでの「ウェブ進化論」は確かに有益だった。面白いけど、なんだか不足しているぞ、何が不足しているのだろう。そこのところから、当ブログはスタートした。

 そして、言ってみるところのコンテナ、コンテンツの次に来るもの、コンシャスネスについてはどうなっているのだ、というところが、当ブログの探究の最大のテーマになってきた。あの本ではやはり不足していると思っているところに、梅田と平野啓一郎との対談による「ウェブ人間論」(2006/12新潮社)がでたのであった。

 結論としては、二冊目も食いたらないものではあったが、そもそもやはり「ウェブ進化論」ではなにかが不足しているという直感から、直後に取り急ぎ対談という形で「人間論」が追加補足されたのだった。やはり、濃厚な「人間論」が必要なのである。

 この池田純一の三部作に対しても、当ブログとしては、一貫して「人間論」を求めたい。アメリカ、ソーシャル、ウェブという三本柱、あるいはテクノロジーとデザイン、という切り口。それぞれが鮮やかであるがゆえに、結果的に、何がこのシリーズに不足しているのかも、鮮やかに浮き上がってきてしまう。

 2011年10月5日、スティーブ・ジョブズが他界した。享年56歳。
 余りに早すぎる彼の死去はやはり重い。実際ジョブズ逝去の報道が流れたその日のうちに、IT業界はもとより、オバマ大統領を始めとし、各界要人から様々な追悼が表明された。
p133「技術と人文の架橋」 

 この本は、著者がアメリカに渡ることによって書かれる文章が、日本で発行される雑誌に連載されて、それの再編集本となっている。そもそもの文章が書かれた日も明示してある。それは、3・11を挟んだ数年の日々なのであるが、この本には、おそらく3・11に関するj記述が一切ない。ここが私が一番、著者に距離を感じる重要ポイントである。

「新潮」の連載を続けた三年の間に、連載をきっかけとして、「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(講談社)と「デザインするテクノロジー」(青土社)の二冊を上梓することができた。p331「あとがき」

 この三年間の間に、著者はアメリカを追い、ITを追い、歴史を追っかけた。9・11やジョブズの死や、過去の「ウェブ進化論」などを引用しながら、現在進行形の、3・11や原発処理問題には一切触れていない。ここが、当ブログとしては、この著者の「人間性」に疑問を持つ重要なポイントである。

 いくら内容的に面白そうであっても、見かけだけであり、ハートがこもってなければ、伝わらない。情報は情報として浸透するだろうが、その情報に込められるべき、本当の、人間としての、真実、というものが、この本では、決定的に、不足している。

 当ブログとしては、ITやタブレットなどの技術論や、ソーシャルや文明論などのコンテンツ解説まではなんとか受け入れることはできる。しかし、人間不在、ハート不在、魂不在の本は、受け入れることはできない。「ハート」について、悪く書いてあるわけじゃない。しかし、そこに言及しないのは、本の書き手としての「不作為」である。断じて見逃すわけにはいかない。

 アメリカやIT、ソーシャルに目を向けるなら、なぜに、今現在試行中の、3・11の惨状や、一方の科学技術の破綻=原発事故に言及しないのか。そして、アメリカの9・11を追いかける程のエネルギーでもって、日本のリアルな今を見ないのか。そこがどうも許せなくなるのである。

 「来たるべき地球人スピリット1」カテゴリは、この本を持って終了する。本来は、ここで終わる筈だったのだが、どうも不完全燃焼してしまったようだ。今回のテーマを持ち越し、次のカテゴリ名を「来たるべき地球人スピリット2」として続行することにする。

 おそらく、この著者の三冊は再読しないだろう。再読しないが、再読しないことにした意味を、次のカテゴリでは問うてみたい。著者には、「ウェブ人間論」に位置する一冊がどうしても必要になるだろう。また、当ブログは、そこのところがないと、自らの存在意義を失ってしまう。

 大地があり、巨木がある。大地は何処までも広く、巨木は限りなく太く、高くそびえたっている。しかし、大地の向こうに広がる地平線の彼方、高くそびえたっている巨木の、その遥か上に空はある。大地が博ければ広いほど、巨木が高ければ高いほど、それを包含する空間は、もっとはるかに広い。手が届かず、その果てさえ見定めることができない。

 本著シリーズの三冊は、大地の広さ、巨木の大きさに目をやりながら、空の無限に気付いていない。その無限に比較すれば、大地も巨木も、実に、小さく、無に等しくなる、という逆説に気付いていないか、気付かないふりをして、ごまかそうとしている。

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「仙台市中田第一土地区画整理事業完成写真図」1980/03

「仙台市中田第一土地区画整理事業完成写真図」
仙台市中田第一土地区画整理組合 昭和55年1980/03/29撮影 縮尺 約1/7500 西中田コミュニティセンター提供 45cm×50cm カラー刷りポスター 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集

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「囊塵埃捨録」 「仙台叢書第七巻」所蔵 仙台叢書刊行会

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「囊塵埃捨録(のうじんあいしゃろく)  「仙台叢書第七巻」所蔵
仙台叢書刊行会  1924  ハードカバー 図版6枚 449p 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3241★★★★☆

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                 p345

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参照 「仙台市史」特別編9 地域誌 2014/03 仙台市史編さん委員会/編集  p595
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    p500

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「カーニバル」から40年「仙台青葉まつり」 2014

「仙台青葉まつり」 
2014/05/18 仙台都心各地 仙台青葉まつり協賛会

40年前に仙台市内であった「カーニバル」なんてイベントを知っている人も、覚えている人も、もはや殆どいないだろう。1974年、雀の森の住人達が中心になって、全国から仲間たちを呼び、広瀬川河畔の牛越橋付近に大勢キャンプインし、夏の仙台七夕期間中に、こぞって見物客でごったがえする市中にでて、さまざまなイベントを行なった。

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 これは今回、盛岡の旧友パクシーが偶然SNSでアップしてくれた当時のポスターである。当時、私は情宣の係をやることが多く、謄写版の延長でよくシルクスクリーンでポスターを作ったものだ。当時はポスターなどはほとんど使い捨てで、保存しておくなんて発想はなかった。だから、他のイベントなどで作ったポスターなども、まったく残っていない。当時私が作成したシルクのポスターで、今確認できているのは、彼が保存してくれている、このポスター一種類、一枚だけである。有難い。感謝。

 あのイベント、どういう経緯で行われたか、ということを正確に知っている人も、記録もないだろう。当時の現場にいた人間の1人として、記憶をたどっておく。そもそもの発想は、私たち雀の森の住人の一人である当時22歳の若者・冬崎流峰が、仙台七夕は、ただ飾ってあるだけで面白くない。祭りとして、なんとか楽しいものにしようではないか、と言いだしたことにある。

 その意見を出したのは、七夕の殆ど半年前くらいのこと。春には仙台市の市庁舎まで出かけていって、意見を出したり、担当に面会を求めたりした。しかし、当時は、まだまだ文化状況を理解するような役所ではなかった。仙台市民文化事業団などできる前の前の話である。けんもほろろの対応だったのだ。

 いよいよ業を煮やした流峰を初めとする私たちは、全国の若者や仲間に呼びかけ、自分たちの思いを実行に移したのだった。大阪からは街頭演劇の一団がやってきて突然七夕飾りの下で踊り出し、福島の農場グループもぐらの仲間たちは、泥つき野菜を並べて見物客に販売した。もちろん、許可などを申請した記憶はない。

 ミュージッシャンたちも多く集まり、街頭パフォーマンス、そして夜な夜な河原のテントではコンサートが続いた。夜になるとパトカーもおっとり刀で巡視には来たが、付近からの苦情のガス抜き程度の注意だけで、トラブルはなかった。

 あの時のイベントのエネルギーは、実は翌年の1975年星の遊行群ミルキーウエイキャラバンへと繋がっていくのだが、当時参加した仲間たちにとっては、伝説の大イベントであったわけである。3・11の直前亡くなった仲間の一人であるミー坊は当時高校生で、あのイベントに参加したおかげで人生が変わったと、その晩年のブログ「晴天の霹靂」で告白していた。

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 さて、あれからちょうど40年が経過した。日本の経済も文化も、人も祭りも変化した。今年も、仙台青葉まつりが開催された。今年は30周年記念ということだから、カーニバルの10年後にスタートしたお祭りということになる。

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 山鉾山車も10数台繰り出し、実ににぎやかなものである。毎年ちょうど他のイベントがぶつかって参加したことなど殆どないのだが、今年は愚息が山鉾の一つを引くとかで、親ばか丸出して、ちょこちょこデジカメで撮影してきたというわけである。

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 普段、何気なく見ている日常風景だが、こうして非日常である祭りが街を乗っ取るというのはいい。普段はジャズフェスティバルも、動く七夕も、どこ吹く風と、私はあまり参加したことないのだが、あんまり引っこんでばかりいるのも、もったいないな、と痛感した次第。

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 伊達正宗ゆかりのお祭りということで、鎧かぶと甲冑姿の一団も飛び出すが、これもまた歴史的遺物としては見事なものである。将来は、核弾頭もイージス艦も、昔の遺物として、祭りの出し物程度にだけ顔を出す時代が早く来ればいいな、と思う。

 それにしても、仙台は杜の都であり、その踊りは、伊達藩ゆかりの雀おどりと言われている。1974年当時、そんな文化のことはあまり意識していなかったが、当時の私たちが、自分たちのグループを「雀の森の住人達」と名乗っていたのは、仙台にあっては、なにか運命づけられた必然であったのか、などと思う。昼から生ビールをひっかけながら、人ごみにまみれて祭りに参加しながら、そんなことをちらっと思った。

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2014/05/18

「デザインするテクノロジー」 情報加速社会が挑発する創造性 池田純一

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「デザインするテクノロジー 」情報加速社会が挑発する創造性
池田純一 (著) 2012/10 青土社 単行本: 426ページ
Total No.3240★★★☆☆

 この本、面白くないわけではないようなのだが、どうも結果的には私向きではないようだ。著者の本は、「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」<全球時代>の構想力(2011/03 講談社)を読んだ時から、お、これは、と追っかけ続けているのだが、どうもイカン。

 そもそもが、この人の本は重層的過ぎる。ありていに言えば、横に走り過ぎて、結果的には良くまとまっていない。これは著者自身が意識してそのような書き方をしているということなのだが、どうも私なんぞは未消化で、不良消化を連続して起こす。

 この人には他に「ウェブ文化論」(2013/05新潮社)があり、だいぶ前に目を通したのだが、孫の子守をしながら読むような本ではなく、結果的には、当ブログとしては、目を通したもののメモもしないでページを閉じてしまった一冊だった。

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 実は「ウェブ×・・」も新書本と言いながら、厚さで普通の2冊分、内容では4冊分くらい詰まっており、もうすこし分冊にして、わかりやすく各論的に書いて欲しいと願ったものだが、著者の意図はむしろ逆で、重層的に、輻輳して、統合して、俯瞰しようという試みのようである。しかし、その意図はうまく成功しているであろうか。

 当ブログでいえば、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの三つの概念で物事や世界を捉えようとしているのであるが、この本のタイトルでいえば、テクノロジーがコンテナに対応し、デザインがコンテンツに対応しているだろう。

 となると、当ブログとしては、じゃぁ、コンシャスネスはどこにあるか、と捜すことになるのだが、どうもそれが、この著者の一連の仕事の中に見つけることは難しい。この文脈だと、テクノロジーがそのものが主体となってデザインを始めているような、逆転劇さえ起きている。主体はどこにあるのか。

 私がこの本を書きなおすとしたら、この二つのテーマの他に、人間や意識、命、存在、などという単語を加えたいと思ってしまうのである。敢えていうなら、そこに「ハート」の一言を加えたい。ハートは人間存在の中心にあるものであり、体を維持し、生活を維持し、精神を維持する中核だと思える。

 だから、せめて「ハートがデザインするテクノロジー」とか「ハート×デザイン×テクノロジー」などという枠組みで書きなおして欲しいと思うのだ。つまり、この本においては、いわゆるここでいうところの「ハート」がすっぽり抜け落ちている。

 テクノロジーが変えるのはあくまでも社会の表層であって、その背後にある人間的なものは変わらない。そう考えていた。最先端の科学技術を扱う彼(クライトン)のテクノスリラーは、見た目に反して、科学技術の安易な礼賛をたしなめるものだった。p389「終幕」

 著者自身もまた、そこんとこを感じているはずなのだが、たしなめられて、それじゃぁハートにもどろう、ハートを重視しよう、という論調になっていないのは、ちょっと困る。

 今回まで、著者の本はしち面倒だ。いずれしっかり再読してやろうと思っていたけど、精読しても、いわゆるハートに届かないのであれば、この本は、結局、当ブログにとっては徒労に終わりそうだな、といよいよ気付きつつあるところである。

 つづく・・・・・・・かも

 

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2014/05/17

「特攻へのレクイエム」 陸上自衛隊音楽隊 

 近くのホールで、自衛隊音楽隊のコンサートがあるとのことでチケットを貰うことになった。集団的自衛権についての論議がかまびすしいこのタイミングで自衛隊か、と思ったが、これも何かのきっかけと思って聴いてきた。

 会場は、老若男女と言いたいところだが、自衛隊員家族会の雰囲気で、地域の年配の方々が(って、私もそのお仲間ですが)、なんと一時間半以上も前から列を作って開場を待ち、やがて2000席ほどの席も満席になった。

 さてさて何が始まるのやらと身構えたものの、二時間の演奏時間はあっと言う間に終り、正直言って、私は、ずっとまなじりが濡れっぱなしだった。

 特に注意はなかったが、コンサートというものは写真撮影も録画も録音もできないものと思い、何もしないで聴いてきたのだが、帰宅して、ネットには沢山の動画があることが分かった。

 驚いたことに、開演して数曲目に「特攻へのレクイエム」という曲が演奏されたのだった。これは、すでにアラ還である私のさらにその上の、会場へ詰めかけた、私の親の世代への「サービス」だったのかもしれないが、実にびっくりした。上のビデオは私が聴いてきた演奏の録画ではないが、まぁ、雰囲気はほとんど似たようなものである。

 ステージの上にいる隊員の方々は、おそらく、指揮者や、司会役の若い隊員、女性隊員を含め、全員、私よりお若いであろう。いやいや、我が家の愚息たちよりさらにお若い方々だっていらっしゃるに違いない。それなのに、おいおい、「貴様とオレとは~~~ 同期の桜~~~」なのか????

 この方々、リアルタイムでは、特攻も、同期の桜も、ご存じないだろう。だってアラ還の私だって、リアルタイムでは何も知らない。子供時代には、ソノシートをプレイヤーで回して聴いたこともあるし、遊び歌で歌っていたかもしれない。しかし、それにしても、その歌は、その当時でさえアナクロだった。

 高校時代に陸上自衛隊駐屯地のフェンスの外側を、デモ隊で戦争反対の行進をしたことがある。それから更に時間は経過して、今から20年前は、何故か、外部から派遣された駐屯地内への心理カウンセラーとして、5年ほど、カウンセラー室の運営に関わったことがある。当時、自殺する隊員が多かったせいだ。

 「特攻へのレクイエム」の中で、隊員がマイクを使って、特攻隊員が残したと思われる短い詩を読む。全文は覚えていないが、何度か繰り返されたフレーズがあった。それは、「キミのために死なん」というようなセリフであった。何度か聴いているうちにそれは、キミと呼びかけているのは、家族や恋人ではないことはすぐ分かった。それは、君=天皇=国家を意味していることに気付かざるをえなかった。

 この曲の他にも、何曲も演奏されて、軽妙な司会役の進行に、何度も笑いに包まれた会場だったが、私は、あの数曲目に流れた「特攻へのレクイエム」を聞いてから、ずっと泣きっぱなしだった。少なくとも、このステージで演奏している若い隊員の方々が、決して、このような軍歌をリアルタイムで歌い、辞世の句を残すような時代にしてはいけない。

 帰宅して、Youtubeを見ると、沢山の楽しい自衛隊の演奏が数々あることが分かった。日本の自衛隊は、戦争もしないで、歌ばっかり歌っていてほしい。みんなを笑いの渦にしてほしい。そして災害の時や、震災の時は、また、私たちを助けて欲しい。

 当ブログにおいては、自衛隊が登場するのは異例だが、ここは私のブログである。まずは、今日感じたことをそのまま書いておこう。

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2014/05/16

「東北は国のまほろば」 日高見国の面影 中津攸子

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「東北は国のまほろば」 日高見国の面影
中津 攸子 (著) 2013/07 時事通信出版局 単行本 230ページ
Total No.3237★★☆☆☆

 人気本である。この本をリクエストしたのが、ことしのお正月。著者の前著「みちのく燦々」―消されていた東北の歴史(2005/11新人物往来社)を読んで、まあまあ面白かったので、こちらも心待ちにしていたのだが、こんなに時間がかかるとは。

 ほんの数人のウェイティングだったので、すぐ来るだろうと思っていたが、ざっと計算してみると、ひとり一ケ月くらいの保持期間になっている。なぜにそんなに時間がかかったのだろう。

 こちらはこの本のテーマの現場である。しかも、この本のテーマに関心を寄せるのは、およそアラ還の私以上の年配の、しかも、歴史マニアが多い、と察せられる。順番の連絡、受け取り、読みだし、読み切り、再読、精読、参照、延滞、返却催促、などなどが繰り返され、1人あたりの本の滞在時間が、大幅に長くなってしまったものと思われる。

 現在進行中の当ブログのテーマもここからは大きくはずれてはいないので、現在この本を読みこむことは可能なのだが、どうもタイミングを失ってしまっている。というのも、そもそもが、この本の性格にもよる。

 日高見国には太古から一筋の(と言っては言い過ぎかもしれませんが)豪族の系譜が受け継がれている、と私は思っています。安倍(もしくは阿倍)氏の存在です。p7(日高見国と中央政権)

 この地に棲む、父も母もアベである私は、生粋のヒタカミの系譜に乗れる可能性もあるのだが、どうも、このような紋切り型の提灯記事は嫌いである。そもそも前著を読んだ時の、著者の論旨の粗さが目についてしかたなかった。こちらに有利になるように「間違って」いるのだが、間違いは間違いである。ひいきのひいき倒しは困る。

 巻末の参考文献の50に上りそうなリストを見ても、実はこの本は、情報のパッチワークであることが分かる。あれこれ面白そうな資料を繋ぎ合わせ、歴史読本の好きそうな読者層に受ければそれでいいのか。

 コンテンツとしてはそれでいいかも知れないが、そのコンテンツからいかにコンシャスネスへと純化し昇華していくか、そこのところの糸口がどうも見えない。なぜなら、それは各人の覚悟と直感的確信が必要だからである。文献をあさっていって見えてきた糸口ではなく、もともと先験的に持っている何か、自分存在としての核心、どうもそこのところが、この本からは見えてこない。

 つまりこの本でなければ分からなかったということは、著者の私見の部分以外、特にない。他の文献にあたれば、同じような表記はある。知のパッチワークである限り、他の文献なり情報が出てくれば、著者の論旨は今後大きく変化していく可能性はある。

 ここまで醒めてしまうと、この本のタイトルだって、あまりイカさない。そもそも、この地にもともと住んでいる人間が、自分たちの場を「東北」などとは言わない。東だの北だのというのは、この地にいない人のいう言葉である。ここはここなのである。

 日高見「国」というのも気に障る。ヒタカミの人々は、「国」という雑念をもっていなかっただろう。日を高く見る、のであって、そこに国の概念はない。少なくとも無定義にクニという言葉を接尾語として使われること自体、私なんぞは寒気がする。

 冷めたピザに怒っている私の姿に、私自身が可笑しくなるが、どうもこの本を読むのはこのタイミングではない。この本は人気本で、私の後にもたくさんのウィエイティングリストが連なっている。あんまり待たせるのも悪いから、私は今回、速攻、次の人に回してやることとする。

 そして、もう誰も読まなくなって、冷めきったあたりに、もう一度、温め直して、食してみることとする。

 つづく・・・と思う。

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2014/05/13

「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><3>

<2>からつづく

スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <3>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
★★★★★

1955年10月、ビートニックの詩人アレン・ギンズバーグは、ジャズとマリファナに浸りながら「吠える」という詩を書き、消費を煽りつづけるアメリカ政府を批判した。

 彼らは人間をその生き方を基準にして二つのタイプに分けていた。現実の社会のシステムや価値観にかかわって生きている人たちを「スクェア」、社会のシステムや価値観の外側を生きていくことにした自分たちのことを「ヒップスター」と称し、両者を明確に峻別した。

 この「ヒップスター」がのちに「ヒッピー」と呼ばれるようになった。p053赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 ヒッピーの定義が語られる。1955年10月と言えば、私はまだ1歳半だった。そのころすでにこの「運動」は始まっていたのだ。

 ちょっと書きそびれたが、p035にも気になることが書いてあった。

●今回寄稿をお願いした津村喬さんの話では、「宝島」「遊」そして自身が関わっていた「80年代」と、70年代から80年代にかけての有名なサブカルチャー誌が軒並み「WEC(ホール・アース・カタログ)」の影響下に創刊されたというから気にもなるよ。

○先ほど「「POPEYE」のルーツも「WEC」だという話も聞きました。

●パーソナル・コンピューターの歴史とつながってきたりと、いろんなところで、いろんな人が「WEC」の影響を反している。だけど、みんなそれぞれ「WEC」のある部分を語っているようで、全体をうまく説明してくれる人が見つからなかった。だから自分たちで「WEC」を総括してみようと思ったわけ。

○アメリカのメディア・コミュニケーションの専門家・池田純一さんが「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(講談社現代新書・2011)という本が、比較的わかりやすく「WEC」の通史を書いていましたね。

●「サイバーピア」(日本放送協会・2009)も参考になると思う。ジェイムズ・ハーキンというウェブジャーナリストが1章をさいて「WEC」のことを振り返っている。ソーシャルメディアの中の位置づけとして書いているね。p035「In The Biginning」

 「サイバーピア」は知らなかったが、池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」については、当ブログでもこの二年来読み込み中である。そして他の二冊の著書とともに、全体を俯瞰しているところである。

 ところで、理想世界を目指したコミューンのヒッピーたちはその後どうしたのだろう?
 彼らは自分らしさを回復するために田舎にコミューンをつくり、生活そのものの根底を問い直した。
 しかし、その継続は思いのほか大変だったようで、彼らの大半は数年を待たずに、コミューンから都会に戻ってきたようだ。
p059赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 こう括られてしまえば、まぁ、そうとも言えるが、当然生き残ったコミューンもあったし、都会にUターンしたヒッピーも少なくなかっただろう。だが、IターンやJターンという形で、脱都会の生活に根差したライフスタイルを確立した元コミューンメンバーも多くいたことを忘れてはいけない。

 日本にも「ホール・アース」のムーブメントは伝わってきた。しかし「カタログ」とひと口にいっても、当然アメリカとは時代背景、社会背景がまるで異なるものだった。日本ではアメリカのように若者がどこかの戦場で命を落としていたわけではなく、経済大国を目指して消費に走りだしていた時代だった。だから「ホール・アース」の消費社会を批判するという問題意識は、「宝島」(全都市カタログ)」以外の雑誌はほとんどが無視し、または頭から理解されず、誌面に取り入れられたのカタログの雰囲気だけだった。

 日本におけるカタログ出版の流行は、「文化」にまで高められず、「買い物ガイド」に過ぎなかったという批判もある。p61赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 この総括も、まぁ、当たらずとも遠からずだが、参戦国ではなかったにせよ、日本もまたベトナム戦争の中での協力国でもあった。1972年夏に18歳で沖縄に旅した私は、決して私たちは戦無派ではないことを痛感した。

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 また、安保条約をめぐる政治闘争や成田空港の建設にまつわる地域闘争などの中では、別な意味においての生死をかけた戦いが進行していたのは周知の事実である。日本のカウンターカルチャーといえども、坊やがハイハイしているような、お遊びごっこではなかった。

 「宝島」の「全都市カタログ」(JICC出版局 1976/04)には、私たちの「コミューン」がつくったミニコミ「雑誌」も収容されているので、あまり悪くも言いたくないが、このカタログだって、私たちから見れば、ちょっと甘いものだった。そもそも当時の「宝島」は「シティー・ボーイ」路線である。私たち、少なくとも私は、その言葉に違和感を感じ、即座に、オレ達は、カントリー・ボーイ路線だ、と思ったものである。

 スチュアート・ブランドその人がそうであったように、変なカリスマになったり、特段にベストセラーになることが、いわゆるカウンターカルチャーの「ヒッピー」たちにとっては勲章ではなかった。だから、日本には根づかず、「文化」まで高められなかった、とするのは、目のつけどころが悪いわけであり、実は、軽薄で流動的なマスメディアの関心をよそに、確実に、この日本においても根づいてきたカウンター「文化」はあるのである。それを見落としてもらっては困る。

 2005年、「ホール・アース・カタログ」はふたたび脚光を浴びることになる。当時アップル社のCEOスティーブ・ジョブズが講演の中で、このカタログを熱く語ったのだ。p63赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 このプロセスについては、当ブログにおいても、ジョブズ追っかけの方面から、何度も触れてきている。このスティーブ・ジョブズと、スチュアート・ブランドのもたれあいについて、はて、どっちがどう大地に足をつけているのかを見極めることが大切である。

 2011年、「地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト」という翻訳書が日本で出た。ブランドの近著である。気候変動、地球温暖化問題に対する現実的な解決方法を数々のマニフェストとして提唱した内容で、一種「文字による『ホール・アース・カタログ』」といったおもむきがある。

 同書でブランドは、原子力推進に関して肯定的に書いており、かつての『ホール・アース・カタログ』のファンたちを仰天させた。p63赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 このボールド体で転写した部分がこの赤田祐一という人の文章のエンディングである。これで終わっている。当ブログは、今、ここからスタートしようとしている。仰天したままでいいのか。これは、腰をすえて、検討していかなければならない。

<4>につづく

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2014/05/12

「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><2>

<1>からつづく 


スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <2>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
★★★★★

さて、前篇から、各論的にこの雑誌を読んでやろうかな、と表紙を見、裏表紙を見て、改めて笑った。裏表紙には、マルーンカラーの胸ポケットつきの上着の宣伝が載っていた。昨日、当ブログでは、「お気に入り定番グッズ」私はこういう人間、というシリーズを始めたところであった。その二番目では、まさにこのイメージのことを書いている。

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 そうだねぇ、この色でこの機能だと、まずは私にとっては80点は獲得することになる。ただし、パタゴニアってメーカーはどうなのかな。アウトドアグッズのお店でよく見るブランドだが、私の予算の3倍くらいすることがあるから、ブランド品志向のない私には、豚に真珠とか、猫に小判、ということになりかねない。でもコピーでは「このジャケットは15年モノ」と言っている。値段相応の価値があるのかもしれない。 

 さて、表紙をあけて、そのざらつく質感を楽しみながらページをめくると、なにかこのざらつく感じがとてもいい。すくなくともテカテカのギラついたカラー印刷でないところがいい。しかも、一流メーカーでありながら、全頁広告のコピーがイカしている。おそらく、この雑誌のためにひとつひとつ書かれたものだろう。

 「Dear Reader」とする巻頭言が、編集部の青野利光という名前で書いてある。この方はどんな年代で、どういう人なのか、ということは、今のところ推測するしかない。少なくとも、90年代末にアメリカの書店を訪ねたことがある若者。しかも、6~70年代のカウンターカルチャー・シーンをリアルタイムでは味わったことがない人のようである。

 p23になると、目次がある。特集はおおよそ10のテーマに分かれていて、一つ一つがなにか、そそるものがある。基本、なかなかイケるかも、という予感に満ちる。次ページに他の記事の目次もあるが、まぁ、まったく関連のないものではない。

 ところでこの雑誌は、やはり若者文化の雑誌のようである。私のようなアラ還の老人には、文字が小さ過ぎる上に、印刷方法が、ちょっと読みにくい。文章が余りにデザイン処理され過ぎるのは、困るのである。老眼鏡の度を上げたり、部屋の明かりを上げても、ちょっとまだ目が疲れる。

 私がこの初めて「ホール・アース・カタログ」を見たのは、1972年の熊本のコミューン虹のブランコ族の自然食レストラン「神饌堂」でのことだった。18歳のバックパッカーの私の目にも、実にあざやかに飛び込んできた。

 その後、この雑誌の影響で日本に出たとされるのが、「別冊宝島(1) 全都市カタログ〜都市生活者のフォークロア」 (JICC出版局 1976/04) である。このムックの中に、その後に自分たちで作った雑誌が収蔵されたわけだから、当時のカウンターカルチャーを意識していた私たちとしては、まずまずの満足感はあった。

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 執筆者紹介の中に、ヒッチハイクのイラストがあったりする。そうそう、ヒッチハイクこそ、当時のひとつのシンボル的なスタイルだった。先日、当ブログでも当時の古い写真をアップした。

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 執筆陣も、竹村健一、松岡正剛、山田塊也、北山耕平、小林泰彦、などの大御所もならぶ。この人たちが、カウンターかカルチャーだったのかどうかはともかくとして、今、当時をどのように振り返っているのかは、興味のあるところ。

○「WEC」創刊編集者スチュアート・ブランドの書いた「地球の論点」(英治出版・2011)という本も翻訳出版されました。

●原題が「Whole Earth Dicipline」というこの出版もジョブズのスピーチ効果かもしれないね。しかしこの本で、現在のブランドは「原発こそがクリーンエネルギーだ」と書いているじゃない? 心底驚いた・・・。

○かつてエイモリー・ロビンスなどの自然エネルギーを支持していたグリーン派時代の自分は誤りだったと書いていますね。

●そうなんだ。この本が書かれたのは日本の原発事故の前だったそうだけれど、まあよく正面切って書けたものだとは思う。

○現在、ブランドにインタビューを申し込んでいるそうですね。

●本誌次号でブランドの胸中を聞いてくるつもりだよ。創刊前の話から原発の話まで、いろいろ聞き出してくるつもりです。

○本号は「WEC」紙の時代の「カウンターカルチャー編」で、次号はおもにパーソナルコンピュータ登場以降の時代を中心にした「ソーシャル・ネットワーク編」というかんじですね。

●この特集で「WEC」のことをみんなに広く知ってもらいたいと思っています。「WEC」は文明のあらゆる要素を含んだ本なので、これからの時代を考えるときに、まずこの本の中身とブランドのビジョンを知るところから始めてほしいですね。きっと未来のための良いヒントが見つかるはずです。p35 「In The Biginning」

 この対話は、誰と誰の対話か分からないが、おそらく上掲の青野利光という人の、編集子としての、一人二役のイントロなのだろう。とにかく、私も、このところが実に引っかかっているのであり、まぁ、このことがなければ「未来のための良いヒントが見つかるはず」なんて調子のいいことを言うかも知れない。だが、今はまだとても、そんな気分にはなれない。

 赤田祐一という人の「『ホール・アース・カタログ』のできるまで」を読んでいると、なんだか、ちょっと遅れてきた自分たちの姿がほうふつとしてくる。生活費をかせぎ、旅をし、雑誌をつくり、また生活費をかせぎながら、旅をして雑誌を売りさばきながら、また取材して雑誌を作る、なんていうサイクルは、まさに自分たちの青春を思い出す。

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 誰にもある青春時代であり、私たちは私たちなりに、一生懸命、青春した、ってことだよなぁ。この辺になると「私」で文章をつづることがつらくなる。「ぼく」や「ぼくら」を使いたくなる。

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 当時の若者たちの変化をイエール大学の教授チャールズ・ライクは68年、「緑色革命」という本にまとめている。 

 出世をもとめるワーキングクラスの伝統的人生観を「意識1」、組織を重視する社会の価値を代表するものを「意識2」と定義し、それらの旧世代的な生き方に対して、自分自身のライフスタイルをつくりだそうと試みる世代を「意識3」と呼びならわすことを自著で広くアピールした。

 チャールズ・ライクの主張と前後して67年、社会学者セオドア・ローザックは論文に「カウンターカルチャー」という言葉を初めて用いて現状を解説した。

 カウンターカルチャーとは、物質中心文明、科学至上主義、頭脳万能主義に反抗する傾向をもつ文化という意味である。これまで繰り返されてきた愚かさや無意味さに満ちた歴史の流れを大きく逆方向に向ける力になるという概念として語られ、以来ヒッピーの思想をあらわす言葉として広く使われるようになった。

 当時この「ホール・アース・カタログ」は、100年前の自給自足の生活記録を書いたヘンリー・ディヴィッド・ソローの「森の生活」とともに、若い人たちの間で、新しい生き方を志向する世代に示唆をあたえると教科書のように評価され、消費社会の行き詰まりから解放してくれる本として愛読された。p053赤田祐一「『ホール・アース・カタログのできるまで」「Earthrise」

 うーむ、なんとも懐かしいフレーズの連続である。しばし瞑目する。文章の途中ではあるが、この辺で、すこし、リラックスが必要だ。一呼吸しよう。

<3>につづく

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池田純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』<全球時代>の構想力<6>

<5>よりつづく


「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」 <全球時代>の構想力<6>
池田純一(著) 2011/03 講談社 新書 317P
★★★★★

 雑誌「スペイクテイター」の「ホール・アース・カタログ」特集「前篇」「後篇」を見ながら、この本を思い出した。一度ざっと通読してから「スペクテイター」にもどろうと思ったのだが、こちらの本は新書とは言え、内容的にはハードカバー単行本と同等なので、通読するのも骨が折れる。結局は「ホール・アース・ホールド」の編集者であるスチュアート・ブランド関連のp51~p108に目を通すことにとどめた。

 わず60ページではあるが、第2章「スチュアート・ブランドとコンピュータ文化」、第3章「Whole Earth Catalogは なぜWhole Earth と冠したのか」などと、内容は濃い。

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 著者には今のところ関連する本としては三冊ある。「ウェブ文明論」(2013/05新潮社)はすでに手に取ったが、孫の子守りをしながら読むタイミングの本ではなかったので、メモもしないまま一度返却してしまった本である。「デザインするテクノロジー」(2012/11青土社)は今回一連のものとして読む必要を感じて取り寄せてみたものである。

 「新潮」の連載を続けた三年の間に、連載をきっかけとして、「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」(講談社)と「デザインするテクノロジー」(青土社)の二冊を上梓することができた。内容としては、前者は本書の第1部と第2部、後者は第3部と第4部と関わるところが多い。「ウェブ文明論」p331「あとがき」

 新書本一冊にてんてこまいになっているのに、他の単行本二冊まで読みこめるかどうか、分からない。

 本書の執筆いは、Dynabookの現在形が活躍してくれた。おそらく、Kindeによる電子書籍がなければ内容を膨らませることは困難だったろう。本書が参考にした英語文献の多くはKindleで利用した。常時、100冊あまりを持ち運びできる携帯性と検索性は態変助かった。「デザインするテクノロジー」p394「終幕」

 なにかの研究書や報告書などではあれば、それもありだろうが、当ブログとしては、もっとシンプルな読書をよしとしている。図書館から借りだせる程度の一般的な文献を、アナログな形の本として読むスピード感と、著者の「重層的」かつ「同時性」は、うまくかみ合うとは言えない。

 それでも、今回また気になったところを抜き書きしておく。

 ARPANETは、冷戦下の核攻撃による通信破壊=連邦政府の機能の事実上の停止、ちう恐怖の想像力に応じて生みだされた。二点間を直接つながぐ電話網の脆弱性の克服が開発初期からの目的であったため、実際に採用されたのは効率性よりも畳長性を重視する分散型のネットワークだった。p62「スチュアート・ブランドとコンピュータ文化」

 当ブログにおいても、科学のジャンルでは、原発=核技術と、コンピュータ技術に注目してきたわけだが、いみじくも、この二つは根っこは同じであったのか、と改めて認識した。攻撃性としての「核」技術に対して、防御性としての「インターネット」技術があったとすれば、面白い対比だな、と感じた。

 カウンターカルチャーとは、アメリカで主に60年代に起こった若者の一連の運動の総称のことだ。通常思い浮かべられるのは、ヒッピー、ドラッグ(LSD)、ビートニク、コミューン(共同体)運動、フリースピーチ運動、消費者運動、公民権運動、女性運動・ゲイ解放、ベトナム反戦、などの様々な活動だ。イメージとしては映画「フォレスト・ガンプ」を思い出してもらえばいい。p84「Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか」

 まあ、こういう定義付けも悪くはないのだが、どうもいまいち網羅的で客観的過ぎる。

 スチュアート・ブランドは1938年にアメリカ中西部のイリノイ州ロックフォードに生まれた。生年で留意すべきは、ブランド自身は、カウンターカルチャーの中心にあったベビーブーマー(アメリカでは45年から64生まれまでを指す。日本の「世代」概念よりも長いことに注意9でhなあく、少しばかり早く生まれていることだ。

 カウンターカルチャー運動が盛り上がるのは68~69年だが、その時にはブランドはすでに30歳を越えていた。カウンターカルチャーを扇動する側の世代に属していたことは記憶していてよい。p89同上

 この時代、ブランドは30歳だったが、著者池田信一は1965年生まれ、まだ3歳や4歳だったのだから、池田にカウンターカルチャーに同時代性を持てというのも無理な話である。

 カウンターカルチャーに対しても、その現場にたまたま居合わせたものの、ブランド自身の態度としては、従軍経験が示すように、むしろ、カウンターカルチャー自体とは一定の距離を保ち、場合によっては批評的であった。p107同上

 つまりは、「ホール・アース・カタログ」やスチュアート・ブランドの、カウンターカルチャーに与えて影響は大きかったけれども、過大評価することによって、カウンターカルチャーの本質が変遷してしまったり、歪曲されてしまうことは避けなければならない、ということである。

 なにはともあれ、今回この本を再読して、二つのポイントを確認できた。一つは、ブランドを必ずしもカウンターカルチャーの中心に据える必要はない、ということ。そして、現代科学の粋である、核(原発)技術と、情報技術(インターネット等)は、一対の同根の本質を持っているということ。ただし、核技術が攻撃型のホコの力だとするなら、情報技術は防御型のタテの力を持っている、という仮説である。

 

つづく

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2014/05/11

シリーズ「お気に入り定番グッズ」私はこういう人間<3>リーガルシューズ編

<2>からつづく 

シリーズ「お気に入り定番グッズ」私はこういう人間

<3>リーガルシューズ編

 帽子、上着とくれば、ズボン=パンツとくるところであるが、私には今のところ定番グッズがない。本来はジーンズをはきたいところなのだが、現在の私の体形ではジーンズは似合わない。それと、仕事柄、ジーンズで客先に行けるほどフリーな職業ではない。だから、ズボンは結局当たり前のスラックスになる。はけるものであれば、あまりこだわりはない。

 とすると、次にくるのが、靴である。これは結構四苦八苦した。もともと、いろいろ試してみたが、いつも安靴ばっかり狙っていた。靴専門チェーン店のいろいろを試してみたのだが、いつも失敗したなあ、と後悔ばかりしていた。

51wuplx8rl それがいつのころからか、私はリーガルシューズのファンになった。これがいいのは、すこし横幅が広いというのと、とにかく長持ちする。壊れないのである。私のはき方で、かかとは斜めにへったりするが、修繕も効くし、自分でも治せる。そしてとにかく安全である。

 長持ちするので、そんなに多くは持っていないが、順番に古くなって、廃棄寸前になりかけても、私はそれを履いて庭仕事などをする。作業靴にもなってくれるのである。冬道などでは滑りがちだが、それでも、他の靴だってすべるのだから、工夫すべきは、靴ではなくて、歩きかたである。

つづく

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シリーズ「お気に入り定番グッズ」私はこういう人間<2>フリース編

<1>からつづく 


シリーズ「お気に入り定番グッズ」私はこういう人間

<2>フリース編

 帽子とくれば、次は上着であろう。材質や機能はともかく、今現在、私が一番重要視するのが、胸ポケットである。アラ還の私には、老眼鏡が必要である。あまり度が進まず、一定程度のところで留まってくれてはいるが、老眼鏡なしには何事もできない。

 それともう1つ。私にはペンが必需品である。仕事柄、突然電話が来る。事務所だろうが、車の中だろうが、トイレの中で奮闘中であろうが、電話が来る。大体の内容は話で終わるが、電話番号や日時、番地など、頭に記憶するにも限界が生まれる。そのためにはペンは必需品なのである。

 この読み、かつ、書き、というスタイルを保持するには、胸ポケットが必要である。小バックととかズボンのポケットなどでは実用的ではない。だから、まずシャツであろうがフリースであろうが、まずは胸ポケットがないと話にならない。

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 実は、このことに気づいたのは、割合近年のことである。いままで胸ポケットがついているシャツやフリースやジャケットばかり着ていたので気付かなかったのだが、胸ポケットのない上着というものも結構あるのである。友人の服などは、ポケットの形は付いているが、形が崩れるからモノをいれないようにと、入口を縫いつけてあるものもあった。驚きである。

 そして、色は、ワインカラーというか、マルーンカラーというか、この傾向がお好みである。これは、私がOSHOサニヤシンだからであり、また、チベット密教僧たちに親近感を感じるからでもある。最近は、地元の野球チームのチームカラーがこの色である。私は別に野球ファンではないのでチームのマークまでは入れないが、この色が街にあふれているのは、容認できる。

 つまり、マルーンカラーで、着やすくて、胸にポケットがあれば、まずは、私の上着としてはほぼ80点である。

<3>につづく 

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シリーズ「お気に入り定番グッズ」私はこういう人間<1>ハンチング編



シリーズ「お気に入り定番グッズ」私はこういう人間<1>

ハンチング編

 私はどういう人間なんだろう。私の家や私の家に来てもらえば、そのイメージはかなり広がるだろう。しかし、それでは、全部、私という存在の外側にあるものばかりに目がいくのではなかろうか。今回このシリーズでは、私が外出する時のことを考えてみようと思う。

 つまり、外に行く時は、私という存在は、外の外環境とどのように対峙しようとしているのだろうか。そのことが自分なりに気になった。

 まず、私が今、外出しようとしたら、一番最初に気になるのが帽子であろう。別に剥げてもいないし、白髪も隠さなければならないほど白くもない。いたってノーマルである。しかるに、帽子をかぶるというのは、何かおしゃれでもあり、実用でもあり、頭を守る必然でもあるようだ。

 かつて私は、帽子と言えば、野球帽が長かった。小さい時から大きくなっても、ずっと野球帽だった。しかし、ある時、野球帽とは、その名前が記すとおり、大リーグで試合をする時に、試合に最もふさわしい帽子として考えられたのだ、という歴史を知って、ああ、帽子というのは野球帽ではなくてもいいのだ、と分かってからである。

 ジェントルマンのかぶるような山高帽や、カーボーイハットなどもかぶってみたいのだが、まぁ実際かぶってみるのだが、私の環境では実用ではない。それを実感するのは、車に乗った時。どうしてもヘッドレストに後ろのツバが引っかかり乗れない。そもそも車に乗り降りする時に、ドアのフレームにぶつかってしまう。

 それを回避しようとすれば、一番現在適しているのがハンチングという奴である。正確な名前を知らないが、ハンチングといれれば、私のイメージしているものが検出されてくるから、これでいいのであろう。

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 このスタイルの帽子をわたしは今、五個もっている。いつの間にか集まってきて、それとなくTPOに合わせて使い分けている。色も材質もいろいろある。メッシュだったり、革だったり、オレンジだったり、伸縮自在のベルトが付いていたりする。

 でも結局その中でも一番使っているのはグレーで、てっぺんがすぐクシャクシャになっていろいろな表情を作ってくれて、しかも前のほうのツバもそれほど大きくない奴がいい。これだと、車の中でも邪魔にならないし、街を歩くにも自分のヘアースタイルくらいの感覚でいることができる。どうかすると室内でかぶっていても、違和感がない。

 このハンチング、そのうちいろいろ調べて、奥を極めてやろうと思っている。いままでよく見たことがなかったのだが、いろいろな種類があって、なかなか楽しい。現在使っている奴もだいぶ古くなってきたので、そのうち、さらにもっとお気に入りの一品を探してやろうと思っているところである。

<2>につづく

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「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><1>

<前篇>よりつづく

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「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<1>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ
Total No.3233★★★★★

 「前篇」につづいて「後篇」も開いてみる。息せき切ったように、あわてて読んでいる自分がおかしい。まずは、この後篇においては、あぱっちの文章を読んでしまえば、まぁ80%とは目的は達成したことになる。

 お目当ての文章は、p108からp114まで。7ページに渡る文章はB5版で三段組。決して長文ということではないが、想像していたよりも長かった。そして、その内容も、結局は、一読者として期待していたストーリーをほぼカバーしていたので、私はおおいに留飲を下げた。

 タイトルは、「『ホール・アース・カタログ』と もうひとつの出版史」浜田光(p108)。「もうひとつの出版史」とは、もちろん「名前のない新聞」の歴史であり、また「名前のない新聞」の歴史とは、あぱっちこと浜田光そのひとの人生である。スケールとしては、おおよそあますことなく含まれていた。

 逆にいえば、私が知っているあぱっちと、おおよそ私に想像し得るあぱっちの姿の合成であり、その領域を大きくはみ出してはいない。たぶんそうなのだろうな、ということが、この文章でおおよそ確認できた。

 しかし、あぱっちには、まだまだ細かいディティールがある。この「スペクテイター」誌において、いつか一冊まるまんま「名前のない新聞」特集が組まれたっておかしくないのである。場合によっては、本家「アース・ホール・カタログ」を大きく凌駕するであろう。

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 あぱっちは、私の知る所、ヤギ座生まれである。私は十代から西洋占星術を学んできた。まぁ女性陣となかよくなるためには星占いの知識は不可欠である(笑)。そんな不純な動機で始まった私の西洋占星術も、結構、信ぴょう性がある。

 私は、ヤギ座というと、すぐあぱっちのことを思い出す。2014年の今日において、すでに40年を超す年月を「名前のない新聞」とともに暮らしてきたあぱっちを思うのではなく、1972において、最初にあった時から、その新聞のスタート地点から、彼はヤギ座なんだなぁ、とそう感じてきた。

 私の知る所、ヤギ座は、土の宮である。しかも、土の中でも、凍てついたる大地を表すのだ。果てしなき凍てついたる大地を、とくとくと、ひたすら一定の調子で歩き続けるのがヤギ座である。ある意味、長期ローン型である。ひとつの目的を持ったなら、ただただひとつの方向に歩き続けるのだ。そのヤギ座の姿の典型サンプルとして、私の中ではいまだにあぱっちが筆頭に来る。

 つまりどういうことかというと、「名前のない新聞」は、創刊された時から、永遠と40数年続くことを運命づけられていたとさえいえる。派手でもなく、誰かを押しのけるでもなく、かと言って、たゆまず、ゆっくりではあるが、確かに、確実に、しかも、かなりの実効性を持って、その歩みは続いてきた。

 私が一番最初にあぱっちに会ったのは、吉祥寺の駅前だった。1972年の冬。彼のアパートを訪ねたのだが、家人に、駅に行けばあえますよ、と言われて、ただ行った。そして行って、その意味がわかった。

 彼は、駅前の一番目立つところで、マフラーをし、オーバーコートを来て、大きな看板を持って、サンドイッチマンのアルバイトをしていたのである。彼は寡黙である。少なくとも私の知る所、多く駄弁を弄してうるさくするような男ではない。ゆったりとわかりやすいことをしゃべり、時には寡黙にもなり、無口にもなる。

 その感じにプラスするところが、、大きな丸眼鏡をして、しかも流れるような長髪、お尻までくるような見事なロングヘアーである。ととのった、大正ロマンの画家・高畠華宵が描くような美少年である。当時は20代半ばであったから、少年とは言わないが、 それでも、彼の存在は、それだけでひとつのカテゴリーを成立させるような存在感があった。

 そんな無口な彼のもとに、夜の街の人の群れの中から、たびたび仲間らしいロングヘアーたちが歩き寄って来る。彼は、ちっとも表情を変えずに、なにごとかひとことふたこと言葉を交わす。すると、その仲間らしき男たちは、またふたたび夜の街に消えていくのである。

 スマホどころかケータイやポケベルなんてもんはまったくなく、自宅アパートの電話だって贅沢品の時代である。連絡は直に会うのが一番だった。町の中にいて、しかもサンドイッチマンをしながら、街の中の情報センターの司令塔をしている、そんなイメージだったのがあぱっちだった。

 これは私の勝手なイメージであろう。私に小説を書くセンスがあったならば、あのシーンのことを何倍にも誇張して書いたやろうと、40年も思ってきたが、私にはどうやら小説を書くまでには才能がないので、ここに初めて書いておくわけである。

 私が初めて「名前のない新聞」を読んだことについては、以前書いたことがあるけれど、1972年の初夏のことである。思えば新聞の歴史のほんのスタート地点であった。場所は鳥取にあった東京キッドブラザーズの実験的コミューン「さくらんぼユートピア」でだった。友人元木たけしを尋ねたのだが、彼は階段下の物置のようなスペースを改造して自室にしていた。あの時、あのスペースで、あの丸まったあぱっちのガリ文字を読んだのだった。

 彼のその新聞の歴史については、いろいろ思うところがあるが、実にその長期ロングランの中の、私が知っている部分は、実はごくごく一部であろう。しかし、その体験は、私の人生の中で、素晴らしい輝きを増し続けている。今回、この「スペクテイター」の文章を読みながら、いろいろな想いにふけってみたいな、と思う。

<2>につづく

 

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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇><1>


「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇> <1>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 単行本: 191ページ
Total No.3232★★★★★

 へぇ、こんな雑誌があるんだな。って、これって雑誌なんだろうか、単行本なのか、ムックなのか、どれだけの規模で発行されている本なのか、どこから出されているものかもよくわからない。長野県の住所が書いてあるが、それが本拠のあるところなのだろうか。なんにせよ、29号なんて、よく続いてきたもんだ(失礼!)

 今回、この雑誌に食指が伸びたのは、この号ではなかった。この次の30号についてである。ホール・アース・カタログのレベルでは、まだ私は単にこの本の前を通り過ぎたと思う。所が、30号では、「名前のない新聞」のあぱっちが原稿を書いている。それを読みたいために、この特集号、前篇、後篇の二冊を取り寄せた、という訳である。

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 前篇の特集は、ホール・アース・カタログのスチュアート・ブランドである。欧米はともかく、日本においては、必ずしも知っている人は多くない。もし、最近、彼が日本においても有名になったとしたら、アップルのスティーブ・ジョブズが亡くなった際、スタンフォード大学の講演の時、ホール・アース・カタログの終刊号の言葉で締めくくったことが、広く知られたからだろう。

ハングリーであれ。愚か者であれ。

  おそらく、現在の日本におけるスチュアート・ブランド人気は、スティーブ・ジョブズ人気に支えられている。そして、逆から言えば、スティーブ・ジョブズは、スチュアート・ブランドのホール・アース・カタログを語ることによって、一枚役者を上げたのである。この二人は、持ちつ持たれつの関係だ。

 私は長いこと、アンチ・アップルとまでは言わないが、ノン・アップル派だった。私の仕事が全然アップルとクロスしなかった。そのことが一番の理由だったが、アップルは高価だったし、ジョブズの悪評もあったので、その流れを借りて、手の届かないブドウは酸っぱい、という自己欺瞞に終始していたわけである。

 ところが、タブレットの時代にとなって、私はいきなりiPadを使うようになり、アップル軍門に下った。ジョブズの、その人生の鮮やかさと共に、その業績の計り知れない可能性にようやく気づいた、というところだ。そして、時を同じくして、ジョブズは、56歳と7ヵ月の人生を閉じていった。

 正直、私の中ではジョブズの評価はまだ固まっていない。良くも悪くも、これからもっとジョブズを解剖してみたいと、思っている。そして、その時にでてきた、「ホール・アース・カタログ」にまつわるスチュアート・ブランドの再検討も必要だ。私はブランドの最近作「地球の論点」に、ひどくケツまづいている。端的に言えば、ブランドは、脱原発派から原発推進派への「転向組」である。これは看過できない。

 私は相手の意見を聞く余裕がないほどの原理主義者ではない。妥協すべき点は、いくらでも見つけて、なんとか折り合いをつけようとするライフスタイルだ。時には、まったく心の中では納得できなくても、相手に従うこともたびたびあった。だから、私は原発推進派の意見も、一度は聞いてみようとする。

 しかしながら、ブランドの推進論は、かなり論拠が薄いのではないか、と思っている。地球温暖化の問題は分からないでもないが、その無知さが、原発=核武装推進の国家主義者たちの既得権益に一役買ってしまっているのではないか、と危惧する。その私の直観が、本当にそうかなのかどうか、これから調べてみようと思う。

 そういう意味で、2014年において、眉つばでスチュアート・ブランドに近づいていく方法を取らないで、単に過去の70年前後の「ホール・アース・カタログ」文化だけを取り上げるのは、すこし片手落ちではないだろうか、と疑問に思う。まぁ、この雑誌を読み進める上で、そんなことを考えながら、まずは全体をとらえようとしている。

<2>につづく

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2014/05/10

「かやの木」仙台市立西中田小学校PTA新聞 1997/07/11

「かやの木」仙台市立西中田小学校PTA新聞 1997/07/11 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集

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                               4p

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「仙台市史 特別編9 地域誌」 中田 鎌倉時代

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「仙台市史 特別編9 地域誌」
仙台市史編さん委員会/編集 2014/03 595p 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3231★★★★★

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2014/05/08

「カヤの古木 ワシは1300歳」 河北新報 1995/04/05

「カヤの古木 ワシは1300歳」 
河北新報 1995/04/05 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集

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「仙台最古のカヤの木」 河北新報 1999/06/06

「仙台最古のカヤの木」 河北新報 1999/06/06 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集

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「柳生のカヤ」河北新報 1992/07/18

「柳生のカヤ」河北新報 1992/07/18 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集

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「中田の歴史」1991年版 中田の歴史編集委員会


「中田の歴史」 
中田の歴史編集委員会 中田公民館運営協力委員会 1991.727p 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3230★★★★★

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          p652

Nkr003_2                              p596

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          p651

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「中田の歴史 写真資料編」

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「中田の歴史 写真資料編」 
中田の歴史編集委員会/編集 1999/06 中田公民館運営協力委員会 B5版 ハードカバー単行本 83p 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3229★★★★★

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     p54

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       p75

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「杜の都の名木・古木 仙台市保存樹木」2008年版

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「杜の都の名木・古木 仙台市保存樹木」 
仙台市建設局百年の杜推進部百年の杜推進課/編 2009/03 仙台市建設局百年の杜推進部百年の杜推進課 A5版 単行本 107p 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3228★★★★☆

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          p85

Smk0902
          p85

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「杜の都の名木・古木 仙台市保存樹木」1979年版

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「杜の都の名木・古木 仙台市保存樹木」

仙台市建設局緑地部/編  1979/04 仙台市公園協会 B5版 単行本 p76 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3227★★★★☆

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         p30

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     p72

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2014/05/07

「杜の都の名木・古木 仙台市保存樹木」1988年版

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「杜の都の名木・古木 仙台市保存樹木」

仙台市建設局緑地課/編 1988/03 仙台市公園緑地協会 A5版 単行本 83p 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3226★★★★☆

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                P61

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     p63

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「宮城の樹木」 カヤ

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「宮城の樹木」自然百科シリーズ10
菅原亀悦他編集 1997/05 河北新報社 B6版 ムック p248 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
Total No.3225★★★☆☆

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本文では触れていないが、写真は柳生かやの木である。 p24

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仙台柳生「かやの木 薬師」 資料集目次

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仙台市太白区柳生
「かやの木 薬師 <資料集目次> 

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「囊塵埃捨録(のうじんあいしゃろく) 「仙台叢書第七巻」所蔵 仙台叢書刊行会 1924   
「杜の都の名木・古木」 仙台市保存樹木 1979年版  
「仙台市中田第一土地区画整理事業完成写真図」1980/03/29  仙台市中田第一土地区画整理組合 
「杜の都の名木・古木」 仙台市保存樹木 1988年阪
「中田の歴史」 1991年版 中田の歴史編集委員会
「柳生のカヤ」 河北新報 1992/07/18 
「仙台市史」  自然 資料1 特別編1 1994/03 仙台市史編さん委員会/編集 
「カヤの古木 ワシは1300歳」 河北新報 1995/04/05
「杜の都の名木・古木」 仙台市保存樹木 1995年度版  
「宮城の樹木」 菅原亀悦他編集 1997/05
「かやの木」仙台市立西中田小学校PTA新聞 1997/07/11
「ふるさとウオッチング」「県南『薬師堂・神社』めぐり」 1999/03  
「中田の歴史 写真資料編」 中田の歴史編集委員会 1999/06  
「仙台最古のカヤの木」 河北新報 1999/06/06 
「杜の都の名木・古木」 仙台市保存樹木 2008年版 2009/03 仙台市建設局百年の杜推進部百年の杜推進課
「仙台市史」特別編9 地域誌 仙台市史編さん委員会/編集 2014/03 
「杜の都のむかしといま」 2014/09~11 仙台市博物館特別展リーフレット  
「せんだい市史通信」第35号 「”せんだい”の原風景を訪ねて」 仙台市博物館市史編さん室 2015/03/10 
「朝日新聞」2015/05/10 宮城版 12版「1300歳」カヤ囲み結束深める祭り きょう仙台・太白区 
「河北新報」夕刊 2015/05/15 「古木、人集う」仙台・柳生 推定樹齢1300年のカヤ囲み祭り 来年以降も継続 
「Kappo 仙台闊歩」 vol.77 2015/10/05 榧(かや)の古木 歴史の証人
「杜の都の名木・古木」 仙台市保存樹木 2017年度版
「河北北新報」夕刊 2017/04/15 「仙台の名木一目で」市、8年ぶりガイド本改訂

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「Aria Pro II TS-500 Thor Sound Guitar 」 <捨てるに捨てられないモノ>シリーズその10

<9>からつづく

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>
その10 Aria Pro II TS-500 Thor Sound Guitar

 お蔭さまで、この連休中に、だいぶ家の中は片付いた。まもなくまた家族が増えるので、住居空間も増やしておかなくてはならない。家の中の住居スペースの絶対量は決まっているので、そこに住人や新たな家具が増えれば、当然、いままでの家具なり荷物なりを減らさなければならない。

 いやー、出るわ出るわ、こんなものまで貯めておいたの、というほど出てくる。確かに大事なものではあったのだろうが、この20年間というもの、その存在すら忘れていたんじゃない、というものが沢山あった。このまま奥にしまっておいてもいいのだが、それじゃ人間が暮らすスペースがなくなる。とにかくこの勢いで、もっとすっきりして、広々と暮らそうよ。

 そうして、次の粗大ゴミの日にはたくさんの家具が清掃会社のトラックに引き取られていくだろう。楽器もいろいろでてきた。このエレキギターもその一つ。Aria Pro II TS-500 Thor Sound Guitar。私の青春は、このギターと共にあった。オーディションを繰り返し受けて、いつかプロになってやろう、と日々練習に励んでいたのだった、←というのは、真っ赤な嘘

 このギターは拾ってきたものである。ある日、地域の粗大ゴミの日に、我が家のゴミを捨ててきて、代わりにこのギターを拾ってきたのだ。今や、公園に粗大ゴミを出すというスタイルはなくなった。随時各家庭が清掃会社に電話し、各家庭にトラックが回り、引き取るというスタイルに変わった。

 しかし、以前は地域全体の家庭が出して、まとめて大型トラックが引き取っていく、というものだった。いつもだと、児童公園の一部が粗大ゴミ置き場になった。いろいろ出る。あらら、これまだ使えるんじゃない、と思うようなお宝も出てくる。ひっこし族の多い地域なので、仕方なく捨てられたものもあるだろう。

 そして、その年は、もう20年以上前のことだが、ちょうど最後の公園集積の最後のチャンスだった。それまでは一括して、いくら捨てても無料だったのだが、それ以降はどんな粗大ゴミを出しても有料になる、という丁度端境期であった。だから最後のチャンスとして、実に一杯出た。公園が一杯になり、道路にまであふれ出た。

 私にギターを見定める目はないが、これもまた小学生の息子のおもちゃになるのではないか、と、ハードケース入りのギターを拾ってきてしまったのである。結構、きれいなんだよな。使う気になればまだまだ使えるはずだ。中の配線とかに異常があるのか知らないが、見た目には傷もなく、欠品もなく、綺麗である。

 そう思って与えたおもちゃの筈のギターも、押入れにしまいっぱなしで20年が経過し、結局使われることはなかった。この連休で再び家族の目に触れ、さっそく清掃会社に連絡され、やがて引き受けのトラックが回ってくるのを待っているところである。

 だが、どうも胸騒ぎがして、ネットオークションで検索してみた。おお、すると、なんとちゃんと同形式の一品が出品されている。すこしデザインは違うようだが、同じ番号だ。気になるお値段は? 開始時の価格  なんと29,800 円。出品者の希望が大きく反映されている値づけだろうから、買い手がつかなければ、ただの数字でしかないが、それにしても、これだけの価値があるものかどうか。

 動画も探してみた。おお、何本もでてくる。その中で まったく同じであろう機種で演奏しているのが、上の動画。いつの動画が知らないが、すくなくとも、このギターでこのような演奏ができたらいいな、と思う。アコーステッィクとかフォークギター、ウクレレなどは演奏したことがあるが、エレキはやったことがない。誰か親父バンドにでもまぜてくれないだろうか、などと、しばし、夢想する。

 そんな姿を見ていた、奥さんと息子が、「お父さん、捨てなさいよ!」と、腕組みしながら、睨んでくる。「はい」、と素直に返事はしたものの、どうも、私は捨てられないのではないだろうか。受け取りのトラックが来るまでは、とにかく外の物置で待機させるにしても、その前に、やっぱり思い直して、他の家族の目につかないところにしまい直すのではないだろうか。

 鑑識眼のある方々、このギター、どうするべきでありましょうか・・・・? 鑑定、よろしくお願いいたします。m(_ _)m

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後日談、

SNSつながりの友人たちからいくつかのアドバイスがあった。

○使わないなら、しかたないよね。

○現役で同じ型を使っているよ。(ただし、大改造して)

○アンプはハードオフなどで極めて安価に売ってるよ。

などなど。

 その後の経緯は、もう詳しくは書くまい。我が家に「秘蔵」されてきた「Aria Pro II TS-500 Thor Sound Guitar 」は、天井ロフトと、外物置と、門の外を、2度3度行き来した結果、最終的には、粗大ごみ引き取り料400円で、他の粗大ゴミとともに、収集車のタンクの中に収容されていった。

 もちろん、心は泣いていた。しかし、それは、どこか火葬場で家族や知人を送るような、真摯な気持ちだった。

Git1

 もう細かいことを言うのは辞めよう。

Git2

 本当に、爺さんが、これからエレキギターを弾きたいのであったなら、新しいのを買うことにする。

 少なくとも、粗大ごみで拾ってきたエレキギターで、家庭争議をおこし、DVやら、殺人事件(笑)を起してはならない(爆笑)

 とにかく、ギターに対しては、捨てるに捨てられずに最後の最期まで悩んで、努力したけど、最後はついには、君のことを守れなかったよ、と、謝罪するしかない。

 冥福をお祈りいたします。 合掌 2014/05/13記

<捨てるに捨てられないモノ><11>につづく

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「日本タンポポ」 <捨てるに捨てられないモノ>シリーズその9

<8>からつづく

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>
その9 日本タンポポ

 我が家には、お宝と言われるべきものは殆ど何もない。基本、金融業の末端に連なる当オフィスには、かつては現金などもあったが、今やキャッスレスの時代である。モノとして盗まれて困るようなものは何もないのである。

 そろそろ老境に入った私たちも、テレビ番組にさそわれるようにして、お互いの死や葬儀のことを語りあうことがある。お互いの希望を聞きあうのだ。シンプルを旨として生きてきた私たちに、なにほどの遺産もないし、子孫への遺産分割用の遺言も、おそらく必要ないだろう。

 でも、私には、自分の死後、大事にして欲しいというものもないわけではない。それはほとんどたった一つと言っていいくらいで、それを、子孫が保管できなければ、それを大事に思う人に譲ってほしいと、伝言はしてある。

 そして、奥さんは、と聞くと、奥さんもほとんどない。葬式さえいらないと云いだすので、それでは困ると、こちらはやんわり拒否している。その割には、自分用として、互助会に加入して、しっかり葬儀資金を積み立てているところは、いかにも彼女らしい。

 その彼女が、ほぼたった一つ、彼女の死後も大事にしてほしい、と願っているのが、この日本タンポポである。ふ~~ん、そんなものか。それはお安い御用だな、とは思うのだが、本当にそれができるかどうかは、実はよく分かっていない。

Nt2_2 

 このタンポポは、フクシマからほど近い彼女の生地を流れる阿武隈川の土手から、我が家に移植されたものだ。かれこれ30年ほど前になるだろうか。見かけはただのタンポポである。

 決して広からぬ我が家の庭にちょこちょこ顔出す分には別に私は気にかけないのだが、これが、我が手作りオフィスの入り口のブロックの割れ目に、毎年咲いてくるとなると、本当のところ、私の心境は複雑だ。

 正直言って、なんだペンペン草だらけの事務所じゃないか、と思われるのもなんだから、これまで何度も何度もむしり取ったのだ。その時はなくなったように思うが、春になるとまた元気に咲いてくる。どうやら地下茎が深く根付いているのだろう。

 日本タンポポと名前がついているということは、他にも種類があり、私たちが日常見ているのは、ほとんどが西洋タンポポ。いつ頃か入ってきた外来種であるという。在来種である日本タンポポは、絶滅危惧種とはまではいかないが、次第にその生殖地が狭められている。

 私の簡単な見分けかたは、黄色いタンポポか、白いタンポポか、ってところだが、花の下の花弁が、下に向いているのが西洋タンポポで、上を向いたままのが日本タンポポのようだ。その他のにも種類があるだろうが、とにかく我が家のは白い。

 彼女は、他にも何種類かの植物を我が家の庭に持ち込んでいて、それとなく年月がたつと、近隣にも種が飛んで増殖していっている植物はあるらしいが、この日本タンポポだけは、どうやら我が家の庭に留まっているようだ。

 アルカリ性や酸性などの土壌にもよるらしいし、私なんぞはDNA的に雑種化して排撃されていっているのかな、と思ったりするが、定かではない。いずれにせよ、西洋タンポポが大手を振って歩いており、日本タンポポは静かに人知れず咲いていて、いずれは絶滅危惧種にもなりかねないような、淡い存在であるらしい。

 となりのマンションに出入りしている庭師などは、マンションの周辺に雑草防止に弱い除草剤をまいたりする時があるが、できれば、親切心なんかで、我が手作りオフィスの入り口まで除草剤などをまかないでほしい、と思う。これは雑草ではないのです。すくなくとも、うちの奥さんにとっては。

 この花を思う時、なんだかうちの奥さんの象徴にも思えたりしてくる。彼女の葬儀の時には、「彼女は、日本タンポポのような人でした」なんて喪主挨拶したりしたら参列者に感動してもらえるかな、なんて1人で、ほくそ笑んだりする。しかしまぁ、こちらが先に逝っちゃえば、その機会はなくなるのであるが(笑)。

 いずれにせよ、ああ、めんどくさい、じゃまになる、なんて短気をおこしてむしり取ったりしないで、我がオフィスの日本タンポポは、彼女の身代わりと思って大事にすることにしよう。温室にいれたり、水をやったりという風に大事にする、というほどでもないが、ごく当たり前においておいたら、ごく自然に毎年花を楽しませてくれる、肩のこらない花である。 

<10>につづく

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2014/05/06

「100年後の人々へ」小出 裕章

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「100年後の人々へ」
小出 裕章 (著) 2014/02 集英社 新書 192ページ
Total No.3224

 この方の本はすでに15冊以上読んできた。専門家の本なのに難しい本は一冊もない。まったくのドシロートで門外漢の私などが読んでも、理解できない本は一冊もないのだ。もっと言えば、書いてある内容の趣旨は、ほとんどおんなじで、どの本を読んでも首尾一貫している。ある意味、水戸黄門をテレビで見ているような安心感がある。勧善懲悪。

 いつも分かり切っているようなストーリーで、金太郎飴のような本なら、すぐ飽きてしまうのだろうが、この方の本は飽きない。飽きないどころか、同じような本なのに、読むたびに、こちらの理解が深まる。なんていうのかな、原発の本なんだけれど、原発をキーワードとしながら、世界観がさらに拡大し、人間観がますます細やかになっていく。

 当然、一冊一冊が再刊でなくて、別な本として出版される限り、毎回、様々な要素は変わっていく。この本の企画も、3・11から3年(出版当時は2年10カ月)経過した段階の著者の述懐である。述懐とは言うものの、後述したものをライターと編集スタッフがまとめ上げたもののようだ。

 だから、この本のタイトルといい、腰巻の推薦コピーといい、ちょっと色もののニュアンスが漂う。おそらく編集スタッフからのリクエストだろうが、著者のプライベートや家族についての描写などが加えられていて、いままでにない情報も当然加えられている。

 私は死後の世界を信じません。
 この世に生きる人々は等しく、連綿と続く歴史の通時態と共時態の任意の地点に、ある日突然投げ出され、ある日突然消えていくのです。
 その意味で、一人ひとりの「人格」は、絶対的に平等であり、絶対的に孤独です。
p13「はじめに」

 死んだら全てが無になる。
 私は、明日にでも死んでしまうかもしれない。
 そんな実感を持って生きている私は、一方で、田中正三さんのような、宮沢賢治さんのような、あるいはガンジーさんのような、100年前の時空を生きた敬愛すべき人々の生きざまに、日々学びたいと思っています。
p14道同上

 私は原子力の場で生きてきた人間として、放射能が影響をもたらし得る10万年後という時間を、リアルな問題としてとらえようとしてきました。残念ながら、そのように考えてくれる人はほとんどいませんでした。原子力について考える時、本当はもっとこのことを深刻に考えなければいけなかったと思います。p87「人間の時間、放射能の時間」

 私にとって、人類が原子力を作り出してしまったことは、この100年間で最悪の出来事のひとつです。
 けれども、今、パレスチナで毎日のように殺されている子どもたちからみれば、原子力の問題などなんの関係もないわけです。
p96

 そもそも、科学とは、わからないものを知りたい、という、純粋な好奇心のあらわれです。その知りたいという想いは、人間がこの世に生まれてからずっとあったわけですし、今も、そして未来も抑えることのできないものだと思います。p102「科学は役に立たなくてもいい」

 科学者は、その良心に恥じないように研究をし、人々の幸せに寄与するように生きるべきだと私は思います。自分の名誉や収入のために生きる科学者などもってのほかですが、残念ながら、今の科学の世界ではそちらのほうが主流です。宮沢賢治という人がいてくれてよかったと、心から思います。p121同上

 私は、死んだらそれで終り、と考えている人間です。
 墓もいらないし、骨などはドブにでも捨ててくれと思っています。
 けれども、もし自分が生まれ変わることができるのなら、放射能のゴミのためにもう一度生きたいと思います。
p129同上

 私は徹底的な個人主義者です。
 これまでの人生を通じて完璧な無党派であり無宗教、要するに誰とも一緒にならないし、誰にも依拠しません。
 子どもたちにも、「お父さん」ではなく「あき」と名前で呼ばせてきました。親子といっても、一人ひとり別の人間、対等な人間だと思うからです。
p155「優しさは、沈黙の領域へのまなざしに宿る」

 今、この地球に70億人の人間が生きているわけですが、私のいる場所は、この一点であって、それは私にとってはかけがいのない私の場所なのです。そして、そのかけがいのない存在を生きなかったら損だと私は思います。p161同上

 何度も繰り返していますが、徹底的な個人主義者である私は、誰かと一緒に何かをやるとか、運動のリーダーになるということはできません。
 福島の原子力発電所事故が起きてから、もう抱えきれないほどの出来事が生じているわけですが、その一つひとつに対して私にできる発信をし、それをそれぞれの方が受け止めてくださればそれでいいと思います。
p167同上

 実は私は「ヒューマニズム」という言葉も「人権」という言葉も嫌いです。なにか人間だけが特別に尊い存在だというような意識がそこに見えるからです。すべての生きものの権利というものを認めるなら、「人権」という言葉はまず意味がないと私は思います。p172「優しさは、沈黙の領域へのまなざしに宿る」

 個人の死ではなく、本当の問題に向き合わなければならないということを彼(田中正造)は言いたかったのです。私は正造のこういうところにも心から共感します。
 正造さんがもしいなければ、私は絶望していたかもしれません。あの時代にあの人がいてくれたのだから、今僕らがいられないはずはない、とさえ思います。
p165同上

 未来に対しても、現在の時空に生きる子どもたちに対しても、人間たちに難も意見することのできないほかの生き物たちに対しても、自分がどう向き合えるか。
 「優しさ」は、沈黙の領域へのまなざしに宿るものなのです。
p177同上

 宮沢賢治さんは、科学者であり、詩人であり、童話作家でもあり、宗教家でもあった。ほかの誰でもない宮沢賢治その人として三七年の短い人生を駆け抜けた。彼は自らの思想を端的に記述した「農民芸術概論綱要」で以下のように書いた。

 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない   
p182「おわりに」

 人はひとりでは生きられない。人は社会的存在であり、他者の存在がなければ、生きる意味を見つけることすら難しい。それでも、一人ひとりはかけがえのないその人であり、他者と手をつなぐ前に、個性を大切にする社会であって欲しい。p183同上

 本書のタイトルは”100年後の人々へ”だが、100年後の日本という国がどうなっているか、私にはわからない。でも、100年後の人々から、暗い時代に向かおうとしている今という時代をお前はどう生きたかときっと問われるだろう。そのとき、誰からも拘束されず自由に生きているひとりの人間として、私は私らしく生きたと答えられるようでありたいと願う。p185同上

 この本、上に抜粋した情感的表現の他に、科学者的なたくさんの数字が登場する。私なんぞは、何回もおなじようなことを読んでも全然頭に入らないのだが、これらの数字は、今、原発関係の人の著書における、当ブログとしての最も信頼のおける数字であると認識する。

 この方は、本当の意味での創造的科学を作ろうとされている方であり、芸術的センスを理解し、また表現でき、人間意識を深く広く探求されている方だと思う。当ブログの、地球人スピリットという表題に、もっともふさわしい生き方をされている同時代人のおひとりだと、心から感じ入ります。

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2014/05/05

光点滅瞑想器具 <捨てるに捨てられないモノ>シリーズその8 

<7>からつづく

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>
その8 光点滅瞑想器具

この手の類をなんて呼ぶのだろう。ちなみに、光、点滅、瞑想、器具、をキーワードとして検索してみると、そう、狙っているものはでてくる。そうそう、これだ。でも、商品名はでてくるけれど、統一した一般名詞は確立されていないようだ。仕方ないので、仮称として「光点滅瞑想器具」として話を進めよう。

Iq
 私がこの器具を購入したのは、1990年の正月。友達が何人も遊びにきていた。その中の美しい女性が、この器具を紹介してくれて遊んだ。ちょっとした時間だったが、そのセッションの中で、私は大きなビジョンを見た。だから、セッションの後に、彼女が販売用のものがあるよ、と言った10分後には、銀行に行って代金額を降ろしていた。

 恥ずかしくなるような、私の人生の中でも三大衝動買いのひとつであるが、他の衝動買いなど、大したこともないから、たぶん、トップだな、これは。衝動買いして、後悔したか、と言われると、うーん、と言わざるを得ないし、よかったか、と言われると、やっぱり、うーんとしかいえない。

 私が気に食わないのは、そもそも彼女は、この器具を私にセールスしようと思って遊びに来ていたのだ。単にセッションをしてあげるよ、という親切心ばかりではなかったのだ。販売目的で私に近づいてきていた、ということを見抜けなかったところが、どうも納得がいかない。彼女は近しい友人であったし、私はまったく心を許していた、という間抜けさに、いまでもちょっと腹が立つ。

 しかし、その商品、この商品がまったくのまがい物であったかと言われると、私はどうもそうは言えない。少なくとも、私にとっては、数回の体験とは言え、その効果はテキメンだったのだから。この落差が、いまだに、この器具を捨てるに捨てられないものとして保存している要因であろう。

Iq2

 この器具の仕組みは至って簡単である。ウォークマンと、サングラス。そしてそのサングラスの裏には点滅用の光源が数個ついているだけ。そして、あらかじめプログラムされた方法で点滅を繰り返す。ただそれだけのことである。ウォークマンの曲と連動しているようにも思うが、どうもそれほど込み入ってはいなさそうだ。

 この光の点滅ということだと、私はいくつかのことを連想する。まずOSHOグルシャンカール瞑想だ。通常は、瞑想テープとロウソクを使うのだが、このビデオのちょうど1分30秒付近で光の点滅が登場するこのシーン。

 個人ではロウソクで十分なのだが、何百人何千人が一緒に瞑想する時など、ステージの上からブルーの光の点滅をする器具が使われる。ブルーの光源で、一秒間に7回点滅を繰り返すという。この光を10分ほど見つめ続けることは、人間の意識に何事かの効果を与えるようだ。

 そして二つ目としては、1997年に起きたポケモンショック。テレビでピカチュウというアニメキャラクターを見ていた児童たちが、集団パニックをおこした事件だ。詳しいメカニズムは私にはわからない。一般には光過敏性発作と言われているらしい。

 これら一連のことは、あきらかにどこかで連動している話題であるはずである。ポケモンショックは、たまたまそのような光点滅の連続が、視聴者の意識に何事かの変異をおこしてしまったという事件である。そして、それらの事がすでに知られていて、積極的に人間意識変異を起こそうとするのが、上の光点滅瞑想器具であろう。

 さらに言えば、Oshoはこれらのメカニズムを承知の上で、その現象を瞑想として組み込んだ。それがグルシャンカール瞑想である。しかし、光点滅(ロウソク点灯)はあくまで、プロセスの中の一つであって、呼吸法だとか、音楽だとか体の動き、環境などが、複合的に配慮されている。

 グルシャンカールとはエベレストの頂上という意味だそうで、たしかに深く呼吸しながら、意識を見つめていると、浮遊感というか、頂上感覚は確かにある。私は大好きな瞑想である。

 さて、これらのことを踏まえて見て、今でも手元にあるこの器具を見てみる。もうほとんど使っていない。というか購入直後に数回使っただけで終わったのだ。それにしてはあまりにも高額なセッション代だったのではないか、と思いもする。が、効果は絶大だったので、あれはあれでよかったのかな、と思う。すくなくとも効果もあるが、危険もありそうだ、と憂うる面もある。私は人に勧めたことはない。

 そんなことを逡巡しているうちに、ウォークマンなどだれも使わない時代となった。デジタルネイティブの最近の子供たちは、カセットテープって何をするものか分からないらしいし、ウォークマンなんて、中を開けてテープを入れ替えするなんて思ってもみないようだ。まったく時代遅れなのである。

 でも、私の中では、改良すればまだ使えるのではないか、という思いと、ちゃんとした使い方をしないと、これは、私の意識に傷をつけるかも、という警戒感から、いまいち処理が決まらない一物である。

 我が家の「捨てるに捨てられなものリスト」のトップクラスに位置する一品である。

<9>につづく

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2014/05/04

「ポケットコンピュータPC-1500」 <捨てるに捨てられないモノ>シリーズその7

<6>からつづく

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>
その7 「ポケットコンピュータPC-1500」 

 1980秋から1981年の春まで、26歳の私はがんセンターの死のベットに居た。国立病院で余命半年と宣告されたのは家族だったが、私も家族のタダならぬ雰囲気に気づいてはいた。お見舞いに来てくれる友人たちの間でも、どうやらそれは公然の秘密になっていたらしい。私もまた、結構、諦観していたのである。

 私は家族に何かを買ってもらうということはあまりしたことがないが、この時ばかりは、なぜか、いつもは厳しい家族も、とても優しかった。兄から何が欲しいものあるか、と聞かれ、「ポケットコンピュータPC-1210が欲しい」と即答した。

 この時代、天才スティーブ・ジョブズはすでにアップルコンピュータを立ち上げ、ひと儲けしたあとだったが、日本にいる自分にとっては、まだまだ遠い世界の話だった。ただベッドの上で、アルビン・トフラーの「第三の波」を読んでいたりしたから、まだまだ未来に限りない夢を持っていたことは確かだ。

Pc

 1980年12月8日、ジョン・レノンは狂信的ファンの手により命を落としていた。そのニュースを病院の待合室のテレビニュースで聞いたのは、翌12月9日。私の三回目のサニヤス・バースディだった。

 私はこの時の死のベットからも奇跡的に復活する。なぜそういうことになったのか、自分でもよくわからない。いろいろな要因は考えられる。でも、その中でも、一番大事なことは、未来に希望を持ったことではないだろうか。

 私のパソコンライフなどは、ほんのおざなりなものだが、常に興味を持ち、夢を持つ続けた。退院したあとはPC-1210を知人に売却して、それを元手にPC-1500に変えた。こちらは液晶部分が大きくなっていたし、プリンターも使えるようになっていた。

 当時、携帯コンピュータ検定という資格試験がスタートし、第一回試験を受験した。2級と4級を受験したが、4級しか受からなかった(爆) これは、私の生涯で獲得した唯一のパソコン関係の資格であるw

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 もう30年以上も前のことである。あれからのパソコンの世界は、それこそドッグイアーの進歩を遂げてきた。何十台もパソコンを買い替え、何十回もネット接続の環境を変えてきた。かつての状況とは、ハードもソフトも雲泥の差だ。スペックがどうの、と比較することさえ、意味がない。

 もうすでに何十台もハードを捨ててきたのに、それでも、このPC-1500だけは、今だに捨てられない。それは、おそらく、いわゆるコンピュータと言われるものを手にした、最初の時の感動を、今だに記憶してくれているからではないだろうか。

<8>につづく

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「タイプライター」 <捨てるに捨てられないモノ>シリーズその6

<5>からつづく

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>
その6 タイプライター

 最近じゃタイプライターなど見向きもされなければ、話題にする人もない。今やワープロの時代なのである。かつてはワープロ専用機なんていう特殊な機能を特化させた時代もあったが、現在ではパーソナルコンピュータのごくあたりまえの一機能として、特に意識されることもなく使われている。

 だが、1980年前後に、実際に海外と英文で連絡を取らなくてはならなくなると、タイプライターは不可欠な事務用品だった。タッチタイピングなんてできなかったけれど、タイプライターを叩いて文書を作ることが、とにかくかっこよかった。

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 しかし良く考えてみる。あの当時、便せん一枚とて、無修正でタイプを打てたことなどなかった。かならず修正が必要なのである。ホワイトとか修正テープとかで、なんだか継ぎ接ぎだらけのレターだった。

 瞑想センターで実用で使ったものだから、レトロでも高機能でもなかった。今、この機種をネットオークションにかけても、五百円とか千円とかしか値がつかない。値がつくだけまだマシかもしれない。実際には買い手はほとんどいないだろう。

 この英文タイプライターは、捨てようと思えば捨てることは可能であるが、ある時、地元の美術館の中のカフェで、同機種がインテリアとして使われているのを見て、おお、こういう使い方があるか、とその再利用のチャンスを待っているところである。

 本当に捨てるに捨てられないのは、和文タイプライターのほうである。英文タイプライターを所持している家庭はまだたくさんあるだろうが、和文タイプライターを所持している家庭となれば、そうはないだろう。

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 これは会報とか作るために買ったもの。たしか当時で10万円くらいしたように思う。予備の鉛活字も揃っているのだ。これは捨てられない。当時、日本語ワープロ専用機が出ようとしていた直前であったが、ワープロ自体は、まだようやく100万円を切ろうとしていた段階だった。

 私はこの和文タイプライターを買う時、本当は、写植機、つまり写真植字機が欲しかったのだ。写研とかモリサワなんていうメーカーの名前を聞くと、ゾクゾクした。中古でも百万以上もした。写植機を買ってもビジネスに活用できなかったので、買うことはしなかったが、イメージとしては、この和文タイプライターを買った時、自分では、写植機を買ったような気分でいたのだ。

 知人では、実際に中古の写植機を購入し、自宅アパートで仕事を始めた者もいたし、いわゆる写植屋さんとして、成功した友人もいた。私の中では当時の華やかなビジネススタイルに見えて、うらやましかった。

 だが、この写植の世界は、やがて廃れる。借財を残して倒産した知人もいる。あの時、私も無理して写植機などを購入していたら、その後大変な想いをしたかもしれない。10万でも高かったけど、せいぜい和文タイプライターでガマンしておいて良かったな、と今は思う。

 和文タイプは、ガサも大きいし、インテリアにもならない。文字盤などをひっくり返せば、目も当てられない。鉛の活字を元の状態に戻すまで、一週間も要するかもしれない。でもやっぱり、この和文タイプを眺めていると、いろいろな想い出が湧いてくるので、捨てられない。遺品整理屋さんも、ちょっと困るだろうな。

追伸
この和文タイプと同機種が使われたのが、森永グリコ事件の脅迫状。未解決な事件だけに、この和文タイプを所持している、なんてことは、本当は不用意に公表してはいけないんだった(爆笑)。

<7>につづく

「和文タイプライター」カタログへつづく

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2014/05/03

「国宝級オリンパスOM1」 シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>その5

<4>からつづく

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>
その5 国宝級オリンパスOM1

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「ほぅ、OM-1でんなぁ、小さいけどカッコよろしいな」
「この135mmは・・・、200!?」
「うちの仏さんも小さいけど、心がこもってはる!ホンマ やったら、国宝なんやけどなぁ」

 懐かしい。あのテレビCM見たいと思ってググってみたが、ない。私のように、もういちどあのCMを見たい、と思っている人は、他にも何人もいるらしい。

 このカメラは76年に働いて、買ったもの。すごく欲しかった。近くのカメラ屋に飛び込んで買ったのだ。テレビコマーシャルもかっこよかったな。どこかの坊さんがでてきて、「うちの仏さんも小さいけど、心がこもっとる!ホンマ やったら、国宝なんやけどなぁ」。うん、決まっていたね。

 他にもたくさん魅力的なカメラがあったのだろうが、当時の私を魅了したのは、「小さい」ということ。これで小さいなんて、今のデジカメに比較したら笑われるけど、一眼レフの銀塩カメラでは、当時最小だった。旅に持っていくために買うわけだから、小さくなくてはならない。

 しかし、このカメラの運命はそうたやすくはなかった。数ヶ月後、このカメラを車に積んだまま、私は交通事故にあう。ほとんど死亡事故だったのにも関わらず、私は九死に一生を得て、生還した。積んでいたカメラは、水が入り、お釈迦となった。

 事故の過失割合がどうの、ということはもう忘れてしまったが、保険の約款上は、このカメラは交通事故により破損して使えなくなったということで、相手の保険から全額賠償してもらえることになった。だから、無理して高いカメラを買ったのだが、全額戻ってきた、ということになる。

 ダメ元で修理に出してみたのだが、中のレンズ部分のカビはもう取れないので、もう使えません、というご宣託だった。ああ残念と思ったが、私はあまりカメラマンマインドがないものだから、せいぜいアリバイ写真程度のものが映ればいい。それで、捨てずに使ってみることにした。

 その後、インドやスリランカへの旅の供をしてくれたのはこのカメラである。大したものを取ったわけではないが、立派にアリバイ証明には役立ってくれた。レンズも専門家がいうほど汚れてしまっているわけではない。すくなくとも、私のようなシロートには、撮影された写真にその瑕疵をまったく見つけることはできない。

 その後、時代は経過し、馬鹿ちょんカメラや、使い捨てカメラ、果てはデジカメの時代となり、古い時代の銀塩カメラなど、誰も見向きもしなくなった。私とて、もっと簡単なイージーなカメラを使うようになり、当時小学生だった息子におもちゃとして与えたのであった。

 息子とてこんな古臭いカメラを珍しがることもなく、結局こども部屋の棚や押し入れをあちこち回され、結局その後一枚も撮られることもなかったようだ。大体において、いまや、私もデジカメを使っているが、どれもこれも、成人した息子のお古を使っているのである。どんどん新型がでるが、私なんぞは、二世代落ちぐらいの性能で十分だ。

 ところが、最近、息子の部屋の隅っこに、この「国宝級オリンパスOM1」が転がっているのを見てしまった。あまりにも忍びなく、そのカビだらけになった姿に、涙ながらに詫びながら、何気なく革ケースをあけてみた。

 ところがどっこい、カビだらけなのは、革ケースの外側だけであり、中身は完全に守られていた。あら~~~、これ、まだまだ使えるじゃん。一度ならず、二度も三度も捨てられたはずの、この国宝級カメラ。使おうと思えば、まだまだ使えるのである。望遠レンズつきである。

 しかしだ。いまやデジカメ時代である。そもそもが銀塩カメラの現像所だって少なくなっている。フィルムだって、もう何年も買ったことがない。だいたいまだ売っているのかどうかさえ不確かである。カメラ音痴の私にはわからない。まぁ、やっぱり、このカメラは使えるけど、使わないだろうな。

 ということで、結局、このカメラ、捨てるに捨てられない国宝ならぬ、家宝として、長く我が家に保存されることになるのであろう。

<6>につづく 

まぼろしの「国宝級」CM、ついに発見!

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2014/05/01

「浮浪雲」 ジョージ秋山 シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>その4

<3>よりつづく 

シリーズ<捨てるに捨てられないモノ>その4 ジョージ秋山「浮浪雲」

「浮浪雲」 
ジョージ秋山 初版1975/04~ 小学館 コミック Kindle版もあり
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 「浮浪雲」の登場である。しかしながら、今回は、「捨てるに捨てられないモノ」シリーズの中での登場である。正直に言おう、私はもう捨てたいのである。すでに私の「浮浪雲」は終わっている。だからもう長いこと封印してきたのだ。でもそれでもやっぱり捨てられない。

 SNSつながりの友人たちの間では、最近1975年に脚光があたっている。これがなかなか面白い。75年に光を当てるというのは大賛成だ。一人でやろうとしてもなかなかできなかった。今回は複数の友人たちが参加しているので、なかなか興味深い。

 そしてここからが大切なことだが、実は、この「浮浪雲」の単行本シリーズは1975年から始まっているのである。このところがとても重要なことである。当ブログにおいては、小沢一郎選「あちきの浮浪雲」(2008/06 小学館)というかたちで2008/06/24に触れている。

 正直言って、あの時点での書き込みで私が語ることは終わっている。今回、ここにあの全文を転記しようかなと思ったが、やめておこう。今回は、別な角度からこのコミックを考えてみる。

 現在、このコミックシリーズは何号まで続いているのだろう。前回の書き込みでは60号まで揃っていると書いているが、現在手元で確認できるのは52号まで。1994年8月発行である。私は、この時までは少なくともリアルタイムで、この単行本を買い続けてきた。60号と言えば、せいぜい1995年までであろう。つまり私の「浮浪雲」は1975年から1995年までだったのである。

 1995年はどんな年であったか。そう、阪神淡路大震災があり、麻原集団事件があり、そしてウィンドウズ95の発売があった年だ。あの年から、何かシフトアップした。時代が、そして私自身が。何かが変わってしまったのだ。大好きな「浮浪雲」だったが、あの時で、その魅力は半減してしまった。

 現在当ブログも、仲間たちとのSNSつながりも、1975年を中心に回っている。しかし、それはそこに留まることを意味しない。これからおそらく1995年までのプロセスを、あぶり出すだろう。少なくとも当ブログはそれをやりたい。そして更には、1995年からこの2014年迄のプロセスを明らかにするだろう。

 1975年に集った仲間たちは多かった。偉大なる共同体験だった。しかし、いつもいつもそれから共同でいたわけではない。あれからそれぞれの道に別れ、新しい仲間たちと会い、集い、そしてさらにそれぞれの道を進んできた。

 そういうプロセスの中で、「浮浪雲」はひとつの定点観測点となってくれるのではないか。このコミックをどういう形で見ていたか。それぞれがどうこのコミックに「見られていたか」、そんなところに、当ブログは深い関心を持つ。

 で、結局私は、この途中まで集めた「浮浪雲」シリーズを捨ててしまうだろうか。それとも、第一号から再読したりするだろうか。どうも、どちらもなさそうだ。この感覚は、1969年から始まった我らが寅さんの「男はつらいよ」シリーズに似ている。寅さんシリーズも全作品DVDで持っているが、いつか全巻見直してやろう、なんて思っているが、たぶん、もうそういうチャンスは来ないと思う。だが、どちらも捨てはしないんだな。

 そんなことをとにかく確認しておく。

シリーズ「捨てるに捨てられないモノ」5>につづく 

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