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2014/06/18

「ストリートファッション 1945‐1995」 若者スタイルの50年史 アクロス編集室

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「 ストリートファッション 1945‐1995」―若者スタイルの50年史 (時代を読むシリーズ)
アクロス編集室 1995/04 PARCO出版 単行本: 249ページ
Total No.3276★★★★☆

 本書は、日本のストリートファッションの変遷を、系統的に取り上げた初めての本である。終戦の45年から95年の現在まで、この50年間に登場した多くのファッションの中から選んだ40スタイルについて、その当時撮影された写真を豊富に使って、くわしく解説を加えている。p6 「序」

 現在、60年代の新宿風月堂の追っかけをしている当ブログにとって、1945年から1995年までの時間軸はあまりに広すぎるし、テーマとして「ストリートファッション」に絞りこまれているのは、ある意味、かなりの偏りがある。

 しかし、いかに60年代の新宿風月堂が先鋭的で個別的であったとしても、押して並べられて「ファッション」と決めつけられるのも、一つの運命であろう。そう言った意味では、終戦の1945年から、この本がまとめられた1995年までの50年の中で、一度、その「風俗」を眺めてみるのも悪くない。

 この本は、かなり網羅的であることも希有だが、リアルタイムの画像を多く使用していること、そして、天下のPARCO出版から出ていることも特徴的である。

 アメリカのヒッピーの影響を受けた和製ヒッピーが登場したのは、67年夏のことであった。グリーンハウスと名付けられた新宿東口駅前広場に、何もしないで通行人をぼんやり眺めている若者たちがたむろしだしたのである。

 彼らのファッションは、何日も洗っていないような汚れたTシャツ、ジーパン、そして素足にサンダルを履き、それになぜかショルダーバックをさげていた。髪は服とおなじように何日も洗わず櫛さえ通していないような長髪(ナポレオンカットとも呼ばれていた)に、無精髭が基本。p116 「ヒッピー/フーテン族」

 この本がファッション史であるかぎり、あらゆる事象を外見から切り刻もうとするのは仕方ないことだろう。しかし、まぁ、このように表現される「風俗」は、もうすでに「ファッション」の域から外れているだろう。

 当時日本では、彼らをヒッピーよりも、日本独特のフーテンという名称で呼ぶことが多かった。また、その姿から「新宿コジキ」とも呼ばれた。彼らは高校生、大学生、サラリーマンなどさまざまな社会的肩書を持っていたが、それらを捨てて新宿にやってきていた。

 彼らの多くはたまに肉体労働系のアルバイトをするだけでほとんど働かず、グリーンハウスやジャズ喫茶で寝泊まりした。彼らの三種の神器といわれたのが、セックス、ゴーゴー、そしてドラッグ。米国版ヒッピーを真似てフリーセックスを信奉し、そして、モダンジャズを愛し、ゴーゴーを踊り狂った。ドラッグに関しては、本場のLSDが手に入らなかったため、もっぱら睡眠薬やシンナーでラリって現実逃避していた。p117 同上

 本書がファッション史であり、書き手が当事者としてのインサイダーでないかぎり、このような表現はいかしかたないのかも知れないが、必ずしも的を得た表現とは言い難い。

 しかし、彼らの中には芸術家やそのタマゴといったインテリフーテンやヒッピーも存在し、アングラ文化の発信源となっていった。彼らの巣窟となったのが、新宿にあった画廊喫茶の風月堂だった。

 風月堂は普通の喫茶店のようにボックスではなく、丸テーブルを挟んで自由に会話ができるサロンのような形式をとっていた。そのため、カウンターカルチャーにかぶれる若者たちのサロンと化し、アメリカの格安旅行ガイドブックに載るほど有名な喫茶店になった。常連客には唐十郎、寺山修司と言った顔もあった。p117 同上

 この新宿風月堂を掲載したという「アメリカの格安旅行ガイドブック」というものがどのようなものであったのか、探索中である。少なくとも68年に出た「ホール・アース・カタログ」ではないようである。

 一時は2000人いたといわれる新宿のフーテンも、警察の取り締まりもあって70年頃には姿を消していく。それに伴いフーテンという言葉も使われなくなった。しかし、和製ヒッピーは逆に増えていくことになる。その原因となったのが、学生運動である。

 60年代後半から盛り上がりを見せた学生運動も、70年代に入ると安保闘争の敗北や内ゲバなどから、大量の離脱者を出すようになる。彼らの多くは元の学生生活にもどったり、就職していったが、一部は海外に放浪の旅に出たり、郊外や田舎に移り住みコミューンを形成していく。

 アメリカではヒッピー増加の契機になったのはベトナム戦争であったが、日本では学生運動がその役割を果たした。60年代句半に登場した和製ヒッピーは内的必然をもっていなかったが、学生運動を経たことによって日本人もヒッピーになる資格を得たともいえる。p118 同上

 かなり突き放した表現が目立つところである。私自身は、時間軸、空間軸とも、自らをフーテンともヒッピーだったとも思わないが、外的にはヒッピー風に見られていたのは確かだろう。ただこの「内的必然」という表現だが、学生運動を68年頃からの盛り上がりと見ないで、例えば60年安保あたりからの「学生運動」を考慮する限り、ごくごく少数ではあったが、本質的な「和製ヒッピー」は50年代末や60年代初めから、日本にも確実に存在した、と見ることも可能である。

 さて、本書においては40カテゴリーをあげつらっているので、この概念の前後あたりに、全部包括してごちゃ混ぜにされるような類似概念も独自に編集されている。

 64年夏、オリンピック景気に浮かれる東京であだ花のようにほんの一瞬だけ大流行したのが、みゆき族である。ファッション史や若者風俗史に目を通すと、みゆき族という言葉は必ず出てくるため、かなり大きなムーブメントとして記憶している人も多いかもしれない。しかし、実際は、64年5月から現れて、夏にピークを迎え、初秋にはほぼ跡形もなく消えてしまった、たった一夏の流行にすぎなかった。p86「みゆき族」

 私は以前、加賀まりこは、このみゆき族にカブるのかと思っていたが、この本では違っている。

 六本木族が出現したのは57年から63年頃である。当時の六本木は、今日のように誰もが知っているような有名な繁華街ではなかった。p80「六本木族」

 ファッション史としてははずせないところのようだが、当ブログの関心からは大きく外れていく。

 (略)六本木族出身のスターが続々と登場したことで、六本木族は芸能界への登竜門的存在として有名になった。女優の加賀まりこも、元六本木族として売り出した一人だった。p81 同上

 この辺は、当ブログとしてはどうでもいい余談ということになる。

 60年代に前後して先行したのが、六本木族、みゆき族、原宿族、GS(グループサウンズ)・モッズファッション、ミニスカート、あたりなら、ヒッピー/フーテン族の後にピックアップされているのが、サイケ/アングラ族、学生運動ファッション、そして70年代に入って、ボトムス百花繚乱、ジーンズ革命、重ね着、フォークロア、あたりである。この後、70年後半になると、暴走族、なども取り上げられている。

 サイケ/アングラ族、や、学生運動ファッション、ジーンズ革命、フォークロア、あたりも気になるところであるが、当ブログとしては、それなりに視点がすでに固定しているので、ここでの転記は特に必要ないであろう。

 

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