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2014/06/20

「脱走兵の思想」 国家と軍隊への反逆 小田実 ・ 鈴木道彦・鶴見俊輔 (編集)

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「脱走兵の思想」国家と軍隊への反逆
小田実 ・ 鈴木道彦・鶴見俊輔 (編集) 1969/06 太平出版社 単行本(ハードカバー) 276ページ
Total No.3279★★★★☆  

 この本もまた、電脳・風月堂参考資料リストの中から「とりわけ風月堂に言及があるもの」として★マークがついている一冊だが、私のようなパラパラ読みには、なかなかその箇所を見つけることができない。既読書を中心に追っかけリストをまとめておいた。

 「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)でやっているようなデモとなると、となりを歩いている人間がどんな職業、性癖の持ち主なのか、いや、名前さえ知らないのだ。共通していることは、ただ一つ、「ベトナム反戦」をめざしてデモ行進をしているというただそれだけのことで、たよりないと言えばまことにたよりない。

 しかし、そうしたたよりなげさは脱走兵の脱走という行為、脱走兵を助けるという行為にはある。そして、さきにも述べたように、全世界の人間の数から見れば、脱走兵をとり囲むデモ行進の人間の数はまだまだ少ないのだ。

 閑散とした街路で、五人ほどでデモをやっているみたいだ。いや、群衆のなかで、ときには、群衆の流れにさからってまでデモをやっている、というわけかもしれない。p19小田実「こちらからむこうへ突き抜ける--等身大の行為としての脱走---」

 この本には、小田実 ・ 鈴木道彦・鶴見俊輔の他に海老坂武や小中陽太郎などが編者・執筆者として名前をつらねており、いわゆる当時のべ平連が企画した(p13)本であることはすぐに気付く。

 米海軍空母イントレビッド号から四人の脱走兵がでたのが、1967だというから、それから緊急にまとめられた一冊と言えるだろう。

 Cは、ベトナム戦争で腕を射ぬかれ、日本におくられて来た。ちょうど東京の王子野戦病院にいたころ、日本のデモ隊が病院をかこんでベトナム戦争に反対をさけんでいるのをきいたという。全快して病院を退院し、もう一度ベトナムに送られようとする直前に逃げた。 

 おとなしい男で、一日中だまってにこにこしていた。退屈はしないらしい。スケッチ・ブックをあけて、一枚にゆっくりと時間をかけて、目に見える景色をかいていた。一枚の絵にどうしてあれだけの時間をかけるのかと思うくらいだった。 

 画風は、サイケデリックは画風というのだと教えてくれたが、画風だけでなく、彼の人がらそのものが、ヒッピーだった。羊のようにやさしく、それゆえに戦争というものは、彼には理解できないのだった。日本滞在の記念に彼ののこしていったらくやきは、今の手もとにある。p63鶴見俊輔「脱走兵の肖像」

 この本では、出版物や地名は盛んにでてくるが、実際の住所や施設の名前などの露出は稀である。思ってみれば、いかに正義あふれる行動とは言え、法律や軍法が相手の直接行動である。むやみやたらに個人名や施設名がでたならば、予期し得ぬ弊害もあり得ただろう。

 当ブログにおいては、「ほびっと 戦争をとめた喫茶店」 ベ平連1970ー1975 inイワクニ(中川六平 2009/10) という本を読んだことがある。米軍基地が近い山口県岩国市の反戦喫茶「ほびっと」もまた、地の利から考えて、脱走兵との関わりがあった施設である。ただ、この本がまとめられたのは2009年になってからであり、一般的にはなかなか個的な施設名を出版物に描き出すことは、当時の状況では難しかったであろう。

 駅に着くとまず我々は、手頃な喫茶店やレストランに入る。そこでサイドの時間調整をするわけだ。駅のホーム等は我々にとっては危険な場所なのだ。列車の発車2~3分前にホームに入る。もちろんホームに入る前に斥候(せっこう)を送り、あやしい人影はないか、列車の発車時刻に変動がないかを確認させる。そして、僕達が列車に無事乗り込んだ事を確認した見送り人が自分達の中枢に連絡をとり、その中枢から次の中枢へ僕達の到着時刻が知らされ、次の行動が待っているのだ。p138匿名「あわれみと驚きの眼差し」

 もし、このような当時の状況の中で、新宿風月堂もなんらかの連絡場所や避難場所に使われていたとしたら、仮に大きな役割を(結果として)果たしていたとしても、店名の明記などが、この本にほとんどないことは大いに理解できる。

 ウィスキーの酔いがまわるにつれて、彼はますます饒舌になって来た。かれは衛生兵だった経験上医学的なな方面にはなかなかくわしい。やおら取りだしたメモ帳のはし切れに、酸素や水素、炭素等の分子記号がやたらと並んでいる。

 「それはなんだ」と聞くと、得意げに説明を始めた。日本では、麻薬はマリファナからLSDまで、手にいれることはとうてい不可能なので、彼らはそこいらの薬局で市販しているコカイン系の薬で代用するらしい。おどろくなかれ、一般に流通している風邪薬や鎮痛剤のほとんどが、彼らの手にかかると麻薬に化けるのだ。

 リックの話によると、ベトナムで負傷をしたりすると、手当のしようがないものだから、やたらと軍医が麻薬を注射するらしい。彼もその時から麻薬のとりこになったようだ。脱走兵の多くは麻薬の経験を持っている。p140「脱走支持者の手記・記録」

 リックと共に脱走して来たジョー。彼の場合はすさまじい。風邪薬も何もない時には、電球のソケットに手を突っ込んだり、都市ガスを吸い込んで、High(彼らは、麻薬を飲んだ時の状態をこう表現する)の状態になれるんだと説明する。但し、シンナーは最低だと言うことである。麻薬には余程の魅力があると見えて、彼らと雑談してるときは必ず麻薬か女性の話題で落ち着く。p140 同上

 この世界においては、当時、アメリカは「先進国」であり、「後進国」たる日本側には、予備知識も少ない。

 脱走兵援助活動は、アメリカの侵略に反対するものに大きな力を与えているが、同時に、アメリカ軍に対しても、強いショックとなった。早い話、なぜ脱走兵が「べ平連」という小さな名まえを知るようになったかと云えば、これはアメリカ軍当局のおかげなのである。

 日本に来るすべてのアメリカ帰休兵たちは、まず羽田で「けっしてべ平連に近づくな」という訓示を受けるからである。そのことによって、私たちの存在はかれらに知られる。その点で、私たちは、ベトナムの前進基地=日本という悲しい特殊性を逆手にとっているといえるだろう。p194 小中陽太郎「いまやイントレピットの四人は世界の伝説になった」

 1980年代になってからだが、私はすぐ近くにできた英会話教室に通うことになった。そこの教師は、アメリカ人だが、当時の徴兵令を忌避し、カナダに亡命し、イエローキャブの運転手などをしていたという。そしてそこで知り合った日本女性と結婚し、やがて来日して、日本で暮らすようになった。

 1972年の沖縄返還直後にコザをヒッチハイクで訪れたりしていた自分ではあるが、実に日本にいても、これらの問題が、まったく無関係に進行しているとは思えなかった。

 脱走兵の大部分は、決してスウェーデンに行くことばかりを望んでいるのではない。日本に亡命すること、韓国軍から脱走した金東希がいったように「平和憲法のもとにある日本」で生活すること、をこそ望んでいるのである。p274「あとがき」

 かつて、60年代の脱走兵たちをして、「平和憲法のもとにある日本」と言わしめた日本国。亡命したいと言わしめた日本では今、集団的自衛権の拡大という旗印のもと、平和憲法さえ踏みにじられようとしている。

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