「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 北沢 夏音<2>

「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 <2>
北沢 夏音 (著) 2011/10本の雑誌社 単行本(ソフトカバー): 539ページ
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ある編集者が、私のブログは二次情報だ、と言ってきた。なるほど、他者から見た場合の一般論としては、そのとおりだと思う。反論する余地はない。よくも悪くもそのとおりだ。なんせ、形としては読書ブログであり、一度表現されたものを、さらに表現している、という意味では確かに二次的なのだ。
ところが、私にとって、このブログは、やはり一次情報だと思う。というのは、当ブログは、書評でもなければ、ブックレビューでもない。私が私の心象を書きとめているのである。関心は、対象である本や雑誌や映像にあるわけではなく、それらに対峙した時の、私の心の動きに関心がある。
対象物を誰かとシェアしたいわけでもなく、議論を受け、あるいは反論し、論争を仕掛ける、という目的はない。ただ、自分の心の動き、あるいはもっと深いところの存在を計測するために、対象物を利用しているにすぎない。
山を登ったり、花を愛でたり、走ったり、座ったり、作ったり、呆けたり、そんなことをしながら、自分の中の心象をスケッチしているのと、意味は変わりない。
さて、この本もようやく中ごろに差し掛かってきた。ここまでのストーリーをダイジェストする気はもともとない。ただ、この小島素治という人のストーリーを読んでいて、ますます感じていることはある。
この本はかなりハイカラだった。書店でも異彩を放っていた。ただ、小島素治という人の個人ワークの臭いが強く、内容は全部一流どころばかりだが、個人がこれほどの原稿や写真を集められるわけがなく、全部、どっかからの転載ではなかったろうか。
個人編集者の、プレゼンテーション用に編集した、デモ雑誌、というニュアンスで私なんぞは捉えていた。
内容は、とてもハイカラ。だけど、いかにも神戸っぽくて、どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか、っていうニュアンスは今も残る。(友人の記事に書いた私の書き込み。汗)2014/06/07
これがこの本を読む前の私の偽ざる感想だった。そして、ネットでこの伝説的な編集者の人気が高いことを知って、(あとで訂正を要するだろう。汗)とも書いた。
しかし、中ごろまで読んできて、今の私の感想は、「どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか、っていうニュアンスは今も残る」、と書いたのは正しかったのではないか、と思う。
小島素治は、当ブログでいうところの、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの中の、コンテナとしての雑誌に惚れてしまった男であったのではないだろうか。容れ物としての雑誌は、確かに魅力的である。雑誌そのものが、一つの表現でもあり得る。
だが、私はそれでは満足できない。彼の雑誌は数冊しか見ていないが、彼のやり方は、雑誌を存在させるために、記事を作っている、という感じがする。容れ物は、中身があっての容れ物なのである。彼は、容れ物を作りたかった。その容れ物を存在させるために、中身が必要だった。
だから、はっきり言って、その記事(コンテンツ)は、なるほど、当時の魅力的な材料をセレクトして、当時の彼の魅力とネットワークを駆使して、入れてきている。しかし、どうもそれは、どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか。
だから、コンテンツが結局いいかげんだから、コンシャスネスへと届かない。その道が途絶えてしまっている、と、私なら極言してしまう。
結局、この単行本は「SUB」を追っかけているわけだが、本当に注目すべきは、「SUB」ではなくて、それを追っかけている北沢夏音というライターそのものではないだろうか。そう気づいてみると、この本は、何か他の本を連想させる。
たとえば、当ブログで最近読んだ本に、増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(2011/09 新潮社)がある。 思えば、同時期の出版であるが、実に、その準備期間といい、ノンフィクション・ライティング手法といい、なかなか似ている。その本の分厚さも、濃厚な調査も似ている。木村雅彦は、力道山と対決して、八百長試合と罵られ、社会的に抹殺されてしまった、伝説的な柔道家である。
小島素治はこの本の取材を受けながら、結局この本の上梓をみないで亡くなっていったが、たしか木村政彦も、取材を受けながら(かどうかは忘れた)、結局、上梓を見ないで亡くなっていった。そして、二人に共通するのは、伝説的な超天才的人物でありながら、結局は成功譚としてではなく、それぞれのアイロニーに満ちた悲哀ある人生を送ったところにある。
さて、ここまで来ると、もう一冊思い出す本がある。ちょっと前に出た本だが、伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」地下鉄に乗った同級生(2006/11 集英社)だ。対象となっているのは、一連のオウム真理教事件で被告となり、死刑囚となった豊田亨を、東大時代に同級生だった伊東乾が追う、というノンフィクションである。こちらもまた、成功譚ではなく、悲哀ある人生である。
しかるに、ここに見るべきは、それぞれの小島素治、木村雅彦、豊田亨、などではなく、それを書いた北沢夏音、増田俊也、伊東乾、と言った人々の心象こそ、なのではないか。
富士山は日本一高い山だろうし、エべレストは世界一高い山だろう。それは確かだ。そして、その登頂に成功して、その高さを体験し、また誇示することも、当然と言えば当然だろう。しかし、その上に空があり、どんな高さの山でも飲み込んでしまう無限の空があることを忘れてはいけない。
海は確かに無限に広いが、その海の水の一滴の中に無限が含まれていることを、知ることもまた必要である。ここが感じ取れなければ、コンシャスへの道は開かれない。図地反転しなければ、単なる対象や表現にとどまる。ゲシュタルトを転ずる必要がある。
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