「やさしいかくめい」創刊顛末記 あぱっち 「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><8>
「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<8>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ
★★★★★
「『ホール・アース・カタログ』ともうひとつの出版史」 浜田光 より抜粋
当時、アメリカのカウンターカルチャーの中で「ホール・アース・カタログ」が人々に大きな影響を与えているという情報が入ってきていた。そこで日本でもそういう本を出せないものかという話があちこちで出ていたが、東大の教授だった高橋徹さんから具体的な提案が出てきた。
「やさしいかくめい」と名付けたその本の編集メンバーには高橋さんの他に<部族>の山尾三省さん、おおえさん、プラブッダ、きこりなど10人ほどのメンバーがいた。三省さんやおおえさん、高橋さんらは長老として口だけ出し、僕ら若手が実際の取材や編集活動をするという形で進めた。何人かで手分けして全国のコミューンを取材することになり、僕は北海道や関西へ出かけた。
そうしてようやく一号は思い通りにつくれたものの、今見直すと素人が作った本という印象もある。ひいき目に見ると、素人ならではの面白さもあったかもしれない。「やさしいかくめい」は最初からシリーズもので、全体では10号まで出す予定だった。
一号はその総集編的な意味合いのものだったので、内容もバラエティに富んだものだった。そして二号からは各論に入り、出産と育児という具体的な内容の本だったので編集体制も変わり、末永蒼生さんが中心となった。
そして一号が予想を下回る売れ行きだったこともあり判型を小さくして読ませるような本にして出したが、やはり売れ行きが思うようにのびなかったためけっきょく二号までしか出せずに終り、返本の山と借金だけが残った。
僕は若手の中で編集長という立場だったので、編集だけでなく赤字を抱えた出版体制のことも引き受けることになった。またお金のことだけでなく、なかなか予定通りに編集・出版が進まず、そうとうな年月を費やしたので、そのことも苦い思い出となっている。
そのため今も新聞づくりは続けているが、すぐに出せて決着がつけられるが、本は時間がかかりすぎるからやりたくない。もちろんその時に出会ったたくさんの人達との交流や経験したことは自分の人生上での貴重な財産だとはわかっているのだが。
「やさしいかくめい」の初期には西荻窪の<ほびっと村>の一角を借りて編集室としていた。そして編集作業のために毎週金曜日にゲストを招いて話を聞く「金曜講座」を中心に、指圧教室や太極拳、ヨーガ、産婆の学校などの「西荻フリースクール」をはじめた。スクールはその後、「ほびっと村学校」と名前を変えて現在に至っている。
また「やさしいかくめい」を作っていた頃、僕も東京の三鷹にある元裁判官のお屋敷で日本庭園がついた大きな家に十数人が住むコミューン(ミルキーウェイ)にしばらく住んでいたことがある。ここは「ミルキーウェイ・キャラバン」を主導した人達が中心となり、庭でフリーマーケットを開いたり、家の広間で様々なミーティングを開いたりする<マルチメディア・センター>だった。
そこから30分ほど歩いたところにあるマンションのワンフロアを四人で共同で借りて、何年か住んでいたこともあった。僕が借りていた部屋は「やさしいかくめい」の編集室を兼ねていて、友人たちがそこで定期的な教室を開いていたこともある。たくさんの人達が出入りしたのでにぎやかだった。p116~117浜田光「『やさしいかくめい』創刊顛末記」
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コメント
この雑誌をブログに書いた時は、ほとんど類似の記事が存在しなかった。今は結構ある。広く認知され、評価されるのは、それだけの価値があるからだ。人気記事トップにこの記事が鎮座しているこの数週間、とても嬉しい。
投稿: Bhavesh | 2018/12/11 18:32