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2014/06/14

「みんな八百屋になーれ」  就職しないで生きるには 3 長本光男<2>

<1>からつづく

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「みんな八百屋になーれ」 就職しないで生きるには 3<2>
長本 光男   (著) 1982/07 晶文社 単行本 205ページ
Total No.3267★★★★★

 前回のこの本ついての記事を書いたら、SNSつながりで、貴重なコメントをもらうことができた。散逸してしまうと困るので、こちらにも転記しておく。

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槇田 きこり 但人 わたしのことも出てきたが、当時わたしは若者だった。
中年男性の話の市川さんについて書く。


市川さんは2年ほど前に亡くなっていたことが、4月のポンのイベントで久しぶりに行って、分かった。
妻は先に亡くなり、子供もいなかったので、親戚の子が養子に入り,あとを継いでいた。
今までこのビルを借りているのに契約書らしきものは取り交わしたことが無かった。なので,跡取りになり、契約の問題が出てきているのではと、まず聞いた。そしたら、やはり何もなく、以前の状態のままなのだそうだ。
なくなる前に、あそこだけはそのままでいくようにと、託してくれているのかもしれない。ありがとう、市川さん。

市川さんはその当時、老人ではなくナモたちと同世代だった。
家は百姓家なのだが、明治時代なのか広い畑の脇に、中央線の西荻窪駅が出来た。それで駅前の土地を売ったりした。親は、広い屋敷地の多くを使い園芸屋を開いた。
市川さんは、慶応大学を出て、たしか商社マンか金融関係で働いていたが、親の後を次ぐことになり、園芸屋とアパート経営だけでなく、何かしたかった。
それで、残っていた土地の狭い一つに、四階だてのビルを建てた。
一階をフローリスト カフェ《あんふぁん》。細長いフロアの片面の壁に切り花用の冷蔵庫がズラ〜っと並んでいた。お花を買うのは、住宅地の人だろう。また、カフェなので、お茶を飲むための人も訪れる。一つの空間で二つの商いをドッキングさせていた。
2階以上は、カルチャースクールだった。それぞれ大きい部屋と小さい部屋があった。彼とスタッフが企画して、様々な教室が開かれた。70年代はじめの当時は、朝日カルチャーなどもなく、新宿の駅ビルに産経文化ナントカの教室がある程度だった。
市川さんは、一階もその上も、自分のアイデアでやり始めたが、時代が早過ぎたのだと思う。カルチャースクールは、次第に生徒が減り、教室も減り続けたようだ。フローリストの方も、売り上げは設備投資に見合うものでは無かったのだろう。都心でも無いような新しい二つの事業は行き詰まった。
それで、自分が経営運営することを止めることにしたのだ。
代わりに、原宿の今はラフォーレになっている場の交差点向かいのド超一等地のビルの入り口に小さなフローリストをやり始めたら、それはすごく当たった。
休憩、入ります。

槇田 きこり 但人 つづき書こうと思っている。ホビット村にどう繋がるのか。西荻に当時からあったジャムハウスだ。
最近まで理解していた話だけでなく、ポンのイベントに来てくれたジャムハウスの川内たみさんから聞いたことを、と思ったら、来てた〜〜。
まあ、数人の読者の一人がその本人だが、まあ、書くか。たみさん! あなたに書いてもらった方がいいのですが。さてこのあと再開。

わたしのタイムラインに素敵なウクレレのライブを紹介したので観ていてね。

槇田 きこり 但人 1974年だったか、西荻に映画館が潰れて、空き地になっていた。
雑貨やアクセサリーのシャツハウスの近くだ。
ジャムの川内信也さんやたみさん、弟のアリたちが、大勢の若者を集め、空地の草刈りや清掃をして、《西荻村祭り》を開いた。

それを地元の市川さんが見ていて、こういう若いエネルギーで、古びた商店街に活気が出てくるといいなあと、思ったそうだ。
一年経ち、信也さんに自分の持っているビルがあるんだが使わないかと話をした。
丁度ミルキーウェイキャラバンが終わり、1975年の11月から月一で三鷹のコミューンで開かれるマルチメディアセンターに、信也さんが市川さんからの話を持ち込んで、集まる数多くの中から、長本兄弟商会、ほんやら洞、エマウスの家、この三店なら営業的にもやっていけるだろう、となった。
この続きはまたそのうちなんだが、たみさんから先日聞いたのは、その前のことだった。
わたしは、信也さんに聞いていたのは、村祭りのことだったのだが、そんな突然のことでは無かったと。
市川さんの家と川内家は、当時隣り合わせに住んでいたのだと。
お隣さんで、何年かおつきあいをして、互いのことを理解して親しくしていたんだって。
と他前舞い込んで来たと思っていたのは、わたしら流れものの方で、長年の交流で、互いが世間のやり方考え方と違うことを認識して、リスペクトしあっていたようだった。
これは、わたしにとって驚きの事実だった。
わたしの話はこれくらいで、あとは、たみさんにタッチ。

槇田 きこり 但人 ナモ商会は、コンピューターの導入はしなかったが、この八百屋から独立した卸部門のJACは、早期からコンピューターを導入した。膨大な仕入れと卸の管理では当然しなければならなかった。しかし、会計などのオフィスソフトが有るわけでは無かったので、ソフトを作らなければならなかった。
担当は、CCC印刷をアキとトシから受け継いだダウだった。彼は印刷屋を引き受け事業化をしたかが、自分のドラッグ全般に関する分厚い本を作ったのちに、社長を退き、JACに入った。
一人ではソフト開発が難しく、わたしの友人を紹介した。チーち
ゃんといい、池袋のめるくまーる社の近くに住んでいて、めるく社長たちと親しくしていて、遠野の造り酒屋の娘さんでわたしも仲良くなっていた。『草はひとりでに育つ』をだした出版社の社長の息子がプロデュースしていたドームシアターに《チゴイネルワイゼン》を観に行ったり、明治神宮に連れて行かれ、水の湧く聖地を教えてくれたりした。
彼女がソフト開発に参加したのだが、ナカナカ進まないようだった。その後、彼女は邦に帰ってしまった。開発は上手くいったのかは、分からない。
しばらくして新たなメンバーから、『Mac+』などのMAC関連雑誌の定期購読を申し込まれたので、MACに変えてシステムを構築したのだろうか。
もちろんその頃には、ナモ商会に来る野菜をはじめとした食品の伝票はコンピューターから出力されたものになるだけでなく、様々なデーターがつけられるようになっていった。

槇田 きこり 但人 この本の晶文社の編集者の上司は、津野海太郎さんで、後の『本とコンピューター』誌の編集長をした人だった。
シリーズには、八百屋の他、いくつもの業態の経営者が書いたが、本屋は二つあった。一つは四日市の絵本屋《メリーゴーランド》。ここにはプラサードからカレンダーを卸していた。
もう一つは川崎の《早川書店》の早川義夫さん。義夫さんとは年中、本の問屋街で顔を合わせるのだが、憧れのフォークシンガーだったので、とても声をかけられるようなわたしではなかった。

津野さんは荻窪に住んでいたので、編集者ではなく、時々やって来られていた。津野さんから、おかしな話を聞いた。
義夫さんには津野さんが、プラサードのことを話していたらしく、義夫さんがプラサード書店を見てみようと、一度電車で向かったが、途中でイヤ見るのはよそうと引き返したのだと。
ただそれだけの話だったが、何だったのだろう。

槇田 きこり 但人 もちろん、津野さんは『ワンダーランド』誌を晶文社の編集者として仕掛けた人だ。

槇田 きこり 但人 津野さんはまた、70年前後のアングラシアターの《黒テント  自由劇場》のプロデューサーだったか中心人物でもあった。

槇田 きこり 但人 鶴田静さんの『ロンドンの美しい町』を拾って出版してくれたのも、彼だった。2014/06/14

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