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2014年6月の47件の記事

2014/06/30

「かもめのジョナサン 完成版」 リチャード・バック <7>

<6>からつづく

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「かもめのジョナサン完成版」 <7>
リチャード・バック (著), 五木 寛之 (翻訳) 2014/06 新潮社単行本 170ページ
Total No.3283★★★★☆

1)他の用事をしていた時、NHKテレビのニュースで、かつてのベストセラーがおよそ40年ぶりに完結し出版されました、と言っていた。そのアナウンスを片耳で聞いて、画面を見る前に、あ、それは「かもめのジョナサン」だろう、と直感的に思った。それは、なぜだったのだろう。

2)小説出版のニュースはそれほど多くない。何か賞を取ったとか、せいぜい村上春樹が新刊を出した、というような内容で、普段はあまり興味を持たない。だが、直感的に、ジョナサンを連想した、ということは、どこかに、私も、この小説にいくばくかのこだわりを持っていた、ということになる。

3)出版アナウンスでは、二年前に飛行機事故で重傷を負ったリチャード・バックが、過去の作品を見直して、封印していた第四部を今回付け足して、The New Complete Edition として再刊することにした、となっている。

4)本を読むと、巻頭にリチャード・バックが書いており、実際は、当時書いたけど出版すべきではないとそのままになってしまい、その存在すら忘れてしまっていたようだ。そして、くしゃくしゃになって、タイプの文字も消えかかっていた原稿を、最近になって妻が発見し、再読してみて、作家本人が出版することを決意した、ということになっている。

5)巻末では、五木寛之が解説している。前作の「不完全版」における解説も不評だったらしく、だいぶ批判された、と書いている。それはそうだろうと思う。

6)今回も翻訳となっているが、原作を二人の翻訳家に原訳させて、さらにそこから五木が<創訳>したとのことである。たしかに、原作は楽譜であり、翻訳は演奏であるとしたら、たしかに日本版は別物となってしかるべきだろうが、私なら、楽譜「かもめのジョナサン」の演奏家として、五木は選ばない。

7)解説で、法然や親鸞がでてくるのは、ナマな日本人としての現在の五木の偽ざる本心だろう。だが、どうも、「かもめのジョナサン」の軽さとは、相容れない不協和音が、またまたでてしまっているのではないだろうか。

8)翻訳者が<創訳>と言っているかぎり、原文からは離れてしまっている可能性は大きい。この小説に関心を持っていて、なおかつ英語力がある読者は、これはとにかく英語版を読むべきだろう。

9)そもそも、もともとの英語の「Jonathan Livingston Seagull」は、著者の紹介も、解説者の余分な文章もない、シンプルな物語として出版されている。売れ出すまでに数年かかっているのだ。それなのに、日本では最初から「売らんかな」の姿勢で、必ずしも「翻訳家」ではない五木の名前を借りて売りだそうとしたところに、どうも最初から邪心が入っているように感じる。

10)さて、今回、問題の第四章を読んでみたところ、たしかに、これはこれでいいのではないか、と思う。第三章で終わってしまっては、確かに尻切れトンボのようなイメージがないわけではない。しかし、あれはあれで、その尻切れトンボの魅力があったことも確かなのだ。

11)どこかのニュースで言っていたように、現代社会を批判するための第四章、という解釈もあるようだが、それは可笑しいだろう。仮に、40年前に、現代社会を批判していたとして、その作家もまた、40年もこの社会で生きてきたのだ。自分だけが正義漢ぶって、現代社会などを批判できるはずがない。それは欺瞞だろう。

12)第四章は、あってもいいが、なくてもいい。もっというなら、私なんぞは、第三章も、第二章も要らないと思う。第一章だけで十分じゃないか。というのも、当ブログとしては、小説の完成度など問題になどしていないからだ。小説に「完成」などあるのかないのかしらないが、すくなくとも、いい小説が書けたからと言って、いい人生をおくれたとは、いえない筈だ。小説など書かなくたって、完成などしなくたって、いい人生はいい人生だ。

12)小説というコンテナがあり、ストーリーとしてのコンテンツがあったとしても、そこから更なるコンシャスネスへと繋がっていくとするならば、コンテナも、コンテンツも、不十分で構わないのだ。あるいは、すべてのコンテナ、コンテンツは、不完全なのだ。だからこそ、人は、コンシャスネスへと向かうことになる。向かわざるを得ないのだ。

13)ここのところを読まなければ、そもそも「かもめのジョナサン」など、私は読む必要などない。

<8>につづく

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2014/06/29

100万アクセスありがとう!!

  100万アクセスありがとう!!

 本日、当ブログ1.0と2.0合計で、PV100万アクセスを達成した。

100万回目にアクセスしてくれたのは、次の方。

2014年6月29日午前6時28分08秒VistaIE9で「よく生きる智慧」

に来てくれた、あなたです。

 あ、私だ、と思われた方は、ご連絡ください。粗品進呈いたします。

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 2005年9月に登録したものの、実質的にスタートしたのは翌2006年3月14日からだった。あれから、早いもので、8年と3ヵ月が経過したことになる。これまで、日々アクセスしてくれて、孤独な長距離ランナーを支えてくれた読者のみなさんに感謝します。

 最初は楽天ブログでスタート。他の友人たちのブログも楽天を使っているのが多かった。しかし、だんだん慣れてくると、どうも楽天はアクセス数は多いのだが、ジャンクな書きコミは多いし、雑音が多すぎた。決定的だったのは、動画を使えなかったこと。

 そこで、他のブログサービスを検索したところ、このニフティブログ=ココログが一番私には合っていた。そこで2.0として2009年3月に再スタートしたのだった。ココログは、アクセス解析能力が優れているところもお気に入りだった。

 それから1.0は放置して、2.0に専念してきたのだが、逆にココログはあまりアクセスが増えない。地道な日々が始まった。あれからカウントしてもすでに5年3ヵ月が経過したのか。あっと言う間だった、というつもりはないが、でもこれだけの時間が経過した、というのも実感はない。

  最初のテーマは梅田望夫の「ウェブ進化論」(2006-02ちくま新書)を検証することだった。それから延々テーマを乗り継ぎ、現在は「コンシャス・マルチチュード」なるカテゴリ名を進行中である。実に50番目のカテゴリーである。

 100万アクセスと言っても、セットミスで自分をカウントしてみたり、あるいは時には逆にカウンターが逆戻りしたりしたので、厳密に100万アクセスではない。しかしながら、おおよその一日あたりのアクセス数は決まっており、やはり日数が経過しないことには、この数字には達しない。あらためて、人生の後半においての、この営みがあったことは、記憶すべき重大事である。

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2014/06/27

「風景の思索」-都市への架橋 栗田 勇(「戦後史の出発点―わが青春の風月堂」)

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「風景の思索」-都市への架橋
栗田 勇 (著) 1977/09 白川書院 単行本: 259ページ
Total No.3282★★☆☆☆

 60年代風月堂の香りを辿って、電脳・風月堂参考資料リストの中に、風月堂に言及しているとされる本から、これまで当ブログが読んだこのリストを作ってきた。原リストには(「戦後史の出発点―わが青春の風月堂」所載)とある限り、この本は、その十数ページを読めばこの本は足りるだろう。他は割愛する。

 著者、栗田勇とはどんな人だろうと、わがブログをググってみると「一休 その破戒と風狂」2005/10 祥伝社)が出てきた。なるほど、その方面の人ね。

 武蔵野館の前通りより一本裏で、駅の反対側へ五、六軒はなれたところに、音楽喫茶「風月」がある。ほかに「ポン」とか「プリンス」とかいう名の喫茶店が目に浮かぶが、あれが出来たのは、もう少し、後のことだろうか。p47「戦後史の出発点―わが青春の風月堂」

 この一文は、戦後間もなく出来たという新宿風月堂の風景だろうか。60年代というより、50年代半ばの情景の匂いがする。

 旭町ドヤ街の朝は、9時に最大のヴォリュームを上げた電蓄が鳴り出して宿泊人を追い出す。そこから朝の白い光のなかをガードをくぐって二、三分もどれば、武蔵野館をへだてた前の小路の反対側が、音楽喫茶「風月」である。

 ただ、十時開店なので、この数分の道を一時間かけてたどるのは、なかなかむずかしいことである。まだ懐に残金があれば、例の一膳めし屋へゆくことになるが、たいていは費いはたしているのが常である。「風月」が開くを待ちかねて入ると、同じように、前夜の顔ぶれが、二人、三人と集まってくる。p55 同上

 この一文は77年に出た本に収蔵されているし、73年の閉店にも触れているので、70年代に書かれたものであることは間違いないが、いわゆるフーテンとか新宿風俗とか云われる風景とは一線を画しているようにも思う。

 「風月」が新装した後、ここでアングラ劇団が集まり、ときに、ベトナム脱走兵の溜りとなり、ヒッピーの世界にしられた連絡場所となる基礎は、もっとずっとひそやかな形で戦後に芽生えていた。ぎゃくにいえば、ここにだけ、あの戦後のアナーキイな自由が残っていたといえるであろうか。p56 同上

 戦後があり、新宿があり、そこに集う人々があった。まずその基礎があったのだろう。そこに新宿風月堂があり、その雰囲気を色濃く残した空間が、ある種の人々を集めていった、ということだろう。

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2014/06/22

「幻覚芸術」 LSD、サイケデリック、ラブ・イン 蟻 二郎

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「幻覚芸術」 LSD、サイケデリック、ラブ・イン
蟻 二郎(著) 1970/04 晶文社 単行本(ハードカバー) 211ページ
Total No.3281★★★★★

 60年代風月堂の香りを辿って、電脳・風月堂参考資料リストの中に、風月堂に言及しているとされる本から、これまで当ブログが読んだこのリストを作ってきた。

 取り締まりがきびしくなると、販売方法も角砂糖から封筒のフラップへ、封筒のフラップから吸取紙へと巧妙に姿を変えていった。本物が禁止されると、しぜん代用品が求められるようになる。バナナの皮の内側の細い繊維を剥ぎ、それを高温で乾燥したものを吸うとLSDとおなじような刺激が得られ、酔うことができる。

 その頃、薬がきれかかっていた、若者たちが飢えた蝗(いなご)の群れとなってスーパー・マーケットへ押し寄せ、バナナをむさぼり買っていったことが新聞に報じられている。後で調べてみると、実は、売れ残りのバナナをかかえて弱っていた業者たちが仕組んだ罠だとわかった、のもその頃のことである。

 バナナ常吸者、という言葉はこんなふうにしてできた。東京、新宿の風月堂などでも、その頃バナナの繊維を乾燥することがまことしやかにささやかれ、画風を一変したいと望む前衛画家の卵や写真家たちが乾燥バナナの皮をおそるおそる試食していた。

 バナナの乾燥皮を喫っていた者はまだしも被害を蒙らずにすんだが、自家用LSDを服用した者たちのなかには、突如原因不明な下半身の麻痺に見舞われ、そのまま起つことができず、廃人化した者がかなりいる。p50「バナナの繊維を高温乾燥すれば薬刺激はえらえるか」

 私もこれをやったことがある。たしか中学生か高校生の頃、「平凡パンチ」か「週刊プレイボーイ」に載っていた。あるいはペーパーバック版の「ポケットパンチOH!」だったかも知れない。やる前はワクワクした。家に誰もいない時を見計らって、ひとり台所に立った。バナナの裏筋を何本も取り、アルミフォイールに包んで、ガス台であぶった。

 たしかに、かすかな匂いはしたように思うが、それがまったくのインチキだったことは、ほんの数分後にわかり、ひとり大笑いした。そんなアホな記事に引っかかった自分が可笑しかったが、このニュースは全国的というか世界的だったことを、この本で初めて知った。引っかかったのは私だけじゃなかったのだ(爆笑)。

 日本でも一年ほど前、東京の新宿、紀伊国屋書店の昇降口や喫茶店風月堂の前などで、フーテン袋をかついだ若者たちが、ザ・トライブ(部族)というタブロイド版の新聞を売り出して、週刊誌にささやかな話題を提供したことがある。

 「エメラルドの微風プレス」発行(ママ)というその発行所名がすでにインディアン風の命名法を想起させる。緑と赤でインドともチベットとも出所不明な偶像を表紙に配色し、ヒンズー思想研究の手引きとしてスワミ・ニルヴェーダナンダ(ママ)の「不滅の言葉」を掲げ、長野県諏訪之瀬(ママ)に在るかれらの労働共同体の風俗思想が紹介されていた。

 同誌のカメラマンの語るところでは、諏訪之瀬のほか、富士見など、日本全国にいくつかの自給自足的な部族、コンミューンが散在しているとのことであった。誌面には、土中へ全身を埋めこみ、首から上だけ露出し、ひっそりと閉眼している原始人めいた風貌の男の写真と、ベトナム反戦のプラカード写真が同居している。

 かみなり赤鴉族、エメラルド色の風族(ママ)、ガジュマルの夢族などいった珍奇な命名は単に気まぐれの戯れであるようでもあり、或はその他方に土俗する民話のいわれを含意豊かに踏まえたもののようにも思われる。p105「サイケデリック革命」

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B1山田塊也「アイアムヒッピー」 日本のヒッピー・ムーブメント’60-’90 2013増補改訂版(2013/10 発行=森と出版)の付録より

 この本はなかなかに面白い。発行された1970年4月、というタイミングも微妙であり、書かれている内容もなかなかである。ただし、上に抜き書きした部分でも明らかなように、全てが正確に描写されているわけではない。検証しうる眼をもつなら、この本からは、あの時代の可能性と、未来への橋渡しの役割をはたそうとする熱意が感じることができる。

 意識の拡大や、インスタント禅、共同体、想像力、その他、世界的文学的系譜への言及も多く、なかなか読ませる。

 私自身についていえば、小学生時代からジャーナリスト志望だったし、それなりの好奇心はあった。時代の話題になっていることについては、一通り見聞し体験しておくべきだろうという野心は常にあった。雑誌づくりというネットワークと、共同体という場に関わっていた手前、引っかかり、持ち込まれた体験については、人並みにあった、というべきだ。

 しかし、ことこの本のテーマにおいては、後年、同時代にOshoがこのことについて、小さなブックレットを残しておいたことを知った。私は、ひとりのサニヤシンとして、Oshoの言に信頼を置くものである。

   LSD : A Shortcut to False Samadhi 
             Osho February 1971

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 なお、蟻二郎というのは、1967年に出版社・太陽社を興した1928年生まれの三宅二郎のペンネームのようだ。

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2014/06/21

「幻覚の共和国」 金坂健二

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「幻覚の共和国」
金坂健二 1971/02 晶文社 単行本(ハードカバー) 463ページ
Total No.3280★★★★☆
 
 60年代風月堂の香りを辿って、電脳・風月堂参考資料リストの中に、風月堂に言及しているとされる本から、これまで当ブログが読んだこのリストを作ってきた。

 金坂健二という名前はビッグネームだった。すくなくとも1972年に高校を卒業して、仲間たちとコミューンを形成し、雑誌を作ろうという段階では、大きすぎる名前であった。当時、この本は、リアルタイムで私たちの空間に存在していた。飛びぬけて大きな存在感のある名前であっただろう。

 しかし、その本の内容は、どれほど私たちのムーブメントに直接的に絡みこんできただろうか。この方は、どのような人生を送ったのか知らないが1934年に生まれ、1999年には亡くなっているらしい。その残された資料は、pdfのような形で見ることができるようだ。

 何はともあれ、この本の中で風月堂に言及している部分を抜き書きする。

 アメリカでヒッピー族の発生が話題になる頃から、フーテン族が新宿駅”グリーンハウス”や喫茶店の風月堂にあふれた。67年の夏がそうした集合のピークであり、そこには、表現されるにはいたらなかったけれども、文化的な造反へのひとつの気運は漂っていた。

 68年秋のいわゆる「10・21」騒乱にもフーテンがひと役買っていたが、これがそれ以後急速に退潮した。風俗化にはもちろん68年のサイケ・スナックの発生と同時に本格化し、ロックの前身としてゴーゴー・ダンスが新宿族の言語に代わるように見えたが、それは同時に資本の流通過程にアングラが同調したということでもあった。

 だがじつは、新宿をほんとうにわれわれのコミュニティにするためには、なにはさておき、われわれ自身のメディアを確立する必要があったのだ。p190「アングラの発生史略」

 ある種、おざなりな表現であるが、この本に書かれているということはそれなりに意味はある。

 さて、当ブログにおいては60年代的な新宿風月堂・関連リストを作り始めて、かなりな駆け足だがすでに15~6冊に目に通してみた。最初曖昧模糊としていた風月堂風景だったが、複数の記述を擦り合わせてみると、おのずとステレオ効果で、その姿が静かに浮上して来た。 

 あと数冊読みこむ予定だ。これ以上さらに読み込みを続けることも可能だが、そろそろこの辺で、当ブログなりの本来の姿にもどっていく必要があるだろう。そうした場合、今後、せっかくの風月堂追っかけの、その痕跡をみようとした場合、どこかに集約しておく必要を感じる。

 これらのリストの中から、敢えて、三冊を選ぶとするなら、次のようになるだろう。

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 「乞食学入門(ビートロジー)」(北田玲一郎 1968/06 ノーベル書房)は、いわゆる新宿風月堂に出現したフーテン・ヒッピーの出自をより明確に表現している。

 「アイ・アム・ヒッピー」山田塊也 1990/5 第三書館は、冷笑的に名づけられたレッテルを逆手に取って、そのカウンターカルチャー性を明確に歌い上げる。

 そしてこの「幻覚の共和国」 (金坂健二 1971/02 晶文社)は、日本の60年代的現況をも紹介しつつ、その震源地たるアメリカでは一体何が起きていたのかを網羅する。

 いずれ、このテーマを深追いするなら、この三冊を精読するところから再開するのがいいだろう。

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「機械的散策」―評論集 関根 弘

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「機械的散策」―評論集
関根 弘 (著) 1974/04 土曜美術社 単行本 318ページ
Total No.3282★★★☆☆

 60年代風月堂の香りを辿って、電脳・風月堂参考資料リストの中に、風月堂に言及しているとされる本から、これまで当ブログが読んだこのリストを作ってきた。本書は次のように評されている。

 関根弘は「新日本文学」にもかかわり、労働組合の機関紙などに掲載される詩文などを注視していた詩人だ。なのに新宿に在住した縁でか、フーテンたちにも温かい目を注いだ。風月堂閉店に言及している。 電脳・風月堂参考資料リスト

 本書は、1974年にでた評論集であり、40弱の評論がひとまとめになった一冊であるが、この中に60年代的な新宿風月堂の消息を求めるとすれば、まず、この「閉店」風景を尋ねる必要があろう。

 新宿の風月堂が店を仕舞うそうだ。なんの変哲もない喫茶店だったが、数年前から俄かにヒッピーのメッカとしてクローズアップされた。新宿中央口広場を新聞の命名にしたがえば、フーテンがグリーン広場と名づけてどこからとなく集まり、夜を明かすという夏があった。

 ときならぬ異様な若者たちの集団の出現にマスコミが注目して、これを大きく報道したのが、日本版ヒッピーの存在を世間にしらせた最初である。この広場に集まった若者たちは、申し合わせたように無精ヒゲを生やし、その服装も、俗世間の若者たちとはかけ離れたボロをまとっていた。

 乞食スタイルだが、これこそヒッピーの正装なのであった。このグリーン広場に集まった若者たち大半が鳩の巣のように出たり入ったりしていたのが、風月堂である。

 フーテン、より正しくいえば、日本版ヒッピー族は、ある日、突然、ウンカのごとく湧き出たのではなかった。その前史ともいうべきものがある。まず青い目のヒッピーが「五ドルで遊べる東京」という本のなかに風月堂を紹介した。

 それから同類の青い目のヒッピーが東京へくると必ず立ち寄る店となり、外国人にあこがれをもつ日本人との交流の場ができた。ヒッピーは、体制からドロップ・アウトした理想主義者であって、自由人の精神といえば体裁はいいが、貰い物の精神で生きている。かれらの先祖は、詩人のアレン・ギンズバーグ、ゲーリー・スナイダーなどだ。

 彼らは世界を股にかける放浪常習者だ。東京は風月堂を媒介としてヒッピーにとっての暖かいベットとなった。自然の成行としてかれらの哲学、人生態度に感化されるものがでてきた。ヒッピーの哲学は、アメリカ的生産第一主義の文化にたいするアンチ・テーゼだが、日本に輸入されたのは体制離脱者というより、体制脱落者の自己合理化に短絡したようだ。マスコミはこの新型の家出人口をフーテンと名づけたのである。p82「詩人と放浪」

 これ以下は、一般論に終始する部分であり、端折る。

 風月堂はフーテンのメッカになり、新宿の名所となったが、経営的にはプラスにならなかったであろう。なにしろ一杯のコーヒーで粘りに粘るので儲かるお客さんではない。いつも満員でも利益が上がらないというのが、店を仕舞うことになった原因であろう。背に腹はかえられぬというわけだ。

 風月堂がなくなるということはいろんな意味で新宿が淋しくなることであり、ザンネンだが、わたしが風月堂の役割をあらためてふりかえったのは、いたずらに嘆き悲しむためではなく、詩人と放浪というテーマに今日的照明をあてたかったからだ。p83 同上

 このほかにも「歩行者天国」、「新宿西口広場の歴史」、「騒乱新宿--自衛作戦の全貌」などの評論もあり、どこか関連しているようでもあるが、今回は「新宿風月堂」にフォーカスしているので、割愛する。

 著者には先行する「わが新宿!」叛逆する町(1969/05 財界展望新社)がある。 

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「エグザイルス」放浪者たち すべての旅は自分へとつながっている ロバート・ハリス

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「エグザイルス」
ロバート・ハリス   (著) 1997/06 講談社 単行本(ソフトカバー)  358ページ
Total No.3281★☆☆☆☆

 60年代風月堂の香りを辿って、電脳・風月堂参考資料リストの中に、風月堂に言及している一冊として見つけた一冊。これまで当ブログが読んだこのリストの中では一番最近のものに類する。

 1971年。巷には反体制論が飛び交い、初代仮面ライダーがショッカーとの対決を始め、「男おいどん」があのサルマタケの生えるアパートに引っ越してきた。六本木はベトナム帰りのGI達であふれ、ジャズ喫茶「チェック」では、和製ビート族がチャーリー・パーカーを聞きながら「ハイミナール」でハイジャンプしていた。そして新宿の「風月堂」は相変わらず自称詩人と貧乏外人とフーテンとドラッグ・ディラー達で賑わっていた。p170「内なる砂漠」

 当ブログにおいては、このような表現は三文安い。1997年の段階で1971年の状況を書こうと言う時、たしかに、他の文献をたよりにしながら、この程度の「水増し」はできるだろうが、このような表現をすることに、著者において、どれほどの内的な要求と、必然性があるだろうか。

 フラストレーションが溜まれば溜まるほど、ドラッグへと走っていった。ベトナム帰りのGI達から買ったブッダ・スティック、LSD、「風月堂」で手に入れたハイミナール、スピード。現実がダメなら現実を変えちゃおう・・・・。僕は暇を見つけてはLSDでインスタント・ビジョンに浸り、ビジョンが薄れてくると眠るためにダウナーを摂り、次の日はスピードを摂って授業や仕事を乗り切るということを繰り返していた。そして、やればやるほど僕は落ち込んでいった。p177 同上

 このような文脈で引用される風月堂も迷惑だろうが、多くの読者にも誤解を招くだろう。いずれにせよ、紋切り型、ステロタイプを多用した、実に薄っぺらい表現である。358頁全体が、ジャンキー話でまとめられたこの一冊は、読む人によって、さまざまな評価が与えられるだろうが、当ブログにおいては、最低限レベルにとどまる。

 ある時、僕の学生時代のヒーローのひとり、アメリカのビート詩人ゲイリー・スナイダーも、彼の友人であり、日本のヒッピームーブメントの元祖のような詩人、ナナオ・サカキとともにやって来て、特別なリーディング・イベントをやってくれた。彼らは二日間、「エグザイル」の画廊に泊まり、僕の仲間達と酒盛りをしてくれたが、その時僕は、とうとう自分の描いていた文学的「神話」の中に自分もいるんだということを実感し、嬉しかった。p307「友はエグザイルの中にいた」

 この文章を読んで、どれだけ多くの読者が感動することだろう。読めば読むほど興ざめするのではないだろうか。実に皮相な表現だ。昔から夢見ていたマックのパソコンをようやく買う事ができた、とか、小さいころから夢見ていた初めての海外旅行にいくことができた、だの、まぁ、実に幼児性の強い表現である。おもちゃを与えられてはしゃいでいる幼児にすぎない。

  この本は小説仕立てになっているので、ネタばらしはしないでおこう。すくなくともこの本は、1997年という問題ありの年代に、講談社という、利益優先の出版社からでているのであり、本の成り立ちとしては、はっきり言って、胡散臭い。

 1948年生まれのジャンキー路線を走る著者には、他にも類書があるようだが、まぁ、今回のように、他人のリストに混ざっていなければ、当ブログで読むようなことは通常ないだろう。カッコつけてんだか、恥かいてんだか、わからないような、一冊。

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「青春 この狂気するもの」 田原 総一朗

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「青春 この狂気するもの」テレビドキュメンタリストの眼
田原 総一朗/著 1969/10 三一書房 新書本 255p
Total No.3280★★★☆☆

 電脳・風月堂参考資料リストをナビとして、60年代の新宿風月堂追っかけ中の一冊。著者はおなじみのテレビ・ディレクター。そもそも私は金曜夜の朝まで生テレビなど最初からあまり見ていないが、最近は、ますます入れ歯が合わないのか、聞き取りにくくなった著者の発言などは、もう、正直あまり聞きたくはない。とっくに引退されてもいい時期のお方とお見受けしているところではある。

 1969年における、コンテナとしてのテレビと、コンテンツとしてのドキュメンタリー、その葛藤の中から、自ら関わった5本のテレビ番組を検証することで、さらなる真実を探ろうとする試みの一冊。今回は、この中の一章だけがお目当てなので、他の4本については割愛する。

 中央通り、風月堂に近い音楽喫茶の二階、煙草の煙とむっと鼻をおそう得体のしれない強烈なにおいのなかに、十人ばかりの異様な風態の若者たちがかたまっていた。アリババ、ピエロ、ナシ、ゴキブリ、ミキ、みんなそろっている。p118「新宿ラリパッパ」

 1934年生まれの著者、当時35歳、テレビ局のディレクターとして、新宿グリーン・ハウス(芝生)にたむろする若者達をドキュメント番組におさめようとする。そもそもそれは「やらせ」で、台本を書いたのは、ティーチ・イン「騒乱の青春」(1969/01 三一書房)を編集した内田栄一。ギャラを渡して、いわゆる新宿フーテンたちに「芝居」をやらせようという企画である。しかし、その直前に、ラリっていたフーテンがやくざに殺されるという事件が勃発し、シナリオ通りでもなくなっていく。

 わたしは、もちろんNの話を思い出し、全学連との共闘のひとつのかたちなのかとも考えたが、出かけたのは、どうやらゴキブリ一人らしく、しかも行った理由は「風月堂でヘルメット拾ったから」だということだった。もっとも<拾った>というよりは<盗んだ>といった方が正確らしく、共闘というよりは、Nの言葉でいえば<エネルギー>の浪費の方にずっとチカそうだった。p134 同上

 当ブログは現在、風月堂追っかけなので、文脈を無視して、その店名がでてくるところだけを抜き書きしておく。なにはともあれ、1969年という時代性を無視して、今さら2014年の現在、45年前のことについて細かく語るのは時空間がずれ過ぎているが、それにしても、事実を、テレビというコンテナに乗せようとして、コンテンツ化する作業は、きわめて雑で、大事な、コンシャスネスへの道をズタズタに踏みつぶしてしまっているのでは、と感じる。

 グリーン・ハウスに私服の姿が目につくようになった。風月堂で、ミニスカートの婦警らしい女が、小型カメラで出入りするフーテンをとっているという噂が流れた。フーテンたちは、婦警のいる席を図で示し、カメラでとられない入り方、撮影されな席を検討し合った。それならば、風月堂などに入らなければよさそうなものだが、危険をおかしてもコーヒーを飲みにいくのが、フーテン気質というものらしかった。p134 同上

 時代の緊迫した状況を語ってはいるのだが、そして当の登場人物たちも、割と軽薄ではあるのだろうが、それを見つめる目も、同じくらい軽薄だと、現在の私なら感じる。

 ジェームス・ロイ・ショーという黒人が大麻取締法違反で警視庁に検挙された。更に、グリーンハウスなどで売っていたヒッピー新聞「部族」の発行所が手入れをくってかなりの大麻が押収され、この新聞の発行責任者も逮捕された。そして、大麻の密輸でフーテンとヤクザが奇妙な協力関係にあることが明るみに出た。p144 同上

 1969年のことである。この、いわゆるヒッピー新聞「部族」は売れに売れて数万部売れたというから凄い。手入れがあったことも、山尾三省や山田塊也などの著書のいくつかに描かれている。

 新宿伊勢丹前はいつもと変わらず、人目をはばからない恋人たちであふれていた。風月堂前には私服の姿が見えた。そしてグリーンハウスには、人影はなかった。p145 同上

 1969年、テレビとドキュメンタリーという組み合わせは、時代の最先端であったことだろう。だが、どうもこの著者は、この当時から何かが片手おちだ。というのか、この手の商売は、ここまでなのだろう。

 「わたしも、またすぐに長野に帰る。フーテンごっこにあきちゃったからしばらく山ごもりしてみるの」
 「それにあきたらどうする?」
 わたしが聞くと、
 「何ごっこしたらいいか考えてよ」
 ミキはいった。
 わたしはふとNのことを聞いた。
 「死んだそうよ」
 ミキは答えた。彼女の話では、警察の留置場で死んだらしいという。
 「Nは何ごっこっていったらいいのかなあ。サイケごっこ? 革命ごっこ? 彼、よく新宿をグリニッチビレッジにするんだっていってたわ。誰も本気にしなかったけどさ。そのための資金をつくるんだって、危ないことやってたのよ。マリファナのなかつぎよ。口ではえらそうなこといってたけど、うまいように騙されてばかりいたらしいわ。黒人とかヤクザとか、相手は悪ばかりだもんね。そのうち、Nは薬で自分の頭の方がサイケになってしまったのよ。でも、『新宿をグリニッチビレッジに』なんて、ちょっとカッコイイじゃない。Nってイメージが豊かで、好きだった」
 ミキはそういってじっとわたしを見た。思いがけない熱っぽい目だった。
 「Nは、何のためにそれをやろうとしたのだろう?」
 わたしが聞くと
 「何のためでもないわよ。何のためでもないから、Nは熱中していたのよ」
 ミキは怒ったような口調でいってから、ちょっと微笑して、「ごっこよ」とつけたした。そして8月24日にまた<ごっこ>があるらしい、そのときには東京へ帰ってくるつもりだといった。
p151 同上

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2014年上半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2013年後期よりつづく

2014年上半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10 

(本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの作品の感想に飛びます)

第1位 
Ko
「100年後の人々へ」
小出 裕章 2014/02 集英社

第2位
Ooc
「アウト・オブ・コントロール」 福島原発事故のあまりに苛酷な現実 
小出裕章×高野孟 2014/1 花伝社

第3位
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「福島原発事故 県民健康管理調査の闇」 
日野 行介 2013/09 岩波書店

第4位 
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「タマサイ 魂彩」
星川 淳 2013/10 南方新社

第5位 
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「スペクテイター」<29号> ホール・アース・カタログ<前篇>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎

第6位 
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「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇>エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎

第7位 
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「20世紀エディトリアル・オデッセイ」 時代を創った雑誌たち 
赤田 祐一 +ばるぼら 2014/04 誠文堂新光社

第8位 
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ビットコインの可能性
「Newsweek (ニューズウィーク日本版)」 2014/02/25 阪急コミュニケーションズ

第9位 
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「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004
2014/01  晋遊舎 

第10位
9784576131931
「可笑しな小屋」
ジェィン・フィールド=ルイス 2013/12 二見書房

次点 
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「ミシンと日本の近代」 消費者の創出 
アンドルー・ゴードン 2013/7 みすず書房

2014年後期へつづく

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2014/06/20

「脱走兵の思想」 国家と軍隊への反逆 小田実 ・ 鈴木道彦・鶴見俊輔 (編集)

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「脱走兵の思想」国家と軍隊への反逆
小田実 ・ 鈴木道彦・鶴見俊輔 (編集) 1969/06 太平出版社 単行本(ハードカバー) 276ページ
Total No.3279★★★★☆  

 この本もまた、電脳・風月堂参考資料リストの中から「とりわけ風月堂に言及があるもの」として★マークがついている一冊だが、私のようなパラパラ読みには、なかなかその箇所を見つけることができない。既読書を中心に追っかけリストをまとめておいた。

 「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)でやっているようなデモとなると、となりを歩いている人間がどんな職業、性癖の持ち主なのか、いや、名前さえ知らないのだ。共通していることは、ただ一つ、「ベトナム反戦」をめざしてデモ行進をしているというただそれだけのことで、たよりないと言えばまことにたよりない。

 しかし、そうしたたよりなげさは脱走兵の脱走という行為、脱走兵を助けるという行為にはある。そして、さきにも述べたように、全世界の人間の数から見れば、脱走兵をとり囲むデモ行進の人間の数はまだまだ少ないのだ。

 閑散とした街路で、五人ほどでデモをやっているみたいだ。いや、群衆のなかで、ときには、群衆の流れにさからってまでデモをやっている、というわけかもしれない。p19小田実「こちらからむこうへ突き抜ける--等身大の行為としての脱走---」

 この本には、小田実 ・ 鈴木道彦・鶴見俊輔の他に海老坂武や小中陽太郎などが編者・執筆者として名前をつらねており、いわゆる当時のべ平連が企画した(p13)本であることはすぐに気付く。

 米海軍空母イントレビッド号から四人の脱走兵がでたのが、1967だというから、それから緊急にまとめられた一冊と言えるだろう。

 Cは、ベトナム戦争で腕を射ぬかれ、日本におくられて来た。ちょうど東京の王子野戦病院にいたころ、日本のデモ隊が病院をかこんでベトナム戦争に反対をさけんでいるのをきいたという。全快して病院を退院し、もう一度ベトナムに送られようとする直前に逃げた。 

 おとなしい男で、一日中だまってにこにこしていた。退屈はしないらしい。スケッチ・ブックをあけて、一枚にゆっくりと時間をかけて、目に見える景色をかいていた。一枚の絵にどうしてあれだけの時間をかけるのかと思うくらいだった。 

 画風は、サイケデリックは画風というのだと教えてくれたが、画風だけでなく、彼の人がらそのものが、ヒッピーだった。羊のようにやさしく、それゆえに戦争というものは、彼には理解できないのだった。日本滞在の記念に彼ののこしていったらくやきは、今の手もとにある。p63鶴見俊輔「脱走兵の肖像」

 この本では、出版物や地名は盛んにでてくるが、実際の住所や施設の名前などの露出は稀である。思ってみれば、いかに正義あふれる行動とは言え、法律や軍法が相手の直接行動である。むやみやたらに個人名や施設名がでたならば、予期し得ぬ弊害もあり得ただろう。

 当ブログにおいては、「ほびっと 戦争をとめた喫茶店」 ベ平連1970ー1975 inイワクニ(中川六平 2009/10) という本を読んだことがある。米軍基地が近い山口県岩国市の反戦喫茶「ほびっと」もまた、地の利から考えて、脱走兵との関わりがあった施設である。ただ、この本がまとめられたのは2009年になってからであり、一般的にはなかなか個的な施設名を出版物に描き出すことは、当時の状況では難しかったであろう。

 駅に着くとまず我々は、手頃な喫茶店やレストランに入る。そこでサイドの時間調整をするわけだ。駅のホーム等は我々にとっては危険な場所なのだ。列車の発車2~3分前にホームに入る。もちろんホームに入る前に斥候(せっこう)を送り、あやしい人影はないか、列車の発車時刻に変動がないかを確認させる。そして、僕達が列車に無事乗り込んだ事を確認した見送り人が自分達の中枢に連絡をとり、その中枢から次の中枢へ僕達の到着時刻が知らされ、次の行動が待っているのだ。p138匿名「あわれみと驚きの眼差し」

 もし、このような当時の状況の中で、新宿風月堂もなんらかの連絡場所や避難場所に使われていたとしたら、仮に大きな役割を(結果として)果たしていたとしても、店名の明記などが、この本にほとんどないことは大いに理解できる。

 ウィスキーの酔いがまわるにつれて、彼はますます饒舌になって来た。かれは衛生兵だった経験上医学的なな方面にはなかなかくわしい。やおら取りだしたメモ帳のはし切れに、酸素や水素、炭素等の分子記号がやたらと並んでいる。

 「それはなんだ」と聞くと、得意げに説明を始めた。日本では、麻薬はマリファナからLSDまで、手にいれることはとうてい不可能なので、彼らはそこいらの薬局で市販しているコカイン系の薬で代用するらしい。おどろくなかれ、一般に流通している風邪薬や鎮痛剤のほとんどが、彼らの手にかかると麻薬に化けるのだ。

 リックの話によると、ベトナムで負傷をしたりすると、手当のしようがないものだから、やたらと軍医が麻薬を注射するらしい。彼もその時から麻薬のとりこになったようだ。脱走兵の多くは麻薬の経験を持っている。p140「脱走支持者の手記・記録」

 リックと共に脱走して来たジョー。彼の場合はすさまじい。風邪薬も何もない時には、電球のソケットに手を突っ込んだり、都市ガスを吸い込んで、High(彼らは、麻薬を飲んだ時の状態をこう表現する)の状態になれるんだと説明する。但し、シンナーは最低だと言うことである。麻薬には余程の魅力があると見えて、彼らと雑談してるときは必ず麻薬か女性の話題で落ち着く。p140 同上

 この世界においては、当時、アメリカは「先進国」であり、「後進国」たる日本側には、予備知識も少ない。

 脱走兵援助活動は、アメリカの侵略に反対するものに大きな力を与えているが、同時に、アメリカ軍に対しても、強いショックとなった。早い話、なぜ脱走兵が「べ平連」という小さな名まえを知るようになったかと云えば、これはアメリカ軍当局のおかげなのである。

 日本に来るすべてのアメリカ帰休兵たちは、まず羽田で「けっしてべ平連に近づくな」という訓示を受けるからである。そのことによって、私たちの存在はかれらに知られる。その点で、私たちは、ベトナムの前進基地=日本という悲しい特殊性を逆手にとっているといえるだろう。p194 小中陽太郎「いまやイントレピットの四人は世界の伝説になった」

 1980年代になってからだが、私はすぐ近くにできた英会話教室に通うことになった。そこの教師は、アメリカ人だが、当時の徴兵令を忌避し、カナダに亡命し、イエローキャブの運転手などをしていたという。そしてそこで知り合った日本女性と結婚し、やがて来日して、日本で暮らすようになった。

 1972年の沖縄返還直後にコザをヒッチハイクで訪れたりしていた自分ではあるが、実に日本にいても、これらの問題が、まったく無関係に進行しているとは思えなかった。

 脱走兵の大部分は、決してスウェーデンに行くことばかりを望んでいるのではない。日本に亡命すること、韓国軍から脱走した金東希がいったように「平和憲法のもとにある日本」で生活すること、をこそ望んでいるのである。p274「あとがき」

 かつて、60年代の脱走兵たちをして、「平和憲法のもとにある日本」と言わしめた日本国。亡命したいと言わしめた日本では今、集団的自衛権の拡大という旗印のもと、平和憲法さえ踏みにじられようとしている。

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「乞食学入門(ビートロジー) 」 北田 玲一郎

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「乞食学入門(ビートロジー) 」
北田 玲一郎 1968  ノーベル書房 単行本  313ページ
Total No.3278★★★★☆

 昨年(注1967年)の夏、東京・新宿をはじめ、横浜・京都・神戸などに「ふーてん族」なる奇妙な若者たちが登場し、一般社会風俗化して問題をまき起こしたが、その発生源が、この北田玲一郎の「乞食学入門」である。

 「乞食学入門」は、「総合芸術」22号(40年<注1965年>9月発行)から連載されたが、この連載によって、もともと前衛的な若い世代を読者層にしていた「総合芸術」の部数が急激にふえはじめ、特に東京・新宿界隈の若いボヘミアンたちに圧倒的な人気を博した。

 「ふーてん族」発生地といわれる喫茶店「風月堂」などでは、当時各ボックスの上に必ず「総合芸術」があった、といわれるほどであった。p11 篠原央憲「序文」

 現在、当ブログは、電脳・風月堂参考資料リストをナビとして、60年代の新宿風月堂の追っかけをしている。それは、60年代から70年代、そして経過を経て現在へのプロセスを明確にしておこうという試みの中の、ひとつのプロジェクトなのである。

 今まで追っかけてきた新宿風月堂の参考資料文献は必ずしも風月堂ばかりを記述しているわけではなく、ある括りの中の項目として挙げられているにすぎない。この本においても、必ずしも風月堂ばかりを描いているわけではないが、その本質的な意味において、これは他の資料とは一線を画す記念碑的な作品である。

 北田玲一郎のばあい、あくまで理論的創造によって、乞食(ビート)のモデルづくりをしたのであり、それを社会風俗化させたのである。アサヒグラフ(42年<注1967年>」8月4日号)は、日本乞食(ビート)の特集を組み、(これが爆発的流行の事実上の契機となった)北田の「乞食学入門(ビートロジー)」を乞食(ビート)の「教典」として紹介したが、「乞食学入門(ビートロジー)」は、まさしく「教典」そのものであったのだ。p13 篠原 同上

 アサヒグラフは現在、図書館ネットワークでもなかなか見ることはできないだろう。しかしそれに先立つことのこの「乞食学入門(ビートトロジー)」のほうが、より本質的に60年代中盤の先鋭的な部分を表していることになる。

 「乞食学入門(ビートロジー)」は、しかし、単なる理論書ではないのである。これは、むしろ、一人の主人公をもった、特異な現代小説ともいえるのだ。p14 篠原 同上

 この依って立つ所以は明確ではないが、すくなくとも、この文章をノンフィクションとして読むのではなく、「現代小説」として読むべきであろう。この小説には江良ビートという主人公が登場する。その振る舞いや言説から、だれか実在の人物を想定してみたが、やはりこれは全面的に架空ではないにせよ、作家・北田玲一郎が造り出した小説上の人物と見たほうがいいだろう。北田本人についても調べてもいないが、その文学的素養、哲学的知識にあふれつつ、のちに「司法書士」に関わる小説を何冊もモノしているので、そのような仕事についた人なのであろうが、決して、作家本人が「乞食(ビート)」ではないようだ。

 ーーーかれらからのもらいものがビートの生活の重要資源なんです。東京なんかじゃ、ビールのんでスィングしたいなとおもったら、新宿の風月堂へいく。江良チャンがきた・・・って、天使もよってくるし、ファンやエピゴーネンがジャンジャン飲ませてくれるしさ。やっぱり東京なんか一番ムードあるな。p109「乞食学入門(ビートロジー) 日本ビート大会始末記」

 私なんぞは今まで漠然と誤解していたわけだが、空間軸としての新宿風月堂は確として存在しており、それはクラシックなどを聞かせる戦後以来の音楽ファンに支えられた、中二階席などをもつ、サロン風の新宿の東口にあるコーヒーショップにすぎないのだ。その風景は、西江 雅之 「異郷の景色」(1979/01 晶文社)や、森瑶子「プライベート・タイム」 (1986/09 角川文庫)などに描かれたように、かならずしもいわゆる「乞食学入門(ビートロジー)」一色に染められた巣窟のように思ってはならないのだ。

 新宿乞食(ビート)の溜り場、東京の「風月堂」でもそうだが、どうしてマリワナとビートと天使の集まるところ、のっぺらぼうのアブストラクトの看板みたいなのがぶらさがっているのか? そういえば、ビートはたしかに抽象主義的であり、生き方もノン・フィギュラチーフであるといえる。瞑想、神、宇宙の神秘、詩的幻想、白夜の哲学・・・。抽象の化物だ。p209「ビート・ヒップ未来学」

 この本の表題は、中にある一説のタイトルであり、必ずしもこの本全体のタイトルではない。表題となっている部分は、作者が江良ビートと称する、いわゆるひとりの日本ビートに惹かれて、いろいろと追従し画策するのだが、二つの存在は、結局一つになることはない。

 小説には、ギンズバーグやスナイダー、ケルアックなど、実在の人々の実名が多くでてくるので、主人公たる江良ビートのモデルはだれだろう、と思うのだが、やっぱり全くの空想ではないにせよ、架空の人物だろう。トカラ列島とか長野のコミューンなど、あきらかに「部族」の当時進行形だった実在の動きをカバーしているので、まったく架空とは言えないが、事実として捉えることはできない。

 ところで、この江良ビートという呼称はどこから来たのだろう。実在したのであれば、それはそれでいいのだが、どうやら、これは言葉として「選び人」がかかっているような気もする。選民思想がすこし見えてくる。あるいは、ビート、という感触から、私なんぞはどこか、コメディアンのビートたけし、を連想するところがある。

 ビートたけしの若いころ、あるいは、彼が全然社会に認められることなく乞食道を邁進したら、この登場する主人公のような掛け合い漫才のような口調になるかもな、と思った。でも、私がもっている「部族」的なものは、この江良ビートそのものではない。

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 作者、北田は1931年生まれ、どのような人生を送ったのかは今の私には定かではないが、少なくとも1960年前後の、いわゆる60年安保を体験していたとしても、すでに29歳。学生というにはちょっと老けすぎている。1965年からこの小説を書いたとしても34歳、この本が出版された68年には37歳となっている。微妙な世代である。

 本書で、私はとくに、これら革命的な青年群像のなかで、ひときわ異端である日本乞食(風俗的には、ヒッピー、フーテン、天使)について考察をくわえてきた。しかし、私の本来の興味は、いうまでもなく、旧世代の形而上学、イデオロギーをもってしてはどうにも間に合わない新鮮な知識階級の行動的な登場についてかたりつづけることにこそあるのだ。世界の未来史は、かれらによって、ある日、突然にかきかえられることは確定的であるからにほかならない。p313 北田「あとがき」

 当ブログは、現在、新宿風月堂を通じて、結局は「部族」を追いかけることになってしまっている。私に関して言えば、当時の自分の理解の「ブゾク」の範囲に留まるのだが、1975年の段階で、私は「ブゾク」的なものに対しては「否」を言わざるを得なかった。そして、結果的に新たなる「是」を見つけ出さざるを得なくなったのであり、それまでの自らを「終」にせざるをえなかった。今、こうして振り返ってみるに当たって、1975年の私の選択に狂いはなかったと思う。すくなくとも私個人にとっては。

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2014/06/18

「アイ・アム・ヒッピー」 日本のヒッピー・ムーヴメント’60-’90 山田 塊也<4>

<3>からつづく

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「アイ・アム・ヒッピー」  日本のヒッピー・ムーブメント’60-’90 増補改訂版
著=山田塊也 2013/10 発行=森と出版 単行本A5/363p

★★★★★

1)贈本である。ありがたく頂戴したものの、実は私の心境は複雑である。第三者の書いた本を客観的に読むような余裕はない。

2)75年を振り返る時、私は3冊のミニコミを思い出す。一冊目は「星の遊行群」であり、二冊目は「存在の詩」であり、三冊目は時空間」12号である。

3453)忘れてしまいたい一冊であり、忘れることができない一冊であり、すっかり忘れていた一冊である。

4)それぞれの経緯については、これまで何度も書いてきたので繰り返さない。ただ、私の人生においては、はっきりとした線を引くことができるボーダーラインである。

5)現在、当ブログは、訳あって電脳・風月堂をナビとして、60年代の新宿風月堂を追っかけ中である。

6)その参考資料リストから、風月堂に言及しているという資料を抜き出し検証しているところである。そのリストの中に、この「アイ・アム・ヒッピー」もランクされている。

7)今、このタイミングで、この一冊の中に新宿風月堂を見出すことは、それほど難しいことではないが、むしろ、私個人としては、その作業をできればさけたい。

8)「星の遊行群」におけるトラブルは、基本は、私からの部族的フリークスへの拒否であり、印刷拒否という形で、私は部族から拒否された。周りには迷惑かけたけれど、それはそうしかならなかったのである。

9)「存在の詩」は、私の人生を決定的に変えてしまった。それはそうしかならない運命にあったのである。

10)「時空間」12号は、私の古い最後の抜け殻である。長い間、その存在そのものを忘れていた。

11)私はこの75年に、部族的なものから離反した。決定的に路線の違いを痛感した。

12)88年8月、私は、いのちの祭りにいかなかった。それはそうしかならなかったのであり、それでよかったのだと思う。

13)もう少し、まともなことを書こうと思ったが、今回もまともなことは書けなかった。

14)・・・・・・・

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「東京ジャズ喫茶物語」 アドリブ編

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「東京ジャズ喫茶物語」
アドリブ編 1989/11出版社: アドリブ 単行本: 269ページ
Total No.3277★★★★☆

 コルトレーンが肝臓ガンで死んだのは、1967年の7月17日。(アルバート・)アイラーが、ニューヨークのイースト・リバーに無残な姿で浮かんでいたのは1970年の11月25日。そして、本書がとらえる対象として選んだジャズ喫茶は、70年前後から75年頃に存在した店。

 執筆担当者や取材対象者のジャズ体験・ジャズ喫茶体験は、コルトレーンが死して、その特異な音楽と相俟って伝説化しつつあった頃から始まり、アイラー34歳の訃報に接する頃に絶頂を迎え、75年頃に終息に向かう---パターンが多い。p269「あとがき」

 この本は、空間軸を東京、時間軸を67~75年当時、そしてテーマを「ジャズ喫茶」に絞っている。当然ここからこぼれてしまう沢山の情報や状況は、類推していくしかないわけだが、当ブログの現在の60年代の新宿風月堂追っかけとしては、まずは「新宿編」を見ることになる。

 銀座編、渋谷編、高田馬場・早稲田編、浅草・お茶の水編、神保町編、吉祥寺編、中野・高円寺・阿佐ヶ谷編、そして、ようやく新宿編、つづいて四谷編、総武線小岩編、となる。これらの10のエリアで全てがカバーできるわけでもなかろうが、ここで注目すべきは、わが新宿編は、後ろから3番目に登場というところだろう。ジャズ喫茶は、必ずしも繁華街にある必要はない。そこがミソである。

 ジャズ喫茶という言葉も、ジャズ+喫茶、からできている。純・喫茶や、ロック喫茶、クラシック喫茶や、民謡喫茶、歌声喫茶などもあるだろうが、敢えて、ここでジャズ喫茶と言ってしまうところに、編集者たちのこだわりがある。

 1967年夏以来、奇妙な髪で新宿をぶらぶらしている若者を、世間ではフーテンと呼ぶようになった。・・・・・

 1967年の夏はきわめて暑かった。家に帰っても暑くて眠れないので、新宿の若者は街をうろついたり、冷房のきいたスナックバーで俗にラリぱっぱと呼ばれる睡眠約遊びをしたり、あるいは新宿東口前の芝生の広場、通称グリーンハウスで野宿したりした。金のない新宿の常連たちの、これという目的もない風のまにまの文字どおり「風転」だったのである

 ところが、彼らのほとんどが、世間的な出世、あくせくした金もうけ、政治、型にはまった仕事、勉強などを軽蔑して脱出した若者だったから、・・・・そこで暑中休暇でごろごろしている学生たちが、おもしろがって集まってきた。つまり、フーテンの流行そのものは、避暑に行けない学生たちの仕業からおこった単なる現象にすぎなかった。(「新宿考現学」深作光貞) p187「新宿編」

 この部分は孫引きである。本来は「新宿考現学」(深作光貞1968/09角川書店)にあたるべきだ。この本は現在探索中ではあるが、読書不能である可能性が高い。まずは孫引きで間に合わせておこう。

 ここにおけるフーテンの語源を「風転」としているのは、興味深い。当ブログの別の項で読んだ「『族』たちの戦後史」 (馬渕公介1989/10 三省堂)においては、1964年に登場した「みゆき族」が担いでいた麻袋などが、住所不定(外泊)のフテーから転じて「フーテンバッグ」になったとしている。ここがフーテンという単語のルーツのひとつだとも思われるが、この「新宿考現学」においては深作光貞はそのまま「風転」としている。

 あまり納得できない薄い解釈だが、電脳・風月堂のフーゲツのJUNは、みゆき族発祥説について、次のように答えている。

 ま、ほぼよろしいでしょう。ぼくも「電脳・風月堂」でそう書いた。その語源はそこだけじゃない。「不定」が転じたという方は、ネリカンことば。不良言葉だが、ルーツはまだあるよ。ブログで書くべきことだ。待ってて!(^^)  風月純史 2014/06/18

 ネリカンことば、とはおそらく練馬鑑別所の練鑑から来た言葉、という意味だろう。だから、であるなら、なにもみゆき族を待たないまでも、直接ネリカンからフーテンへと繋げてみることも可能であるが、いずれにせよ、当時のスラングとして、「フーテン」は幾つも意味を持っているマルチミーニングとして使われていたのであろう。JUNのブログ更新を楽しみに待つとしよう。

 もちろん、その新宿は、伊勢丹、三越の表通りの新宿ではない。一日の乗降客が日本一の新宿駅でもない。

 また、世界中のヒッピーたちに知れわたった、中央通りの”風月堂”でもない。たしかに風月堂はこの時期、新宿を代表するカウンターカルチャーのシンボルだったことは間違いないが、若者たちの「否定の精神」を貫徹できた場所かというと、それは疑問だ。

 「世間的な出世、あくせくした金もうけ、政治、型にはまた仕事、勉強などを軽蔑して脱出した若者」の自由はあっただろう。

 だが、それよりもむしろ細い路地から路地へ、表通りの雑踏とは異なった、冷めた空気の漂う新宿である。ひとたびここに火がつけば、それは「破壊」を呼び起こすまで燃え続ける新宿である。(略)

 やはり、60年代後半の新宿は、ジャズ喫茶を抜きにしては語れない。そこでは、ジャズ・ミュージックはもちろんだが、音楽だけではなく文学や映像が、政治や思想が、若者たちの「否定の精神を貫徹」する、いわば化構されたもろもろの精神性が、ここで熱っぽく想われ、青白い炎を燃え立たせていたのである。p191 森一高 「同上」

 ジャズ喫茶についての一冊であれば、ここでは、新宿風月堂はそのテーマから外れるので、このような表現になるのは、ある種、当然であろう。

 90年代の新宿を見渡しながら、森一高は次のように述べている。

 しかしここには、「なにかが起こる街」としての新宿も、「体当たりしてくるような雑多なムード」の新宿もない。60年代から70年代にかけての、若者たちのエネルギーに満ちた新宿は完全に消え去ってしまった。

 当然だが、ジャズ喫茶も変わった。p206 森一高 「同上」

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「ストリートファッション 1945‐1995」 若者スタイルの50年史 アクロス編集室

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「 ストリートファッション 1945‐1995」―若者スタイルの50年史 (時代を読むシリーズ)
アクロス編集室 1995/04 PARCO出版 単行本: 249ページ
Total No.3276★★★★☆

 本書は、日本のストリートファッションの変遷を、系統的に取り上げた初めての本である。終戦の45年から95年の現在まで、この50年間に登場した多くのファッションの中から選んだ40スタイルについて、その当時撮影された写真を豊富に使って、くわしく解説を加えている。p6 「序」

 現在、60年代の新宿風月堂の追っかけをしている当ブログにとって、1945年から1995年までの時間軸はあまりに広すぎるし、テーマとして「ストリートファッション」に絞りこまれているのは、ある意味、かなりの偏りがある。

 しかし、いかに60年代の新宿風月堂が先鋭的で個別的であったとしても、押して並べられて「ファッション」と決めつけられるのも、一つの運命であろう。そう言った意味では、終戦の1945年から、この本がまとめられた1995年までの50年の中で、一度、その「風俗」を眺めてみるのも悪くない。

 この本は、かなり網羅的であることも希有だが、リアルタイムの画像を多く使用していること、そして、天下のPARCO出版から出ていることも特徴的である。

 アメリカのヒッピーの影響を受けた和製ヒッピーが登場したのは、67年夏のことであった。グリーンハウスと名付けられた新宿東口駅前広場に、何もしないで通行人をぼんやり眺めている若者たちがたむろしだしたのである。

 彼らのファッションは、何日も洗っていないような汚れたTシャツ、ジーパン、そして素足にサンダルを履き、それになぜかショルダーバックをさげていた。髪は服とおなじように何日も洗わず櫛さえ通していないような長髪(ナポレオンカットとも呼ばれていた)に、無精髭が基本。p116 「ヒッピー/フーテン族」

 この本がファッション史であるかぎり、あらゆる事象を外見から切り刻もうとするのは仕方ないことだろう。しかし、まぁ、このように表現される「風俗」は、もうすでに「ファッション」の域から外れているだろう。

 当時日本では、彼らをヒッピーよりも、日本独特のフーテンという名称で呼ぶことが多かった。また、その姿から「新宿コジキ」とも呼ばれた。彼らは高校生、大学生、サラリーマンなどさまざまな社会的肩書を持っていたが、それらを捨てて新宿にやってきていた。

 彼らの多くはたまに肉体労働系のアルバイトをするだけでほとんど働かず、グリーンハウスやジャズ喫茶で寝泊まりした。彼らの三種の神器といわれたのが、セックス、ゴーゴー、そしてドラッグ。米国版ヒッピーを真似てフリーセックスを信奉し、そして、モダンジャズを愛し、ゴーゴーを踊り狂った。ドラッグに関しては、本場のLSDが手に入らなかったため、もっぱら睡眠薬やシンナーでラリって現実逃避していた。p117 同上

 本書がファッション史であり、書き手が当事者としてのインサイダーでないかぎり、このような表現はいかしかたないのかも知れないが、必ずしも的を得た表現とは言い難い。

 しかし、彼らの中には芸術家やそのタマゴといったインテリフーテンやヒッピーも存在し、アングラ文化の発信源となっていった。彼らの巣窟となったのが、新宿にあった画廊喫茶の風月堂だった。

 風月堂は普通の喫茶店のようにボックスではなく、丸テーブルを挟んで自由に会話ができるサロンのような形式をとっていた。そのため、カウンターカルチャーにかぶれる若者たちのサロンと化し、アメリカの格安旅行ガイドブックに載るほど有名な喫茶店になった。常連客には唐十郎、寺山修司と言った顔もあった。p117 同上

 この新宿風月堂を掲載したという「アメリカの格安旅行ガイドブック」というものがどのようなものであったのか、探索中である。少なくとも68年に出た「ホール・アース・カタログ」ではないようである。

 一時は2000人いたといわれる新宿のフーテンも、警察の取り締まりもあって70年頃には姿を消していく。それに伴いフーテンという言葉も使われなくなった。しかし、和製ヒッピーは逆に増えていくことになる。その原因となったのが、学生運動である。

 60年代後半から盛り上がりを見せた学生運動も、70年代に入ると安保闘争の敗北や内ゲバなどから、大量の離脱者を出すようになる。彼らの多くは元の学生生活にもどったり、就職していったが、一部は海外に放浪の旅に出たり、郊外や田舎に移り住みコミューンを形成していく。

 アメリカではヒッピー増加の契機になったのはベトナム戦争であったが、日本では学生運動がその役割を果たした。60年代句半に登場した和製ヒッピーは内的必然をもっていなかったが、学生運動を経たことによって日本人もヒッピーになる資格を得たともいえる。p118 同上

 かなり突き放した表現が目立つところである。私自身は、時間軸、空間軸とも、自らをフーテンともヒッピーだったとも思わないが、外的にはヒッピー風に見られていたのは確かだろう。ただこの「内的必然」という表現だが、学生運動を68年頃からの盛り上がりと見ないで、例えば60年安保あたりからの「学生運動」を考慮する限り、ごくごく少数ではあったが、本質的な「和製ヒッピー」は50年代末や60年代初めから、日本にも確実に存在した、と見ることも可能である。

 さて、本書においては40カテゴリーをあげつらっているので、この概念の前後あたりに、全部包括してごちゃ混ぜにされるような類似概念も独自に編集されている。

 64年夏、オリンピック景気に浮かれる東京であだ花のようにほんの一瞬だけ大流行したのが、みゆき族である。ファッション史や若者風俗史に目を通すと、みゆき族という言葉は必ず出てくるため、かなり大きなムーブメントとして記憶している人も多いかもしれない。しかし、実際は、64年5月から現れて、夏にピークを迎え、初秋にはほぼ跡形もなく消えてしまった、たった一夏の流行にすぎなかった。p86「みゆき族」

 私は以前、加賀まりこは、このみゆき族にカブるのかと思っていたが、この本では違っている。

 六本木族が出現したのは57年から63年頃である。当時の六本木は、今日のように誰もが知っているような有名な繁華街ではなかった。p80「六本木族」

 ファッション史としてははずせないところのようだが、当ブログの関心からは大きく外れていく。

 (略)六本木族出身のスターが続々と登場したことで、六本木族は芸能界への登竜門的存在として有名になった。女優の加賀まりこも、元六本木族として売り出した一人だった。p81 同上

 この辺は、当ブログとしてはどうでもいい余談ということになる。

 60年代に前後して先行したのが、六本木族、みゆき族、原宿族、GS(グループサウンズ)・モッズファッション、ミニスカート、あたりなら、ヒッピー/フーテン族の後にピックアップされているのが、サイケ/アングラ族、学生運動ファッション、そして70年代に入って、ボトムス百花繚乱、ジーンズ革命、重ね着、フォークロア、あたりである。この後、70年後半になると、暴走族、なども取り上げられている。

 サイケ/アングラ族、や、学生運動ファッション、ジーンズ革命、フォークロア、あたりも気になるところであるが、当ブログとしては、それなりに視点がすでに固定しているので、ここでの転記は特に必要ないであろう。

 

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2014/06/17

「『族』たちの戦後史」 都市のジャーナリズム 馬渕公介

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「『族』たちの戦後史」 都市のジャーナリズム
馬渕 公介 (著) 1989/10 三省堂 ハードカバー 263ページ

Total No.3275★★★★☆

 この本、包括的で網羅的で面白いのだが、結局はリアルタイムに書かれた本ではないので、そこがどうもビビッドな感性に訴えかけてくる力が足りない。分かった風に、だれかが後付けでまとめているという感じである。

 本書では、マスコミが若者たちについて発した数ある□□□族、△△△族のなかからとりわけ目立った十族を選んで、記述した。その族は、年代順に、太陽族、カミナリ族、六本木族、みゆき族、原宿族、フーテン・ヒッピー(族)、新宿カミナリ族、アンノン族、暴走族、竹の子族、の十属である。p11「はじめに」

 この本をナビとして、それぞれの時代の若者の風俗を追っかけてみるのは相当におもしろそうだ。だがしかし、当ブログは現在、60年代の新宿風月堂をおっかけているのである。となれば、おのずと、これらの中から「フーテン・ヒッピー(族)」あたりに焦点を当てていくこととなる。

 フーテンが登場したのはそんな時代1967年の夏だった。
 彼らは終日何をするわけでもなく、新宿東口駅前広場の芝生(グリーンハウス)にただごろごろしとたむろしていた。
p167

 今回の風月堂追っかけの中では、約20頁にわたり、フーテンとヒッピーについて論述しているので、もっとも長い記述と言えるかもしれない。

 新宿の喫茶店風月堂にたむろするフーテン、ヒッピーなどの若者は<フーゲツ族>(1967年)と呼ばれた。風月堂は正面がガラス張りで、天井も高く、中二階をもつ明るい造りの音楽喫茶店であった。

 ただ中の客たちは皆一癖ありそうな風体をしていて、目に見えないバリアーがあり、中に入るにはちょっとした覚悟を要した。つまりカウンターカルチャーの”教養”のない奴は入ってくるな、という感じだったのである。p175

 この辺を抜き書きすれば、今回の追っかけの目的は達せられたということになろう。

 当時のこの新宿フーテンの渦に出入りしていた、画家であり映像作家でありアルバイトで週刊誌の記者もしていたS氏によれば、はじめて本格派のヒッピー<部族>のメンバーに会ったとき、「こりゃ違うな」と感じたそうだ。考え方ばかりか、ボキャブラリーのところですでに別世界の人間という気がしたそうである。S氏はその後インド旅行を経て、ヒッピーになった人物。p177

 このS氏とは誰だろう。追っかけてみればわかるかもしれないが、書き手が匿名で書いている限り、複数の要素を一人の人間に語らせている可能性もあるので、特定する意味はうすいかもしれない。

 その他、興味深い記述は多いが、語られている内容については、特段に目新しいということはない。とにかく、ここでは空間軸としての「新宿風月堂」を書きとめればことたりる。

 ところで、この本では一章を割いて「みゆき族」を取り上げている。

 外人コンプレックスに起因した衛生神経症の都市TOKYOの、その精一杯の街銀座の、さらにそのなかで最も高級品が多く古い銀ブラ族などが「三丁パリ」と読んでいた通り、みゆき通りに、女はロングスカートに長いリボン、男はつんつるてんのズボンという出立ちで、大きな中古のズダ袋をひっさげて登場したのが<みゆき族>だった。

 1964年の初夏に現われ、夏から初秋にかけての全盛期、多い日には一千人とも二千人ともいわれる若者が、みゆき通りを中心に並木通りや銀座通りに群れをなした。都内ばかりか、千葉、神奈川、埼玉県からもやってきた。

 彼等はビルの壁やウィンドーに寄りかかったりして数人ずつ束になり、たわいないおしゃべりに興じ、疲れると喫茶店に入って何時間も粘り、お尻が痛くなるとまた路上で立ち話を始めるのであった。とりたてた奇行はない。ただ路上にたむろした。それだけである。なのに大人たちはそれを薄汚く、不気味と感じたのだった。p115

 時あたかも1964年。春に「平凡パンチ」が創刊され、秋に東京オリンピックが開催された年のことである。

 このようなみゆき族ファッションはどこからきたのか・・・というと、これがよく分からないのである。教祖の形跡が見当たらない。洋画や邦画やテレビの影響でもなさそうだし、繊維メーカーや有名デザイナーの先導があったわけでもない。それでは雑誌だろうかというとこれも違うらしい。(略)

 どうやら、みゆき族ファッションは、無名の女の子たちの手になる消費者主導型のオリジナルファッションだったようなのである。 p120

 みゆき族は、特に女性(女の子)たちの流行ファッションだったようだ。

 このズダ袋とは、お米の紙袋や、コーヒー、豆類などの麻袋であった。米穀商やアメ横で買ったのである。みゆき族はこれを「フーテンバッグ」と呼んでいた。「フーテンバッグ」のフーテンには、その頃住所不定とか外泊するという意味があったのである。

 そしてその袋の中には「フーテン」の名の示すとおり、着替えやら、洗面道具やら、学校帰りの制服やら、つまり外泊用品の一切合切が入っていたのだった。ときには愛用の睡眠薬や精神安定剤も入っていた。p127

 おお、ここでフーテンの語源に出会えたのは幸甚である。なんだ、フーテンとは、住所不定のフテーから来ていたのか。そして、ズダ袋に外泊するための一切合切を入れていたとなると、これはつまりバックパッキングを意味していたわけだ。

 高度成長のモータリゼーション爆発前夜のことであり、まだヒッチハイクは一般的に流行する直前でもあったのだろう。みゆき族→フーテン→ヒッピー、という系譜には、このようなバックボーンがあるかもしれない。

 1964年9月12日。築地署、みゆき族の一斉補導開始。
 戦後最大の祭典東京オリンピックを一ヶ月後に控え、みゆき族は不良図書や木製ごみ箱と同じように排除され秋風と共に路上からその姿を消していった。
p117

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「電子本をバカにするなかれ」 書物史の第三の革命 津野 海太郎

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「電子本をバカにするなかれ」 書物史の第三の革命
津野 海太郎 (著)  2010/11 国書刊行会 単行本: 290ページ
Total No.3274★★★★☆

 タイトルからイメージするよりは、もっと多彩なテーマを取り扱った一冊。イメージとしては、津野式バラエティ本、ということらしい。

(第一段階)好むと好まざるとにかかわらず、新旧の書物の網羅的な電子化が不可避的に進行していく。

(第二段階)その過程で、出版や読書や教育や研究や図書館の世界に、伝統的なかたちの書物の望みようのなかった新しい力がもたらされる。

(第三段階)と同時に、コンピュータによってでは達成されえないこと、つまり電子化がすべてではないということが徐々に明白になる。その結果、「紙と印刷の本」のもつ力が再発見される。

(第四段階)こうして、「紙と印刷の本」と「電子の本」との危機をはらんだ共存のしくみが、私たちの生活習慣のうちにゆっくりもたらされるこおになるだろう。p66「第三の革命と四つの段階」

 「第一の革命」で問題になったのは「記憶」です。p67

 「第二の革命」では、印刷という「同一コピーの多数同時生産」技術が人間から「精読」の習慣をうばってしまうにちがいない、という批判がさかんになされた。p68

 「第二の革命」によっても、人間から「記憶」と「精読」の能力が完全に失われることはなかった(略)。p70

 それぞれに能力と限界をもった二系統の本がなんとかバランスよく共存してゆく道を具体的にさがすしかない。つまり「書物史の第三革命の第四段階です。p012

 格段、なるほど、と思うところはたくさんあるが、この本自体は2010/11にでている本だが、編集本なので、2000年代の前半に書かれた文章も相当含まれている。さらには昨日読んだ「図書館の電子化と無料原則」 と内容もダブっているので、ことさら新鮮には感じなかった。

 この方は、もともと編集畑の人らしく、最初から最後まで読者を意識しつつ、とこには、ですます調で書いたりするので、読みやすく、ダイアローグ的なイメージがあって、ジグザグしつつ論理を深めていける面白さはたしかにある。

 だが、結論としては、一読者として見た場合、わりとオーソドックスなまとめになっているのではないか。編集者が読者的な意見になる、というところが特異なのかもしれない。いずれにせよ、面白いが、当ブログにとっては、時機を得た読書とは言い難かった。

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2014/06/16

「図書館の電子化と無料原則」―特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩第4回総会(2011・5・29)より 津野海太郎 

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「 図書館の電子化と無料原則」―特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩第4回総会(2011・5・29)より
津野 海太郎   (著) 2011/10 けやき出版 ブックレット 45ページ
Total No.3273★★★★☆

 薄いブックレットながら、表題についてズバリ提言する。図書館の電子化は避けられない時代の潮流。その時、図書館は無料であり続けるべきなのか、否か。簡単なようでいて、答はなかなかむずかしい。

 著者の結論は無料化維持、だが、その裏付け足る論理をもう少し明確にせよ、と迫る。

 公立図書館は「利用」中心でいく。それは、もちろん正しいんですよ。ただ、その正しさの上にあぐらをかいているうちに、ストックよりもフロー、地味な蓄積より派手な消費を重視する80年代以降の社会全体の変化(消費社会化)もあって、公立図書館がもつ「保存」の役割を必要以上に軽視する傾向がだらだらと定着してしまいました。p4「保存と利用という二つの軸」

 当ブログはもともと、奥さんが学校図書館の司書を始めて、読書ノートを手書きで始めたことに刺激されて始めたものだった。すでに10年以上が経過しているわけだが、図書館経営については、いろいろ側面から見て、それなりのむずかしさをかいま見てきた。

 当ブログは、図書館が無料で利用できなかったら、これだけ続かなかっただろうし、無料で借りて、申し訳ないな、という気持ちがあるから、すこしでも、その「恩返し」(といえるだろうか)のつもりで、読書ノートを公開してきた。すこしでも、関係者たちが無力感におちいらないように、せめて出版社から本を買う人がひとりでも増えるようにと、常に各書のリンクを張り、すぐ購入できるようにしてきた。

 といいつつ、私には、ごくごく多少ではあるが、アフェリエイトが発生するので、数カ月に一冊程度購入するほどのポイントバックがある。無料図書館、無料ブログ、無料公開が、とりあえず、現在の当ブログの原則である。

 そんなこと当たり前だろう、と言われるかもしれないが、実は、私は「有料図書館」も利用している。近くには10校以上の大学があるので、こちらの大学図書館も情報源としては貴重である。もともと外部に公開されたのは、この数年の動きなのである。有料と言っても、カードを作る時に登録料として、500円程度で終わるわけだが、私はもっと高くても、多分、登録はすると思う。

 また、ブログサービスも無料を使っているわけだが、実は、これは私とは無関係な広告がついてしまうことに悩むことがある。ある時は、私のブログについていた競馬情報サイトの広告に、私のブログについていたのだから信用できるだろう、と電話してしまい、数百万の「詐欺行為」にあった、という報告があった。

 これは、アクセスする人の行動にリンクして広告がつくわけだから、その人が別のときに競馬情報サイトを見ていたからそうなったのであり、当ブログとしてはまったくの無関係なのだ。それでもやっぱり、有料サービスを使うと、広告はつかなくなるので、これはこれで、今後の選択肢のひとつだな、と今でも思っている。

 また、当ブログもだいぶ長くなってしまっているので、これらを随時まとめて、電子本化しようとしている。もちろん無料で公開もできるのだが、もうすこし手を加えて、有料で閲覧してもらうようにしようと思っている。せいぜい99円程度のことであるが、これは、これで、自分の文章に責任を持つ、という意味では、モノローグなブログの域を飛び出す勇気が必要となる。

 インテリが死んでなにがいちばん困るか。それは故人が残した蔵書をどう処分するかという問題です。遺族はそれにものすごく悩まれるんですよ。実務的にどう処分するかということだけではなく、本の場合、かなりつよい精神的な負担がつきまとうんですね。

 愛する人間が生涯にわたって愛蔵してきた本を、死んだからといって、すぐに売ってしまうなど、パッパと処分してしまっていいものあろうか。深浅の差こそあれ、多くの場合、遺族はその週の精神的な傷を負わざるを得ません。

 となると、私も年老いたインテリの一員ですからね。いつ死ぬかわかったものじゃない。そこで死ぬまえに本を計画的に減らしておくことにしました。減らすといっても急にはむりです。三年計画くらいで何回かにわけてやって、死ぬころにはなんとか本棚ひとつくらいのところまで持っていきたい。そう考えてダイエットにとりかかり、いまは目標の三分の一くらいすすんだところですかね。

 本のダイエットには、所持している本の量を減らすだけでなく、もうひとつ、それをいま以上に増やさないようにする必要があります。となると逆比例して図書館利用の度合いが増えます。もともと図書館はけっこう派手に利用していたほうなんですが、それがさらに派手になってきました。p17 「なぜ図書館がタダでなくてはいけないか」

 私は別にインテリと自称するような人物でもないのだが、やはり文字型であることにかわりはない。人並みに愛蔵本に愛着がある。しかし、ある時から、私は、この本の著者とちょうど同じような理由から、一生懸命、本を減らしてきた。そして図書館利用を前面に押し出してきた。これが結構便利である。図書館は、私の本棚だ、と思えばいいのだ。そのくらい、現在の図書館は使い勝手がいい。

 いずれにせよ、著者は、図書館が有料化すると、自然と利用者は減り、図書館が使われなくなれば、市民の力も減り、市民の力が減れば、出版社の本も売れなくなるという、デメリットスパイラルを想定している。図書館は無料であるべきで、市民の力がそれにより維持増大されてこそ、一般の出版社の本も、一冊二冊と売れ続けていくのだ、と強調している。

 かくいう私も、図書館に依存して、なおかつ古書は次々と処分しているが、これだけは、という本は、惜しみなく購入して、傍らにおいて、ニタニタしながら眺めている。

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「本とコンピューター」 津野 海太郎

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「本とコンピューター」
津野 海太郎   (著) 1993/08 晶文社 単行本 280ページ
Total No.3272★★★★☆

 先日「みんな八百屋になーれ」(長本 光男1982/07晶文社)についての記事を書いたところ、槇田 きこり 但人 がコメントをつけてくれた。

 この本の晶文社の編集者の上司は、津野海太郎さんで、後の「本とコンピューター」誌の編集長をした人だった。(中略)

 もちろん、津野さんは『ワンダーランド』誌を晶文社の編集者として仕掛けた人だ。

 津野さんはまた、70年前後のアングラシアターの《黒テント  自由劇場》のプロデューサーだったか中心人物でもあった。2014/06/14 槇田 きこり 但人

 「本とコンピュータ」という雑誌も、津野海太郎という名前も、このところ良く出てくる名前である。さっそく図書館を検索してみると、この方の本は何冊もでているようだ。まずは気になるところ三冊を借りだしてみた。「本とコンピュータ」(1993晶文社)、「電子本をバカにするなかれ」書物史の第三の革命(2010/11国書刊行会)、「図書館の電子化と無料原則」(2011/10 共同保存図書館・多摩)。

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 この三冊の中では、もっと古い時代に書かれた「本とコンピューター」ではあるが、1993年という、インターネット爆発の以前に書かれた本としては、かなり先駆的な本である。なるほど、多くの編集者たちがこの本に触れる意味がわかるようである。

 そこに登場したのが、さきに紹介したアラン・ケイだ。もしも「スケッチボード」のような対話型コンピュータのソフトウェアを、高い解像度をもつディスプレイ画面にむすびつけることができたら、そのときこそ、軍隊や大学や企業の研究所っではたらく専門家ではなく、ただの個人として暮らしている人間が日常的につかいこなす道具としてのコンピュータが可能になるだろう。p127「魔法の紙」

 この文章が1993年当時のものであることに留意しなければならない。1993年の段階ですでに、このような「夢物語」が語られていたこと。このようなことが語られなかったら、今日のタブレット環境など生まれなかったのだ。

 あるいはまた、いま、私たちは日常的に使っているWIFIタブレット環境が、1993年では「夢物語」でしかなかったのだ、ということもまた強く記憶しておく必要があるだろう。

 私たちが1970年に「黒テント」による移動演劇をはじめたとき、その活動の一環としてディヴィッド・グッドマン、藤本和子夫妻が「コンサーンド・シアター・ジャパン」という英文雑誌をだすことになった。かれらの努力の甲斐あって、ほどなくB5判の堂々たる季刊雑誌が創刊された。

 以来三年、この雑誌によって別役実や秋元松代や唐十郎や佐藤信の戯曲、つげ義春や白土三平や赤瀬川原平のマンガ、末広保や森崎和江や鈴木忠志のエッセイなどが、はじめて英語で読めるようになったのである。

 この「コンサーンド・シアター・ジャパン」--略称CTJの版下をグッドマン夫妻は、当時、IBMから売り出されたばかりの電動タイプライターで作成していた。p133「マックはタイプライターにあらず」

 1970年、高校生だった私は、友人の石川裕人と連れだって「黒テント」公演をみたことは、別途書いた。この当時から、この津野海太郎という方にお世話になっていたのかと思うと感無量である。

 これと同じ方法でスチュアート・ブランドとかれの友人たちがつくった「全地球カタログ」が日本の洋書店にも平積みされ、アメリカ西海岸に生まれ育ったヒッピー文化の代表的産物として結構ないきおいで売れていた。実に悔しかった。

 ディヴィッドや和子さんが口笛を吹きながら手ぎわよく版下作業をこなしていく隣の部屋で、テント公演用の佐藤信や山元清多の台本を、一字一字、カリカリと鉄筆で蠟びき原紙に刻みつけながら、どうしておれはアメリカ人として生まれてこなかったのだろうと、たまたま非アルファベット圏に生まれあわせた身の不幸を本気で呪ったほどだ。p134 同上

 現在、電脳・風月堂参考リストを手掛かりに、60年代日本のカウンター・カルチャーを探索中だが、1970年前後の風景として、じつにこの日米の差は大きかった。

 1968年、「コンピュータは専門家の独占物ではない」と考えるようになったアラン・ケイは、紙や鉛筆の役目をはたし、あわせて電話回線をつうじてコンピュータ・ネットワークに接続できるノートブック大のパーソナル・コンピューター「ダイナブック」の構想にとりかかった。p181 「電子本作法」 

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               p182

 この上のイラストはすでに1968年に描かれたアラン・ケイのダイナブックだが、2014年の現在、下の我が家の2歳半の孫の画像のように、ごく当たり前の風景となっている。

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 スチュアート・ブランドと彼の友人たちは、いたるところから自分の暮らしと考え方を変えたり支えたりしていくための本や道具の情報をかきあつめてきて、それらがある量にたっすると、そのつど自作の薄っぺらなパンフレットにまとめていった。これが「全地球カタログ」の最初のかたちである。p203「もうひとつの編集術」

 当ブログは、現在、このスチュアート・ブランドの「地球の論点」(2011/06 英治出版)を巡って、彼を追っかけ中である。

 はじめにコンピューターがあったから、かれらはこのように考えるようになったのか。
 それとも、かれらが最初からこのように考えていたからこそ、その考えにあわせてコンピューターをつくりかえていったのだろうか。
p242「細部の自由な連合」

 この本は1993年に出た本である。周辺の環境は違うが、今読んでもなかなか刺激的である。つまり1993年当時なら、最先端だった、ということになろう。そしてその問題意識は、ずばり今日へと繋がってくる。

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「プライベート・タイム」 森 瑶子

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「プライベート・タイム」 
森 瑶子1986/09 角川文庫 文庫 273ページ
Total No.3271★★☆☆☆

 この本も、「電脳・風月堂」の中の、「Large Beer」「Can Beer」という参考資料リストの中から、60年代的、新宿・風月堂の消息を尋ねて作っておいた、「電脳・風月堂 関連リスト」の中の一冊。

 この本には80程のエッセイが詰め込まれているが、おそらく新宿風月堂に関連する作品は「風月堂の青春」の一編だろう。他の作品とストーリーとしては関連がありそうだが、空間軸としての新宿風月堂には触れていないのではないだろうか。

 ムッシュウは風月堂の入口に立つと、店内をひとわたり眺め、それからまっすぐに私たちの席へ歩いてきた。そして私の席の横に、なぜか溜息をつきながら坐るのだった。
 ガコも遅れてくる方の一人だった。彼女が遅れて現れる理由は大体想像できた。
p123「風月堂の青春」

 このエッセイは小さくて、文庫本4頁強。ほとんどが作家の内面的心象を描いており、対象としては新宿風月堂が意識されているわけではない。ただ、19歳の少女だった彼女の「プライベート・タイム」が、どのような環境の中でどう動いていたのか、を考える時、新宿風月堂というシチュエーションが多く作用していたことは、おおいにありえるだろう。

 風月堂に集った若者たちが、別に誰かに見られたり報道されたりするために集まったのではなく、自らの内面の求めるままに集まったとするならば、このような心象風景の描写の記録も大切なデータということになる。

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「異郷の景色」 西江 雅之

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「異郷の景色」
西江 雅之 (著) 1979/01 晶文社 単行本(ハードカバー) 223ページ
Total No.3270★★★☆☆

 この本も、「電脳・風月堂」の中の、「Large Beer」「Can Beer」という参考資料リストの中から、60年代的、新宿・風月堂の消息を尋ねて作っておいた、「電脳・風月堂 関連リスト」の中の一冊。

 12の物語が収められており、世界各地の物語に混じって、新宿、吉祥寺、神保町、豊島園など、国内の物語が四編ある。その中でも「新宿風月堂」に関連ありそうなのは「新宿 季節はずれの街」であろう。

 この20頁足らずの物語のなかには、新宿のコーヒー店「Y」、「V」、「F」がでてくるが、おそらく「新宿風月堂」は「F」コーヒー店が該当するのだろう。雰囲気から考えて、三つとも同じコーヒー店と考えてもよさそうだし、どれも風月堂だ、と読んでもいいようにも思うが、やはり三つの違う店なのだろう。

 ビートが出ようが、ヒッピーが出ようが、フーテンが出ようが、本物はそれらしい恰好はしていないものである。そう言った意味では、エメちゃんはやはり本物の一種なのだという気がする。学生の時は学生らしい恰好をし奥さんになれば奥さんらしい恰好になっている。いつも真面目である。それでいて、どこかドカーッと抜け落ちている。いつも真面目である。いつ出会っても、考え方も話題も一向に変わらない。今流に言えば、先天性フーテン症の患者なのだ。p17「新宿 季節はずれの街」

 これはコーヒー店「V」の風景だった。

 今、わたしが座っている”F”コーヒー店は、西洋の古典音楽のレコード収集では有名な店だということだ。常連の多くは、少なくとも数年前までは、古典音楽の愛好者ということのなっていた。じっと音楽に聴き入る者や、読書に耽る者に混って、楽譜を手にタクトを振るようなことをしていた青年もその頃は珍しくなかったように記憶している。p21 同上

 この描写はおそらく新宿風月堂だろう。

 店の奥の階段を上り切った所には、分厚い丸型の石盤を乗せたような大きなテーブルが一つあり、そのそばには茶色の布でカバーをした椅子が並べてある。p22 同上

 この「F」コーヒー店に現れるケイ子という名の若い女性がこの物語の主人公である。

 普段は一切彼女のことを思い出すことはないのだが、こうして、”F”コーヒー店の二階に来て、あの日路上え出会った彼女の姿を思い浮かべていると、彼女があの当時、本当のところ一体何を目的としてアメリカ人の男を探し出しては自分の部屋に連れ込むということに専念していたのだろうかと考えてしまう。p26 同上

 この小説風の物語は1972/07に雑誌「面白半分」に掲載された文章である。新宿風月堂の閉店は1973年だというから、その最後のころの風景であろうか。

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2014/06/15

「セツ学校と不良少年少女たち」 セツ・モードセミナー物語 三宅菊子

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「セツ学校と不良少年少女たち」 セツ・モードセミナー物語
三宅菊子1985/01 じゃこめてい出版 単行本: 236ページ
Total No.3269★★★★★

 長沢節とセツ・モードセミナーについて 

息をのむファッションドゥローイング、洗練された水彩風景画、厳しい美意識と鋭い感性に織られたエッセイ、正統でありながらユニークなおしゃれセンス、全的自由への限りない希求と批評精神、体制的風俗への挑戦、人を魅きつけてやまないナイーヴな表情、スリリングなストイシズム---実に多彩な顔を持つ当代の異才である。 

1917年、福島県会津若松市生まれ。文化学院大学部美術科卒。在学中から画才を顕し、日本水彩画会展に出品、2年後に会員に推挙される。新政策派展で新作家章を受章。戦後は新分野のファッションイラストレーションに歴史的な新生面を拓き、現在まで第一人者として活躍。 

1954年に現在のセツ・モードセミナーの前身となった「長沢節スタイル画教室」を開設。「何年も続けるつもりはなかった」小さな教室は、その後、幾多の創造的な仕事にたずさわる人たちを輩出してきた。 

出身者には、穂積和夫、河原津、金子功、山本耀司、花井幸子、ユミ・シャロー、くろすとしゆき、浜野安宏、星信郎、松永タカコ、吉田ヒロミ、川久保玲、大野ノコ、大西洋介、ベーター・佐藤、トミー・リー、上迫美恵子、堀切ミロ、川村都、岩崎トヨコ、秋山勝貴、池田和弘、峰岸達、柳生弦一郎、上野紀子、永井博、飯野和弘、島本美和子、加藤裕将、早川タケジ、本くに子、上田三根子、吉本由美、阿部かずお、金子国義、四谷シモン、石川三千子、中本潔、コヨセジュンジ、村上一昭、などなど。

その活動の場は、イラストレーション、ファッション、マスコミ、広告、ジャーナリズム、実業その他と多種多様。海外での評価が高い出身者が多いのも特色のひとつだろう。長沢節も毎年のように渡欧する国際人である。

著書に「デッサン・ド・モード」 「わたしの水彩」 「大人の女が美しい」他。裏表紙より

 表紙、裏表紙、を読んだだけでは、この本の中に何が書いてあるのかは、わかりにくい。私のような通りすがりの一見さんには、全く意味不明の一冊、となりかねない。この本も、「電脳・風月堂」の中の、「Large Beer」「Can Beer」という参考資料リストの中から、60年代的、新宿・風月堂の消息を尋ねて作っておいた、「電脳・風月堂 関連リスト」の中の一冊。

 この本を理解するには、三つの段階の理解が必要だ。まず、1917年生まれの長沢節という異才を放ったリーダーついて、そしてその元に集まった門下生たちについて。さらには、その門下生たちの各分野における活躍について、ということになる。

 当ブログとしては、この本の中に「風月堂」の文字を見つければ、それで探索は終りなのだが、今回はそう行かなくなった。まず、先日アップした長本光男「みんな八百屋になーれ」  就職しないで生きるには 3(1982/07 晶文社)のあのとても魅力的な表紙の絵は、なんと、このセツ・モードデザインセミナーの出身者・柳生弦一郎である、ということを知ったからである。

 そして続いて、その情報をもたらしてくれたのが、このナモ商会のそもそものビルを借りる手はずをして、70年代から80年代にかけての西荻若者文化を「繁栄」させた「ほびっと村」。その基礎となった「ジャムハウス」主人夫婦の川内たみさんもまた、このセツ・モードセミナーに学び、その柳生弦一郎氏との同期生であった、という。ああ、なんというつながりだろう。

 その他の出身者の顔ぶれもすごい。「浜野商品研究所」の浜野安宏、人形作家の四谷シモン、本文の中にはミュージカル「ミスター・スリム・カンパニー」の深水新作、などの名前もでてくる。ありゃぁ、これは一体なんなんだ。

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 現在の、ってことだから、これはこの本が出版された1984~85年当時の風景だろう。こういう建物の学校で、組織としては、株式会社なので、学校法人などではなく、そもそもが入学式も卒業式も卒業証書もないセミナーだったようだ。いや2年が一応の年限なのだが、セツ氏からOKがない限り、卒業そのものがない、という、実にユニークな組織なのだ。

Sm7                              p31
 この人が長沢節。高樹町時代とは、いつの年代のことなのだろう。推定では60年安保前後のことである。スタイルもそうだが、本書の文面からすると、独身だったようなのだが、どこかホモセクシャルな雰囲気もないではない。

 ところでこの本における、不良少年少女、とはどういう意味なのだろう。

 長沢先生に、よく言われました。お前は不良だって。学校にあまり来ないし、好きなことやってるし。不良ったって大したことやってるわけでもなかったんだけれど・・・・先生は不良が好きなんだって。

 ディスコ行ったり、新宿あたりでモダンジャスきいたり、そんな程度ですよ。先生が一度オレも行きたいって言うんで一緒に行って----私たちその頃まだ若いから、警察の手入れとかあるとダメなわけ。昔だからねぇ、未成年がお酒飲んじゃいけないのよ。警察の人がくると先生ワイワイ面白がったりして。

 先生の不良って、独特の言い回しなのよね。お前は不良だって言われるの、嬉しかった。それとあの頃、細かったから。私、細さでトクしてました。p138大野ノコ「『不良学』は底の深い学問なのだ」

 まぁ、この程度の不良のことではあるが、言わんとするところはわかる。さて、「電脳・不月堂」において、風月堂に言及している本としてピックアップされているこの本の、どこにその痕跡があるだろうか。

 新宿に”きーよ”というジャズ喫茶兼飲み屋があった。風月堂という、不良外人やヒッピーの集まる喫茶店があった。浜野クンやお岩はそこの常連で、セツでもかなり不良の方だった。

 ところが浜野安宏という人物は、当時から「次に流行するものを嗅ぎわける」感覚と不思議な商才に長けていた。クリエーターのグループを作り、会社組織にまで持って行ったのがまだ学生のとき。浜野商品研究所のスタートは1965年だった。p86「”全ブス連”は時代と共に生き、踊った」

 私がこの本の中から見つけた「風月堂」の文字はこれだけである。セツ・モードセミナーに集まる「不良少年少女」たちに、さらに「かなり不良の方」と名指しされたのは浜野安宏であり、風月堂は、まさに彼ら以上の「不良」の巣窟のようなイメージが作られている(笑)

 さて、ここまで来るとあとは「みんな八百屋になーれ」の表紙絵を描いた人の探索となる。

 セツ出身どうしの結婚はたいていうまく行って、永続きしているカップルが多いのだそうだ。

 柳生弦一郎・まち子夫妻がその代表例。柳生さんたちのときは、星教頭先生が仲人だった。星先生も独身主義で、ヨソの女の人をわざわざ奥さん役に仕立てて名古屋での式に臨んだ。p177「独身主義者演出の結婚披露パーティ」

 「セツも長沢節も、おれにはなんだかわからん部分だね。長沢先生はわからないから怖いよ」と柳生弦一郎さんは呟いていたけど、私もやや同感。

 ところで柳生さんは、世の中の流れだのイラスト界の流行だのには背中を向けて、鼻の穴や足の裏の絵本を創り、世間に対してはちょっと仙人風に暮らしている。

 よく、セツ出は世ワタリが下手だ、と苦笑する卒業生もいてそれにも私はやや同感するのですが、柳生さんも多分そういう一人だ。が、別の見方では、仙人でもヘソ曲がりでも、自分の好きなようにやって行く数少ない一人なのだし、そこが彼のかっこよさだ。p181「感応する日々」

 くだんの絵師についての消息はこの程度だが、このセツ・モードセミナーの中にあっても、このような位置にあるのが柳生弦一郎という人の存在である。

 この本、この他にも、面白そうなネタ満載で、突っ込みどころは数限りなくある。ただ、空間軸はともかく、時間軸が一定でない。この本が書かれたのは1984年暮れのことだが、1917(大正6)年生まれの長沢節の人生をおっかけ始めたら、戦前まで遡らなければならない。少なくとも50年代から80年代までのことが、まぜこぜに書いてあり、なんとも不思議な世界観を作っている一冊である。

 TBSに”ヤング720(セブンツーオー)”という番組があって彼女たち(全ブス連)はそのほとんどレギュラーで、横尾(忠則)さんや浜野安宏や加藤和彦がブレーン・・・というより家来みたいに彼女たちを持ち上げて、”11PM"でも気勢を上げたしクイズなんかにも引っぱりダコ、もちろん女性自身や週刊女性など女性誌にも登場して、全国から「全ブス連に加盟したい」という本気の申し込みが続々と殺到したりした。p85「全ブス連」

 というあたりは、東北の中学生だった私なんぞが、ようやくアクセスできるポイントである。1966年のヤング720で横尾忠則がLSDについて語っていたのを、登校前の朝ごはんをかっ込みながら見ていたのが中一の私だった。

 おそらく、この全ブス連あたりが、あの「みゆき族」あたりとなんらかの繋がりを持ってくるのだ。67年からのフーテン騒動、68年からのゼンガクレンの登場など、その前の出来事である。64年に登場して一年ほどして消えたとされる「みゆき族」については、この本では何度もでてくる。はぁ、1985年になっても、「みゆき族」という言葉が生きていたのか、と呆れるばかりである(笑)。

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2014/06/14

「騒乱の青春」 ティーチ・イン 内田栄一・編著

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「騒乱の青春」 ティーチ・イン  
内田栄一・編著  1969/01 三一書房 新書: 242ページ
Total No.3268★★★☆☆

この本も、「電脳・風月堂」の中の、「Large Beer」「Can Beer」という参考資料リストの中から、60年代的、新宿・風月堂の消息を尋ねて作っておいた、「電脳・風月堂 関連リスト」の中の一冊。

 この本、内田栄一・編著となっているし、有名どころの名前が何人もでているが、かならずしもそういう本ではない。当時の新宿にあったサンヨー電化センターの40~50人がようやく入るかというスタジオからの、ラジオ放送である。集まってくるのは、司会と数人の有名人、あとは地域の若者たちである。ティーチインという形で、参加者が自由に発言しあい、それを放送すると言うスタイルである。

 新宿における青春や、当時の学生運動、あるいは学外における活動、そして積極的な意味での「青春憲法草案」などといった取り組みをしており、この本も、当然のことながら、新宿風月堂だけをレポートしているわけではない。風月堂を、獏として暗示しているところが、最初の50頁あたりまでで、この本ではイントロとして使われているようでもある。

 新宿って街はマスコミがつくったんだと思います。去年の夏(1967)フーテンとか、どうのこうのって騒いだでしょ。その前にもフーテン族みたいなのはいたと思うんです。マスコミが騒がなければ一般の人もあまりわかんなかった。騒ぐのであたしもぼくもっていろいろ出てきたと思うんです。p22「新宿の青春」

 これは1968/10/18収録の中での発言。いろいろあってしかるべき発言だが、まぁ、こういう事が盛んにディスカッションされる時代になっていた、ということであろう。

内田 フーテンといわれる人が去年出てきた。今年(1968)はヒッピーと称する人もいるらしいけれども、とにかくそういうことで新宿に定着する。人間の中の定着の考え方があると、これは本当の意味で堕落しちゃうわけよね。だから本当の意味で頽廃になっちゃうわけ。いま新宿に流れもんがいないってのが、おれ、不満なんだなぁ。p28 同上

 内田栄一という人に、わが雑誌「時空間」にも寄稿していただいたと記憶がある。1972年頃。劇団を主宰していて、たしか私たちの仲間の何人かは彼の門を叩いているはず。

女店員 ああいうのは結局、サイケっていうのは幻覚の状態の絵だから、すごくもう、普通の人間だったら描けないと思うんですよね。だからLSDとか、あのマリファナですか、ああいうふうなの、やっぱりある程度使用してみなくちゃ、ちょっとね、書けないだろうと思います。あたし達がただ見たって、まぁ、完全に理解できないだろうと思うんです。こういうサイケなポスターは目新しいから売れるんじゃないですか。p38

 これはポスター店の女性店員さんの弁。68年の段階で、このような単語が飛び出すこと自体、当世風であったのだろう。

男1 いやに疲れたような顔をして、風月(新宿風月堂)にきてね。
女2 風月にいる人はそうかもしれないけれど、わたしなんかどうですか。疲れてますか?
男1 ぼくがいうのは風月にいる人のこと。
女2 ごく一部の若い人ってこと?
男1 風月以外のこと、知りません。
女2 風月でもどこでもいいわ、24ぐらいになったら考えかたがきまっちゃう。いやよね。
p40「新宿の若者たち」

 すでにこの時点で、一般客をよそに、新宿風月堂、という単語は、お互いが何を意味しているのかが解ってしまうようなアイコンと化しているようである。

女3 わたし、全然フーテンなんてよく知らない。風月堂っていうのも、外から見たことあるけど中に入ったことないしね。それからフーテンってのは流行しはじめたのは去年の夏でしょ、わたしそのころテレビのバイトしてたの。フーテンの人たちと接触なかったけれど、フーテンを知っている人たちにつれられて、フーテンにあいに行ったり、話したりしたわけよね。 

 そのとき、あれ、自分でも不思議なんだけど、仲間意識みたいなのがあるのね。それで、週刊誌やなんかで悪くいってても、自分じゃ自分なりにフーテンをすごく理解しているような気持になていて、自分はフーテンを理解しているんだと思った。仲間意識みたいなものがすごくあったの。

 でも、今年の夏になってまたフーテンっていうのが出てきたじゃない。わたしから見れば、きたならしくて、なんか奇声をを発したりやっているのを見ると、去年は理解していたつもりが、今年はもう、別個の世界のものと思って、もう見ちゃうのね。

 だからフーテン見ると、なにやっているんだろう、きたないなぁと思うし、このあいだは歌舞伎町のところでシンナー遊びっていうの? ビニールの袋に入れて、こう、やってんのよ。で、フラフラしてるのよ、あんなことしてなにがいいんだろうと思うわけよね。すごく非生産的な生活しているわけじゃない。あなたたち風月堂なんかにも行っているんだけど、フーテンを本当はどう見てるの? p44 同上

 誰がどこで、と特定した話ではなく、渾然とした話ではあるが、この時代、LSDからマリファナ、シンナーまで、まぜこぜに話が進んでいたようである。この本では、まだ、どうも喰いつきが弱い気がする。

 「電脳・風月堂」の中の参考資料リスト「Large Beer」「Can Beer」の中の、もうちょっと前の、「乞食学(ビートロジー)入門」(北田玲一郎/ノーベル書房/1968.06)とか、「新宿考現学」(深作光貞/角川書店/1968.09)を参照する必要がでてきた。

 あるいは、「アサヒグラフ」(1967.5.5号 朝日新聞社「部族」の姿を初めて掲載)、「キネマ旬報」増刊「サイケの世界」(1968.07/キネマ旬報社)、 「キネマ旬報』別冊「アングラ’68 ショック篇」(1968.08/キネマ旬報社) も参考にすべきなのだろう。ただし、雑誌類は現在の段階で、見れるのだろうか。探してみよう。

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「みんな八百屋になーれ」  就職しないで生きるには 3 長本光男<2>

<1>からつづく

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「みんな八百屋になーれ」 就職しないで生きるには 3<2>
長本 光男   (著) 1982/07 晶文社 単行本 205ページ
Total No.3267★★★★★

 前回のこの本ついての記事を書いたら、SNSつながりで、貴重なコメントをもらうことができた。散逸してしまうと困るので、こちらにも転記しておく。

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槇田 きこり 但人 わたしのことも出てきたが、当時わたしは若者だった。
中年男性の話の市川さんについて書く。


市川さんは2年ほど前に亡くなっていたことが、4月のポンのイベントで久しぶりに行って、分かった。
妻は先に亡くなり、子供もいなかったので、親戚の子が養子に入り,あとを継いでいた。
今までこのビルを借りているのに契約書らしきものは取り交わしたことが無かった。なので,跡取りになり、契約の問題が出てきているのではと、まず聞いた。そしたら、やはり何もなく、以前の状態のままなのだそうだ。
なくなる前に、あそこだけはそのままでいくようにと、託してくれているのかもしれない。ありがとう、市川さん。

市川さんはその当時、老人ではなくナモたちと同世代だった。
家は百姓家なのだが、明治時代なのか広い畑の脇に、中央線の西荻窪駅が出来た。それで駅前の土地を売ったりした。親は、広い屋敷地の多くを使い園芸屋を開いた。
市川さんは、慶応大学を出て、たしか商社マンか金融関係で働いていたが、親の後を次ぐことになり、園芸屋とアパート経営だけでなく、何かしたかった。
それで、残っていた土地の狭い一つに、四階だてのビルを建てた。
一階をフローリスト カフェ《あんふぁん》。細長いフロアの片面の壁に切り花用の冷蔵庫がズラ〜っと並んでいた。お花を買うのは、住宅地の人だろう。また、カフェなので、お茶を飲むための人も訪れる。一つの空間で二つの商いをドッキングさせていた。
2階以上は、カルチャースクールだった。それぞれ大きい部屋と小さい部屋があった。彼とスタッフが企画して、様々な教室が開かれた。70年代はじめの当時は、朝日カルチャーなどもなく、新宿の駅ビルに産経文化ナントカの教室がある程度だった。
市川さんは、一階もその上も、自分のアイデアでやり始めたが、時代が早過ぎたのだと思う。カルチャースクールは、次第に生徒が減り、教室も減り続けたようだ。フローリストの方も、売り上げは設備投資に見合うものでは無かったのだろう。都心でも無いような新しい二つの事業は行き詰まった。
それで、自分が経営運営することを止めることにしたのだ。
代わりに、原宿の今はラフォーレになっている場の交差点向かいのド超一等地のビルの入り口に小さなフローリストをやり始めたら、それはすごく当たった。
休憩、入ります。

槇田 きこり 但人 つづき書こうと思っている。ホビット村にどう繋がるのか。西荻に当時からあったジャムハウスだ。
最近まで理解していた話だけでなく、ポンのイベントに来てくれたジャムハウスの川内たみさんから聞いたことを、と思ったら、来てた〜〜。
まあ、数人の読者の一人がその本人だが、まあ、書くか。たみさん! あなたに書いてもらった方がいいのですが。さてこのあと再開。

わたしのタイムラインに素敵なウクレレのライブを紹介したので観ていてね。

槇田 きこり 但人 1974年だったか、西荻に映画館が潰れて、空き地になっていた。
雑貨やアクセサリーのシャツハウスの近くだ。
ジャムの川内信也さんやたみさん、弟のアリたちが、大勢の若者を集め、空地の草刈りや清掃をして、《西荻村祭り》を開いた。

それを地元の市川さんが見ていて、こういう若いエネルギーで、古びた商店街に活気が出てくるといいなあと、思ったそうだ。
一年経ち、信也さんに自分の持っているビルがあるんだが使わないかと話をした。
丁度ミルキーウェイキャラバンが終わり、1975年の11月から月一で三鷹のコミューンで開かれるマルチメディアセンターに、信也さんが市川さんからの話を持ち込んで、集まる数多くの中から、長本兄弟商会、ほんやら洞、エマウスの家、この三店なら営業的にもやっていけるだろう、となった。
この続きはまたそのうちなんだが、たみさんから先日聞いたのは、その前のことだった。
わたしは、信也さんに聞いていたのは、村祭りのことだったのだが、そんな突然のことでは無かったと。
市川さんの家と川内家は、当時隣り合わせに住んでいたのだと。
お隣さんで、何年かおつきあいをして、互いのことを理解して親しくしていたんだって。
と他前舞い込んで来たと思っていたのは、わたしら流れものの方で、長年の交流で、互いが世間のやり方考え方と違うことを認識して、リスペクトしあっていたようだった。
これは、わたしにとって驚きの事実だった。
わたしの話はこれくらいで、あとは、たみさんにタッチ。

槇田 きこり 但人 ナモ商会は、コンピューターの導入はしなかったが、この八百屋から独立した卸部門のJACは、早期からコンピューターを導入した。膨大な仕入れと卸の管理では当然しなければならなかった。しかし、会計などのオフィスソフトが有るわけでは無かったので、ソフトを作らなければならなかった。
担当は、CCC印刷をアキとトシから受け継いだダウだった。彼は印刷屋を引き受け事業化をしたかが、自分のドラッグ全般に関する分厚い本を作ったのちに、社長を退き、JACに入った。
一人ではソフト開発が難しく、わたしの友人を紹介した。チーち
ゃんといい、池袋のめるくまーる社の近くに住んでいて、めるく社長たちと親しくしていて、遠野の造り酒屋の娘さんでわたしも仲良くなっていた。『草はひとりでに育つ』をだした出版社の社長の息子がプロデュースしていたドームシアターに《チゴイネルワイゼン》を観に行ったり、明治神宮に連れて行かれ、水の湧く聖地を教えてくれたりした。
彼女がソフト開発に参加したのだが、ナカナカ進まないようだった。その後、彼女は邦に帰ってしまった。開発は上手くいったのかは、分からない。
しばらくして新たなメンバーから、『Mac+』などのMAC関連雑誌の定期購読を申し込まれたので、MACに変えてシステムを構築したのだろうか。
もちろんその頃には、ナモ商会に来る野菜をはじめとした食品の伝票はコンピューターから出力されたものになるだけでなく、様々なデーターがつけられるようになっていった。

槇田 きこり 但人 この本の晶文社の編集者の上司は、津野海太郎さんで、後の『本とコンピューター』誌の編集長をした人だった。
シリーズには、八百屋の他、いくつもの業態の経営者が書いたが、本屋は二つあった。一つは四日市の絵本屋《メリーゴーランド》。ここにはプラサードからカレンダーを卸していた。
もう一つは川崎の《早川書店》の早川義夫さん。義夫さんとは年中、本の問屋街で顔を合わせるのだが、憧れのフォークシンガーだったので、とても声をかけられるようなわたしではなかった。

津野さんは荻窪に住んでいたので、編集者ではなく、時々やって来られていた。津野さんから、おかしな話を聞いた。
義夫さんには津野さんが、プラサードのことを話していたらしく、義夫さんがプラサード書店を見てみようと、一度電車で向かったが、途中でイヤ見るのはよそうと引き返したのだと。
ただそれだけの話だったが、何だったのだろう。

槇田 きこり 但人 もちろん、津野さんは『ワンダーランド』誌を晶文社の編集者として仕掛けた人だ。

槇田 きこり 但人 津野さんはまた、70年前後のアングラシアターの《黒テント  自由劇場》のプロデューサーだったか中心人物でもあった。

槇田 きこり 但人 鶴田静さんの『ロンドンの美しい町』を拾って出版してくれたのも、彼だった。2014/06/14

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「わが新宿!」 叛逆する町 関根 弘 <3>

<2>からつづく 

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「わが新宿!」 叛逆する町 <3> 
関根 弘 1969/05 財界展望新社 ハードカバー 376ページ
★★★★☆

 新宿・風月堂のかおりを手繰ってこの本に辿り着いたのだが、内容的に大冊ながら、風月堂そのものの風景はそれほど多くない。自然、飛ばし読みすることになるのだが、あちこちに、当時の世情や風景が描いてあり、そもそも、こういう世情でこういう時代であったればこそ、新宿・風月堂が存在したのだ、ということが解ってくる。

 むしろ、この本に描かれている新宿そのものが、いわゆる風月堂であった、ということだってできそうである。今となっては禍々しい風景も、見る角度によれば、偉大なる文化の温床だったりする。いずれアンダーグラウンドという単語を使うなら、60年代の新宿、なかんづくこの本も、見逃すわけにはいかない、ということになる。

 「風月ゴロの哲学」

 (略)ビート族というのは、日本全国で50人くらいいるそうだが、わが友人の形容にしたがえば、彼らは”乞食”である。自分では絶対に働かず、もらいものの精神で生きている。(略)

 ビートの本拠も、もとはといえば新宿である。風月堂あたりでゴロゴロしている労働意欲の喪失者のなかから、無職を生活の信条とする者が、ビートと称する”現代乞食”のスタイルを創出した。

 わたしの会ったビートの本名は安部君といい通称は”ブ”で通している。かれは、京都の禅寺で、アメリカからやってきたホンモノのビート詩人ゲーリー・スナイダーという男に会って放浪生活の真髄を体得、ズダ袋を肩に家出、夜はお宮で寝るというようになってすでに三年になるそうだ。(中略)

 貰いものの精神に徹するというのが、かれらのエクスタシーなのである。舶来品であるというのもミソなのであろう。

 メモ・この当時にはまだフーテンとはいわなかった。p289「灯のある新宿ぶらぶら記」

 われらが愛すべき車寅次郎こと「フーテンの寅」(第一作1969/08) にくっきりと銘を刻した「フーテン」だが、そのルーツは「ビート」ということになるのだろうか。その名前の発祥は奈辺にあるだろう。

 ふうてんパーティ

 67年の夏は、新宿フーテンに一斉にマスコミの目が注がれることになった。どうやらマスコミはビートとフーテンを一緒くたにしている。似ている面もあるが、ビートとフーテンは大いにちがう。おなじヤサグレでも、ビートには求道者風なところがあるが、フーテンは遊ぶのが仕事だ。p325 同上

 純粋な区分けはないだろうが、ビートは舶来品、フーテンは国産、ということになろう。ビートという単語は、一部の人々以外には普及しなかった。そこがまたビートの矜持なのだっが、私なぞの後塵を拝する立場の者としては、ビートと、ビートルズのビートが重なって、渾然とした印象を残している。

 花園にヒッピーの店

 ついに24時間営業しているフーテンの店ができた。もうすこし洒落ていえば、ヒッピーの店である。場所は、花園、店の名前は「吾兵衛」。もとはキャッチ・バーだったが、フーテン専門に堅実(?)にやっていこうと、営業方針を切り替えた。(中略)

 ゼンガクレンとフーテンは、明らかに次元を異にするが、反戦意識においては一致しているので、サツの旦那方からみれば一枚の銅貨の裏表ということになるのかもしれない。p336 同上

 さぁ、でてきたぞ、ビート、フーテン、ヒッピー、それにゼンガクレン。それぞれに重なり合い、ここからここまでとは区切りをつけるのは難しいだろう。これに先立つこと、1964年の、みゆき族とやらがあるらしい。多少1964年4月創刊の「平凡パンチ」も気になるところ。

 フーテン詩集 

 フーテン族ともいいヒッピーともいわれる乞食スタイルの若者たちの精神的先祖は、アメリカのビートニクであり、そうであるならば、かれらの中心はギンズバーグなどの詩人であり、亜流といえども、日本のフーテンも詩をかく筈だとあたりをつけ、67年夏、新宿駅東口のグリーン・ハウスに集まったフーテンたちの詩を集めにかかった。p362「新宿フーテン詩集」

 当時の世相・風俗を理解するにはうってつけの一冊である。

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2014/06/13

「みんな八百屋になーれ」  就職しないで生きるには 3 長本光男<1>

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「みんな八百屋になーれ」 就職しないで生きるには 3<1>
長本 光男   (著) 1982/07 晶文社 単行本 205ページ
Total No.3267★★★★★

 すでに30年前、ひと世代前にでた80年代の本である。描かれているのは70年代的カウンターカルチャーの風景。しかしながら、今回この本を手に取ったのは、むしろそれよりはるか前の60年代カウンターカルチャーの臭いをかぎ取ろうとしたからだった。  

「電脳・風月堂」の中の、「Large Beer」「Can Beer」という参考資料リストの中から何冊か抜き出して「電脳・風月堂 関連リスト」を作っておいた。「★印はとりわけ『風月堂』への言及」がある、と説明してあるので、そのつもりで読んだのだが、やっぱりなかった。私のようなパラパラ読みには見えなかったのか。

 もっとも、1940年生まれの著者ナモと、1938年生まれの山尾三省が1975年に国分寺のロック喫茶「ほら貝」で飲みながら決ったのが八百屋の仕事の話だった。この二人の出会いは、おそらく「ほら貝」よりもさらに前、60年代の新宿風月堂あたりにあっただろう、ということは推測できる。しかし、私はそのあたりに言及している部分は確認できなかった。

 この本はやはり70年代的東京西荻ほびっと村・文化の発祥のポイントとしての一冊として読まれるべき本であろう。 山尾三省も「聖老人」百姓・詩人・信仰者として(1981/11プラサード書店/めるくまーる社)の中で、この八百屋の立ち上げのエピソードに触れている。

 この学校(「ほびっと村学校」)を責任もって運営してくれたのが、キコリこと槇田但人(まきたただと)であった。キコリは、ほびっと村に集まる他の仲間たちと共に、「やさしい革命」(ママ)(草思社刊)という本をつくるのにも力をそそいでいた。

 ほびっと村が開かれてから一年後、1977年10月10日のことだ。ビルの三階、階段をのぼってすぐの場所に、小さな本屋「プラサード書店」が誕生した。開店の日、店主として坐っていたのは、長い髪を後ろで束ね、ヒゲを伸ばした細身の男だ。いうまでもなく、キコリである。p107「まがったキュウリがやってきた」

 この本、平野甲賀のブックデザイン表紙も愉快だし、当時の晶文社らしい、いかにも読みやすい雰囲気なのだが、どうしてどうして、読みだしてみれば、深く、また、たっぷり時間もかかる。

 私は、若い時から常々思ってきたのだが、一般的に、自分たちの「文化」を伝える対象として、いろいろ向き不向きがあると、いうことだ。例えば、「子供」(あるいは青年)はわりと早く友達になれる。自分が子供だから、すぐ親和性を、持つことができるのだろう。「女性」もまた、わりと話しすることができる。もっとも、女性を敵にまわしたのでは、世界人類が半分敵ということになってしまう。

 そういうジャンルでいうと、高齢者、いわゆる「老人」とも割と話するのは面倒ではない。ちょっと抹香臭い仏教の話題など、ひとつふたつすると、もうそれで、なんとかお友達になれるのである。ところが、一番やっかいなのは「中年男性」なのではないか、と思ってきた。

 この文脈においての「中年男性」とはなにか。短絡的に言えば、ビジネスであり、経済である。物事にどれだけ現実性があるのか、経済的に成立しうるものか、実際的な社会性のあるものなのか、ということのシンボルとなろう。

 長本兄弟商会も、スタート地点では、「子供」(あるいは青年)や「女性」や「老人」には、たぶん受ける話であっただろう。しかし「中年男性」には、なかなか分かってもらえない、説得力のない話であっただろう。

 ところが、西荻に4階のビルを持っている市川さんというオーナーがでてきて、八百屋やほびっと村というスペースの可能性がでてきた。この地点における市川さんとは、おそらく、上の範疇でいえば実年齢はともかく「中年男性」ではなくて、精神としては良い意味での「老人」だったのではないだろうか。

 市川さんは西荻の古くからの住民で、このあたり一帯に土地をたくさん持っている地主の一人であるという、駅周辺にも貸しビルを何軒か持っている。どこか自由な市民という気風を感じさせる市川さんは、だんだん中流階級の住宅街として妙に落ち着き払った街になってゆく西荻に危機感をいだいているらしかった。

 そこに若者たちが集まる場所ができれば、街も活気づくだろうし、自分としてもビルを貸す意味がある、という話だった。市川さんの、自分の生まれ育った街を愛する気持ちがよく伝わってきた。私たちは市川さんの好意に素直にあまえることにした。p104 同上

 この気持ちがあり、あの心があった。魚心に水心、というあたりだろうか。

 私は一度もまともな仕事をしたことがなかった。
 まともな仕事というのは、背広を着てネクタイをしめて、会社に出かけてゆくことだ、と思いこんでいた。それは、少々私の心がねじくれていたせいであるようだ。
p63「開業日なのに野菜がない」

 昭和15年、私は九州・熊本の小さな漁村に生まれた。戦中戦後の食糧難の時代に幼少期をすごした。父は漁師で、耕す畑もなく、農産物はほとんど手にはいらず、母は毎日の食事に苦労していた。p31「ダイコンの葉っぱはいかが」

 1940年生まれのナモ、八百屋を始めたのは35歳の時だった。そしてこの本が描かれたのが1982年、42歳の時である。私には、この著者が、もっとも「中年男性」から離れたライフスタイルをとりながら、結局、自分も「中年男性」になっていくストーリーと読める。

 オフィス・コンピュータを導入しようという話は、日常の仕事をどうしてゆくかという、ごく身ぢかなレヴェルから出てきた。そこに何も飛躍はない。ソロバンよりは電卓が便利だし、電卓よりコンピュータが便利だ。
 しかし、ほんとうにそうか。私は、コンピュータを導入しようという仲間の提案に、どこかひっかかるものを感じていた。
p192「一緒にやっぺよ」

 この1982年の段階では、一般的な多少のお店や卸業なら、やはりまだオフィスコンピュータは早かったかもしれない。しかし、むしろここで、積極的にコンピュータや未来社会に夢をもっていたら、アメリカのWECスチュアート・ブランドなどの世代と同調した形で、日本のカウンターカルチャーの電脳化へはずみをつけただろう。

 山尾三省は、早々と八百屋を卒業し、上の範疇で言えば、「子供」(あるいは青年)から「老人」へとひとっ飛びに屋久島へと「隠居」してしまった。上の範疇で言うところの「中年男性」をぬかしてしまったのだ。三省には、ここにスキがある。晩年のアニミズム三部作 を残していったわけだが、彼の世界は、「子供」(あるいは青年)や「女性」や「老人」には人気がでるだろうが、「中年男性」には受けまい。

 八百屋の仕事にしても、肩にばかり力が入り、ただひたすら働くのみになってしまう。
 子どもたちのことも、女房のことも、仕事のことも、すべて同じだ。多くの人に出会い、さまざまな場に行きあう日々のなかで、漂うのではなく、私自身の思いを集中させていきたい。そうでなければ、ひとり者の気軽さや自由さに、あいも変わらず惑わされるのではないだろうか。
p203 同上

 こうしてナモは「中年男性」なっていった。そして「老人」へと、さらに旅をつづけた、のだろう。

<2>へつづく

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2014/06/12

「Pilgrim's Guide to Planet Earth 」Traveler's Handbook & Spiritual Directory<2>

<1>からつづく 

Pg000
「Pilgrim's Guide to Planet Earth」 Traveler's Handbook & Spiritual <2> Directory
Paperback: 288 pages Publisher: Imprint unknown (June 1975) Language: English ISBN-10: 0913852074
★★★★★

 なんと、<1>で紹介されていた日本の項の執筆者の二番目、Zen and Pooh, a young Japanese couple とは、サニヤシン・プラブッダになる前の然(ぜん)こと、星川淳氏のことであるという。さっきご本人から書込みがあった。

 ぼくとSambodhiのことですよ。1973年だったかな、初めてオルタナティブ・アメリカを旅したとき、このPilgrims's Guideの編集者のところを訪ねたことがあります。サンニャーシンになる少し前ですね。

 当時、ぼくらは京都に住んでいて、いろいろ首を突っ込む中でヨギ・バジアンのクンダリーニ・ヨーガも習い始め、その人脈でアメリカにたくさんあったバジアンさんのアシュラムをハシゴしたりしたのです(ほかにも風砂子のいたラマ・ファウンデーションとかいろいろ訪ねましたが…)。このPilgrim's Guideはバジアンさんの弟子の一人が編集・刊行し、編集部もバジアンさん系統の都市コミューンみたいな感じでした。星川(プラブッダ)氏書込み2014/6/12

 さて、友人ソパンの速読によれば、どうやらプーナに移る前のOshoのことも、ボンベイのネオ・サニヤスという名ででているという。なるほど、よくみると、インドの項に、たしかにネオ・サニヤスの文字が見える。とりあえす、インド編もアップして見よう。

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 と、ここでインド編が終わる。続いて、ネパール、チベット、シッキム、ブータン、スリランカ、が紹介されているわけだが、あまり長くなりすぎるので、ここで一旦終了。つづきは、明日以降の心だぁ。

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「Pilgrim's Guide to Planet Earth 」Traveler's Handbook & Spiritual Directory<1>

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「Pilgrim's Guide to Planet Earth」 Traveler's Handbook & Spiritual Directory<1>
Paperback: 288 pages Publisher: Imprint unknown (June 1975) Language: English ISBN-10: 0913852074
Total No.3266★★★★★

 おや何気に見ていたら、友人のページにこの本がアップされた。ああ見覚えがある。1977年にプーナのMGロードの書店で購入したもの。たしか我が書棚にあったはず。あれからまともに読んだことはないが、このままにしておけば、いずれ遺品整理業者に処分されてしまうだけだろう。所有していたよ、ということのアリバイのため(爆笑)、要所をアップしておく。

 「惑星地球への巡礼手引き」、という有難くも仰々しいタイトル。当時の「ニューエイジ」は、こういうセンスが好きだったんだな。

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 コピーライトは1974年となっているが・・。

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 解説は、アラン・ワッツ

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 神道の紹介も、こうなる。

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 さて、日本の「聖地」のご紹介。何回も開いたので、背表紙がはがれてしまった(汗

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 この当時の仙台における「やまと設計」とはなんだろう・・・・?
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 ニューエイジ・マガジンとして、「名前のない新聞」や「ニューヴァーブ」が紹介されている。

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 最後のページは、シリーズの他の本の紹介ですね。

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<2>につづく

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「わが新宿!」 叛逆する町 関根 弘 <2>

<1>からつづく 

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「わが新宿!」 叛逆する町 <2> 
関根 弘   (著)  1969/05 財界展望新社 ハードカバー 376ページ
★★★★☆

 電脳・風月堂関連リスト  

「乞食学入門(ビートロジー)」(北田玲一郎 1968/06 ノーベル書房)

「新宿考現学」(深作光貞 1968/09 角川書店)

「ティーチ・イン 騒乱の青春」 内田栄一・編著 1969/01 三一書房

「わが新宿」 関根弘 1969/05 財界展望新社

「脱走兵の思想」 1969/06 小田実・他 太平出版

「青春 この狂気するもの」 田原総一郎 1969/10 三一書房

「幻覚芸術」 LSD、サイケデリック、ラヴ・イン 蟻二郎 1970/04 晶文社

「機械的散策」 関根弘 1974/04 土曜美術社

「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」 地球の子供たちから愛をこめて 今上 武蘭人 1976/12 ブロンズ社

「思索の風景―都市への架橋」 栗田勇 1977/09 白川書院

「異郷の景色」 西江 雅之 1979/01 晶文社

「幻覚の共和国」  金坂健二 1971/02 晶文社

「みんな八百屋になーれ」 長本 光男 1982/07 晶文社

「セツ学校と不良少年少女たち」 セツ・モードセミナー物語 三宅菊子1985/01 じゃこめてい出版

「プライベート・タイム」 森 瑶子1986/09 角川文庫

「東京ジャズ喫茶物語」アドリブ編 1989/11 出版社 アドリブ

「『族』たちの戦後史」都市のジャーナリズム 馬渕 公介 1989/10 三省堂  

「アイ・アム・ヒッピー」山田塊也 1990/5 第三書館

「エンドレス・ワルツ」 稲葉真弓 1992/03 河出書房新社 

「ストリートファッション」 若者スタイルの50年史 アクロス編集室 1995/04 PARCO出版

「エグザイルス」 放浪者たち すべての旅は自分へとつながっている ロバート・ハリス 1997/06 講談社 
 

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<3>につづく 

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「わが新宿!」 叛逆する町 関根 弘 <1>

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「わが新宿!」 叛逆する町 <1> 
関根 弘   (著)  1969/05 財界展望新社 ハードカバー 376ページ
Total No.3265★★★★☆

 最近、 「電脳・風月堂」を編集している方とSNSつながりとなった。以前よりチラチラと拝見してはいたが、実際にご本人のナビを受けて閲覧すると、これがなかなか、ひとつひとつが説得力を持ってくることになる。

 特に読書ブログとしての当ブログにおいては、その参考資料リンク、「Large Beer」「Can Beer」あたりは気になるところとなる。順不同となり、蚕食する程度のことになるとは思うが、このリストをお借りして、一体、60年代の日本アンダーグラウンド文化を支えた「新宿・風月堂」とは何だったのか、探りに行く旅にでる。

 時あたかも、70年代アンダーグラウンド文化のアーカイブズをまとめようか、という誘いもある。その流れとコミットしつつ、70年代が成立した基盤としての60年代とは何かを問うきっかけにもなるだろう。

 そもそも新宿風月堂とは何だったのか、BLACK COFFEE [新宿『風月堂』の概要(1945年~1973年)] を見るととても分かりやすく簡潔に整理してある。おそらくこれが、唯一、最も丁寧にまとめられた「新宿・風月堂」のアーカイブズであろう。

 編集のフーゲツのジュンは、このサイトをインターネットが始まったあたりから立ち上げ、すでに17年に渡ってサイトを運営しているとのことである。青春時代からリアルタイムで風月堂に関わった御仁だけに、その風月堂に対する愛情はひとかたならぬものが感じられる。

 ふと、思う。北山耕平が、「ホール・アース・カタログ(WEC)」がネットで全てみれるようになった時に自分のブログで、「同志たちよ、あの偉大なるカタログがウェブサイトですべて公開されましたよ」と感嘆しつつ次のようにつぶやいている。

 「これがもっと大きな話題にならないのは、ぼくの前の世代があまりインターネットに主体的に参加していないからなのかと、少なからず考え込んでしまった。」北山耕平「Native Heart」 2009/01/12

 1949年生まれ(現在65歳)の北山耕平にとって、「ぼくの前の世代 」とは、誰のことだろう。初期的に影響を受けたとされる片岡義男(1940年生)のことだろうか、谷川俊太郎(1931年生)やサカキナナオ(1923年生)あたりのことだろうか。

 一方、WECの中心人物であるスチュアート・ブランドは1938年生まれ、現在75歳。すでに、1980年代において、「メディアラボ」―「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦 (1988/04 福武書店)などをものしている。原文1987年。

 日本人の感覚では、現在70歳以上の人々が当時からネット文化に積極的だったとは推測しかねる。むしろ、デジタルだ、アナログだ、と言って、むしろコンピュータ文化には背を向けていたイメージはある。

 はてさて、この電脳・風月堂であるが、どうしてどうして、アメリカには多少の遅れを見るが、50年代から60年代以降の文化が、色濃く反映されているように思われるのである。全てを追っかけすることは不可能であるが、せめて、北山の更に後輩となる私なんぞの手の届く世界ではないが、その「前の世代」とやらの後塵を拝すべく、いそいそと追っかけを初めてみよう。

 「Large Beer」「Can Beer」あたりを手掛かりに何冊か取り寄せたところ、まず来たのが、この「わが新宿!」だった。ちょっと読み始めたところだが、なかなか濃い。

 いまでは、風月堂と乞食は、切っても切れない関係にあるが、しかし、風月堂の支配人にいわせれば、フーテンはありがたい客ではない。一杯のコーヒーで何時間も粘るし、食い逃げ、飲み逃げはしょっちゅうだ。ほんとは、ノーマルなお客さんに集まってもらいたいと思っている。

 フーテンの巣窟と化したのは、「五ドルで遊べる東京」という本がアチラで出て、それに店の名前が載ったからだ。いらい外人の家出人、つまり西洋乞食が日本へくるとかならず、立ち寄るようになった。日本の乞食(ビート)は、彼らの亜流なのである。p30関根「花ひらいた現代無宿モード」

 この「五ドルで遊べる東京」という本は、実際にあったのだろうか。それともWECあたりの紹介などと関係があるのだろうか。最初の「Whole Earth Catalog 」が出たのは1968年の秋。ここで紹介があったのかなかったのか。いや、むしろもっと前に紹介記事はあったような気がする。

 諏訪優の「ビート・ジェネレーション」という本は、ビート詩人についての要領のいい解説書だが、そのなかで、京都に禅の修行に来ていたゲイリー・スナイダーについて、かれの人生哲学は”乞食”のそれではないか、と書いている。

 わたしは、このスナイダーに会って、ビート精神を吹きこまれ、本格的に家出を決意、ズダ袋のなかに寝袋その他の生活日用品を詰め、夜は、お宮の屋根の下で寝るというふうなことをしている大阪のA青年に会ったことがあるが、このように労働を拒否して施しものに依存する完全な浮浪生活に踏み切っているものが全国に十数人いるということだ。

 かれらは、フーテン仲間のいわが横綱格で、尊敬を一身に集めているが、その根拠地はやはり風月堂だ。p30関根

 新宿・風月堂そのものは1946年に出来たということだが、スナイダーが初めに来日したのは1956年で、1968年あたりまで滞在した、ということだ。他の多くの当時のアンダーグランド文化人たちも集ったであろうこのコーヒーショップが、いわゆる後世代の私(たち)が知っている「風月堂」のイメージになったのは、いつ頃からだったのだろうか。

 閉店は1973年ということだから、当時私はすでに19歳、リアルタイムに行けば行くことができた筈だが、私は行かなかったし、私の周辺ではその存在が当時熱く語られることはなかった。

<2>につづく

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2014/06/11

「読んでいない本について堂々と語る方法」ピエール・バイヤール

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「読んでいない本について堂々と語る方法」 
ピエール・バイヤール (著), 大浦 康介 (翻訳) 2008/11  筑摩書房 単行本: 248ページ
Total No.3264★★★★☆

 うーん、またまた速読とか、なんかのズルするような方法論なんだろか、と、タイトルをみただけではそう思う。著者は、パリ第八大学教授で、精神分析家。はぁ、フランスあたりでも、ちゃらちゃらした人がいることはいるんだろうな。

 と、そう即断するのは早計である。「読んでいない本について堂々と語る方法」というタイトルに嘘偽りはない。これは、著者が大学の講義をする時の方法論でもある。 

 例えば、中世の修道院の奥深く、見てはいけないという禁書があるとする。その存在すら忘れられてしまっている本の調査が始まる。若い修道士がその調査を依頼され、その存在を確かめることができた。

 その本の中に何が書いてあるのか、本のカバーを開けてしまえば分かることである。だが、その本は禁書である。見てはいけない。見てはいけない本のレポートを書かなければならない修道士は一体どうすればいいのか。

 というようなストーリーが書いてある。その本を堂々と語るには、周辺の情報を集め、禁書になった経緯を調べ、およそ、どのような内容であるから禁書にならざるを得なかったのだ、と推測していくことになる。

 まぁ、大体そういうことが書いてあるのだろう(笑) 私もまた「読んでいない本について堂々と語る方法」を学ぶ必要がある。

 この本はコンパクトである。だが深い。タイトルのComment parler des livres que l'on n'a pas lus ? も、おおよそ日本語タイトルと同じ意味であろう。日本のガラパゴスマーケティングに合わせて付けられたタイトルでもなさそうだ。

 なかなか哲学的な内容である。暇な時に、じっくり繰り返し読むのも面白そうだ。

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「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 北沢 夏音<3>

<2>よりつづく

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「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 <3>
  北沢 夏音 (著) 2011/10本の雑誌社 単行本(ソフトカバー): 539ページ
★★☆☆☆

 後半は限りなく飛ばし読みになってしまったが、もうこの本は、そっと静かに閉じて忘れてしまうべきであろう。これからこの本を読む人も多いに違いない。小説や映画にはネタばれを嫌う傾向がある。この本の魅力も、途中までは、そのネタ探しに付き合わされるのであり、途中まで、そのワクワク感はつづく。

 しかし、ある一点からは、私のようなパラパラ読者は、どうもついていけなくなる。途中から、ずっと、加藤和彦のことが頭に浮かんできた。

 すぐに整備屋に持って行って、僕は眺めたり、掃除したり、ミカが運転したりしていたよ。そのロールスは、5~6年乗ったんじゃないかな。それから違うロールスからベントレーを行き来して、十数台は乗っているんじゃないかな。昔から好きなんだよね、ロールスやベントレーは。今だに乗っているけどね。 「加藤和彦ラスト・メッセージ」p125

 ミニは、昔のミニはそのままは乗れないんで、やっぱり修理とか大変だからさ。で、今のBMミニじゃなくてね。昔のローバーのときのミニのほとんど最終型を買って、部品だけを全部古いミニに改造してあるっていう(笑)。「加藤和彦ラスト・メッセージ」p126

 「もうミニを持っているなら、セカンドカーはロールスロイスがいいだろう」ってコピーがあるけれど、ビートルズのカッコよさに似せて、自分の人生を作ってみたところで、つまり、仏つくって魂入れず、ってことになる。

 加藤和彦も、小島素治も、すでに亡くなった方であり、それぞれの人生を送られた方である。それぞれの尊厳もあり、とやかく今さら言うことは、はばかれる。しかし、どうも、このおふた方の、それぞれのファンには怒られるかもしれないが、この二人には共通項があると思う。

 18歳の私は、この「SUB」4号をリアルタイムで書店で見つけて購入している。そして、あとから2号と3号を書店に注文して取り寄せて貰っている。よほど気にいったと思われる。しかし、当時の私の18歳の直感は、ズバリ当たっていたと思う。

 「どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか」

 <これ以降、ネタばれあり注意>

 書かないでおこうと思ったが、やっぱり書いておこう。たぶん、私はもうこの本を読まない。このブログは私の個人的な読書ブログである。いずれブログを自分で再読した時のために、メモだけ残しておく。

 「その容疑というのは何だったんですか?」

 「万引きや」 p422小島談

 これ以上、仔細は書かなくてもいいだろう。はぁ、そういうことだったのか。たまたま魔がさしたんかな。それにしても懲役何年というのも長すぎるなぁ。

 「万引きなんか年中やってたよ。珍しくも何ともない」
 朗文堂社長・片塩二朗氏はニヤッと笑うと新しい煙草に火をつけた。
p430

 はぁ・・・。

 「(略)夢がないのに夢を売る、それが嫌なんだ。小島はそれをやっちゃった。自分で墓穴を掘ったな、ていうね。それで借金まみれになって、友人失って、誰とも付き合わなくなって、最後は万引きで捕まった---哀れですよね。」p435片塩談

 ふ~~。

 あとがきのあとに、草森紳一の長い「跋」もあるが、そこそこにこの本を閉じることにした。

 今、多くを語る気はない。ただ、言えることは、マガジンも、ジャーナリズムも、一生を賭けるような価値あるものではない、ということ。コンテナも、コンテンツも、コンシャスに道を開かなければ、意味はない。コンシャスあっての、コンテンツであり、コンテナだ。三位一体の、どれが欠けても、バランスが悪い、ということになる。

 「たしかに一種のセレブ志向はお持ちで、ビッグネーム好きだったようです」

 「平たく言えばミーハーだね。ミーハーが似合っていると思う、小島さんは」p277油井昌由樹談

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2014/06/10

「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 北沢 夏音<2>

<1>よりつづく

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「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 <2>
  北沢 夏音 (著) 2011/10本の雑誌社 単行本(ソフトカバー): 539ページ
★★★★★

 ある編集者が、私のブログは二次情報だ、と言ってきた。なるほど、他者から見た場合の一般論としては、そのとおりだと思う。反論する余地はない。よくも悪くもそのとおりだ。なんせ、形としては読書ブログであり、一度表現されたものを、さらに表現している、という意味では確かに二次的なのだ。

 ところが、私にとって、このブログは、やはり一次情報だと思う。というのは、当ブログは、書評でもなければ、ブックレビューでもない。私が私の心象を書きとめているのである。関心は、対象である本や雑誌や映像にあるわけではなく、それらに対峙した時の、私の心の動きに関心がある。

 対象物を誰かとシェアしたいわけでもなく、議論を受け、あるいは反論し、論争を仕掛ける、という目的はない。ただ、自分の心の動き、あるいはもっと深いところの存在を計測するために、対象物を利用しているにすぎない。

 山を登ったり、花を愛でたり、走ったり、座ったり、作ったり、呆けたり、そんなことをしながら、自分の中の心象をスケッチしているのと、意味は変わりない。

 さて、この本もようやく中ごろに差し掛かってきた。ここまでのストーリーをダイジェストする気はもともとない。ただ、この小島素治という人のストーリーを読んでいて、ますます感じていることはある。

 この本はかなりハイカラだった。書店でも異彩を放っていた。ただ、小島素治という人の個人ワークの臭いが強く、内容は全部一流どころばかりだが、個人がこれほどの原稿や写真を集められるわけがなく、全部、どっかからの転載ではなかったろうか。
 個人編集者の、プレゼンテーション用に編集した、デモ雑誌、というニュアンスで私なんぞは捉えていた。

 内容は、とてもハイカラ。だけど、いかにも神戸っぽくて、どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか、っていうニュアンスは今も残る。(友人の記事に書いた私の書き込み。汗)2014/06/07

 これがこの本を読む前の私の偽ざる感想だった。そして、ネットでこの伝説的な編集者の人気が高いことを知って、(あとで訂正を要するだろう。汗)とも書いた。

 しかし、中ごろまで読んできて、今の私の感想は、「どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか、っていうニュアンスは今も残る」、と書いたのは正しかったのではないか、と思う。

 小島素治は、当ブログでいうところの、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの中の、コンテナとしての雑誌に惚れてしまった男であったのではないだろうか。容れ物としての雑誌は、確かに魅力的である。雑誌そのものが、一つの表現でもあり得る。

 だが、私はそれでは満足できない。彼の雑誌は数冊しか見ていないが、彼のやり方は、雑誌を存在させるために、記事を作っている、という感じがする。容れ物は、中身があっての容れ物なのである。彼は、容れ物を作りたかった。その容れ物を存在させるために、中身が必要だった。

 だから、はっきり言って、その記事(コンテンツ)は、なるほど、当時の魅力的な材料をセレクトして、当時の彼の魅力とネットワークを駆使して、入れてきている。しかし、どうもそれは、どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか。

 だから、コンテンツが結局いいかげんだから、コンシャスネスへと届かない。その道が途絶えてしまっている、と、私なら極言してしまう。

 結局、この単行本は「SUB」を追っかけているわけだが、本当に注目すべきは、「SUB」ではなくて、それを追っかけている北沢夏音というライターそのものではないだろうか。そう気づいてみると、この本は、何か他の本を連想させる。

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 たとえば、当ブログで最近読んだ本に、増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(2011/09 新潮社)がある。 思えば、同時期の出版であるが、実に、その準備期間といい、ノンフィクション・ライティング手法といい、なかなか似ている。その本の分厚さも、濃厚な調査も似ている。木村雅彦は、力道山と対決して、八百長試合と罵られ、社会的に抹殺されてしまった、伝説的な柔道家である。

 小島素治はこの本の取材を受けながら、結局この本の上梓をみないで亡くなっていったが、たしか木村政彦も、取材を受けながら(かどうかは忘れた)、結局、上梓を見ないで亡くなっていった。そして、二人に共通するのは、伝説的な超天才的人物でありながら、結局は成功譚としてではなく、それぞれのアイロニーに満ちた悲哀ある人生を送ったところにある。

 さて、ここまで来ると、もう一冊思い出す本がある。ちょっと前に出た本だが、伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」地下鉄に乗った同級生(2006/11 集英社)だ。対象となっているのは、一連のオウム真理教事件で被告となり、死刑囚となった豊田亨を、東大時代に同級生だった伊東乾が追う、というノンフィクションである。こちらもまた、成功譚ではなく、悲哀ある人生である。

 しかるに、ここに見るべきは、それぞれの小島素治、木村雅彦、豊田亨、などではなく、それを書いた北沢夏音、増田俊也、伊東乾、と言った人々の心象こそ、なのではないか。

 富士山は日本一高い山だろうし、エべレストは世界一高い山だろう。それは確かだ。そして、その登頂に成功して、その高さを体験し、また誇示することも、当然と言えば当然だろう。しかし、その上に空があり、どんな高さの山でも飲み込んでしまう無限の空があることを忘れてはいけない。

 海は確かに無限に広いが、その海の水の一滴の中に無限が含まれていることを、知ることもまた必要である。ここが感じ取れなければ、コンシャスへの道は開かれない。図地反転しなければ、単なる対象や表現にとどまる。ゲシュタルトを転ずる必要がある。

<3>につづく

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「百年の愚行」 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY Think the Earth Project (著)

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「百年の愚行」 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY
Think the Earth Project (著) 2002/04 Think the Earthプロジェクト 単行本: 240ページ
Total No.3263★★★☆☆


 「EARTHLING」地球人(アースリング)として生きるためのガイドブック(2011/12 ソル・メディア)に先立つこと10年前に出た本。ほぼ全頁カラー写真が綴られ、対象となっているのは、地球の惨状。どことなく、アル・ゴア「不都合な真実」(2007/1 ランダムハウス講談社)を思わせる雰囲気に、こちらは身構える。

 これで裏に「勧」原発マネーなどが動いていたりしたら、どうも気持ち悪い一冊となってしまう。「炉心溶融事故を起こしたスリーマイル島原子力発電所の冷却炉」とか、「放射性物質の収納倉庫」としてフランスのラ・アーグなどの画像が脈絡なく掲載されているが、その意味するところは如何?

 Think the Earth プロジェクトは「エコロジーとエコノミーの共存」を目的とするNPOです。新しい発想のものづくりで地球を考えるきっかけを創出し、インターネットで情報発信を行なっています。最初のプロジェクトは、地球を体感する腕時計でした。本書「百年の愚行」はThink the Earthにとって、2番目のプロジェクトとなります。巻末

 どことなく不思議な一冊である。

 3・11以降、私は、本を通じてではなく、目の前の現実として、「百年の愚行」を一遍に見せられているような状態である。

 好みとしては、Think the Earth ではなくて、Feel the Earth と行きたい。そして、もっと本質的には、Conscious the Earth と銘打ちたいところだ。

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2014/06/09

「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 北沢 夏音<1>

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「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂 <1>
北沢 夏音 (著) 2011/10 本の雑誌社 単行本(ソフトカバー): 539ページ
Total No.3262★★★★★

 「サブ(SUB)」なんて雑誌、誰も知らないだろうな。知っていても今さら話題にする人もいないだろう、そう思ってた。最近、天井階を片づけていて「SUB」4号がでてきた。この雑誌は1970年直後の書店で異彩を放っていた一冊。他の号も何冊か持っていたはずだが、今回でてきたのは、まずはこの号だった。
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 ところが、最近SNS繋がりの友人の書き込みに、なんとこの「サブ」が登場した。しかも、私は見たことなかった「SUB」の創刊号だ。「ヒッピー・ラディカル・エレガンス」(1970年冬号)。

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 しかも、同時に「ぶっく・れびゅー」が、その前身だった、ということを初めて知った。たしか、この両誌について、かつて、当時の私たちのミニコミ「時空間」の「まがじん雑学」に取り上げていたはずだ。そのうち確認してみよう。

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 ここまでの自分のイメージは次のようなものだった。

 この本はかなりハイカラだった。書店でも異彩を放っていた。ただ、小島素治という人の個人ワークの臭いが強く、内容は全部一流どころばかりだが、個人がこれほどの原稿や写真を集められるわけがなく、全部、どっかからの転載ではなかったろうか。
 個人編集者の、プレゼンテーション用に編集した、デモ雑誌、というニュアンスで私なんぞは捉えていた。

 内容は、とてもハイカラ。だけど、いかにも神戸っぽくて、どこか魂、ど根性が入ってないんじゃないか、っていうニュアンスは今も残る。(友人の記事に書いた私の書き込み。あとで訂正を要するだろう。汗)2014/06/07

 と、ここまでは漠然としたものだったが、敢えてググってみてびっくりした。実は、この雑誌はかなり多くの人のハートをヒットした有名な雑誌だったのだ。しかも、最近になって、この雑誌を振り返るレポートが一冊ものされているのだった。ああ、びっくり。それがこの北沢夏音という人の「Get back,SUB!」 。ああ、タイトルも、なんともそれらしい。

 この人がたまたま古書店でこれらの「SUB」を見つけて、編集長だった小島素治を探しにいく、というストーリーである。しかも、その時、なんと小島本人は拘置所に留置中ということである。ああ、びっくりびっくり。なんの罪を犯したのやら。

 そして、病院で治療中の小島元編集長を尋ねてインタビューにこぎつけ、連続して何回か取材を続けようとしたところ、一ヶ月後に亡くなってしまう、というミステリー仕立ての一冊である。わぁ、女だてらに凄い、と思ったのだが、どうやらこの人は北沢夏音と書いて、「なつね」と読むのではなく、「なつお」と読んで、1962年生まれの男性ライターのようだった。ああ、勘違い。

 この本、あちこちの紹介記事を読むと、決して名物編集者の成功譚ではない。むしろ、その逆で、なにやら、不渡りを食らって会社を倒産させ、晩年は、酒と競馬で身を崩した独身男の悲哀ストーリー、ということになるらしい。あらら~~。

 539ページと大冊だが、なかなか飽きないので、どんどん進む。今のところ3分の1ほどに差し掛かってきた。読み終わったら、全体をまとめてメモしておくとして、途中で、なぜか気になる文章がでてきたので、ここに抜き書きしておく。本間健彦「新宿プレイマップ」の元編集長の言とされている。

 「(前略)特に影響を受けたミニコミに、吉祥寺の「名前のない新聞」というのがあったんです。アパッチという青年が作っていた週刊のフリープレスで、本当のタウン誌は、こういうものなんじゃないかな、と思わせるものでした。 

 街のなかでどのように生きるべきか、というテーマと毎号取り組んでいた。お店の紹介、井の頭公園のフリーマーケット情報、そういう情報誌的な面もあるんだけれど、それが若い人の言葉と感覚で綴られている。自分たちの身近なものを紹介していくそういうスタイルは、後に多くでてくるけれど、元祖なんじゃないかな。 

 ミニコミと言ってもただの周辺雑記みたいなものとか、変なのもたくさんありましたよ。「名前のない新聞」はすごかったな。新宿の後は、下北沢や吉祥寺に若い人のムーヴメントが流れて行くけれど、それの旗頭であったのじゃないかな」 

 72年、ガリ版印刷で創刊された「名前のない新聞」は、途中から手書きオフセットに変わって通算101号まで発行した後、77年に活動休止。78年、「ホール・アース・カタログ」の流れを汲む新しい世代の百科全書「やさしいかくめい」をアリシア・ベイ=ローレル「地球の上で生きる」の版元・草思社からシリーズで刊行。

 88年には脱原発運動の興隆を機に復刊し、環境・共生・平和・仕事など身近な問題から社会問題まだ扱う「マスコミには載りにくい情報を掲載するオルタナティヴな新聞」として、現在も隔月で発行、しかもペーパーとウェブサイトの両方から発信、ウェブでは「ビー・ヒア・ナウ」の著者ラム・ダスや、13の月暦の提唱者アグエイアス夫妻のインタヴューも読める。この持続性は希有な例ではないか。p84「街から」

 とにかく、日本のカウンターカルチャー史となれば、かならず「名前のない新聞」がでてくるのは、当然のことだろう。だが、あぱっちを語る時、72年にでていた季刊誌「DEAD」(1972~73)を語る記事は少ない。本当の意味でリアルタイムで知る人は少数なのだろう。

 いずれにせよ、この本は「SUB」を語るのがメインの一冊だった。残る3分の2、どんなことが飛び出してくるやら、楽しみではある。

<2>につづく

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2014/06/08

「EARTHLING」 地球人(アースリング)として生きるためのガイドブック

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「EARTHLING」 地球人(アースリング)として生きるためのガイドブック
一般社団法人Think the Earth (編) 2011/12 ソル・メディア 単行本: 336ページ
Total No.3261★★★★☆

 3・11直後に出版された40人程の執筆陣が関わるオムニバス本。この手の3・11オムニバス本では、ほとんど面白い本がない。各論並列でまとまりがない。ごちゃごちゃして何がなんだかわからない。各人が言いたいことをとりあえず言っている、という感じ。

 この本もそういう本なのだろうか。それにしても、「地球人として生きる」というフレーズはいいですね。当ブログでも、3・11の前ではあったけど、カテゴリを「地球人として生きる」として書き連ねていたことがあった。

 一般社団法人Think the Earth編とある。なにやら公的機関かなと錯覚しやすいが、この一般社団法人とは2008年にできた新しい法制度で、割と簡単に成立する法人で、別段、公的な目的がなくても設立できる。最近は、錯覚を利用して、詐欺的団体が悪用しているというレポートもある。まぁ、ほとんどはまともに運用されているのだろうが。

 ところで、このEARTHLINGとは一般的な言葉なのだろうか。調べてみると、地球人と訳されていることが多い。なるほど、こういう言葉があったのか。当ブログのタイトルも「地球人スピリット・ジャーナル」と銘打っている。英訳する時は、TerranとかEarthのままだったりしたが、これからは、このEarthlingという使い方を研究してみよう。

 茂木健一郎を初めとして、約40名ほどが書き連ねているが、全部を読むのはちょっと大義である。パラパラめくると、2~3人の文章が目にとまった。

 友人の文筆家、星川淳は、彼自身のことを「在日地球人」と規定していたが、この感覚は私にも見事に当てはまる。p044芹沢高志「ひとつの時代が終わろうとしている」

 なるほどこれでもいいのだが、「在地球・地球人」のほうがより正確なのではないだろうか。ことさら「在日」を強調する意味はあるだろうか。

 私はこれまでの国家という枠組み自体が、そろそろ老朽化しつつあるのではないかと思う。それは体制とかイデオロギーの問題ではない。国家、あるいは国民国家という概念そのものが、崩れ始めているのではないかと感じる。p043芹沢高志 同上

 このあたりは本当にそう思う。それを前提に当ブログは進行している。

 これがこれからの、地球人の読書です。それは野外で読むことでもなければ、英語で読むことでもありません。部屋の中で読んでも、日本語で読んでも全然構わない。それぞれの人が、それぞれの場所で、大地の恵みのような豊かな本を、想像力や思考力を働かせながら作者の無意識に接続し、人生いっぱい、身体いっぱいで読んで、何度もそれを読み替えていくような運動、それこそがまさに地球人にとっての読書ということになっていくんじゃないかと。p150内沼晋太郎「地球人の読書」

 ここもなんとなく心に染みる。当ブログは別に読書ブログとしてスタートしたわけではなかったが、いつの間にか読書が中心となって進行している。地球人の読書、とは言い得て妙。

 地球サミットが最初に行なわれたのは1992年、ちょうど冷戦が終結した直後、ブラジルのリオデジャネイロで開かれました。この最初の地球サミットは、私たち人類にとって非常に大きな意味を持っていました。p222佐藤正弘「地球サミット2012に向けて」

 思えば、1991年の国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」も、この地球サミットと連動した動きだった。当時は、インターネットも発達していなかったし、情報も少なかった。この10年に一度のイベントの結果はどういうことだったのだろう。

 今年、2011年で世界の人口は70億人に達するそうです。セヴァンがあのスピーチをした1992年、世界の人口は50億人台でした。そしてこの人口は、2030年には90億人に達すると言われています。果たして、この90億人が分かち合いながら生きていくことは可能なのでしょうか。p227佐藤正弘「3度目の地球サミット開催」

 私が、1992年に「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い(1992/06・ツクヨミ・プロジェクト)を書いた時、国連のポスターを見たことがあった。そこに「現在の地球の人口56億7000万人」と刷り込んであった。だから、あの文章の最終的な結論が「56億7000万人のマイトレーヤー達」となったのである(やや、こじつけだがw)。

 おっと、この方も登場していた。そもそもこの方の名前で検索した結果、この本と出合ったのだった。

 彼ら(インディアン)からは「日本の歴史ってどのくらいあるの」ともよく訊かれました。で、「日本には世界で一番古い歴史書があるんだよ」と話すと、彼らはやっぱり大笑いするわけです。「おまえ、1200年くらい前に書かれた歴書がほんとに世界で一番古いんだとしたら、1200年前にいったい何が起こったんだ」って。彼らはアメリカンの歴史とはほとんど無関係に生活しているのです。p269北山耕平「アメリカ・インディアンの生き方、考え方と日本人」

 当ブログにおいては、それを正統な歴史書と言えるかどうかわからないが、1300年よりはるかに古えといざなってくれる「ホツマツタエ」を逡巡している現在である。

 日本の場合を考えると、縄文人たちが本当に日本のインディアンだとしたら、彼らがいったい何者であって、われわれとどういう関係にあるのかということにアクセスする能力を、僕たちはいまほとんど持っていません。p274北山 同上

 ここもまた当ブログとしては、多少エスノセントリズムと揶揄されるかもしれないが、飯沼史観を通じて、ホツマワールドにアクセスしているところである。

 今回3・11以降に起こったことを思い出してもらえばわかるように、とてつもなく地球ってものに対する接し方の一番コアな部分を失ってしまっています。この部分をわれわれはもう一度この日本列島に復活しないかぎり、地球はおろか日本列島の自然さえ、ものすごい勢いで絶滅に向かわせてしまうことを知ってほしいのです。p275北山 同上

 同感である。

 このほかたくさんの気になる文章が満載であった。最後にもうおひと方の文章も気になるところだった。

 では、皆さん、意識は何のためにあると思いますか? 人間として、地球人として生きている活き活きとした喜びとか悲しみを感じるためだよ、という人がいます。確かに、喜びを感じると嬉しいです。けれど、それは意識があることの結果であって原因ではない。(略) 

 ロボットと、私たち人間、意識を持っている人間とでは何が違うのか、この意識のクオリア、意識の質感、こう感じる意識があるのは何のためなのか、ということが、謎なのです。茂木健一郎さんは、この、クオリアの問題が世界最大の謎だと言います。p279前野隆司「私たちは何ものなのか? 生命の謎・心の謎」「意識は、何のためにあるのか」

 結局この辺で、この本の文頭にもどっていく。当ブログでは、茂木健一郎「意識とはなにか?」(2003/10月筑摩書房)を一つのナビとしての模索を続けている(最近はお休み中)。

 偶然検索した本書だったが、再読する価値はありそうだ。姉妹書として10年前にでた「百年の愚行」(2002/04紀伊国屋書店)がある。

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2014/06/07

「やさしいかくめい」創刊顛末記 あぱっち 「スペクテイター」<30号> ホール・アース・カタログ<後篇><8>

<7>からつづく

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「スペクテイター」
<30号> ホール・アース・カタログ〈後篇〉<8>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2014/05 幻冬舎 単行本: 191ページ

★★★★★

 「『ホール・アース・カタログ』ともうひとつの出版史」 浜田光 より抜粋

 当時、アメリカのカウンターカルチャーの中で「ホール・アース・カタログ」が人々に大きな影響を与えているという情報が入ってきていた。そこで日本でもそういう本を出せないものかという話があちこちで出ていたが、東大の教授だった高橋徹さんから具体的な提案が出てきた。

 「やさしいかくめい」と名付けたその本の編集メンバーには高橋さんの他に<部族>の山尾三省さん、おおえさん、プラブッダ、きこりなど10人ほどのメンバーがいた。三省さんやおおえさん、高橋さんらは長老として口だけ出し、僕ら若手が実際の取材や編集活動をするという形で進めた。何人かで手分けして全国のコミューンを取材することになり、僕は北海道や関西へ出かけた。Yk
 そうしてようやく一号は思い通りにつくれたものの、今見直すと素人が作った本という印象もある。ひいき目に見ると、素人ならではの面白さもあったかもしれない。「やさしいかくめい」は最初からシリーズもので、全体では10号まで出す予定だった。

 一号はその総集編的な意味合いのものだったので、内容もバラエティに富んだものだった。そして二号からは各論に入り、出産と育児という具体的な内容の本だったので編集体制も変わり、末永蒼生さんが中心となった。

 そして一号が予想を下回る売れ行きだったこともあり判型を小さくして読ませるような本にして出したが、やはり売れ行きが思うようにのびなかったためけっきょく二号までしか出せずに終り、返本の山と借金だけが残った。

 僕は若手の中で編集長という立場だったので、編集だけでなく赤字を抱えた出版体制のことも引き受けることになった。またお金のことだけでなく、なかなか予定通りに編集・出版が進まず、そうとうな年月を費やしたので、そのことも苦い思い出となっている。

 そのため今も新聞づくりは続けているが、すぐに出せて決着がつけられるが、本は時間がかかりすぎるからやりたくない。もちろんその時に出会ったたくさんの人達との交流や経験したことは自分の人生上での貴重な財産だとはわかっているのだが。

 「やさしいかくめい」の初期には西荻窪の<ほびっと村>の一角を借りて編集室としていた。そして編集作業のために毎週金曜日にゲストを招いて話を聞く「金曜講座」を中心に、指圧教室や太極拳、ヨーガ、産婆の学校などの「西荻フリースクール」をはじめた。スクールはその後、「ほびっと村学校」と名前を変えて現在に至っている。

 また「やさしいかくめい」を作っていた頃、僕も東京の三鷹にある元裁判官のお屋敷で日本庭園がついた大きな家に十数人が住むコミューン(ミルキーウェイ)にしばらく住んでいたことがある。ここは「ミルキーウェイ・キャラバン」を主導した人達が中心となり、庭でフリーマーケットを開いたり、家の広間で様々なミーティングを開いたりする<マルチメディア・センター>だった。

 そこから30分ほど歩いたところにあるマンションのワンフロアを四人で共同で借りて、何年か住んでいたこともあった。僕が借りていた部屋は「やさしいかくめい」の編集室を兼ねていて、友人たちがそこで定期的な教室を開いていたこともある。たくさんの人達が出入りしたのでにぎやかだった。p116~117浜田光「『やさしいかくめい』創刊顛末記」

<後>につづく

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「いのちのレポート1980」出産・子育て・そして性をひらく 「やさしいかくめいシリーズ2」

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「いのちのレポート1980」出産・子育て・そして性をひらく
やさしいかくめいシリーズ2 1979/11 プラサード出版 B5判  253ページ
Total No.3260★★★★☆

 創刊号の方は語られるが、こちらの二号のほうはあまり語られることは少ないようだ。当ブログでも初出のようだ。今あらためてこの一冊を手にとってみると、さまざまな想いが去来する。今回は、本文に入らず、ざっくりと周辺の印象をメモしておくことにとどめる。

 このムックの経緯については、最近、編集長だったあぱっちが「スペクテイター」誌30号「『やさしいかくめい』創刊顛末記」を詳しくレポートしているので、そちらも参照していくこととする。

 この号はまず編集が「末永蒼生+浜田光+星川まり+細田喜久江」、となっている。あらためて当時のスタッフやその周辺のネットワークが思い出される。30人ほどいる執筆者の中には、今になって、ほう、と思うような人も含まれている。

 詩人、ジャーナリストとして塚本晃生の名前が見える。この方がどのような経緯でこの雑誌に執筆することになったのか不明だが、この方の「もし僕らが生き続けるなら」 自由の世界への出発(1972/12 大和書房)に、取材を受けた当時高校生だった私が登場している。内容はともかく、このタイトルが大好きである。「もし僕らが生き続けるなら」。

 ジャズピアニストとして菅原秀の名前も見える。この後、翻訳者、ジャーナリストへと転身していく方であるが、当時の肩書としては、極真空手山形支部員も加えられている。そのほか、永田朝路、新島淳良、兵頭桂子、菊田昇、村瀬春樹、などなども、今回目についた。印刷所もCCC印刷となっているのは、同慶にたえない。

 リアルタイムで、この雑誌の編集過程をそれなりに知っているので、客観的にこのムックを評価したり語ったりできない。思い入れがありすぎる。ただ、私はこのムックを持っていたのだが、いつの間にか紛失してしまった(探せばでてくるかも)。幸い近くの図書館に収容されているので、私はいつでも見ることができるわけである。

 テーマとなっている「出産・子育て・そして性をひらく」も、軽めのようでいて、実に重い。深く潜行すれば、限りなく広がっていくテーマである。このテーマに向かって、当時のスタッフやネットワークが、雑誌のテーマということではなく、生活丸抱えのリアリティの中で探求を進めていった、ということに、深い感動を覚える。

 この本が出たのは1979年11月。やがて80年代の地平が切り開かれる未明の中で、何年もじっくりと探求されていった、そのことのレポートとして、このムックを読めば、いまあらためて、関係者の心境を思い知ることができる。

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「タマサイ 魂彩」 星川 淳

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「タマサイ 魂彩」
星川 淳 (著) 2013/10 南方新社 単行本(ソフトカバー) 261ページ
Total No.3259★★★★☆

 著者については、当ブログとして十数冊をメモしてきた程度であり、その作品全体を網羅しているとは言い難い。ただ、時間軸として見た場合、結構長い間、著者を見てきたとは言える。著者については、三つの名前で知っている。

 ひとつは然(ぜん)。1970年直後に著者が九州熊本で部族流れとも目される「虹のブランコ族」を組んでいた当時の通り名である。72年7月にその自然食レストラン「神饌堂」を尋ねた時のことは、たびたび書いてきた。あの時、あの場所が、80日間日本一周のヒッチハイクの旅で、最も印象深かったのは、あのお店に「ホール・アース・カタログ」があったからだったかもしれない。

 二つ目は、スワミ・プレム・プラブッダとして。75年にOsho「存在の詩」を翻訳することによって、その若い才能の片鱗を見せ始めた。創刊号の本文は当ブログですでに全頁アップ済み。その後のOsho関連あるいはその他の翻訳業の活躍については、衆目の一致するところである。

 三つ目は1980年頃から登場してきた、今回の小説にも使われている名前。本名でもあり、ペンネームでもあると言えよう。実は、私が1970年に出会いそれから共同作業を始めることとなった冬崎流峰は、著者と中学高校の同学年生であったわけだから、二次の繋がりとはいえ、実に1964年当時からの繋がりであったと、言えないこともない。

 多彩な才能を発揮する著者だけに、その表現はさまざまな領域に達しているのだが、ことさら小説というスタイルに、その表現の活路を見出さんとするところの理由は奈辺にあるのであろうか。

 女が体を寄せてきた。暗闇で顔は見えないが、甘い匂いがサカマタたちの吹く潮の香りにまじる。
「おまえの青い珠を身代わりに」
「だめ、このタマサイ(首飾り)は!」 
p41

 小説のタイトルは、ここからでてくる。

 それらは最初、アイヌの首長や女性が身につけていたものを、和人がエキゾチズム趣味で愛好するようになった。p37

 この小説の時間軸は、16世紀と21世紀のふたつ。時にはもっと過去に遡るが、7000年とか1~2万年とか、漠然とした比喩にとどまる。空間軸は、ベーリング海を挟んだ、日本列島の島々、特に屋久島周辺と、亀の島アメリカ大陸の北部。

 著者の先立つところの作品、「精霊の橋」(1995/03 幻冬舎、のちに「ベーリンジアの記憶」と改題)、「モンゴロイドの大いなる旅」(1997/09)、「環太平洋インナーネット紀行」―モンゴロイド系先住民の叡智(1997/09   NTT出版)などに連なる一冊と言えるだろう。時には「魂の民主主義」―北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法82005/06築地書館)あたりにも連なってくるか。

 話は変わるが、当ブログでは現在、あるポイントを中心に歴史観が回っている。時間軸は、7世紀、空間軸は北日本である。その大きな影響は新沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」(2013/03 鳥影社)から受けている。誤解を恐れずに言うなら、ホツマツタエの世界観に、その宇宙観を見ようとしているところである。

 著者が、縄文という時、西日本、南日本の島々特に屋久島あたりをひとつのルーツと見ようとし、当ブログが、その縄文のルーツを北日本、特にヒタカミにみようとするのは、良くも悪くも、空間軸として、現在、互いに住んでいる地域のエスノセントリズムと言えば、言えないこともない。この小説にはアイヌやアイヌモシリの文字も見え隠れするが、アイヌ本人たちの言葉になっているだろうか。

 「青い石はこの土地からもたくさん出る。私らがはるか西の国から海を越えてここへ導かれたのは、石と石が呼び合う力のおかげだと伝えられている。産地が異なっても、すべての青石はつながっていて、それを身につける者の心を結ぶ。

 遠い昔から、この石はそのように使われてきた。そして、これより五百年の闇を経て次の世がはじまるころ、ふたたび多くの者がこの石に魅きつけられるようになろう。そのとき、青い石を通じて魂の自由を思い出させるのは、私らよりもっと古い祖霊たちの声だ」p237

 もちろん、ここで語られているのは、方便としての青い石であり、比喩としてのタマサイである。その意味しているところは、もっと抽象性の高いシンボリック、かつ、透明度の高い精神性であろう。

 時間軸、空間軸は、今はどうでもいい。石の色とか、呼び名とかも、まぁ、こだわりすぎてはいけない。しかし、いつかあるとき未来において、この時空間を現出させる象徴としての「タマサイ(首飾り)」が存在している、ということに、当ブログは大いに同意する。

 3・11後に書かれた小説であるので、フクシマはでてくるが、地震や津波はでてこない。かつてヒタカミにおいては、津波予知の暦があったようだ。古代エジプトにおいてナイル川の定期的な氾濫がカレンダーを生んだように、古代日本ヒタカミにおいては、この津波予知が重大な関心ごとであった。

 ネイティブ・アメリカンの昔からの言い伝えにも重きがあるだろうが、古事記、日本書記、に収れんされる以前の、縄文から伝わる言い伝えも重要なものである。その主流と目されるホツマツタエについては、まだ研究なかばであるが、最近では千葉富三中津攸子の作品が、良くも悪くも、その研究の途中経過を表している。

 科学的に解明、証明されるのを待っていたら、いつのことになるか分からない。ここは直感で先を急ぐしかない場合も多い。かなり確証性は高いが、まずはその直感をストーリー化しておく、という意味では、小説などの表現も、ぜひとも必要となろう。

 ここにおける「タマサイ」の直感と、当ブログでの進行中の直感は、時間軸においても、空間軸においても、ややブレがある。今後、この二重写しになっている直感のブレが、今後、修正されてひとつに溶けあっていくものなのか、あるいは、それぞれの独立したストーリーに成長していくものなのか、今のところは不明である。

 前作(注「精霊の橋」)以来、魂の源流を探っていくと、そのむこうに現代や未来の問題が見えてくる、そして、その逆も真である、一見不思議だけれども、ある意味ではあたりまえの共時世界に馴染んだ私にとって、この物語は時間と空間を超えた”親族”の来歴の一端です。過去から未来を見ているのか、未来から過去を見ているのか---いやじつは、私たちの深い学びはそういう矢印とはあまり関係なく起こるのかもしれません。

 15年も温めているうちに、すっかり自分の一部になってしまったその”親族”の物語を、みなさんとも共有しないと先に進めない気がしてきました。私にはもう物語の次の展開が見えかけているので、そろそろ魂の旅(ソウルサーチ)の続きに出たいと思います。その結果は、いずれまたご報告させてください。p260「あとがき」

 次作も楽しみである。

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2014/06/06

「自然のレッスン」 北山 耕平 長崎訓子

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「自然のレッスン」
北山 耕平   (著), 長崎訓子 (イラスト) 2001/07 太田出版 単行本: 190ページ
Total No.3258★★★★☆

 この本に書いてあることは、70年代後半から80年代前半にかけて、わたしが長い放浪の旅の途中で学んだことを書きとめたものです。

 アメリカ大陸南西部に広がる広大な砂漠のなかで、当時わたしは「自分の頭の中が空っぽになるような体験」をなんども持ちました。そうやってそれまでに自分が知っていると思っていたことを全部消しさる作業は、つぎに本当にこれからの自分が知っていなくてはならないことはなにかを探求する道へとわたしをいざないました。

 わたしは人生が与えてくれるハイもローもそれらの体験のことごとくを受け入れていきました。そうした旅のなかで、自分の生き方を見つめなおすときのために、この「自然のレッスン」に収録した詩を書きとめていったのです。p187あとがき「無垢の世代への贈り物」2001年初夏

 このあとがきはこの2001年バージョンに書かれたものである。実は、この本はかなりの人気本らしく、何度も版を重ねている。

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1986/01 角川書店

Kk01
2001/07 太田出版

Kk02
2009/12 太田出版

Kk03
2014/03 筑摩書房

 おそらく、それぞれのバージョンで、いくつかのことが語られているに違いない。英語タイトルは、「THE TEACHING OF NATURE」となっているが、いかにも英語らしいタイトルである。もしこれを「自然の教え」としてしまっては、この本の風合いがだいぶそがれてしまっただろう。

 カタチとしては(2001年バージョンは)新書版でペーパーバック本の雰囲気をもたせている。一頁にひとつのポエム(と称するそれぞれの短文)が書かれており、これをアフォリズムと言ってしまったら、これもまた風合いを損ねたことだろう。

 ポエムとは言っているが、実際にはかなりな具体的なノウハウや行動をともなった「教え」であり、もし、これをWECの影響下にあった一冊と見るなら、「ひとり・アース・カタログ」の雰囲気がないでもない。包括的でシンプル。具体性に富んだ頁がつづく。

地球とのつきあい方

アスファルトでおおわれていない地面や
草原の上を歩くと
あなたは急速に自然に近づきます。

地球のエネルギーがからだに伝わり
からだにあふれ、
からだを丈夫にし
各種のわざわいにまけない
もっと強いあなたをつくるでしょう。
 p037

バックパッキングを強力に推薦するの弁

春、秋の年二回
もし事情がゆるすなら
ひとりで
あるいは友人と
また夫婦で
家族で
一週間くらいの
徒歩旅行(バックパッキング)にでかけてみましょう。
きっと愉快な体験になるはずです。
 p130

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証言構成「『ポパイ』の時代」 ある雑誌の奇妙な航海 赤田 祐一

P1
証言構成「『ポパイ』の時代」 ある雑誌の奇妙な航海
赤田 祐一 (著) 2002/10 太田出版 単行本: 534ページ
Total No.3257★★★☆☆

 別に「ポパイ」に深い思い入れはないが、著者である赤田祐一とやらの編集者おっかけでめくってみた一冊。534頁という大冊の中に、十数名の編集者たちとの対談が納められている。ポパイという雑誌に関わった人々の証言集を「共同体」と見立てて、一冊の本がでている。その時の「共同体」とはなにか、が問われる。

 ほとんど知らない(おそらくそれほど一般的には有名ではなかろう)が、たった一人だけ、北山耕平が登場している。

●---ほんとうに「宝島」にいらした時期って短いですよね。

北山 創刊から3年くらいだよね。訳のわからない時代だったよね。

 あの時代って、おもしろい時代だよ。70年から76年くらいまでの間の6、7年間というのは、日本ではすごい重要な時代だったかもしれないって、今、思うけどね。あの時期に何をやってたかが、きっと今に問われるだろうね。われわれの世代では。

 あの時、なにかが破裂したんだよ。その影響はいまだに続いているなにかがある。それは別に「宝島」が、って言うんじゃないんだ。若者文化の中で、なにかが一回はじけたんだ。70年代の、それも前半に、自由ってものが、一瞬だけ見えた時かもしれないね。それが政治運動の中にからめとられていっちゃった部分と、それから「ポパイ」みたいな物欲のほうに流れた部分に別れるけど。

 その間の真空地帯に、何かがあったんだよ。きっと。それが何だったかっていうのは、やっぱり、探し続けないといけないんじゃないかな。 p374

 この分厚い対談集の中の、このセンテンスを見つければ、この本は読んだ、ということになる。この対談も、このセンテンスを持って終了している。この本は2002年にでているし、この対談はその直前に行なわれていると思われるが、すくなくとも、75年を軸とした時代層からすでに四半世紀を経ての、北山の述懐は、ズバリ、正しいと思われる。

 70年から76年くらいまでの間の6、7年間というのは、日本ではすごい重要な時代だったかもしれないって、今、思うけどね。あの時期に何をやってたかが、きっと今に問われるだろうね。われわれの世代では。

 そのとおりだと思う。そう思ってきた。しかし、ここまでズバリ言っている人物には、なかなか会えない。

 その間の真空地帯に、何かがあったんだよ。きっと。それが何だったかっていうのは、やっぱり、探し続けないといけないんじゃないかな。

 そして、ここもズバリである。「その間の真空地帯に、何かがあった」という感覚はそのとおりだ。そこを書いていくために当ブログがあった、ということもできる。当ブログは当ブログなりに、その「答え」を持っている。その答えをうまく表現できるか、他者に受容して貰えるかどうか、という問題は残るが、私分について、私は私なりに、その真空地帯にあった「何か」をキチンと整理できている。

 この対談が行なわれて十数年。いまやこの発言者とはSNSつながりでチャットのできる環境は整っている。70年代を考えることは、決してノスタルジア満ち満ちた懐古趣味ではない。私たちの今回の生を問う、大事な問い掛けである。

●---(前略)北山さんが編集長時代の「宝島」の広告が載っているんですが。「全都市カタログ」の号が。

北山 あれは、おれ関係ないの。その後でおれが、六本木の事務所に呼ばれて(後略)p355

 うすうすわかってはいたが、別冊宝島「全都市カタログ」 (JICC出版局 1976/04)に、編集者として直接北山はタッチしていなかったことを、証言確認できた。

 この本の他の対談は割愛する。トリビアの泉どころか、トリビアの泥流みたいだ。そこまで極言しなくても、まぁ、トリビアの溜まり水くらいにしか、一読者としては感じられなかった。

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2014/06/05

「20世紀エディトリアル・オデッセイ」 時代を創った雑誌たち 赤田 祐一 +ばるぼら <2>

<1>よりつづく 

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「20世紀エディトリアル・オデッセイ」 時代を創った雑誌たち<2> 
赤田 祐一 (著), ばるぼら (著) 2014/04 誠文堂新光社 単行本 224ページ
★★★☆☆

 この本、とても興味の湧く一冊ではあったが、結果としては、224ページのうちの、ほんの数ページ、10ページに満たない範囲について面白いなぁ、と思った程度で、他は割愛、ということになった。

 昨日は、夜間の暗がりで撮った画像がぼけているので、もう少しクリアなものを再び貼り付けようかな、と思ったが、そのうち、昨日のページを修正する形で、もっとクリアな画像を貼り付ける予定。

 とにかく狙いとしては、一世を風靡した編集者が、他のアーカイブズを見て、物足りない部分を補足して、一冊新しいアーカイブズをモノした、というストーリーである。

 まず、トッパシは、「アース・ホールド・カタログ」(WEC)であり、カウンターカルチャーの紹介から始まる。そしてWECの「日本への影響」としてp022~023、末永蒼生「PEAK」「生きのびるためのコミューン」、山田塊也「アイ・アム・ヒッピー」「やさしいかくめい」、大友映男「生存への行進」 、「NO NUKE ONE LOVE」プラサード書店などが紹介されているわけだが、正確に言うなら、それはWECの日本への影響ではない。

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 率直に言えば、それはWECを存在させたカウンターカルチャーの、日本への影響と言ったほうが、より正しい。別に日本のカウンターカルチャーの印刷物がWECばかり見ていたわけではない。

 そしてもっというなら、これはアメリカの日本への影響と見てはいけない。別に日本はアメリカの支店でもブランチでもないのである。むしろ、これは、日本独自の現れ、と見たほうが正しい。世界は同時進行していたのである。日本からアメリカへの影響もあったわけだし、相互交流のなかで、それぞれの地域性のあるカウンターカルチャーが湧いてきた、と見るべきだ。

 もっとも、ここで編集者が類推しているように、今上武蘭人(いまじょう・ぶらんど)p23のように、WECの編集者スチュアート・ブランドの名前にあやかってペンネームを付けた人もいたかもしれない。しかしそれはごくごく小数であろうと、思う。

 あるいは、WECの影響として日本のカウンターカルチャーがあるだけだったなら、私にはそんなもの必要ない。あの当時は、主流はDIYだ。とにかく、モノマネではなく、自分の手で何事かをつくるのが本筋なのである。WECの「日本への影響」などと括られてしまったら、まず、ここに紹介されている人々は、そう簡単に納得はしないだろう。

 p60には松岡正剛率いる工作舎の「遊」が紹介されているが、訳あって、私はこの雑誌をあまり評価しない。肌合いの問題である。ここで知ったことは、「遊」も決して冊数を重ねたわけではなく、バックナンバーを揃えれば揃えることができるほどの冊数しかでていなかったようだが、まぁ、私は集めないだろう。この点については、いつか書く。

 「伝説の雑誌『ワンダーランド』と『宝島』」(p121)も、まぁ分からないでもないが、ちょっと過大評価しすぎである。私もリアルタイムで影響を受けているわけだけれど、もし後ほど言われるほどにその純度が高いとすれば、私は、インドにも行かなかっただろうし、「雑誌」を捨てたりはしなかった。

 少なくとも片岡義男をイデオローグとして据えることで作った、シティーボーイ路線、「都市生活者の若者文化」というキャッチフレーズには、強烈に反感を覚えた。そちらがシティボーイなら、こちらはカントリーボーイ路線で行ってやろう、と、マグマのようなカウンター感覚をもったことも事実である。

 「別冊宝島」の創刊号には、私たちの作った雑誌が収録されていたから、まぁ、あまり露骨に批判はできないが、それでもやっぱり、あまり持ちあげすぎもこまるぜよ。

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 巻末の「雑誌曼荼羅1901→2000」(p199)の415冊の中の一冊として、「時空間」を取り上げてくれたのは、有難い。そうであるべきである。おそらく、もっとセレクトしても、200冊とか、ベスト100とかに絞っても、ぜひ残していただきたい一冊である(とお願いしておこうw)

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 私は、このところ「編集者」という言葉にプロボークされている。ジャーナリズムにはまったく期待していないのだが、「編集者」という言葉には未練があるし、可能性が残されていないわけではない、と感じる。

 スティーブ・ジョブズの才能は沢山あったけど、一言で言えば、彼は「編集者」であったかもしれない。彼の先見性と、切り落としの見事さ。その妙技が見どころである。

 コンピュータを、個人で使うようにするための切り落とし。iMacを作ってアップルを復活させるために、フロッピーディスクを切り落とした見事さ。

 iPadを完成させるために物理キーボードを切り落とした、最終的編集。見事である。切り落とすことによって、他の部分が深まり、進化している。私はマック派でもなければ、ジョブズファンでもなかったが、やはり、見事であったと思う。

 最近のアーカイブズ云々には、なるほど、「過去を懐かしむ」温故の姿勢があるのはわかるが、未来を見通す「知新」も絶対必要だ。アーカイブズを作るには、その姿勢が問われる。

 私は、未来のための新しい「アーカイブズ」を作るためなら、「ホール・アース・カタログ」やスチュアート・ブランドを「切り落とす」位の英断があってしかるべきだと思う。

 「ホールアース」の「アース」には「地球」という意味と同時にきっと「地面」という一面も含まれていたと思いませんか。地に足をつけて、放射能まみれの地球を、緑なす惑星に変えて、ともに生き延びましょうという「大地の思想」が、エネルギー問題や廃棄物処理の問題についても、「WEC」は40年以上も前から、ただ警鐘を鳴らすだけはなく、具体的に参考書や道具をとりあげて提案している。p013赤間祐一「対談Whole Earth Catarogとは何だったのか」

 ここは、持ち上げすぎばかりでなく、さらに、大きな誤解を生むような表現になっているだろう。スチュアート・ブランドの近著「地球の論点」(2011/06 英治出版)を読みなおせば、こんな提灯発言を繰り返すことができないことはすぐわかる。あるいは、読んでいてなおこのような「誤読」を貫き通すなら、そもそも精神のどっかに異常がある。

「インターネットにたりないのはj『編集』という武器だ」本誌腰巻の宣伝コピー

 とするなら、私はあえて、私の編集力で、WECをカットし、切り落とす。

<3>につづく

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2014/06/04

「20世紀エディトリアル・オデッセイ」 時代を創った雑誌たち 赤田 祐一 +ばるぼら<1>

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「20世紀エディトリアル・オデッセイ」 時代を創った雑誌たち<1> 
赤田 祐一 (著), ばるぼら (著) 2014/04 誠文堂新光社 単行本 224ページ
Total No.3256★★★★★

 赤田祐一という人を追っかけて出会った一冊。は~~ん、こんな本もでているのかね。見れば2014/04発行の新刊本。パラパラとめくっていて、ありゃりゃりゃぁ~~。こんな頁を見たら、気になってしかたないご同輩たちが何人かはいるにちがいない(笑)。

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 おや~、今さらというか、なるほど今なのか、と思いつつ、まぁ不思議な本もあるものだと、さらにペラペラしてみると、おお、なんと、さらに見覚えのある雑誌が!! なんと「時空間」まで登場している。

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 ナニ奴? と、ちょっといきり立ったがw 「謄写版でつくられたカウンターカルチャー誌」と来たか。まぁ、許そう(爆笑)

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 予定外ではあったが、この本、すこし深読みするかな・・・・?

 <2>つづく

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「お産の学校」: 私たちが創った三森ラマーズ法<2> 

<1>からつづく

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「お産の学校」 私たちが創った三森ラマーズ法 <2>
お産の学校編集委員会 編 1980/3 BOC出版部 単行本 444p

 この本、貴重なので保管本として一冊揃えたいので、知り合いに探していただいているが、ちょっと望みうすかな。この本は訳あって、在庫分は廃棄処分されることになってしまったという。今読んでみれば、沢山の人が関わっているし、記録としては、限りなく貴重である。ただ、最後の最後、国会図書館には入っているので、見ることは可能だろう。私は、関東のある県図書館から転送していただいて拝読した。

ペコ たしかに、いいお産をすると、人を巻き込みたくなるってこともあるのね。p280「なぜ『ラマーズ法』を・・・・なぜ『産婆の学校』を」

 気付いたのはたった一行だったが、ペコもこの座談会に出席し発言もしていたようだ。

キク どんなに勉強しても、99人とりあげても百人目でどういうことが起こるかわからない。お産というのは、しろうとがいくら勉強してもね、絶対的に経験回数がちがうでしょう。

三森 同じことの繰り返しなら、----みんな同じ環境で、同じからだで、同じ赤ちゃんなら、そんなにむずかしくないわけだけど、ひとりひとり全然ちがうんだからね。環境もちがうし、お産を経験した回数も違うし、赤ちゃんの大きさもちがうし、千人いたら千種類のお産なのね。

 同じ人でも上の子と下の子では全然ちがうしね。この人はすごく伸びそうだなと思ってた人で出にくい人もいるし、こんな小柄な人が・・・・と思う人がサッと産んだりね。 

 その人のくせみたいなもの、多少の個性はあるけど、同じ人でも三人産めば三人ともちがうのよ。全く同じお産というのはないわけだから、やっぱり慎重にしなければいけないと思うの。

キク ちょっとでも失敗すれば、それみたいことかっていう人も大勢いることだしね。

三森 そうそう、絶対それはあるの。だからしろうだけで勝手なことをするのはよっぽど考えないとね。いのちを大切にする運動なのに、いのちを粗末にすることになる危険もあるわけでしょう。p284同上

 当時、私たちのコミューンでの自宅出産にも参加し、写真記録などを担当していたサキは、その後、医療界に転じたわけだが、彼と最近昔のことを話していて、たしかに、危険な行為だったかも、という感想を漏らしていた。

 私自身の出産は、終戦間もない昭和20年代ということでもあり、割と簡素だったようだ。三人目の子供でもあったが、母親は、梅の木の下の草をむしっていて産気づき、自宅に戻って、コタツの脇で私を生んだという。もちろん、取り上げたのは、近所の産婆さんだった。

 当時、三歳の兄や、五歳の姉も、私が生まれた時のこと覚えているらしい。出産そのものは、見ていないだろうが。

 いまや、産婦人科には成り手が少ないという。それだけ、リスクの多い分野なのだろう。正直言って、男の私は、自宅出産しよう、という「決断」のプロセスには、まったく参加していたわけではないので、出産のプロセスに、同席していたにすぎない。結果として出産が無事終わったから言えることではあるが、あの現場に立ち会うことができたことは、本当に貴重な体験であったと言える。男として、本当に出産の凄さに気づかされた、と思う。

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『DEAD』創刊号 「時空間」3号「まがじん雑学」より

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「時空間」第3号
時空間編集局 1973/04 ガリ版ミニコミ A5判 p100 表紙デザイン れおん 表紙タイトルのみシルクスクリーン印刷
Total No.3255★★★★☆

 久しぶりに開いた懐かしい一冊。いずれ後日に詳述するとして、今回は編集者あぱっち追っかけの中で開いた一冊。私はこの雑誌に「まがじん雑学」を連載していた。その中で、あぱっち(浜田光)が編集したガリ版ミニコミ「DEAD」(1972/12)に触れている。

「DEAD」
 
東京・吉祥寺は「名前のない新聞」などでつとに有名なアパッチらが編集している雑誌。

 「つまらない文章は絶対に載せません」をモットーに、執筆陣は片桐ユズル、諏訪優、大江まさのり、末永蒼生(以上、「DEAD1」より)などと格調高い。

 そのうち「現代詩手帖」や「ユリイカ」並みの顔がズラリと揃えるのかなぁ? 俺なんか下らなさからの出発の方が個的還元が大きいと思うけど・・・・。

 この文章が読まれる頃は、もう「DEAD2」できていると思うよ。

 東京都三鷹市吉祥寺2-○○ー○ オフセット表紙 ガリ刷80頁 p45「まがじん雑学」阿部清孝

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 この「DEAD」創刊号、ぜひ読んでみたいが、手元には「DEAD2」しかない。版元にはあるかな、と思ったが、どうやらあぱっち自身の手元にはあるけれど、すぐには出てこないとか。

 ただ今、ネットワークで70年代カウンターカルチャーの痕跡を訪ねて、さまざまな表現物を再録中。あの時代において、記憶すべき一冊であった「DEAD」。創刊号を持っている人がいたら、ぜひ、ご連絡を!

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2014/06/03

「還暦川柳」 60歳からの川柳

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還暦川柳」 60歳からの川柳
公益社団法人 全国老人福祉施設協議会 (著), 別冊宝島編集部(編集) 2014/4 宝島社  単行本: 141ページ
Total No.3254★★★☆☆

 無事、還暦も迎えたし、これからは五七調の言霊世界に入っていくのもいいだろう。いきなり俳句とか短歌とか都都逸とかは無理だから、せめて川柳でも習ってみようか。そう思って開いた一冊だったが、これは川柳の作り方の本ではない。川柳の作品集だ。

 それによく見ると、公益社団法人 全国老人福祉施設協議会 (著)となっている。おいおい、還暦男ではあるが、いきなり老人福祉施設でもないだろう。こちとらそんなに枯れていないぜよ。と、みると、なんと別冊宝島編集部(編集)とある。はぁ、70年代若者文化の旗手「別冊宝島」もいまや全国老人福祉施設協議会とタイアップですか。

 作品集となれば、なるほど、ひとつひとつが味わい深く、まあ、共感するものもある。せっかくこの本を開いたのだから、何句かピックアップして転載しておこうか、なんて思ってみたが、はてよ、と思い直した。なんだか、全部、自虐ネタで、寂しすぎるぜ。これ、選者が悪いんじゃないか。

 還暦だからって、川柳だからって、なにもそこまでマゾヒズムに陥ることもないだろう。もっと、自信をもって、プライドをもって、強く、しなやかに生きようぜ。川柳になっているかどうかはわからないが、私は私の心境を書いておく。

育爺も ベテラン域なり 孫四人  ばべ爺(60歳)

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「雑誌のカタチ」 編集者とデザイナーがつくった夢 山崎 浩一

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「雑誌のカタチ」 編集者とデザイナーがつくった夢
山崎 浩一 (著) 2006/10 工作舎 単行本 165ページ
Total No.3253★★☆☆☆

 少年時代に毎月購読していた学研の「学習」「科学」も小学館の「ボーイズライフ」も光文社の「少年」も、まだ「今年」の12月初めだというのに「新年おめでとう」などと気の早い新年特大号を出していた。p008「起きつつある何か新しいこと」

 同じ学年の生まれであれば、同時代性としてこれらの雑誌名がでてくるのは、なんとも懐かしい。特に「ボーイズライフ」あたりは、他になかなかでてこないから、珍しい。

 ここに奇しくも2002年の同時期に発刊された、よく似たタイトルの本がある。佐藤卓己の「『キング』の時代--国民大衆雑誌の公共性」(岩波書店)と赤田祐一「証言構成『ポパイ』の時代--ある雑誌の奇妙な航海」(太田出版)。中略

 扱う雑誌も時代も互いに似ても似つかないのにもかかわらず、それぞれの雑誌が生み出した共同体の物語が、実に面白い。ただし前者は主に受けて側の問題として、後者は主に送り手側の問題として、それが検証されているのも面白い。p011「雑誌が持ち得た<共同幻想力>」

 先日、「スペクテイター」誌を見ていて、赤田祐一という名前を見つけていた。なるほど、その辺にいた人なのか。ここで山崎は、雑誌を共同体とも見ているわけであるが、う~~ん、共同体の概念が、ちょっと漠然としてはいないか。

 私なら、むしろ、雑誌を一軒の家に見立てることが多い。表紙があり、目次があり、特集があり、連載記事があり、読者からの声があり、編集後記がある。この構成が、何と何が対応するのかはともかく、屋根があり、柱があり、ドアがあり、基礎があり、壁がある、あるいは煙突がある、という、一軒の家のイメージと繋がってくるのだ。

 ここんとこインターネットの、とりとめのない情報の羅列は、なかなか一軒の家に喩えることはできないから、フェイスブックとかツイッターなどは、なかなか感情移入のしかたが違うと言える。当ブログとて、一軒の家に喩えることがなかなか難しくて、自己イメージがいまだに不明な点が多い。

 著者は、「週刊ポスト」1995/04/28号p76~77 や、「世紀末ブックファイル」 (1996/04 小学館)に、いちいちイヤな記事を書いているので、私は、嫌いなライターである。そもそも、私はなんでこの人を追っかけているのか、自分でも忘れてしまったが、まぁ、もののついでに、こんなことをやってみるのもいいのかも。

 一冊の雑誌がひとりの世界観から人生までをも変えてしまう、少なくともそう思える--という、今や冗談に聞こえてしまう事態(それはまさしく幸か不幸か自分におきたはずのことなのだが)が、今後もありうるのかありえないのかはわからない。でも、それが「たまたま」ではなく「あえて」雑誌の<カタチ>を選びとって目の前に出現したことだけは、確かなのである。p029「雑誌の<カタチ>になぜこだわるのか?」

 おそらく、地域や環境は違うものの、同時代を生きていた、同じ「傾向」の持ち主だった、ということだけは確かである。これは、近親憎悪か。

 その月刊誌が「ワンダーランド」の名を持っていたのは1973年8~9月の二カ月間だけだった。つまり「ワンダーランド」は「バーン」と二号でただけなのだ。その後は「宝島」と誌名を変えて翌74年に2月号(通巻6号)をもって休刊。が、同年6月に版元を変えて四六判ペーパーバックマガジンとして復刊・・・・。そしてその後の「『宝島』という名の雑誌」が現在に至るまで描き続けた軌跡は、もはやここで語るにはあまりに複雑怪奇すぎる。そのこともまた「ワンダーランド」という雑誌の神話化を、助長する一因かもしれない。p094「『ワンダーランド』--新聞+雑誌のハイブリッド」

 この本で取り上げられている雑誌は、「POPEYE」、「少年マガジン」、「ぴあ」、「週刊文春」、「ワンダーランド」、「婦人公論」、「小学館の学年誌」、「クイック・ジャパン」などなど。ここでも、微妙に、一読者としての私の志向性とは微妙にずれる。まぁ分からない選択でもないが、なぜにこの選択?と、思わざるを得ない。

 「ワンダーランド」後継「宝島」の編集者だった北山耕平は、やがて70年代後半には、アメリカに向かい、ネイティブ・アメリカンの世界にどっぷりつかり、あれから40年経過しても、いまだに「どっぷり」である。そのことがいいのかどうかは論が分かれるところではあるが、ポスト「雑誌」のあとに、北山なりに「スピリチュアリティ」を求めていったことは間違いない。

 それに比して、山崎という人は、雑誌というメディアに「どっぷり」浸かってしまっていて、それ以降の何事かが見えてこないのが、一読者としては情けない。所詮、売文稼業のスノビズムで終わっているのではないだろうか。

 この本、工作舎からでているのも、なんだか不思議なような、あるいは、工作舎も結局、「雑誌」にどっぷり浸かってしまって、そこからスピリチュアリティに抜けていかない傾向の証であるような、何事かの符号を感じるのであった。

追伸
そういえば、かつて私はミニコミ雑誌「時空間」に、「まがじん雑学」という雑文を12号に渡って連載していたことを思い出した。そのうち、当ブログに再録することとする。

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2014/06/01

「WRED」OUR FUTURE テクノロジーはぼくらを幸せにしているか?

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「WIRED」VOL.1 OUR FUTURE テクノロジーはぼくらを幸せにしているか?
ワイアード 2011/06/10発売  コンデナスト・ジャパン 雑誌A4 173ページ
Total No.3252★★★★★

 漠然とネットを見て、オンライン本屋Fujisan.netを眺めていたら、「WIRED」誌が、まるごと一冊タダ読みコーナーに出ていた。普段はほとんど気にしていない一冊なのだが、「タダ読み」となると、がぜん元気がでるのは、ちょっと困った性癖ではある。

 いそいそとタブレットで見ることはみたが、A4サイズのビジュアルに凝って編集されている雑誌を9インチのタブレットでみるのは、決して快適とは言い難い。しかし、「タダ」となれば、一生懸命読む。重ねて困った性癖ではある。

 ところが、あとで気付いたのだが、パソコンの大きい画面で見れば、結構、雑誌そのものを見開きで見ているような快適な環境であるのだった。

 そして、思う。やはり雑誌は雑誌、雑誌の風合いというものがある。紙質、インクのにおい。そして、部屋にインテリアとして置いておく、そんな雑誌の楽しみかたは、やはり、ネット環境でみるWIREDではできない。本来、キチンと紙で読むべきものなのだろう。

Wir10

 この雑誌、ウィキペディアで見ると、結構、紆余曲折の変遷をたどっている。アメリカで1993年にWECの後継的ニュアンスで創刊され、日本版は1994年に創刊された。しかし1998年11月には日本版は休刊となった。

 ところが2011年6月になって出版社を変えて(米国版の系列)、再創刊されたのである。まぁ、ありそうなことではあるが、気になるのは、この再創刊の年月である。2011年6月と言えば、3・11のど真ん中である日本の出版界において、あわてて緊急再創刊されたのか、以前より検討されていて、その時期に再創刊のタイミングがあったのか。いずれにせよ、3・11そのものがこの雑誌の再創刊を加速しただろう、とは予想できる。

 そして、そのタイミングで、スチュアート・ブランドの「地球の論点」現実的な環境主義者のマニフェスト(2011/06 英治出版)が機を同じくして出版されているところもますます気になるところだ。

 この雑誌と単行本に何らかの連携があるのか、単なるシンクロニシティなのか、今のところは不明だが、二つの表現物の間に、何事かの傾向性や相反性などはみつけられないものだろうか。
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追記 06/02
3・11の直後は、図書館も壊滅、書店もなかなか復活しなかった。3年経過して、ようやくこういう雑誌があり、ネットで読めるものもあると、気づいている。Wikipediaで「WIRED」をみてみると、必ずしも、快進撃しているわけではない。苦戦しているよう。最近までの編集主幹は、「ロングテール」や「フリー」のクリス・アンダーソン(現在は辞任)。

「The Long Tail  ロングテール」 「売れない商品」を宝の山に変える新戦略 クリス・アンダーソン(2006/09早川書房)
「FREE フリー」 〈無料〉からお金を生みだす新戦略 クリス・アンダーソン(2009/11  日本放送出版協会)

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