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2014/06/18

「東京ジャズ喫茶物語」 アドリブ編

Rekishi03
「東京ジャズ喫茶物語」
アドリブ編 1989/11出版社: アドリブ 単行本: 269ページ
Total No.3277★★★★☆

 コルトレーンが肝臓ガンで死んだのは、1967年の7月17日。(アルバート・)アイラーが、ニューヨークのイースト・リバーに無残な姿で浮かんでいたのは1970年の11月25日。そして、本書がとらえる対象として選んだジャズ喫茶は、70年前後から75年頃に存在した店。

 執筆担当者や取材対象者のジャズ体験・ジャズ喫茶体験は、コルトレーンが死して、その特異な音楽と相俟って伝説化しつつあった頃から始まり、アイラー34歳の訃報に接する頃に絶頂を迎え、75年頃に終息に向かう---パターンが多い。p269「あとがき」

 この本は、空間軸を東京、時間軸を67~75年当時、そしてテーマを「ジャズ喫茶」に絞っている。当然ここからこぼれてしまう沢山の情報や状況は、類推していくしかないわけだが、当ブログの現在の60年代の新宿風月堂追っかけとしては、まずは「新宿編」を見ることになる。

 銀座編、渋谷編、高田馬場・早稲田編、浅草・お茶の水編、神保町編、吉祥寺編、中野・高円寺・阿佐ヶ谷編、そして、ようやく新宿編、つづいて四谷編、総武線小岩編、となる。これらの10のエリアで全てがカバーできるわけでもなかろうが、ここで注目すべきは、わが新宿編は、後ろから3番目に登場というところだろう。ジャズ喫茶は、必ずしも繁華街にある必要はない。そこがミソである。

 ジャズ喫茶という言葉も、ジャズ+喫茶、からできている。純・喫茶や、ロック喫茶、クラシック喫茶や、民謡喫茶、歌声喫茶などもあるだろうが、敢えて、ここでジャズ喫茶と言ってしまうところに、編集者たちのこだわりがある。

 1967年夏以来、奇妙な髪で新宿をぶらぶらしている若者を、世間ではフーテンと呼ぶようになった。・・・・・

 1967年の夏はきわめて暑かった。家に帰っても暑くて眠れないので、新宿の若者は街をうろついたり、冷房のきいたスナックバーで俗にラリぱっぱと呼ばれる睡眠約遊びをしたり、あるいは新宿東口前の芝生の広場、通称グリーンハウスで野宿したりした。金のない新宿の常連たちの、これという目的もない風のまにまの文字どおり「風転」だったのである

 ところが、彼らのほとんどが、世間的な出世、あくせくした金もうけ、政治、型にはまった仕事、勉強などを軽蔑して脱出した若者だったから、・・・・そこで暑中休暇でごろごろしている学生たちが、おもしろがって集まってきた。つまり、フーテンの流行そのものは、避暑に行けない学生たちの仕業からおこった単なる現象にすぎなかった。(「新宿考現学」深作光貞) p187「新宿編」

 この部分は孫引きである。本来は「新宿考現学」(深作光貞1968/09角川書店)にあたるべきだ。この本は現在探索中ではあるが、読書不能である可能性が高い。まずは孫引きで間に合わせておこう。

 ここにおけるフーテンの語源を「風転」としているのは、興味深い。当ブログの別の項で読んだ「『族』たちの戦後史」 (馬渕公介1989/10 三省堂)においては、1964年に登場した「みゆき族」が担いでいた麻袋などが、住所不定(外泊)のフテーから転じて「フーテンバッグ」になったとしている。ここがフーテンという単語のルーツのひとつだとも思われるが、この「新宿考現学」においては深作光貞はそのまま「風転」としている。

 あまり納得できない薄い解釈だが、電脳・風月堂のフーゲツのJUNは、みゆき族発祥説について、次のように答えている。

 ま、ほぼよろしいでしょう。ぼくも「電脳・風月堂」でそう書いた。その語源はそこだけじゃない。「不定」が転じたという方は、ネリカンことば。不良言葉だが、ルーツはまだあるよ。ブログで書くべきことだ。待ってて!(^^)  風月純史 2014/06/18

 ネリカンことば、とはおそらく練馬鑑別所の練鑑から来た言葉、という意味だろう。だから、であるなら、なにもみゆき族を待たないまでも、直接ネリカンからフーテンへと繋げてみることも可能であるが、いずれにせよ、当時のスラングとして、「フーテン」は幾つも意味を持っているマルチミーニングとして使われていたのであろう。JUNのブログ更新を楽しみに待つとしよう。

 もちろん、その新宿は、伊勢丹、三越の表通りの新宿ではない。一日の乗降客が日本一の新宿駅でもない。

 また、世界中のヒッピーたちに知れわたった、中央通りの”風月堂”でもない。たしかに風月堂はこの時期、新宿を代表するカウンターカルチャーのシンボルだったことは間違いないが、若者たちの「否定の精神」を貫徹できた場所かというと、それは疑問だ。

 「世間的な出世、あくせくした金もうけ、政治、型にはまた仕事、勉強などを軽蔑して脱出した若者」の自由はあっただろう。

 だが、それよりもむしろ細い路地から路地へ、表通りの雑踏とは異なった、冷めた空気の漂う新宿である。ひとたびここに火がつけば、それは「破壊」を呼び起こすまで燃え続ける新宿である。(略)

 やはり、60年代後半の新宿は、ジャズ喫茶を抜きにしては語れない。そこでは、ジャズ・ミュージックはもちろんだが、音楽だけではなく文学や映像が、政治や思想が、若者たちの「否定の精神を貫徹」する、いわば化構されたもろもろの精神性が、ここで熱っぽく想われ、青白い炎を燃え立たせていたのである。p191 森一高 「同上」

 ジャズ喫茶についての一冊であれば、ここでは、新宿風月堂はそのテーマから外れるので、このような表現になるのは、ある種、当然であろう。

 90年代の新宿を見渡しながら、森一高は次のように述べている。

 しかしここには、「なにかが起こる街」としての新宿も、「体当たりしてくるような雑多なムード」の新宿もない。60年代から70年代にかけての、若者たちのエネルギーに満ちた新宿は完全に消え去ってしまった。

 当然だが、ジャズ喫茶も変わった。p206 森一高 「同上」

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