「センダードマップ」 もうひとつの生活ガイド〈仙台・宮城版〉<2>
<1>からつづく
「センダードマップ」
もうひとつの生活ガイド〈仙台・宮城版〉<2>
センダードマッププロジェクト (編)1987/09 カタツムリ社 単行本 226p
★★★★☆
1)他のSNSにこの本についてのリンクを張っておいたところ、次のようなコメントをいただいた。
2)加藤哲夫さんはエコロジー事業研究会でお世話になりました。エコ研も画期的な集まりだったと思います。無明舎出版「加藤哲夫のブックニュース最前線」は、いまだに手近に置いて読んでいます。
彼の不在は本当に残念です。(2014/07/29) 川内たみ
3)川内たみさんは、「『たべものや』の台所から」(1982/12 柴田書店)でご登場いただいた1939年生まれ、現在「オーガニックライフサポート(有)SORA」を主宰されている方である。
4)「エコ研ですが、具体的には、いつ、どこで、どういう活動されていたのか、教えていただくとさいわいです」という質問をしておいたら、次のようなお答えをいただいた。ありがとうございます。
5)1992年から、約10年間、加藤さんが主催していたエコ研。
【「独占するより分かち合う」をモットーに、会員同士の情報交換も密に行われている発信支援として機関誌「エコファイル」に各社の通信カタログ、広告、会員の自己紹介シートなどを同封。また、見本市、講座、交流会、合宿、見学会を全国各地で開催。会員同士のネットワークを支援している。】
私は96,7年頃から参加したのかな。今だったら、メーリングリストとかフェイスブックのグループとかでやるようなことをアナログでやってたわけ。というか、彼の中には既にそういうやり方のイメージがあったわけです。
当時の仲間とは、MLとかFBのグループとの関係性と似ていると思います。加藤さんはその後、NPOの第一人者として全国で活躍する超忙しい人になるんだけど、時々は一緒にお酒飲んだりしていました。宮城のお酒に詳しくて。改めてネットを調べると、その活躍ぶりやネットワークの厖大さに驚く。(2014/07/30) 川内たみ
6)以上について、すぐ返信しようと思ったのだが、どうも長くなりそうなのと、こちらのブログの今後の展開にも繋がりがでてきそうなので、お礼を込めて、こちらに、そのことを書いておこうと思います。
7)加藤哲夫氏の存在について、最初に気付いたのはいつだったか正確には覚えていないが、おそらく1985年前後であったと思う。それは仙台の西公園の近くにできた自然食レストラン+活動スペース「ぐりん・ぴいす」でのことだった。
8)このお店は、おそらく5人位の人々が共同出資して(推測)できたスペースで、共同経営の形だった。しかし、みんなそれぞれに仕事を持って忙しい人たちだったので、個人出版社「カタツムリ社」として参加していた加藤氏がお店を担当する時間が長くなり、やがては、形としては加藤氏の個人経営に近い形になっていったのではなかっただろうか。
9)当時の彼はそのころ「宝石販売業」とかで、東北を営業しているとのことだったが、あやしい商売なのか、もっとクリアなスピリチュアルな仕事なのかは、私にはわからなかった。ただ、福島出身のもと医学部志望の頭のよさそうな人、というイメージだったが、どこかの大学に進んだ、ということは聞いていなかった。いつから仙台に来ていたのかも、ついぞ聞くチャンスはなかった。
10)私はこの本24pにも紹介されている「みちのく自然食センター」の新聞「みちのくの友」などの印刷を76年頃からしていたし(一年間半だけ)、p18に紹介されている自然食レストラン「おひさまや」なども、女性の友人たちが経営していたので、なんとなく82年頃から知っていた。同じく21p紹介の音楽喫茶「サン・ハウス」なども79年ころから瞑想センターの連絡場所として協力していただいていた。
11)このような環境だったので、「ぐりん・ぴいす」は割と後発というイメージが、私の中の何処かにはあった。だけど、このお店が「カタツムリ社」とほぼ同体となり、加藤氏主導のスタイルとなってからは、かなり独自色を出し始めた。とにかく、その情報の発信力は素晴らしかっただろう。月々の会報(というかDM)は独自のものがあり、一度住所が把握できた人には、飽きずに発信し続けたのではないだろうか。その広さも全国区だっただろう。
12)その情報発信力が、良くも悪くもローカル色を突破して、加藤哲夫というカラーの独自色を創り上げていったように思う。ただ、その物事を的確にてきぱきと発言するキャラクターは、ともすれば、好き嫌いという範疇で判断されることもあったかに想像する。
13)1991年春に、シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」の企画がもちあがって、ミーティングが開かれた時も、カウンターの中にいて、「私は店を貸しただけですよ」というスタンスで、企画の外にいる風であった。しかし、終わってみれば、その企画の真っ最中にいて、事実上のトップである実行委員長に収まっていた。
「河北新報」1991/10/14掲載記事からの写真 左から、加藤氏、私、吉田さん、菅野理事長。
14)そのキャラクターと実行力、アイディア、いずれもが独特のもので、彼あってのシンポジウムであったとも思うし、彼が「歪曲」してしまった、ということもできるほどのけん引力ではあった。この辺りについては、別途、別記事で展開中なので、そちらにいずれ書くことになろう。
15)その後の1992年から上のコメントをいただいた川内たみさんは「エコ研」に参加したということだから、ひょっとすると「スピリット・オブ・プレイス」はご存じないかもしれない。このシンポジウムについては加藤氏自身も、川内さんが今でも愛読されているという「加藤哲夫のブックニュース最前線」(1997/03 無明舎出版)p245、p375にもレポートされている。
16)私なりの考え方もあり、この後の私は、彼らの動きとはリンクしない、町内活動やPTA活動に入っていった。たしか1999年頃にNPOの法的基盤が整備された年に、彼と紅邑さんを学校行事に呼んで公演を頼んだことはあった。謝礼も十分に出せなかったが、快く引き受けてくれた彼らには感謝している。
17)とりとめのない書き込みだが、やがて2011年の彼の葬式(お別れ会)には、たくさんのNPOからの献花が並んだ。独特の彼の仕事のやり方には、確かに注目すべきことは多くあったが、私は、結局、彼の活動とは多くをリンクできなかったことを自覚するのみである。
18)残された彼のブログ「蝸牛庵日乗」などを読みながら、2011年8月に膵臓ガンで亡くなっていった彼のことを思うと、たしかに、福島出身の彼なら、今どのような活動をしていただろう、と思わないわけではないが、また、これもまた運命というものかな、と受け入れざるを得ない気持にもなる。
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