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2014/07/18

「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」 地球の子供たちから愛をこめて 今上 武蘭人 <3>

<2>からつづく

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「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」地球の子供たちから愛をこめて<3>
今上 武蘭人 (著) 1976/12 ブロンズ社 単行本  221ページ
★★★★★

 この本、チェックすべき点が多いのだが、新宿風月堂への思い入れも半端じゃない。その部分を転記する。

風月堂の閉店。ひとつの時代は終わった。だが、感傷にふけっているヒマは、ぼくたちにはない。新たなる、旅立ち。

 これまで何度もくり返して話したように70年代に入ってからの新宿の変わり方はとにかくみごとだった。ぼくが”大そうじ”と表現したように、ゴミのように人間くさい場所は次々とはき捨て、味けない無機質な表情ばかり拡大されていった。ぼくたちにとっては、はるかに遠い反地球的な存在になりつつあった。トドメの一撃は73年夏の風月堂の閉店だった。

 「時代は変わる」。またこの言葉をかみしめる。新宿風月堂がついに終わった。昭和20年創業というから、戦後生まれのぼくたちと同じ歴史をみつめてきたことになる。特にここ十年、時にはアングラ喫茶、はたまたヒッピー喫茶と呼ばれながらも”文化センター”的な貴重な役割を果たし続けてきたことは見逃せない。

 だだっ広い50坪の空間。吹きぬけになった天井。クラシックな音楽とモウモウたるタバコの煙。壁面の絵。無造作に並んだガタガタの古びたイス。そんなフンイ気の中で、受け皿一杯にこぼれてしまった大盛りの紅茶を飲みながら、自分の家のようにくつろいだものだ。

 とりたてて何かがあるわけでもなかった。何かが起こるわけでもなかった。だが、ここを愛した若者たちはアトを絶たなかった。ぼくも風月堂を愛すること10年。新宿は風月堂、風月堂は新宿だった。ここで出会った何人かはぼく自身を決定的に変えた。風月堂の歴史は新宿の歴史であり、戦後の文化史であり、そしてマチこそ学ぶ場と執着し続けてきたぼく自身の歴史でもあった。

 この10年、時代の変質とともに新宿は大きく変わり、ここを訪れてくる若者たちも変わった。ジャズ喫茶の片スミでジャズに酔い詩をうたったギンズバーグたちの影響が強かったビートニクの時代。マスコミに話題を提供し続けた”フーテン”発生期。

 ハプニング等、実験的な行為から演劇、映像などに新しい様式と価値観をつきつけていった”アングラ”時代。西口広場が突如”通路”に変えられたフォークゲリラ期。風俗営業取り締まりの”ヒマワリ作戦”で50店近くあったGOGO喫茶が一瞬にして消しさられていった暗い季節。

 その後につくられた演出されたウソッパチな”若者のマチ”。そして、その中に、都市時代を自覚して攻撃的なマチへなげこまれたミニコミ群。その間、この風月堂を”時代”が”子供たち”が決してよどむことなく流れ続けた。

 詩人、運動家、ヒッピー・・・・・、どんな種類の人間も強じんなそのそしゃく力でどんどん受入れ、つねに奇妙なバランスを保ち続けていた。外人がふえはじめたのは64年のオリンピック以後。「東京に行ったらフーゲツに寄れ」と世界中のヒッピーたちの旅のルートにも組み込まれていた。すぐ近くのベットハウス相模屋に棲み、風月堂をサロンがわりに使っていた外国の友も随分出来た。

 地球村。地球もちっぽけな星。地球に対する認識が変わったのも愛や自由を求めて旅する彼らとの出会いが大きい。大学では何ひとつ見い出せなかったぼくがマチの中で発見した風月堂は、優秀な教師たちが、体験的に人生を学ぼうとする生徒たちが、粒よりにそろったもうひとつの大学だった。

 ともかく、風月堂は73年8月31日、28年のナマナマしい歴史にピリオドをうった。そして、その2週間後には、このすぐ近くに人の流れを変えてしまうほどの大地下街が堂々完成された。何年後かの新幹線の乗り入れの発表もされた。

 新宿で最も古い喫茶店といわれるこの風月堂が終わった今、まさに新宿というマチの”青春期”も終わった気がする。それはまたぼくたちにとっては、より厳しくつらい時代への突入を意味している。(40073年8月 ”時代は変わる”) p56

 この文章はおそらく73年8月当時の彼らがつくっていたミニコミ「ぴいぷる」などに掲載された文章だろう。なみなみならぬ新宿風月堂への愛が発信されている。当ブログがみた関連本の中でも、新宿風月堂インサイダーとしても、飛びきりの一文ではなかろうか。

 マチをもう一度ゼロの次元からとらえなおすため、新宿プレイマップをやめたぼくは、70年末に「サロン・ド・ニューピープル」を歌舞伎町裏の新宿西大久保につくった。p31

 この本の出版以降、杳としてつかめない彼の消息だが、それ以前までの動向はつかめないこともない。本間健彦 「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート (2013/06 社会評論社)には、数カ所に今上武蘭人のプロフィールが登場するので、後日、ひとまとめにしてアップしてみる予定。

 アルバイトの募集をすると、一番乗りでやって来たのが今上武蘭人と名乗る青年だった。彼は当時新宿のそこいら中にいた長髪のヒッピー風の若者だったが、自分の足で作成したという新宿店舗情報を記したノートを持参して現れ、「僕に任せてください。新宿の店舗をくまなく一軒、一件回りますから・・・・」と頼もしいことを言うので、さっそくお願いをした。ちにみに、今上武蘭人は後に編集スタッフとしても活躍してくれた。本間健彦 「60年代新宿アナザー・ストーリー」p84「いざ、新宿へ出陣」

 この1969年春、1940年生まれの本間健彦は29歳、1944年生まれの今上武蘭人は25歳であった。ともにかろうじて戦前、戦中派ではあるが、この二人の個性の隔たりはかなりある。60年安保をノンポリで過ごしたという本間に対して、60年代前半からカウンターカルチャーの芽を育てきた今上では、かなりの温度差がある。

 ここで見る限り、本間と今上の付き合いは、1969年春から、1970年の暮れまでの、わずか二年足らず、ということになる。

<4>につづく

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