「青春の殺人者」 デラックス版 DVD 中上健次原作
「青春の殺人者」 デラックス版
中上健次(原作「蛇淫」) 長谷川和彦 (監督)
水谷豊、原田美枝子、内田良平, 市原悦子、他 (出演), ゴダイゴ(音楽) 1976年上映 ATG DVD 120分
Total No.3286★★★☆☆
1)中上健次追っかけが始まるのかどうか。まずは、映像資料ということでこの映画を借りてきた。他にも「十九歳の地図」の映像があるが、借り出し方法が難しい。
2)寝ながら見ようとパソコンを枕元に。最近うちのパソコンは調子悪い。特になにやらソフトがバージョンアップされていないとかで、色が出ない。何かの色が脱色している。ちなみに顔は緑で、髪の毛は赤茶けてみえる。輪郭や音はなんとか行ける。
3)結論としては、この環境が良かった。この映像の、血のりや炎などのシーンがリアルに再現されたなら、気の弱い私なんぞは、見るのをすぐやめただろう。昔、力道山のプロレスで、出血シーンがあって、心臓マヒで死んだお年寄りがいた。私も、もう、その年代である。
4)まず良かったことから書けば、ゴダイゴの曲がよかった。デビュー作の「新創世記」から4曲程使われているらしい。この禍々しい映画のバックに流れることで、救われた。モンキー・マジックの前あたりに作られていた曲であろうか。
5)よかったと言えば、水谷豊とか原田美枝子の、どうも軽めの演技に救われた気もする。どこかヘビーになりきらない、虚構性に、多少は救われた。
6)とにかく前半の50%位は、私の苦手や、というか嫌いなシーンの連続で、こんな映画なんで見てんだよ、と、後悔した。見続けられたのは、繰り返すようだが、色彩がリアルに再現されない我がパソコンの故障が幸いした、ということだろう。
7)後半はまぁ、なんとか慣れてきて、最後まで付き合うことができた。
8)観終わったあと、DVDに収録されている長時間の「監督インタビュー」を見た。これが面白かった。特に「真実とフィクション」というような部分。そもそもが中上健次が実際にあった両親殺人事件をモデルにして書いた「蛇淫」という短編小説があり、それを脚本家の田村猛が見つけて長谷川和彦に、監督一作として勧めたということだ。
9)実際の事件の現場に足を運び、関係者にもできるだけ会ったという。蛇のような女と表現された女性は、その時、トルコ嬢だったという。青年は千葉一高の卒業生。青年は無実を主張していたようだが、この映画が完成したあと、死刑が確定した。この映画では、最初から青年実行説で突っ走っている。
10)この映画、あまりにも有名な一作なので、タイトルも監督の名前も知っていたが、見る気は全くなかった。私とまったく無関係な、違った次元の作品だと、思ってきた。
11)今回、何の因果か、脈絡なくこれを見て、確かにこれは私とは異次元の作品であることは確認できたが、その1976年上映という時間性に、やや、興味を持った。
12)この時代、私は大きな曲がり角にいた。過去を封印して、どこか遠くへ行ってしまいたかった。私の青春は1975年に終わりにしたのだ。あの頃、自分の記憶はまだら模様だ。77年にインドに行くわけだが、そして、私の「青春」はまだまだ続くのだったが、少なくとも、あの血塗られたような、炎の真ん中に立っているような、そういう青春は終わりにした(かった)。
13)あのまま1970→1975年の流れにいたら、私にはその実行力は無かったものの、加藤三郎のような単独爆弾犯のような道しか残っていなかったのではないか。そのような結論に行ってしまうような70年代前半という時代性を、私はとにかく切り捨て、封印してしまいたかった。
14)遠くに行ってしまいたかった私の眼の前に、ぱっくりと口を開けて待っていたのがOshoであっただろう。他にもいくつも選択肢はあったが、もっとイージーで、しかも、もっとも必然性があり、もっとも妥当性があった。あの過去を封印してしまおう、という力の作用がなかったら、私はOshoサニヤシンにはならなかっただろう。
15)だから、この映画に描かれている世界は、私と無関係な世界とは到底思えないが、であるがゆえに、自分の中では封印して忘れてしまいたいもの、避けて、なかったことにしてしまいたい世界への細道であった。
16)おそらく、70年代後半から80年代にかけて、いわゆるこの映画に書かれたような世界や、そのような世界に拘泥しようという試みについては、それが芸術やら、ノンフィクションやら、という肩書はともかく、一切、興味を持つまいと思った。
17)これが、結局は、幼馴染の石川裕人(ニュートン)との1980年代における分かれ道だったのだろう。
18)私はそもそもが、フィクションの虚構性を遊ぶような力量を欠いている。漫画も小説も、無くても生きていける。面白ければ読むが、そうそう面白いものにはぶち当らない。上手ならパチンコもやるが、下手だからパチンコなどで時間を費やさない、というのと、同じ感覚だろう。
19)中上健次を追っかけることはシンドイ。できれば、この忙しい時期、避けたい。見たくないことの連続だ。しかし、もし、それが中上とか、血とか、戦いとか、という外在物ではなく、内に在る何か、出来れば目をそらしたい何か、そんなものがまだ自分の中に残っているとするなら、これら禍々しいものを視覚に入れながら、自らの内に、いまだ潜んでいる何物かをおびき出す手段、と考えてみるのも、悪くない。
20)中上健次は好きにはなれないが、自分が内に抱えている何か「好きになれない」ものに、もう一度意識を振り向けてみるのも、悪くない冒険だ。
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