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2014年7月の36件の記事

2014/07/31

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <47> チャイルドシート

<46>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<47>「チャイルドシート」

1)夏休みともなれば、小さな孫たちの大集合となり、はてさて、短い期間とは言え、なにか記念になるようなことをしたい、と思うのものである。私は記念というより、記録をつくりたい、と思う。

2)大体、二人の孫たちを繰り返し風呂に入れているだけで腰の痛みは増してくるのだが、せっかくだから、一晩だけでも、一気に4人の孫を風呂に入れてみようかな。そう思って、友人である鍼灸院の院長に漏らしたら、それがお前のわるい癖だ、とのたまわる。そもそも、腰が痛くてマッサージを受けながら話すような内容ではなかったようだ。

3)3歳児、2歳児、そして、生後半年と、二ヶ月の新生児、4人を一挙に風呂にいれるのは無理。私が記録に挑戦したがっても、周りが許さないし、だいたいにおいて、4人がキチンとその体制にはなってくれない。今回は、諦めるしかないですな。

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4)と、そこで別な記録に挑戦(ああ、また悪い癖)。今度は、息子のワンボックスを借りて、一気に、ちょっと離れた公園までドライブすることになった。よくよく考えてみれば、4人の孫を連れて歩くには、4つのチャイルドシートが必要なのである。え、四つなの。

5)初孫が生まれた時は、産院から退院する時に迎えに行った。その時、チャイルドシートとはいかなるものか、よくわからなかったので、レンタルショップで、短期間だけ借りたのだった。そのうち、いろいろ分かってきた。

6)いつの間にか、私の車のためにチャイルドシートが2つ準備されている。そして息子のクルマにも2つ。つまり我が家には、いつの間にか4つのチャイルドシートが存在しているのだった。え、そうなの?

7)チャイルドシートにも色々あって、その時その時に買ったものだから、ひとつひとつが違う。基本は、シートベルトで固定するようになっているのだが、これがいろいろな方式がある。一回ではなかなか飲み込めたものではない。

8)それでも、なんとかかんとか4つのチャイルドシートを固定した。

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9)ここに4人の孫たちが乗り、二人のママと、運転手の私が乗り、手元の荷物を助手席に置くと、もう目いっぱいである。まして後ろのトランクスペースに乳母車を二台入れるとなると、それでもう、8人乗りのワンボックスとは言え、キャパシティの限界である。

10)それぞれの家族はそれぞれの車を持っているので、彼らが共に移動する時には二台の車になるのだから、こういう状態にはならないだろう。しかし、おっとり刀の育爺を目ざす私としては、4人の孫を一つの車に乗せて、一辺に運んでみたい。これはこれ、今回樹立できたまずまずの記録と言えば、記録に違いない。

11)4人の孫を風呂に入れるのは諦めたが、ワンボックスカーで4人の孫と公園までドライブ、の運転手はなんとか務まったようだ。

<47-B>へつづく

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2014/07/30

「センダードマップ」 もうひとつの生活ガイド〈仙台・宮城版〉<2>

<1>からつづく
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「センダードマップ」 もうひとつの生活ガイド〈仙台・宮城版〉<2>
センダードマッププロジェクト (編)1987/09 カタツムリ社 単行本 226p
★★★★☆

1)他のSNSにこの本についてのリンクを張っておいたところ、次のようなコメントをいただいた。

2)加藤哲夫さんはエコロジー事業研究会でお世話になりました。エコ研も画期的な集まりだったと思います。無明舎出版「加藤哲夫のブックニュース最前線」は、いまだに手近に置いて読んでいます。
彼の不在は本当に残念です。(2014/07/29) 川内たみ 

3)川内たみさんは、「『たべものや』の台所から」1982/12 柴田書店)でご登場いただいた1939年生まれ、現在オーガニックライフサポート(有)SORA」を主宰されている方である。

4)「エコ研ですが、具体的には、いつ、どこで、どういう活動されていたのか、教えていただくとさいわいです」という質問をしておいたら、次のようなお答えをいただいた。ありがとうございます。

5)1992年から、約10年間、加藤さんが主催していたエコ研。

 【「独占するより分かち合う」をモットーに、会員同士の情報交換も密に行われている発信支援として機関誌「エコファイル」に各社の通信カタログ、広告、会員の自己紹介シートなどを同封。また、見本市、講座、交流会、合宿、見学会を全国各地で開催。会員同士のネットワークを支援している。】

 私は96,7年頃から参加したのかな。今だったら、メーリングリストとかフェイスブックのグループとかでやるようなことをアナログでやってたわけ。というか、彼の中には既にそういうやり方のイメージがあったわけです。

 当時の仲間とは、MLとかFBのグループとの関係性と似ていると思います。加藤さんはその後、NPOの第一人者として全国で活躍する超忙しい人になるんだけど、時々は一緒にお酒飲んだりしていました。宮城のお酒に詳しくて。改めてネットを調べると、その活躍ぶりやネットワークの厖大さに驚く。(2014/07/30) 川内たみ

6)以上について、すぐ返信しようと思ったのだが、どうも長くなりそうなのと、こちらのブログの今後の展開にも繋がりがでてきそうなので、お礼を込めて、こちらに、そのことを書いておこうと思います。

7)加藤哲夫氏の存在について、最初に気付いたのはいつだったか正確には覚えていないが、おそらく1985年前後であったと思う。それは仙台の西公園の近くにできた自然食レストラン+活動スペース「ぐりん・ぴいす」でのことだった。

8)このお店は、おそらく5人位の人々が共同出資して(推測)できたスペースで、共同経営の形だった。しかし、みんなそれぞれに仕事を持って忙しい人たちだったので、個人出版社「カタツムリ社」として参加していた加藤氏がお店を担当する時間が長くなり、やがては、形としては加藤氏の個人経営に近い形になっていったのではなかっただろうか。

9)当時の彼はそのころ「宝石販売業」とかで、東北を営業しているとのことだったが、あやしい商売なのか、もっとクリアなスピリチュアルな仕事なのかは、私にはわからなかった。ただ、福島出身のもと医学部志望の頭のよさそうな人、というイメージだったが、どこかの大学に進んだ、ということは聞いていなかった。いつから仙台に来ていたのかも、ついぞ聞くチャンスはなかった。

10)私はこの本24pにも紹介されている「みちのく自然食センター」の新聞「みちのくの友」などの印刷を76年頃からしていたし(一年間半だけ)、p18に紹介されている自然食レストラン「おひさまや」なども、女性の友人たちが経営していたので、なんとなく82年頃から知っていた。同じく21p紹介の音楽喫茶「サン・ハウス」なども79年ころから瞑想センターの連絡場所として協力していただいていた。

11)このような環境だったので、「ぐりん・ぴいす」は割と後発というイメージが、私の中の何処かにはあった。だけど、このお店が「カタツムリ社」とほぼ同体となり、加藤氏主導のスタイルとなってからは、かなり独自色を出し始めた。とにかく、その情報の発信力は素晴らしかっただろう。月々の会報(というかDM)は独自のものがあり、一度住所が把握できた人には、飽きずに発信し続けたのではないだろうか。その広さも全国区だっただろう。

12)その情報発信力が、良くも悪くもローカル色を突破して、加藤哲夫というカラーの独自色を創り上げていったように思う。ただ、その物事を的確にてきぱきと発言するキャラクターは、ともすれば、好き嫌いという範疇で判断されることもあったかに想像する。

13)1991年春に、シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」の企画がもちあがって、ミーティングが開かれた時も、カウンターの中にいて、「私は店を貸しただけですよ」というスタンスで、企画の外にいる風であった。しかし、終わってみれば、その企画の真っ最中にいて、事実上のトップである実行委員長に収まっていた。

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 「河北新報」1991/10/14掲載記事からの写真 左から、加藤氏、私、吉田さん、菅野理事長。

14)そのキャラクターと実行力、アイディア、いずれもが独特のもので、彼あってのシンポジウムであったとも思うし、彼が「歪曲」してしまった、ということもできるほどのけん引力ではあった。この辺りについては、別途、別記事で展開中なので、そちらにいずれ書くことになろう。

15)その後の1992年から上のコメントをいただいた川内たみさんは「エコ研」に参加したということだから、ひょっとすると「スピリット・オブ・プレイス」はご存じないかもしれない。このシンポジウムについては加藤氏自身も、川内さんが今でも愛読されているという「加藤哲夫のブックニュース最前線」(1997/03 無明舎出版)p245p375にもレポートされている。

16)私なりの考え方もあり、この後の私は、彼らの動きとはリンクしない、町内活動やPTA活動に入っていった。たしか1999年頃にNPOの法的基盤が整備された年に、彼と紅邑さんを学校行事に呼んで公演を頼んだことはあった。謝礼も十分に出せなかったが、快く引き受けてくれた彼らには感謝している。

17)とりとめのない書き込みだが、やがて2011年の彼の葬式(お別れ会)には、たくさんのNPOからの献花が並んだ。独特の彼の仕事のやり方には、確かに注目すべきことは多くあったが、私は、結局、彼の活動とは多くをリンクできなかったことを自覚するのみである。

18)残された彼のブログ「蝸牛庵日乗」などを読みながら、2011年8月に膵臓ガンで亡くなっていった彼のことを思うと、たしかに、福島出身の彼なら、今どのような活動をしていただろう、と思わないわけではないが、また、これもまた運命というものかな、と受け入れざるを得ない気持にもなる。

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2014/07/29

「センダードマップ」 もうひとつの生活ガイド〈仙台・宮城版〉<1>

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「センダードマップ」 もうひとつの生活ガイド〈仙台・宮城版〉<1>
センダードマッププロジェクト (編)1987/09 カタツムリ社 単行本 226p
Total No.3303★★★★☆

1)新しいカテゴリ「さすらいの夏休み」を始めよう。このタイトルは、石川裕人本人いわくところの「畢竟」の三部作である「時の葦舟」の三作目のタイトルからいただいたものである。時はちょうど夏休み。当ブログとしてはカテゴリ「時の葦舟」、カテゴリ「無窮のアリア」に続く、石川裕人ゆかりのネーミングである。

2)石川裕人「蔵書市」に二日続きで行ってきた。思うところ多々あった。出店した古書店主によれば、およそ3000冊ということであるが、二日間ではなかなか売り切れるものではなかった。私もだいぶ購入したつもりだが、あれを全て買い取ってくるわけにもいかない。思い出深いものを中心としてそれでも100冊を超える古書を入手した。

3)今回は、この石川裕人蔵書を手掛かりに、当ブログを進行させていこうかな、と思う。そう思っては見るが、さて、どこから始めようか、となるとなかなか難しい。逡巡した結果、この本がふさわしいと感じた。

4)まずはこの本、「センダードマップ」から始めよう。なぜにこの本を彼が所有しているかといえば、まずは、1987年当時、彼が経営していたジャズ(?)喫茶「マルジナリア」が紹介されている(p214)ことによるだろう。ひょっとすれば、これは出版側からの贈本だったかもしれない。

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5)このお店、どの位続いたのだろう。メニュ―を見て「ピザ」を頼むと、裏口からスタッフが近くのスーパーにピザの材料を買いにいくというようなお店だった(微笑)。仲間内の暖かい目に支えられながらも、決して長くは続かなかった。おそらく数カ月。一年以内だったような気がする。

6)それにしてもこの本、この1987年当時の、仙台の文化状況が把握できて、今となっては貴重な一冊となっている。

7)そして八月三十一日の午ごろわたくしはちいさな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。-----宮澤賢治 「ポラーノの広場」より 巻頭

8)加藤哲夫という人のセンスは、やっぱり凄いな、と思う。ここでズバリ、センダードマップと名付けたところは、天才級だ。このネーミングが決まれば、あとは、内容はおのずと付いてくるだろう。逆に、一つ一つの情報を積み上げてボトムアップでネーミングしたら、「もうひとつの生活ガイド」以上にはならなかっただろう。

9)ボクと同じ名前の粉川哲夫さんもよく言っているのですが、メッセージをやりとりするのがコミュニケーションではなくて、<場>やメディアの共有こそがコミュニケーションなのです。八重洲書房やぐりん・ぴいすなどは、街の中の誰にでも開かれたメディア装置なのです。p191加藤哲夫「ぐりん・ぴいすからセンダードマップへ」

10)宮澤賢治を称揚する人は多いが、この人もまたその中の、有力な一人である。

 「カタツムリ社」 日本一小さなひとり出版社。名前の由来も、アニメ「銀河鉄道の夜」の原作者ますむらひろしのまんがに登場する、いつも倒産ばかりしている出版社の名からとったという。p197

11)この本には、当時の仙台・宮城の文化の、ある局面が切り取られており、興味深い活動や場、人々が登場している。おひさまや、ぐりんぴいす、サンハウス、石森秀彦、菅原公宇、わでぃ・はるふぁ、空飛ぶくぢら共同保育所、はくらくみこ、温古堂診療室、仙台オイリュトミー研究会、原子力発電を考える石巻市民の会、「き~の」編集室、八重洲書房、おたまじゃくし、活牛寺・・・・などなど。他にも興味深い当時の情報が満載だ。

12)ところで、この頃、私は何をしていたのかというと、奥さんと2歳と4才の子供を連れて、インド・プーナのOshoコミューンに滞在し、、カウンセラー・トレーニング・コースを受けていたのだった。

13)この流れに、私なりに喜納昌吉&チャンプルーズのコンサートを携えて突入していったのが、1991年の「スピリット・オブ・プレイス」だった。石森君、はくらさん、その他、多くの友人たちと共同作業を進めたわけだが、この時、わが友ニュートンにも誘いを出したが、ていよく断られたのが、いまだに記憶に新しい。

14)思うところ、いろいろあるが、この辺からモヤイを解いておこう。

<2>につづく

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2014/07/27

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<51>「コンシャス・マルチチュード」カテゴリについて

<50>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<51>コンシャス・マルチチュードカテゴリについて

1)「来たるべき地球人スピリット」カテゴリの後継カテゴリだった。意味的には同じこと。より具体的なニュアンスを加えてみた。

2)書かれたのは2014/05/19から2014/07/27まで。

3)別段に結論めいたものはなかったので、このまま次のカテゴリは「コンシャス・マルチチュード2」としようかな、と思っていたところ、たまたま、ニュートンの蔵書市があり、またまたニュートンのことを思い出した。

4)そもそも、以前のカテゴリはニュートンの「畢竟の三部作」から、「時の葦舟」や「無穹のアリア」を借りたところだった。この次のカテゴリは、その続きで「さすらいの夏休み」を借りることにした。ちょうど、ニュートンを思い出したところで、夏休みが始まったのも、何かのタイミングかな、と。

5)このカテゴリでは、フーゲツのJUNが編集するHP「電脳・風月堂」をナビとして、新十k風月堂の流れを追っかけたのは大きいイベントだった。

6)そもそも「コンシャス・マルチチュード」のタイトルは、当ブログの造語(あるいは独自の組み合わせ)であり、そのニュアンスが、すこし深まった。というのも、じつはSNS繋がりで、ある一つのプロジェクトが始まったからだ。今はアンダーグランドだが、いずれ陽の目をみるだろう。

7)「再読したいこのカテゴリこの3冊」はつぎのとおり。

「お産の学校」 私たちが創った三森ラマーズ法
お産の学校編集委員会 編 1980/3 BOC出版部 単行本 444p

「みんな八百屋になーれ」 就職しないで生きるには 3
長本 光男   (著) 1982/07 晶文社 単行本 205ページ

「『たべものや』の台所から」シリーズ食生活の再発見 
たべものや編著 1982/12 柴田書店 単行本 
284ページ

<52>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「コンシャス・マルチチュード」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊

「コンシャス・マルチチュード」編 

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「お産の学校」 私たちが創った三森ラマーズ法
お産の学校編集委員会 編 1980/3 BOC出版部 単行本 444p

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「みんな八百屋になーれ」 就職しないで生きるには 3<1>
長本 光男   (著) 1982/07 晶文社 単行本 205ページ

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「『たべものや』の台所から」シリーズ食生活の再発見 
たべものや編著 1982/12 柴田書店 単行本 
284ページ

<後>につづく

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「石川裕人蔵書市」 ひやかし歓迎! 7月27日(日)~28日(月)<2>

<1>からつづく 
Kuradashi_2                            
「石川裕人蔵書市」ひやかし歓迎! <2>

日時: 2014727()10001700 2014728()10001500 
場所:
せんだい演劇工房10-BOX BOX3 
新書・文庫・雑誌・CDなど オール100円ハードカバー オール500円 
劇作家、演出家、シナリオライター、ある時はシンガーソングライターで詩人の故石川裕人氏が所有するおびただしい数の本を蔵出しします。 文庫や新書、貴重本や豪華本、演劇関係や戯曲の資料となったであろう、本屋では入手できない逸品が並びます。
主宰/石川裕人蔵書の会(仮)
協力/萬開堂書店、ThetreGroupOCT/PASS”、せんだい演劇工房10-BOX
お問い合わせ/せんだい演劇工房10-BOX 022-782-7510 
 

1)ということで(どういう事じゃ)、さっそく出かけてみることに。キチンと開店に間に合う予定で出かけたのに、途中で仕事の連絡が入り長電話。15分ほど遅れて会場についた。10人ほどの先客があり、すでに品定めしながら、腕の中に何冊も抱えている。あ~~、遅れちゃった~。 

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2)さっそく、アレアレ、あの本を探さなきゃ。簡単にグルッと一巡してみたが、どうもない。ああ、やられたかなぁ。遅れたのだから仕方ない。それにしても、そんなに早く足のつく本だろうか。 

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3)と、うろたえているところに、「第二便、到着!」の声。ああそうだったのか。第一便が2000冊ほどで、第二便が1500冊ほどだという。全部で約3500冊。さらに一巡しながら、探していると、あれ~、やっぱり先客のお買いものコーナーに入ってしまっていた。(涙)

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4)ここは、仕方ない、恥ずかしがらないで、事情を話してみよう。と、そのお客さんに「この本、譲ってもらえませんか」と、お願いしてみる。若くて、ちょっとインテリ風な長身の男性、振り向きざまに、「ああ、いいですよ」と、すぐに渡してくれた。やったー。Osho「ダイヤモンド・スートラ」。幸いにして、彼にはそれほど想い入れが無かったのかもしれない。あるいは、こちらの鬼気迫る表情に恐れをなしたのか(汗)。何はともあれ、これで、私の側からの、ニュートンへの思い入れは、まずは一つ繋がった。 

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5)彼からの繋がりとしては 「八〇年代・小劇場演劇の展開」 演出家の仕事③」日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社)を確保したから、まずは彼の置き土産として受け取ることができるだろう。ここには彼が顔写真つきでプロフィールが紹介されている。

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6) シリーズの①である「演出家の仕事」六〇年代・アングラ・演劇革命」 日本演出者協会/西堂行人(2006/02 れんが書房新社)も確保したが、②である「演出家の仕事②」 戦後新劇(2007/05 れんが書房新社)は見つけることが出来なかった。陳列されていた場所から考えて、おそらく最初から②はなかったのかも知れない。そう納得する。「戦後新劇」だしな・・。

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7)さて「<帝国>」「マルチチュード」(2005)も確保。ぜいたくだよなぁ、こんなに高価な本をどんどん買えた彼がうらやましい。その10分の1で手に入れることができたのは、彼のおかげか。ただ、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの他の本はないようだった。彼のマルチチュード追っかけはここまでだったのか。

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8)当ブログが最初に「マルチチュード」に気付くことになった柄谷行人「世界共和国へ」 本=ネーション=国家を越えて(2006/04)も確保。奥付の彼のサインをみると2006/04/25の日づけが見える。発売直後に読んでいるようだ。早い。彼はアンテナをバリバリ張り続けていたようだ。

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9)彼の誕生日は9月21日。それは宮澤賢治の命日でもある。それゆえでもないだろうが、冗談で彼は宮澤賢治の生まれ変わりだ、なんて言っていた。賢治関連は、全集から評論、単行本など、おびただしい冊数だったが、まずは宮沢清六「兄のトランク」(1987/09 筑摩書房)を確保。もちろん押野武志「童貞としての宮沢賢治」(2003/04/01 ちくま新書)もいただきましたよ。

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10)そして、コリン・ウィルソン中上健次も数冊づつ、伊東竜俊もきちんと私が保存いたしますよ。そうそう、びっくりしたのは「黒の手帖」(檸檬社1969/01~1972/09) が数冊あったこと。これは、正直言って、きょう一番の収穫かな。そもそも彼がこの雑誌を、私と同時代にこれを読んでいたのだ、ということを今日確認することができた。

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11)このほか、私の嗜好とはだいぶ違っているので、まだまだ貴重な本が山積みになっていた。あれこれ手を出して、結局、気がついてみれば、本の厚さにして1メーターを超える量になっていた。みんなあれだけ買っていったのに、まだまだある。一冊一冊が、私にとっては興味深い。だいぶ長いこと会場にいたから、今日は一旦、退散。まだまだありそうだから、明日も行ってみようかな。

<3>につづく

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2014/07/26

今日の気分はこの3冊<4> 小屋、恐竜、風力発電

<3>からつづく

今日の気分はこの3冊<4> 小屋、恐竜、風力発電

「可笑しな小屋」 ジェィン・フィールド=ルイス(2013/12 二見書房)

 この本はお気に入りである。最近読んだ本のベスト本を作れ、と言われたら、まず、この本がトップにくるだろう。たった一冊に絞り込め、と言われれば、まずこの一冊で決まりだろう。とにかくお気に入りである。

 何がお気に入りなのか、自分でもよくわからない。しかし、この本が手元にあると、元気になる。本当は、気に入らないところも多くある。まず、タイトル。原書は「My Cool Shed」である。さしずめ日本語の語感でいえば「ぼくのカッコイイ隠れ家」のようなものであろう。小屋は小屋なのだが、もう少し思い入れがある。クールなのである。

 この本の何がお気に入りなのかというと、この本を見ていると、創造性がかきたてられることだ。すでにメモしたように、ガレージを改造してオフィスにし、自転車置き場を改造してアトリエとし、天井裏を改造してロフトとした。その際のイメージの多くはこの本から借りた、と言っても過言ではない。

 そして、その作業はまだまだ続いているとは言うものの、一段落したところがある。まだまだ手を加えたいのだが、あり合わせの材料を使いながら、いつ進化するともわからないわが「My Cool Shed」たち。柔軟な態度で、次のステップを待っている。

__

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (2011/07 阪急コミュニケーションズ) 

 この本もお気に入りである。もう何度も読んだ。一年ちょっと前に偶然手にした「チキンの骨で恐竜を作ろう」(クリス・マクゴーワン 1998/08 青土社)にハマった。すでに、我が手を通じてこの世にやってきた「恐竜」たちは、30体にも及ぶ。

 自分がこんなに「恐竜」にハマるとは思ってもみなかった。すごく創造性や想像性を刺激される。映画も本もずいぶん見た。生活空間にも、彼らがどんどん浸食してきているのである。

 だが、量的にはもうこのくらいで十分だろう。あれを修復し、あれをもっと正確に作り直し、あそこを保全して、と、リカバリーの案は浮かぶが、まず、今のところはこれだけの「恐竜」たちがいてくれたら、私としては満足なのである。

 しかるに、どうやら、私は誰かれにこのことを自慢したらしく2歳児、3歳児のかわいい孫たちに、この「恐竜」熱が伝染したらしい。この夏休みにはみんな一緒に、近くの科学館での「恐竜大研究展」に行ってくる予定。これで孫たちとのコミュニケーションもバッチリである。

「自分で作るハブダイナモ風力発電 +」 大人の週末工作( 川村康文2012/11/26 総合科学出版)

 そしてこの一冊。すでに太陽光は「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」(2011/08 ニュートンプレス)をガイドにして我が家の屋根にもシステム設置が完了したし、「ソーラーチャージライト MA-551」株)丸高 2011で、ちゃっかり生活の中にソーラーは根づいてくれている。

 水力発電も、いろいろ実験はやったが、一番のネックのところ、結局その水力をどこに求めるか、で頓挫しているところがある。キャンプの時などの臨時の手段としては考えることができるけれど、いまいち水源がないことには、水力発電は難しい、という結論がでている。

 ではというので風力なのだが、こちらも、安定した風力が望めない、ということで、一般的には、こんな街中の住宅街では無理でしょう、という結論が出かかっている。でもしかし、それなら、あのかき集めた材料、とくにハブダイナモたちはどうすればいいのか。もったいないじゃないか。

 それに、発電しても、それを使える電流に変え、蓄電しておくシステムが必要なのである。この電子工作の部分が、面白そうでもあり、面倒そうでもある。いつかはやらなければならないのだが、やるとするならいつやるの。今でしょ、と掛け声をかけてはみるが、いまいち腰が上がらない。まぁ、ゆっくり行こうよ。

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 とまぁ、この、今日の三冊、なかなかわが遊びごころをくすぐってくれる三冊なのだが、今日、この三冊が浮上しているのは、夏休みに突入したからなのだろう。小屋も恐竜も一段落はしているが、ハブダイナモだけは、ひょっとすると途中で挫折するかもしれない、という危機感もある。最後の一冊は、ちょっと荷が重いのだが、適当な負荷を感じながら、楽しんでいこうじゃないの。

<5>につづく

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2014/07/25

「終末期の密教」 人間の全体的回復と解放の論理 板垣足穂 梅原正紀 編著

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「終末期の密教」―人間の全体的回復と解放の論理 
稲垣足穂 (編集), 梅原正紀 (編集) 1973/09 産報 ハードカバー 349ページ
Total No.3302★★★★☆

1)SNSつながりの複数の友人からこの本のタイトルが飛び出した時、あ、それは面白いでしょう、と直感した。そして、それとともに、当ブログとしては、もう終わっているテーマではないか、とも思った。

2)当ブログの流れで言えば、終末期に現れるスピリチュアリティだからこそ密教なのであり、スピリチュアリティが密教としてしか存続し得ないからこそ終末期なのだ、とも言える。つまり、「終末期の密教」というのは修飾過剰、同じことを二度言っているに過ぎないのだ。

3)大雑把に言えば、当ブログでは、密教いわゆるタントラを、読書の中の三冊に集約してまとめてしまうことは可能だ。

T3

「チベット密教の本」(1994/12 学研)。これは一般的なチベット密教について、よくまとまっている本であり、画像やイラストが多い。

「裸形のチベット」(正木晃 2008/07 サンガ)。これは現在のチベットと、そこで何がおこったのかという歴史について、コンパクトながら、実に正確に教えてくれる。

そして、「反密教学」 (津田 真一 1987/09 リブロポート)。 つまり、ここで密教はトドメを刺される。終末が終末するのだ。そして、次なるものが生まれる以外になくなる。

4)まずはそういう予感がよぎった。さてさて、1973年に出たこちらの本は、どんな経緯で、どんな展開になっているのだろうか、と、中身を満足に忖度しないままパッと開いたところに、こんな画像があった。

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 あれまぁ、これはダダカンではなかろうか。「仙台市郊外で独自の生きざまを示すヒッピーのひとり」となっている。p93 1973年当時に、まぁさまざまなキャラクターが仙台にも存在したが、この人はあの人できまりでしょう。

D2
 それにほら、腕のしたあたりに「DADA」の文字が見える。

5)確信のないまま、ネットで検索してみると、竹熊健太郎氏のページに、ゼロ次元と一緒に映ったダダカンの写真がある。

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 後列中央がダダカンだということだから、よくよく見てみると、サングラスも同じ、ヘアースタイルも同じ、首から下げたネックレスも、上の写真と同じではないだろうか。ひょっとすると、同じ時に撮った写真のシリーズなのかも知れない。まず、上の写真もダダカンで決定だろう。

6)不思議なこともあるものである。昨日、SNSでダダカンを訪問した時のことが話題になって、私も画像を二、三、アップしたのだった。2006/08のことである。

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Photo_57)それにしても、このダダカンの写真が挿入されていたのは、山尾三省の「部族を志向した聖集団---愛と自由と知恵によるむすびつき---」p87 の中だった、というところが、私にはなんとも不思議だった。三省とダダカンが、どの様に結びつくだろう。すくなくとも、ダダカンは部族志向ではなかったと思うし、三省がストリーキングをした、という話も聞いたことがない。

8)などなど、読みもしないうちから、いろいろ逡巡している。

つづく

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「映像をめぐる冒険vol.5」 記録は可能か。東京都写真美術館

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「映像をめぐる冒険vol.5」 記録は可能か。
東京都写真美術館  2012年12月11日 ( 火 ) ~ 2013年1月27日 ( 日 )

 先日来、読書の途中ででてきた宮井陸郎についての記述が断片的なので、当ブログにそのつど転記して貼り付けて関連リストを作成しておいたが、ネットでも彼の略歴があったので、拝借し、貼り付けておくことにします。

宮井陸郎

 1940年島根県生まれ、岡山/東京在住。映像作家。1960年代に「映像芸術の会」に参加するとともに「ユニットプロ」を主宰。拡張映画、環境映画としての映像作品を数々発表し、アンダーグラウンドシーンを牽引する。また、アンディ・ウォーホル展の企画などプロデューサーとしても活躍。

 1976年以降はインドに渡り、瞑想に入る。金坂同様にアンダーグラウンドシーンを牽引していた宮井の問題意識は、時代の全体像を「透視することが困難な時代において、現象が我々の前にあるのではなくて、我々自身が単なる現象として現前している」 として、それまでの映画作品に多くみられた外面性/内面性の二項対立という図式からより現象学的方向に向かっていた。 

 そして、自身の関心から当時ヌーヴェル・ヴァーグへ影響を与えていた「シネマ・ヴェリテ」の手法にならい、《時代精神の現象学》(1967)を制作する。映画では、ユニット・プロの一室からはじまり、新宿の繁華街、スーパー、映画館、ゼロ次元のパフォーマンスにいたるまで「計画されたハプニング」の一日が長回しで撮影され、最後は地下街に設置された時計の3分間の大写しで終わる。

 1967年の新宿の空気を切り取ると同時に、最後のショットによって映像に潜在的な時間性が意識される。計画された偶然性やパフォーマンス性をもった映像をコラージュする実験的な手法は、宮井が構成で協力したテレビ番組《クール・トウキョウ》(村木良彦演出、1967)でも用いられている。 

 「シネマ・ヴェリテ」的手法や、アンディ・ウォーホルの作品に見られる物質性や反復性を重視する「ポップシネマ」的手法に可能性を見出していた宮井は、作品の上映方法にも着目し、二つの同じフィルムを一面に重ねて投影するなど、後に「拡張映画」と言われるような、上映方法を提案した。《シャドウ》(1969)は、タイトルどおり自身の影の記録であり、反転したフィルムとオリジナルのフィルムを同時に2面構成で上映しており、宮井の問題意識を率直に反映した作品となっている。<参加作家プロフィール>より

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「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」 地球の子供たちから愛をこめて 今上 武蘭人 <4>

<3>からつづく

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「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」地球の子供たちから愛をこめて<4>
今上 武蘭人 (著) 1976/12 ブロンズ社 単行本  221ページ
★★★★★

1)この本、なかなか面白いのだが、ついに貸し出し期限が切れてしまった。本日返却しなければならない。本来であれば、さらに二週間延長できるのだが、司書さんたちの懸命の手配により県外である関東圏の図書館から転送されてきた本であるので、延長はできないのだ。

2)リアルタイムで著者の活躍を知っていた私としては、今回この本について書くことによって、もっと現在の著者についての情報が集まってくるものと期待していた。しかし、今のところ、まったく手掛かりなし。残された本が一冊。あとは、販売用の古書が二冊、売りに出ているだけだ。

3)この本、古書で4200円。微妙な値付けである。買いたいと思えば買えないわけではない。しかし、我が友ニュートンの蔵書のように、私がいなくなれば、いずれ遺品回収者の手を煩わせることになるだけだろう。もう蔵書は増やしたくない。

4)しかし、この本を買えない理由は、もっと他にありそうな気がする。少なくとも二つの点において。

5)一つは、やはり、本を作った当事者が2014年の現在、しかとした存在として認知できないこと。つまり宙ぶらりんなのである。どんないいことが書いてあっても、貴重な一冊であったとしても、そこからの発展経路が見えないと、面白くない。別段、当ブログは古書を愛しているわけではないのだ。そこから現在の地平までどう繋がっているのかを感じたいのだ。

6)二つ目は、この本は、どうも「夢」見過ぎている。つまり、貴重な情報がたくさん詰まっているのに、それをリアリティに置き換える時、やや恣意的にぼかし過ぎている。つまり、自らの方へ引きづり込んで、自分の味付けをしすぎているのだ。それもこれも、決して当時の一冊として見た場合、この本だけが責められるわけではない。しかしながら、原点に帰れば、やはり、書いている「主体」が見えてこないことには、やはり、夢まぼろしを見た一冊、と言ってしまうことになるのではないか。

7)この本は多くの協力者で成り立っているのだが、表紙を書いたとされる山崎某という人の存在も、実は気になる。この人はすでに10冊以上の著書を表している人でもあるし、また、メディアの中に一定程度の位置を占めているような存在である。しかしながら、大きく見れば、現在の彼の存在は、この本の延長線上にはないだろう。ある意味、そこに唾棄して、敢えてそこから「脱出」してしまった方である。

8)つまりだ。この本に取材されている人々の動きは、いまだに脈々と息づいているのに、取材した側は、悪いけど、全部腐っている、と言ってしまいたくなるのだ。当ブログは別に読書のための読書をしているわけではない。本が面白ければそれでいい、という訳にはいかない。むしろ、本やその他の表現物に表されなかった部分にさえ、もし共感できるものがあるとすれば、フォーカスし、小さな情報でも集めたい、と思っているのだ。

9)そもそも今上は一体、何をしているのだ。死んだのか、生きているのか。狂ったのか、病院にでも収容されているのか。もう別人格で世渡りしているのか。それが分からない。これだけのことをして、あとは知りませんでは、ああ、情けない。それは悲しすぎるだろう。

10)彼らの書いた文章はともかくとして、協力者達が提供した文献や画像は、貴重なものが多数収容されている。できれば、あと少なくとも数点、画像を当ブログにアップしたかった。多分、仲間内では大うけすること間違いない。みんな、まだまだ、「生きている」。この本が出てから40年近く経過しても、人間なんて、そう変わるものではない。あの当時の意識を携えて生きているのである。

11)ああ、どうも私の想いは空回りするばかりだ。今回はこの辺で終わりにする。再開を期す。だれか、この本について、あるいは著者について、もっと生きた、現在の情報があったら、教えてください。生きていく人間があってこその文化であり、アートであり、表現物である。表現者なくして表現はない。

12)ニュー・ライフ・ヴァイブレーション。このタイトルの意味を、活かすのか。殺すのか。笑い話にして立ち去るのか。あるいは、そこに命をかけて、生きるのか。問われる。もちろん、私も問われている。

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2014/07/24

「石川裕人蔵書市」 ひやかし歓迎! 7月27日(日)~28日(月)

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「石川裕人蔵書市」ひやかし歓迎! <1>

日時: 2014年7月27日(日)10:00~17:00 2014年7月28日(月)10:00~15:00 
場所: せんだい演劇工房10-BOX BOX3 
新書・文庫・雑誌・CDなど オール100円ハードカバー オール500円 
劇作家、演出家、シナリオライター、ある時はシンガーソングライターで詩人の故石川裕人氏が所有するおびただしい数の本を蔵出しします。 文庫や新書、貴重本や豪華本、演劇関係や戯曲の資料となったであろう、本屋では入手できない逸品が並びます。
主宰/石川裕人蔵書の会(仮)
協力/萬開堂書店、ThetreGroup”OCT/PASS”、せんだい演劇工房10-BOX
お問い合わせ/せんだい演劇工房10-BOX 022-782-7510

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1)あれから二年が経過するのか。 ニュートン。石川裕人。3・11東日本大震災の被災地を回った 「人や銀河や修羅や海胆は」PLAY KENJI♯6。満身の力を込めて書き上げ、遺作となった「方丈の海」。おびただしい劇作。畢竟の自信作と自ら評した「時の葦舟」三部作(2011/02 Newton100実行委員会)。数えあげればきりがない。

2)ネット上にも多くの記述を遺した。劇団ThetreGroup”OCT/PASS”のホームページを初め、「石川裕人劇作日記 時々好好調」「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」、そして宮城県復興支援ブログ「ココロ♡プレス」。彼の残した足跡は大きい。

3)幼少時から無類の本好きで、小さな時からねだるのは本ばかりだったと、お母さんは述懐する。転居を繰り返し、最後の住みかとなったのは中一の時に父が建てた生家だったが、その部屋に収まりきれない蔵書は廊下や居間にもはみ出していた。3・11では、その本だなが倒壊し、あやうく一命を取り留めたとか。

4)私はこの「蔵書市」で一番欲しいものがある。それは、中学一年時代に彼と私たちがつくった肉筆誌「ボーイズファイター」全五冊である。なぜかあの時も表紙は私が担当していた。ニュートンは、漫画やエッセイや特集を書いた。肉筆誌だから一品ものである。保存は彼が担当していたはずだ。

5)しかし、勉学の進捗を心配したお母さんが、他の漫画本と一緒にチリ交に出してしまった、ということになっている。すでに高校生時代のことだ。悪びれることなくそう言い切る彼の言葉に納得するしかなかったが、本当に惜しい。出来れば、間違ってまだどこかに残っているのではないか、と今でも思い出す。

6)彼は非常に誠実な男だったので、私は彼の言葉を疑ったことなど無かったが、彼が亡くなったあと、私は長い間、彼の虚構にまんまと巻き込まれていたことが二三あったことに気付いた。例えば、出身地のこと、あるいは名前の由来、あるいはひたいの傷。彼は彼なりのストーリーを生きていた。

7)亡くなったあと、彼の部屋をのぞかせてもらった。新書本から箱入全集まで、さまざまなジャンルに及んでいたが、やはり劇作に向けての資料が多かったように思う。宮澤賢治関連も多く、「童貞としての宮沢賢治」(押野武志2 003/04/01 ちくま新書)などは、あの本だなに並んでいたのを見つけタイトルだけ覚えてきて、私も別途取り寄せて読んでみたりした。

8)意外なところでは、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート「<帝国>」「マルチチュード」もあった。読むのも難解な論文集だが、その厚さも半端じゃない。値段だって、そうそう買えるものではない。私なんぞは、何度も図書館から借りては読み続けているものである。本道楽の彼は、こんな本もどんどん購入していたのだろう。うらやましいものである。

9)それと、彼がOshoの「ダイヤモンド・スートラ」 (1986/03 めるくまーる社)をも蔵書していたことには驚いた。彼はあまりそういうことに触れなかったが、キチンと蔭で読んでいたのかもしれない。この本は、私と彼の思い出の絆となろう。売れ残っていれば、私が引き取りたい。

10)互いの十代から友人のサキによれば、ニュートンは、若い時代に、当時の学院高校の裏手にひとつアパートを借りて、全室所狭しと個人図書館を作っていたらしい。もう人間が横になってようやく歩けるだけのスペースを残し、あとは全て本だけのアパートだったらしい。その本に囲まれて、ニュートンは、実にご満悦の表情だったとか。

11)彼の残した蔵書を一カ所にまとめておくのもよさそうだが、また、こうして、愛されるべき友人たちの手にわたり、そのスピリットが増産されていくこともよいことであろう。

 まずもろともに、宇宙の微塵となりて無方の空に散らばろう 宮澤賢治「農民芸術概論綱要」

<2>につづく

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2014/07/23

宮井陸郎「新宿・しんじく・シンジク」 『60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ』極私的フィールド・ノート 本間健彦<2>

<1>からつづく 

 

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「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート
<2>
本間健彦 (著) 2013/06 社会評論社 単行本: 342ページ
★★★★★

 

 

 

1)宮井陸郎(シャンタン)の「新宿・しんじく・シンジク」という文章が収録されている。p178。

 

 転記しようとかなと思ったが、内容が内容だけに、むしろ画像で保存することとする。そもそもは「新宿プレイマップ」(第8号 1970/02)24~25pに掲載されたものである。

 

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2)タイミングいいので、ここで、関連リストをつくっておく。

 

宮井陸郎(シャンタン)関連リスト

 

「漱石の世界」 宮井一郎 1967/10  講談社

 

「新宿考現学」 深作光貞 1968/09  角川書店 

 

「季刊フィルム」第2号所収/1969/02

 

「新宿・しんじく・シンジク」 1970/02 「新宿プレイマップ」掲載

 

「芸術」の予言!!」 60年代ラディカル・カルチュアの軌跡 「季刊フィルム」コレクション 2009/05 フィルムアート社

 

「随(かんながら)神」意識の扉を開く鍵―(阿部敏郎 2010/5 ナチュラルスピリット)

 

「映像をめぐる冒険vol.5」 記録は可能か。東京都写真美術館

 

「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート (本間健彦 2013/06 社会評論社)

「電脳・風月堂」芳名録、「マキタ」の項に、「宮井陸郎」の名前あり。

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追記2020/3/20

フーゲツのJUNという方のブログはとても関心深いものでした。この記事を書いたときはリンクしていたのですが、現在は切れています。即コピペしておけばよかったのだけど、あまりに微妙な情報だったので、リンクにとどめておいたのでした。あまりに貴重だったので、記憶が薄れないうちに、勝手に再現させていただきます。正しい情報を掴めたら、即訂正&削除させていただきます。なお、この断片的な情報を元に、もっと信用度の高いソースも存在するはずですが、今はそれを検索する余力がありません。

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宮井氏は60年代のある時期、マキタ(通り名でもあり、本名でもあるらしい)と称する同年配の男性と行動を共にしていたらしい。マキタ氏は 名のある企業(例えばM菱重工業とか)の経営陣の子息だったらしく、資金は潤沢であったらしい。宮井氏はこの男性と二人(だけ)で活動しており、時には法規から脱線した活動にも及んでいたとか。どうやらある時、マキタ氏個人が何かの事件の中心人物になってしまい、(おそらく当時のニュースは今でも検索できるはず)、関係は疎遠、終焉となった模様。その後、宮井氏は、新宿を去ったとか、インドに行ったとか、興味深く詮索する向きもある。編集中

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/牧田吉明

⇧この記事の中に、宮井陸郎の名前が見える。

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「縄文杉の木蔭にて」―屋久島通信 「増補新版」 山尾三省

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「縄文杉の木蔭にて」―屋久島通信 「増補新版」
山尾三省 1994/09 新宿書房 単行本: 251ページ
Total No.3301★★★★☆

1)三省の本は、すでに当ブログとしては、多少駆け足ではあったが、読み込み済みである。まだ完読できていなかったり、再読リストに載っている本も数冊あるが、それは、他の本との読み合わせのタイミングを見ているのであって、内容の概略はほぼ分かっている。

2)この「縄文杉の木蔭にて」(1985/07 新宿書房)も、「続・縄文杉の木蔭にて」としての「回帰する月々の記」(1990/07 新宿書房)も読み込み済みだが、実は「縄文の木蔭にて」は、94年に増版され、しかも増補されていることを今回知った。どんなことを追記しているのだろうか。

3)この85年から94年にかけてのあいだにある1991年に私は三省にあった。「スピリット・オブ・プレイス」でのことだった。そのシンポジウムについては、パネラーの一人として参加した三省は「一切経山」日々の風景(1997/02 溪声社)にその経緯を記している。

4)さて今回は、再読の機会でもあるので、全文読む方法もあったのだが、その部分を際立たせるために、新版として増補された部分だけに目を通してみた。

5)本文中にも記したように、この初版が出されてからすでに丸八年、そして九年の年月が過ぎて行った。この間に私の一身上には大きな変化があったが、それと同じく内面においても、遅々としてではあるが変化がある。

 その内のひとつには、アニミズムというものへの取り組みが私の中で本格化してきた、ということがある。ご承知のように、アニミズムは宗教の原初形態として一般的に受け止められているが、それはなにごとによらず発展史観というものが持つ欠陥であって、アニミズムは現在もなお十分に現実的な力を持っているにとどまらず、私達の未来を示唆するひとつの大いなる地平であり、希望であると私は感じている。

 自分のそのような感受を、最初私は新アニミズムと呼んでみたが、それではどうもしっくりしない。むしろ不変のアニミズム、あるいは普遍のアニミズムと呼んだ方が適当であると思う。p250「増補新刊へのあとがき」

6)私の拙い読書によれば、三省の「哲学」は、いよいよアニミズムに集約されていったと思う。それは晩年期に表された、私がアニミズム三部作と呼ぶところの次の三冊に、よくあらわれている。

「カミを詠んだ一茶の俳句」 希望としてのアニミズム(2000/09 地湧社)

「アニミズムという希望」 講演録・琉球大学の五日間(2000/09 野草社)

「リグ・ヴェーダの智慧」 アニミズムの深化のために(2001/07 野草社/新泉社)

7)私は、1972年の浜田光(あぱっち)編集季刊詩「DEAD」に掲載されていた「部族の歌」や、プラサード書店の槙田きこり但人編集の初版「聖老人」百姓・詩人・信仰者として(1981/11プラサード書店/めるくまーる社)以来の三省読者のひとりではあるが、決して、無批判的な三省の追従者ではない。また、山田隗也(ポン)が揶揄するような「三省教」の信者でも毛頭ない。むしろ私は、彼への深い敬愛を感じつつも、三省へのささやかな批判者の一人でもある。

8)わが家の便所は汲み取り式であるが、それがお盆前からほぼ満杯になっていて、位置にも早く汲み取らないと、用を足すたびに気分が良くなかった。p237 肥(こえ)汲み(中略)

 私としては江戸時代を真似するわけではないが、自分達の出すものが植物の肥料になり、その植物がまた私達を養ってくれるという限りない大循環の中に、いのちというものの広大な安心とやすらぎを感じる。文明の未来は、江戸時代とは具体的なシステムこそ当然異なるだろうが、直線ではなく大循環という思想にこそ根をすえなくてはならないと思う。p219同上

9)別に江戸時代まで遡らなくても、戦前まではほとんどがそうであった。あるいは戦後、ごく最近まで、汲み取り式で、しかもそれを肥料として使っていたのは、ごく最近までのことである。我が家でも、90年代の半ばまで(ということは三省がこの文を書いていると同時代)、そうであった。畑のない我が家ではそれを肥料として使ってはいなかったが、わざわざ、畑にバキュームカーを逆流させて、人糞を放流させてもらっていた農家さえあった。

10)しかし、それはそれ、メリットもあればデメリットもある。一つには悪臭。地区に畜産農家があったりすると、もうそれだけで、近隣に最近になってできた建売住宅の新住民などから苦情がきたりする時代である。人糞を播くなど、持っての他であろう。

11)それと、人糞といえど、それなりに病原菌も交じっている。人肥を追肥したりすると、野菜に付着し、新たなる病原となることも多かった。「にわか」百姓の詩人的な繰り言だけでは、「農業」は成り立たない。

12)「聖なる地球のつどいかな」(1998/07  山と溪谷社)において、三省と対談しながら、ゲーリー・スナイダーは、自らがパソコンやメール、あるいは太陽光発電などの、新しい技術を積極的に取り入れている姿勢を誇示している。それに対する三省は、決して積極的でないばかりか、原発をはじめとする、あらゆる科学技術に対する忌避を示しているかのように感じる。

13)三省は、対極に戦争や原爆や原発を置くあまり、極端なアニミズム回帰を夢見て亡くなっていったように、私には見える。

14)今日は旧盆の十六日。 昨日までは、鹿児島市に住んでいる二人の息子、一人は中学校教員をしており、一人は会社員をしているのであるが、その二人が盆帰りをしていて、わが家は大変賑やかだった。p227「チリハノブドウ」

15)浅学にして、三省のように周囲の人間関係をほぼ実名で語りまくった人を知らないのだが、いわゆる部族やヒッピーと言われた自らの青春時代のような形での、自分の子供たちの成長をみたわけではなかった。「市」に住み、「会社員」や「教員」である家族たちを、彼は決して咎めもしないでみていたであろうし、「独立した人間」として「尊重」もしていたであろう。

16)当ブログは現在、「60年代のカウンターカルチャー」から、21世紀、なかんずく今日の2010年代における「コンシャス・マルチチュード」までの流れを俯瞰しようとしているところである。しかしながら、「時代」と言っても、実にもろくはかないものであり、その千変万化は実に限りない。リアリティを一貫するなら、そこに生きた人間をこそ追いかけるべきだろうと思う所以である。

17)その時、多くの表現物を表し、そして残した山尾三省という「隣人」は、極めて、時代のスケールとしては有難い存在なのである。一人の詩人の生きた生き方を横目で見つつ、それを座標軸の一つとして活用しながら、自らの人生の進路を見極めるには、いたって都合のいい「共有財産」なのだ。

18)まるで方丈記か徒然草の時代の再来であるような、天変地異が打ちつづくこの頃、それは何よりも私自身の病いであると感じる一方で、より深く地球そのものが病んでいることを感じないわけにはいかない。希望がないといえばそれまでの、希望のない淵に私(達)は立っている。p228「樹木」

19)この文章は、阪神淡路大震災も、スマトラ島沖自身も、3・11東日本大震災をも経験する前の三省の直感である。今後も、これだけの大震災は繰り返されていくに違いないないのだ。それを地球が「病んでいる」とみるのか、そもそもそれは地球の「健康な」新陳代謝なのかは、人間のスケールを離れてみれば、分かったものではない。希望があるかないかはともかくとして、とにかく私はこの地球上に生きていくしかないのであり、また私の子孫についても同じことが言えるだろう。

20)この1938年生まれの三省に対して、1940年生まれの宮井陸郎を対置してみる。

宮井 ぼくなんかはコンピューターのほうがネイチュアなんです。ぼくらがガキだった頃、花や蝶がネイチュアだったような意味で、ジョン・ケージにとっては、やはりコンピューターがネイチュアなんだっていう感じがしますね。

 ケージがコンピューターを日本の水車と同じだと言ったのは、非常にオリジナルですばらしい。「芸術」の予言!!」 60年代ラディカル・カルチュアの軌跡(2009/05 フィルムアート社)p126

21)私は宮井の人生が実際にどうであったかは知らないが、少なくともすでに60年代において「デジタル・ネイティブ」を直感し、容認していた潮流が、「60年代」と括られる流れのなかでの、三省の直ぐ隣り合わせにあったということは明記しておくべきだろう。

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宮井陸郎他 「芸術」の予言!! 60年代ラディカル・カルチュアの軌跡 (「季刊フィルム」コレクション)

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「『芸術』の予言!!」 60年代ラディカル・カルチュアの軌跡
「季刊フィルム」コレクション・編集部 (編集) 2009/05 フィルムアート社 単行本 400ページ
Total No.3300★★★★☆

1)60年代の新宿風月堂界隈のにぎわいを探索するとなると、我らがシャンタンこと、宮井陸郎の消息をも尋ねなくてはならない。映像作家という触れ込みではあるが、長期に渡る活動期間に残された作品群は、決して多くはない。あるいは、なかなか検索できない、というところが正直なところ。

2)現在のところ、いくつかの文献がでてきた。

「新宿考現学」 (深作光貞 1968/09  角川書店) 

「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート (本間健彦 2013/06 社会評論社)

3)「随(かんながら)神」意識の扉を開く鍵―(阿部敏郎 2010/5 ナチュラルスピリット)にも登場するが、この時はすでにシャンタンとなっており、描かれている時代は1980年代の末から1990年代の初めにかけてのことである。

4)宮井陸郎(みやい・りくろう)
 1940年生まれ。映像作家。代表作に2台のプロジェクターを使用する「現代精神の現象学」(67)など。74年、大丸ミュージック(東京、神戸)での「アンディ・ウォホール展」を企画。75年インドへ渡りヨガや瞑想を学び、以後インド、ネパール、タイなどで東洋医学の医者をしていた。2008年に帰国。
p397「執筆者略歴」

5)映像作家と東洋医学の医者、では、かなりのイメージの開きがあるが、芸術畑での紹介でなら、このような紹介も可能なのであろうか。よそ様の経歴の書き方にどうのこうのと言える立場にはないが・・・。私は最初1977年、インドで会った。その後、継続的に交流はあったが、日本人の私たちの目の前から1992年頃に姿を消したあと、一時死亡説も流れたが、彼がふたたび日本人の友人たちの目の前に現れたのは2005年春のことであった。

6)何はともあれ、この本においては、映像作家としての宮井陸郎が発言している。実はこの本、他の部分もかなり面白く全体が興味深い。別な角度で通読したいが、今回は、実に変則的ではあるが、ピンポイントでフォーカスし、4人対談で彼が発言した言葉のみを再録するにとどめる。

7)座談会=技術・思想・表現 「未来とむきあっているもの」 磯崎新 武満徹 宮井陸郎 松本俊夫(司会) 「季刊フィルム」第2号所収/1969年2月)。1940年生まれの宮井29歳の時の弁である。ちなみに私はリアルタイムではこの雑誌の存在さえ知らなかった。だが、1980年前後に瞑想センターの連絡場所を置かせてもらった仙台のスナック「サンハウス」太田道夫氏は、カメラマンの道を歩いていたので、リアルタイムで、宮井陸郎の名前を知っていた。

8)宮井 新宿のフーテンで安土ガリバーという男の子がいるんだけど、その男が「LSD」というスナックで映画会をやったわけです。かれの言葉では、ウィズ・フィルム(フィルムと共に)という集まり(シチュエーション)をやったわけです。

 スクリーンには、ただ延々とスウィッチだけが写っていて、まわりはゴーゴーの絵がかかっている。それだけのシチュエーションです。そのスウィッチに手がでてきて、OFFになっていたのをONにする、まわりの電気がパッとつく。

 これだけのアクションがあった時に、スクリーンはひとつなんだけど、マルチ・スクリーンなどとは違う別個の映像に対する考えかたがあって、それが面白い。マルチというのは結局映画の延長だと思うけど、ガリバーの場合はエクスパンドといっても、メディアがもっと日常化され、ウィズ・フィルムというパーティ自体のなかへと拡張している。

 スクリーンの拡張ではなく、日常のなかへ拡張されてゆくことが、より面白いとぼくは思うんです。p111

9)宮井 エクスパンデッド・シネマといっても、映画じたいの可能性を拡げてゆくことと、スペース・シネマというか、インテリアとしてシネマを使うといった具合に環境的なシチュエーションの変化をはかるということと、ガリバーの場合のコンセプト・シネマというか、シネマ自体を考え直していくということとは、違うがあると思うんです。

 ぼくは、スペース・シネマとか、ガリバーのやっている形が面白いんじゃないかなと思うんです。p112

10)宮井 ぼくは、内的なものとか、イマジネーションなんて全然信じないな。むしろ、テクノロジー自体のイデオロギーが必要だという気がするんですよ。たとえばコンピューターを使ってケネディの顔を描くというのは、全然面白くない。イマジネーションがあって、その表現のテクニックとしてテクノロジーを使うのではない時代なのではないかと思うんです。 

 つまり、決して内的なイメージだとか、イマジネーションということに対してプロフェッショナルでなければいけないのではないか。そういう気がするんです。ここでは一元論のほうが先行するわけで、ぼくには個人だとか人間というものが信じられないというか、そうではないコミュニケーションの時代にきているという実感が強い。

 今のコンピューター・アートの例をとると、コンピューターを使ってケネディを描くというのは、もっとも現象的で、機械が人間のすることを真似ることが面白いという興味だけだと思うんです。もう一歩進むと、コンピューターなり、テクノロジーを使って自分の内的なイメージを表現として豊かにしていくという考えかたがあると思うんです。これもぼくは全然面白くないと思うんです。

 そうではなくて、いわばテクノロジー自体の思想というか、システム自体の思想というか、こういうものが映画の場合でも現れてくるのが当たり前の時代にきていると思うんです。ですから、ぼくの考えている映画というのは、当然表現の結果というものは常に与えられてない。観客が参加する参加のしかた自体を映画がつかまえていくというものなんです。

 もう少し言うと、コンピューターが自己学習を行っていくということが最近話題になっていますね。自分みずから発展してゆくという、今ではそういうテクノロジーの時代なのであって、人間がテクノロジーをどう使うかとか、人間とテクノロジーが対立するものだという時代はもう終わっている。

 あるいは、融合して表現を使いましょうという考え方も面白くなくて、テクノロジー自体の思想は何か、ということのようがぼくにはより面白いんです。p117

11)宮井 さっきのロボットの話が面白かったので、もう1回そこに話を戻すと、ぼくのガキ時代にロボットといったら機械を考えた。しかし、今のガキは人間の脳を持ったサイボーグを考える。人間の心臓移植などが反映しているわけですよ。機械が人間化する、これが違うことだと思うんですね。

 手の延長で機械が生まれてきて、機械が手になっていく。ことにロボット学会でやっていることなんかは、体温があって動いて、記憶させてジャンケンさせる。そういう完全な手をつくる。そうなると機械ではないんです。そうじゃなくて機械が自己増殖するようになるんだと思うんですよ。

 コンピューターの能力をきたえて、学習させてゆく。これがテクノロジーの思想なのであって、そこまでいったところで、今までの内的な表現衝動によって芸術というものを考えたこと全く違った、いわばシステムの問題が芸術の今日的な問題になってくると思うんです。p121

12)宮井 それは、プログラミングの部門が具体的な条件におかれたほうがいいと思うんです。ただ、プログラマーがいてプログラミングするのではなく、乱数表のあたるものがお客さんだったり、シチュエーションのいろいろな条件であるというほうが、面白いと思うわけです。p123

13)宮井 しかし意識にかかわっているということを言わずにすむ状況じゃないかと思うんです。p123

14)宮井 古典的に、原理をさし示すという形では、なんにもできないんじゃないか。p124

15)宮井 そういう純粋化された形でのことというのは、考えられないんじゃないかな。もっと具体的に、「LSD」というスナックであるとか、アングラ・ポップであるとか、そういう具合に、より細分化された具体性のなかにしか、エクスパンデッド・シネマなんてものもないんじゃないか。

 だから、作家という意識とか、世界と自分とが一対一で対応するような表現というのは、ちょっと考えられないわけです。p124

16)宮井 ぼくなんかは、世界と自分とか、芸術と自分というふうにいわないで、ピンと自分とか、着ているものと自分とか、ゴーゴーと自分とか、そういう具合に考えるわけで、もし芸術というものがあるとしても、それもそんな程度のものと等価じゃないかと思うんです。

 松本さんはオプティミズムだといったけど、現代はオプティミズムという形でしかニヒリズムもない・・・・・。p124

17)宮井 ぼくなんかはコンピューターのほうがネイチュアなんです。ぼくらがガキだった頃、花や蝶がネイチュアだったような意味で、ジョン・ケージにとっては、やはりコンピューターがネイチュアなんだっていう感じがしますね。

 ケージがコンピューターを日本の水車と同じだと言ったのは、非常にオリジナルですばらしい。p126

18)宮井 ぼくなんかは、こうやろうという意識はないですね。受け身になっちゃう傾向が強いんです。p127

19)宮井 インターメディアという場合も、50年代後半には総合芸術とか大衆化という形でジャンルの統合が問題になったけれど、今は風俗とテクノロジーと、そういうメディア自体のシステマティックな考え方が問題なんですね。p128

20)宮井 なげやりな言い方をすれば、いろんなメディアが勝手に出会ってくれれば、ある意味の組織化は行なわれるでしょう。p128

21)宮井 ぼくは映画なんか関係ないですよ。磯崎さんが都市計画、環境計画をやるように、それと同じことをしてるだけだと思うんです。ファッションもあるし、遊びということもあるし、映画といわれるとなにかしっくりこないな。

 エクスパンドということがシネマから発しないで、生活全体から発するほうが面白い。映画っていわれると「ナンダ、エイガ」って気がするんだな。p128

22)宮井 ゴダールは、よく、朝おきた時、自分は映画をつくりますっていうでしょ。ところが、実際「ウィークエンド」を見ていると、ずっとロマンティックで、朝おきた時に、水を飲んだり、新聞をよんだりする行為と等価でつくってないというところが不満なんですよ。p131

23)宮井 職人的という言葉ではないけれど、それをぼくは赤瀬川原平の零円札なんかには非常に感じるんです。赤瀬川が零円札という1枚の紙幣をつくるために200時間をかけ、毎日毎晩1ヵ月の時間をかけて、細かく書いていってつくりあげたという、非常に陽気な形で現れるんだけれども、そういうニヒリズムは。

 そういうのを”職人的”ということでいえば、わかるんですよ。ぼくはよく「ラフ・イズ・ベスト」っていうんですよ。それは赤瀬川が厳密さによって書くことと裏返しの形でつながってると思うんです。p132

24)宮井 ぼくなんかはそういうひとつの結果というか、そういうひとつの表われかたがショックなんで、意識に対してではないと思うんです。p133 「季刊フィルム」第2号所収/1969年2月)

25)あまりに変則的な抜き書きなので、脈絡が不明な点も多いが、彼をすでに知っている人にとっては、69年当時において、彼がこのように発言していたということは、よくもわるくも興味深いのではないだろうか。とくにコンピューターやテクノロジー、アートについての考え方は、熟成され、きちんとまとまってはいないとしても、かなり明確な方向性を語っている。ある意味では、2010年代のリアルな現実を「予言」している、と言えなくもない。ただ、そのことが、「現在」の「彼」とどう結びつくかは、今後の課題であり、ご本人の弁を待つしかないかもしれない。

26)蛇足ながら、彼の父は夏目漱石研究家の宮井一郎である。

27)宮井陸郎 「映像と音でバックするキネディックなエレクトロニクス・エンヴァイラメント」p117

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2014/07/21

「『たべものや』の台所から」シリーズ食生活の再発見 たべものや編著

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「『たべものや』の台所から」シリーズ食生活の再発見 
たべものや編著 1982/12 柴田書店 単行本 
284ページ
Total No.3299★★★★★

1)まずは、巻頭のこの図を見れば、この「たべものや」というベタな名前のお店の、そのユニークさが分かる。

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2)このたべものやのは共同経営のようなスタイルだったようだから、代表とか責任者とかはいなかったのかもしれない。成り立ちからすると、たみさんが一番関わりが深かったか。

3)たみさん 1939年福岡県生まれ。高卒後会社勤めしたあと上京、次の会社に勤務しながらセツ・モード・セミナーに通う。62年結婚、フリー・イラストレーターとして、ファッション雑誌に絵をかいたり、ディスプレイの仕事をした。二人の子供を出産後、アクセサリーの工房を開設、デパートに卸す。73年荻窪の郵便局跡でジャムハウスをはじめ、77年たべものやに参加。(piixの要約)

4)こんな感じの方ですね。p192

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5)あれあれ、いくら著名なかたと言え、こんなに引用していいかしらん、と思ってみるのだが、実はこの本、この程度のご紹介は序の口。並みいる女性の方々が、自らのある姿を、これでもか(ちょっとおおげさ)というくらいに自己開示なさっている。

6)この本、ネットで検索すると絶版になって、現在では古書しか手に入らないのは当然としても、その価格が32000円以上である。え? 古書で三千二百円の本もそうザラにないが、その十倍、三万二千円超であるのだ。なにをして、この本がこれほどの高値で取引されているのだろうか。興味シンシン。

7)単的には、1977年11月に、東京西荻にできた、小さなレストランのお話である。若い女性たち10人ほどのグループがその活動のプロセスを5年程経過した時点で、一冊の本にまとめた、ということである。

8)最初、登場する女性たちが、生い立ちや伴侶やパートナーとの関係を語ったり、仕事に対する姿勢を対談したりする。私は、スタジオジブリの傑作「魔女の宅急便」(角野栄子原作)を思い出しながら、読みすすめた。あの作品でも、何人かの年齢の違った女性たちが登場するが、実は、それはそれぞれの時代の一人の女性の成長記と読めないことはない。むしろそう読む事によってこそ、あの作品の幅は広がる。

9)こちらの本も、何人もの女性が登場するが、バラバラな人格の寄せ集めと読むよりも、むしろ、ひとつの人生ストーリーの中の一コマ一コマとして、読み進めてみると、なんとも複合的で、味わい深い一巻きの読み物という具合になるようになっている。

10)そもそもは、なぜこのレストランをやることになったのか、とか、どんな経緯で成長していったのか、とか、どんなメニューだったのか、とか、事細かに書いてある。たくさんの数のイラストでできたレシピも所せましと掲載されている。ほう、ひとつひとつこんな風に書いて共有していたのだろうか。それともこの本のために描かれたものなのだろうか。イラストを見ているだけで、実に食べたくなる。

11)この本、たべものの本のように見せていて、実は女性についての本である。決して難しいことは、なにひとつ書いてない(多分)が、ひとりひとりの発言者たちが、自らの口で自らのことを淡々(と見えてしまうのだが)と語っていくところがすごい。

12)この本、女性の本のように見せていて、実は男性についても、同じくらいの量で書いてある。女性がいれば、男性も側にいるわけだから当然ではある。しかしながら、彼女らを通じて語られる男性像も、実に生き生きとしたリアルなものになる。

13)例えばこんな風。

 キコリ・サチコ (中略)中学生みたいに見えるサチコは、ともすればおじいさんにみえるキコリより歳上。ふしぎな感じのする組み合わせ。キコリは富士山のふもとで生まれ育ち、富士山をとても崇拝している。

 和光大学時代は、ひげに長髪でミニのワンピースを着たり、校庭にテントを張って住んだり、ユーモラスな学生運動を展開。練馬区石神井のコミューンに住み、ミニコミ紙を編集・印刷した。

 ホビット村にプラサード編集室ができ、「やさしいかくめい」という本の出版にたずさわった後、その編集室を本屋にするために奔走。開店して、ほびっと村学校の講座に出ていたサチコさんと知り合うまでは、この本屋に寝泊まりしていた。

 インドのヨギみたいな外観の内側に、精巧な事務的能力を秘め、あの小さな本屋の名を日本中にとどろかせた。経営者としての才能はともかく、その個性的なフィーリングと、”情報局”とよばれる会話好きから、多くの人々の心を掴んでいることも確かだ。(4)P

14)お互いにこれほどフランクに紹介し合える雰囲気が、この界隈にはあった。あるいは、この雰囲気こそが、この本で特記すべき特徴であろう。

15)(20)pの「名前のない新聞」なんてところもなかなか面白い。ただ、ちょっと気になる部分もある。

 「名前のない新聞」は当時、全国各地で別々に行動していた、いわゆるカウンターカルチャーの人々をつなぐ橋わたしの役もしてくれて、75年に「名前のない新聞」が主催した沖縄から北海道までのキャラバンでは、全国各地の拠点でコンサートや集会が行われ、たくさんのつながりができた。ああいうことは、あの時点でこそ可能だったのであろうか。p(20)

 30年前の本にダメ出ししても仕方ないことだが、正確を期せば、75年の「キャラバン」は、「名前のない新聞」の「主催」ではない。他に、主催したと語れるかも知れない団体名もいくつかないことはないが、実際は、あのキャラバンは、「主催者」なし、というのが、結局は大正解だろう。ひとりひとりが主催者だった、ということにしておきたい。

16)この本が、もし今でも読まれ続けているとしたら、なにゆえそれだけの魅力を勝ち得ているのであろうか。おそらく、若い(10代、20代、30代、40代)女性たちの、しかも女性だからこそ語り得る言葉と姿勢、その直接にマトに「突きつけて」くる、鋭い刃物みたいなエネルギーが、多分、だれにとっても、ここちいいからなのではないだろうか。不思議な組み合わせである。

17)この本、「お産の学校」 私たちが創った三森ラマーズ法(1980/3 BOC出版部)とか、「みんな八百屋になーれ」 就職しないで生きるには(長本光男1982/07 晶文社)などと合わせ読めば、なお一層味わい深いだろう。

18)出版されてから32年の年月が経過したが、ひとりの人生を、ひとつ次のステージから、もう一度見るような、深い味わいがある。

19)「たべものや」は、1977年の開店以来、建物が解体される1993年頃まで続いたようだ。その後のレポートもあったら、楽しいだろうな。

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2014/07/19

「契約 鈴木いづみSF全集」 鈴木いづみ 大森望 他

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「契約 鈴木いづみSF全集」
鈴木いづみ 大森望 他  2014/06 文遊社 単行本 656ページ
Total No.3298★★★★☆

1)60年代的フリージャズのアルトサックス吹き、阿部薫の妻が鈴木いづみだという。その出会いと結婚生活、その終焉については、稲葉真弓「エンドレス・ワルツ」 (1992/03 河出書房新社)で、稲葉の小説だが、一人称として、鈴木いづみの口を借りて語られている。

2)その鈴木いづみは、寺山修司の映画「書を捨てよ街にでよう」に出演しているという。はぁ、そうであったのか、何処かで見たとは思ったが、はて、予告編を見ても、どの女性かは確とは断定できない。

3)そうすると、高校生時代に見たこの映画で、私は鈴木いづみに、ずっと前に出会ったいたことになる。いやひょっとすると、1972年に劇団天井桟敷の青森公演の時に、楽屋に忍び込んで、一晩彼らとともに行動していたとき、あの場に鈴木いづみもいたかもしれないのだ。

4)そして、さらに胸騒ぎがして、例の「ニッポン若者紳士録」(1973/01 ブロンズ社)を覗いてみると、やっぱりたしかに「小説家」としての鈴木いづみが登場していた。良く見ると、1949年生まれの彼女、5歳年上だが、学年で4つ上の、同時代人であったとあらためて痛感した。少なくともこの本の中では、彼女と私は同じ地平に立っていたことになる。

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5)今回は、伝説のアルトサックス吹き阿部薫の妻として知った彼女だったが、それよりずっと前に、彼女とは出会っていたことになる。彼らの結婚は1974年という。

6)さて、小説家としての鈴木いづみを検索すると、当地ローカルな図書館においても、以外にも二桁の本がリストアップされる。さてさて、小説苦手な当ブログとしては、簡単に素通りしたいな、と思い、一番簡単そうな、しかもごく最近出版されたこの一冊を取り寄せたのだったが、ああ、なんと、これが656ページの大冊であったのである。

7)しかたがないので(笑)、覚悟を決めて、最初からとっかかってみた。そもそも不思議なのは、今まで持っていた彼女のイメージと「SF」という奴がどうも、いまいちフィットしないこと。中学生時代からSFは読んでいるとしても、そのベースは、星新一のショートショートだったりするから、その類として読めば、この鈴木いづみSF全集も読めないことはない。でもやっぱり、直線的には彼女のイメージとSF?と、 首をかしげざるを得なかった。

8)しかもタイトルとなっている「契約」も、なんだかベタなタイトルではないか。そのタイトルの、代表作と目される作品もあるようだから、おいおい読み込んでいこう。

9)阿部と鈴木の生活をドキュメンタリータッチで描いた「エンドレス・ワルツ」 (1992/03 河出書房新社)で稲葉真弓は、当時16歳だった二人の間に残された娘に名誉棄損で訴訟を起こされたという。その裁判の行方もどうなったのか、まだ知らないが、稲葉真弓はその後、国から勲章をもらうような作家に成長しているようだ。

10)阿部薫は1978年に29歳で亡くなり、鈴木いづみは1986年に36歳で亡くなっているという。二人とも自死である、というとことが、胸に刺さる。

11)この「全集」はとりあえず、彼女の小説が全部収まっていることになっている。阿部との出会いの前にすでに小説を書いているのであり、二人の生活も3年程続いているはずであり、なお阿部が亡くなった後、彼女は8年ほど小説を書き続けていたことになる。その三つの時代の違いを、うまく読み分けることができるだろうか。

つづく

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「新宿考現学」 深作光貞 1968<2>

<1>からつづく

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「新宿考現学」 <2>
深作光貞 1968/09  角川書店 単行本 244ページ
★★★★★

1)この本は図書館の資料というだけではなく、ネットワークを通じて他県の図書館より転送されてきたものである。延長して手元に置きたいが、そうもいかない。図書館の司書さんたちの手を煩わせてばかりでも恐縮するので、今後、そうそう早期に再読、という訳にはいかないだろう。

2)そう思って返却期限間近で、またまためくってみた。よく見ると、口絵の一番最初の画像には、確かに「セツゲリラ展」と明記してあるようだ。まずは、新宿の真ん中にこのような形で、新しくも異質な文化が芽吹き始めていたのが60年代というものであろう。

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3)マスコミは一夏かけてこぞって、このフーテンの性格づけ、輪郭づくりをしようとしたが、結局は徒労に終わった。なぜならフーテンには、アメリカのビート族やヒッピー族のように、反社会的行動や既成モラルへの破壊意識などの実体が、ありそうにみえて実際はなかったからである。つまり彼らは、一種のものぐさ太郎にすぎず、内容がなにもなかったのである。もう一ついえば、あったのは現象だけだったということになる。p124「新宿族の生態」

4)著者がこのような「ソーカツ」をしてしまっているのは早計であろう。著者が学者であり、すでに中年であったことを考えると、外国暮らしの生活から、新宿の新しい芽ぶきに注目はしたものの、本当の意味での胎動を、キチンと把握するには時間がまだまだ必要だった、ということになる。

5)ところで、パラパラと読み進めていくと、また193ページあたりにポスター店の内部らしき画像がでてくる。

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 「イルミナシオン」の看板があり、「セツゲリラ展」のポスターが複数見える。「イルミナシオン」は1967年頃から、伝説のアルトサックス奏者フリージャズの阿部薫が参加していた店らしく、そのネーミングは、フーゲツのJUNがしたらしい(本人の弁)。セツゲリラの一期生(?)には、当ブログにもコメントをもらった川内たみさんも選ばれていたらしい。

6)川内さんは、1976年に西荻窪にできた「ホビット村」の成立の根本に関わる方だから、67年の新宿の若者のエネルギーの勃興が、見事に継続し、発展していることになる。実体がないとか、思想がないとか、さまざまに言われた当時の新宿の若者文化だが、それは単に始まったばかりだからそう見えただけで、1970年代から21世紀を超えて、今日までの系譜を見れば、それは、実体も、思想もある、文化や芸術の一大潮流の始まりだった、ということが分かる。

7)その常連たちの新陳代謝の激しさは、たとえば喫茶店風月堂だけをみても、しばらく行かないでいるとここの客の顔ぶれががらりと変わっていることでもわかる。その変わりかたにも特徴がある。

 5、6月ごろから夏の終わりまで新しい顔がつぎつぎと押しよせてきて、秋になると一応定着する。それが冬になるとぼろぼろ欠けていき、新宿族になりきった者だけが冬越しする。

 しかし、ふたたび春が訪れ、さらに新しい顔の波がやって来るようになると、常連は、新顔に圧倒されてその座をゆずり、おりおり顔を出すだけのOBになってしまう。こうした新陳代謝が、年々くり返されているのである。

 新しい流入者としては、高校を出たての大学初年生や浪人たちが大半である。しかも知用出身の芸術・文学志望者が多い。東京っ子もときどきは来るが、いつもあっさりしていて、地方出身者のように連日すわりこんで熱っぽい話をしつづけるということはない。

 そして、地方出身者の、少々芸術を手がけた者なら鼻について恥ずかしくなるようなことを得意然と口にする熱っぽさが、東京っ子たちを圧倒しているのである。p211「新宿文化論」

8)東京生まれで、パリ大学留学体験後、京都精華短大助教授だった、1925年生まれの著者、43歳の時の弁である。1967年から勃興したという新宿若者文化についてのフィールドワークとしては、わずか1年超の観察と思われるのに、ここまでの断定的な評価はいかがなものか。

9)この一冊には、当時の極めて貴重な記録が満載である。著者の考察には簡単に首肯できないが、また、このような「否定的」な態度やポーズを取りながらも、かなりな至近距離に近寄って、この新しい文化を直視している姿は、ある意味、見事である。

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2014/07/18

「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」 地球の子供たちから愛をこめて 今上 武蘭人 <3>

<2>からつづく

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「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」地球の子供たちから愛をこめて<3>
今上 武蘭人 (著) 1976/12 ブロンズ社 単行本  221ページ
★★★★★

 この本、チェックすべき点が多いのだが、新宿風月堂への思い入れも半端じゃない。その部分を転記する。

風月堂の閉店。ひとつの時代は終わった。だが、感傷にふけっているヒマは、ぼくたちにはない。新たなる、旅立ち。

 これまで何度もくり返して話したように70年代に入ってからの新宿の変わり方はとにかくみごとだった。ぼくが”大そうじ”と表現したように、ゴミのように人間くさい場所は次々とはき捨て、味けない無機質な表情ばかり拡大されていった。ぼくたちにとっては、はるかに遠い反地球的な存在になりつつあった。トドメの一撃は73年夏の風月堂の閉店だった。

 「時代は変わる」。またこの言葉をかみしめる。新宿風月堂がついに終わった。昭和20年創業というから、戦後生まれのぼくたちと同じ歴史をみつめてきたことになる。特にここ十年、時にはアングラ喫茶、はたまたヒッピー喫茶と呼ばれながらも”文化センター”的な貴重な役割を果たし続けてきたことは見逃せない。

 だだっ広い50坪の空間。吹きぬけになった天井。クラシックな音楽とモウモウたるタバコの煙。壁面の絵。無造作に並んだガタガタの古びたイス。そんなフンイ気の中で、受け皿一杯にこぼれてしまった大盛りの紅茶を飲みながら、自分の家のようにくつろいだものだ。

 とりたてて何かがあるわけでもなかった。何かが起こるわけでもなかった。だが、ここを愛した若者たちはアトを絶たなかった。ぼくも風月堂を愛すること10年。新宿は風月堂、風月堂は新宿だった。ここで出会った何人かはぼく自身を決定的に変えた。風月堂の歴史は新宿の歴史であり、戦後の文化史であり、そしてマチこそ学ぶ場と執着し続けてきたぼく自身の歴史でもあった。

 この10年、時代の変質とともに新宿は大きく変わり、ここを訪れてくる若者たちも変わった。ジャズ喫茶の片スミでジャズに酔い詩をうたったギンズバーグたちの影響が強かったビートニクの時代。マスコミに話題を提供し続けた”フーテン”発生期。

 ハプニング等、実験的な行為から演劇、映像などに新しい様式と価値観をつきつけていった”アングラ”時代。西口広場が突如”通路”に変えられたフォークゲリラ期。風俗営業取り締まりの”ヒマワリ作戦”で50店近くあったGOGO喫茶が一瞬にして消しさられていった暗い季節。

 その後につくられた演出されたウソッパチな”若者のマチ”。そして、その中に、都市時代を自覚して攻撃的なマチへなげこまれたミニコミ群。その間、この風月堂を”時代”が”子供たち”が決してよどむことなく流れ続けた。

 詩人、運動家、ヒッピー・・・・・、どんな種類の人間も強じんなそのそしゃく力でどんどん受入れ、つねに奇妙なバランスを保ち続けていた。外人がふえはじめたのは64年のオリンピック以後。「東京に行ったらフーゲツに寄れ」と世界中のヒッピーたちの旅のルートにも組み込まれていた。すぐ近くのベットハウス相模屋に棲み、風月堂をサロンがわりに使っていた外国の友も随分出来た。

 地球村。地球もちっぽけな星。地球に対する認識が変わったのも愛や自由を求めて旅する彼らとの出会いが大きい。大学では何ひとつ見い出せなかったぼくがマチの中で発見した風月堂は、優秀な教師たちが、体験的に人生を学ぼうとする生徒たちが、粒よりにそろったもうひとつの大学だった。

 ともかく、風月堂は73年8月31日、28年のナマナマしい歴史にピリオドをうった。そして、その2週間後には、このすぐ近くに人の流れを変えてしまうほどの大地下街が堂々完成された。何年後かの新幹線の乗り入れの発表もされた。

 新宿で最も古い喫茶店といわれるこの風月堂が終わった今、まさに新宿というマチの”青春期”も終わった気がする。それはまたぼくたちにとっては、より厳しくつらい時代への突入を意味している。(40073年8月 ”時代は変わる”) p56

 この文章はおそらく73年8月当時の彼らがつくっていたミニコミ「ぴいぷる」などに掲載された文章だろう。なみなみならぬ新宿風月堂への愛が発信されている。当ブログがみた関連本の中でも、新宿風月堂インサイダーとしても、飛びきりの一文ではなかろうか。

 マチをもう一度ゼロの次元からとらえなおすため、新宿プレイマップをやめたぼくは、70年末に「サロン・ド・ニューピープル」を歌舞伎町裏の新宿西大久保につくった。p31

 この本の出版以降、杳としてつかめない彼の消息だが、それ以前までの動向はつかめないこともない。本間健彦 「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート (2013/06 社会評論社)には、数カ所に今上武蘭人のプロフィールが登場するので、後日、ひとまとめにしてアップしてみる予定。

 アルバイトの募集をすると、一番乗りでやって来たのが今上武蘭人と名乗る青年だった。彼は当時新宿のそこいら中にいた長髪のヒッピー風の若者だったが、自分の足で作成したという新宿店舗情報を記したノートを持参して現れ、「僕に任せてください。新宿の店舗をくまなく一軒、一件回りますから・・・・」と頼もしいことを言うので、さっそくお願いをした。ちにみに、今上武蘭人は後に編集スタッフとしても活躍してくれた。本間健彦 「60年代新宿アナザー・ストーリー」p84「いざ、新宿へ出陣」

 この1969年春、1940年生まれの本間健彦は29歳、1944年生まれの今上武蘭人は25歳であった。ともにかろうじて戦前、戦中派ではあるが、この二人の個性の隔たりはかなりある。60年安保をノンポリで過ごしたという本間に対して、60年代前半からカウンターカルチャーの芽を育てきた今上では、かなりの温度差がある。

 ここで見る限り、本間と今上の付き合いは、1969年春から、1970年の暮れまでの、わずか二年足らず、ということになる。

<4>につづく

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2014/07/17

「IKEA仙台」 本日7月17日オープン


「IKEA仙台」オープン  
2014/07/17

1)図書館の途中なので、いつも自転車を漕ぎながら楽しみにしていた。10月オープンと聞いた記憶があるのだが、どうやら早まったらしい。

2)二日間のプレオープンを終えて、本日、本格的なオープンとなった。仙台市市長や宮城県知事、スェーデン大使などもオープンセレモニーに参加するというので、ちょっと早めに出発。車は混雑しそうなので、自転車で行くことにした。雨もちょうど止んだところ。

3)ディキージャズバンドのライブが一層会場の雰囲気を盛り上げる。出来ている行列は数百メートル。おそらく数千人が並んだ。一番乗りの中年の女性は福島市から来て、二日前から並んでいたという。商品券5万円をもらって、ご満悦。

4)挨拶やら植樹式やらのセレモニーが終わって、行列がすべて入場するまで30分ほどの時間がかかった。その後に続いて入場してみると、すぐに二階への長いエスカレーターの乗せられ、長い、くねくねとしたショールームを見て歩く。

5)IKEAのコンセプトは確か、デザインが良くて、自分で組み立てて、しかも安い、ということだった。天井は必ずしも高くはなく、配管類はむき出し。しかも照明は抑えられていて、部分照明が多用されている。

6)商品類はたしかにデザイン的に凝っているものが多く、あちこちから若い女性の声が「かわいい!」って聞こえてくる。ふむふむ。

7)あの大きな建物の割には、商品の点数は少ないように思う。例えば東京インテリアなどに比較すれば、圧倒的に少ない。ただ、全体的に安価に設定してある。

8)商品の品質的に言えば、ニトリとそう変わらないように思うが、こちらはディスプレイとか、商品の配列で、生活感を余りださないようにしている感じ。値段は、お互い似たもの同志、という感じがする。

9)特徴は、一階が天井が高い、大きな倉庫になっており、そこから自分で品出しをしてお買い上げ、というシステムらしい。上階はおそらく大きな駐車場になっているのだろう。

10)そもそもが自分で持ち帰って組み立てるというシステムだから車で来るのが必要条件となるが、オープニングの時期は混むので、8月中まで駐車場は一律1000円だとか。強気だな、と思ったが、9月1日以降に使える商品券1000円分付きということだから、それはそれでいいだろう。このアイディアが功を奏したか、駐車場および路上は混雑している風でもなかった。

11)ざっと見た限り、近くのホームセンターやスーパー、レストラン街とは、ちょっとコンセプトが違うので、割と住み分けはうまくいくのではなかろうか。

12)すぐ近くには3・11で被災した海岸線を中心とした人々の仮設住宅街がある。このエリアにも災害住宅の予定があり、これから生活様式を一式そろえなければならない、という人には、トータルコーディネイトで、買いそろえたら、結構、お買い得、ということになるだろう。

13)興味本位でお店を覗いた私としては、緊急に必要なものは何もなかったが、2~3、そろそろ買い換え時期かなというものがあり、いくつか目にとまった。値段もお手頃だが、自分の今の生活空間に取り入れるとしたら、バランスはどうだろう、と今日は見るだけにして、後日、ゆっくり品定めすることにした。

14)サービス面では、客も店員もまだ不慣れなことがあり、流れがいまいちよくなく滞っているところもあった。店内案内も、聞かれた店員はその場から動くことはなく、指であっちこっちと案内するだけで、果たして、これでずっと行けるかな、と首をかしげた。

15)いずれにしても、珍しいスタイルの店舗が出店しても、こちらの土地の風土に合わせて、いつの間にかそのユニークさを失ってしまうこともある。そもそも本来持っているIKEA本来の文化を、十二分に伸ばしてくれればいいな、と思った。

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「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート 本間健彦 <1>

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「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート <1>
本間健彦 (著) 2013/06 社会評論社 単行本: 342ページ
Total No.3297★★★★★

1)面白かった。場合によっては、伝説の編集者、「SUB」の小島素治をレポートした「Get back、SUB!」 あるリトル・マガジンの魂(北沢夏音2011/10 本の雑誌社)と合わせて読んでみるもの一興だろう。

2)そもそもは、「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」地球の子供たちから愛をこめて(1976/12 ブロンズ社)の今上武蘭人を消息を尋ねる趣向だったのだが、その目的もともかくとして、当時のタウン誌の編集現場の話が読めて貴重である。

3)そもそもは、内外タイムスで、斎藤龍鳳(作家)や、矢崎泰久(のちの「話の特集」編集長)で記者仲間であったことが、編集者・本間健彦の人生を決定づけた。

4)「新宿プレイマップ」。一世を風靡した花形のタウン誌だったが、内輪話を聞いてみれば、そうそう簡単なものではなかった。まぁ、これはどこでもそうだろうが、あまり語られることはないので、貴重なレポートである。

5)1969年7月創刊、1972年6月36号で休刊という、決して長くはない寿命ではあったが、あの時代における3年というのは、ある意味驚異的な時代経験であったとも言える。

6)今上武蘭人は、「新宿プレイマップ」の最初のスタッフだったようだ。数カ所に彼のプロフィールや仕事、姿勢などが紹介されている。しかし、その編集を去ったあとのことについては、結局触れられていない。おそらく、本間本人も、現在の今上についてはつかんでいないかもしれない。

7)私は当然リアルタイムでこのタウン誌を知っていた。横尾忠則の表紙のついた35号を長く所蔵していた(いまはない)が、この号は、編集母体を新都心新宿PR委員会からマドラに移動し、最後の断末魔のような状態で発行されたことを知った。

8)当時の執筆者やスタッフたちの活動ぶりが随所に紹介されている。宮井陸郎(シャンタン)の「新宿・しんじく・シンジク」(第8号 1970/02)p178などという文章も、当時の雑誌のまま、見開きで紹介されているので、関心ある向きには見逃せない資料である。

9)芥正彦などについても、紹介がある。新たなる側面からの「攻撃」材料が揃い始めた。

10)60年代新宿というテーマであれば、当然、新宿風月堂が取りざたされてしかるべきであるが、記事の中でのエピソードとしては登場しているが、「文化」としては、このタウン誌と風月堂は、一線を引いていたようである。

11)ジャズ喫茶についても、かなりな記述があるが、他の店についてである。

12)「話の特集」は私も10年間くらい、ずっと定期購読していたが、私たちの「ミニコミ」の世界とは別次元だった。

13)結局、本間健彦は何をしたかったのか。終章になって、1974年当時「古新聞」というガリ版ミニコミをだしていたマンジェロに触れるところがある。p329 なるほど、じつは、本間健彦という人は、こちらの人であったか。

14)「名前のない新聞」には遅れたが、というかそれに触発されたのであろうが、マンジェロの「古新聞」も面白かった。彼のアパートを尋ねたこともあった。当時25歳くらいだっただろうか。広島出身で、両親とも被曝しており、彼自身、原爆症の症状を持っている、と聞いた記憶がある。

15)この本は支線がたくさんある。話の発展材料満載。いずれ再発する可能性あり。

<2>につづく 

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2014/07/16

「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」 地球の子供たちから愛をこめて 今上 武蘭人 <2>

<1>からつづく

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「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」地球の子供たちから愛をこめて<2>
今上 武蘭人 (著) 1976/12 ブロンズ社 単行本  221ページ
★★★★★

1)「ニッポン若者紳士録」(1973/01 ブロンズ社)によれば、今上武蘭人は次のように記録されている。

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2)1944年香川県生まれであること。WECのスチュアート・ブランド(Stewart Brand)にちなんだ名前と聞いていたが、ここでの名前のルビは「ぶらんと」になっている。

3)類似の情報は少ないが、最近、「新宿プレイマップ」の本間健彦が「60年代新宿アナザー・ストーリー」タウン誌『新宿プレイマップ』極私的フィールド・ノート(2013/06 社会評論社)を出しているので、そちらから、何事かの情報を得られるかもしれない。

4)少なくとも、登場する当時の並みいるツワモノたちを「クン」づけで書いているような人物である。多くの人々の記憶に残っているはずであり、誰かのネットワークには繋がっているのだろうが、いまのところはまだつかめない。

5)雰囲気としては破滅型の人生ではないように思うので、香川県→新宿→新潟魚沼そして、その後、度重なる変遷があったのやも知れぬ。

6)この本の出版もそうだし、「ニッポン若者紳士録」もそうだが、ブロンズ社からでている。著者も関係の深かった出版社であろうが、1980以前になくなった。当時の編集長、平林千春は3・11後に「『東北再生』計画」 ポスト3・11のマーケティング(2012/02 無明舎出版 )という、「奇妙」な本を出している。

7)著者が、まったく別名で活躍しているとすれば、おそらく、かの編集長のようなコンサルタント稼業に精を出した、というイメージがあるのだが、どうだろう。  

8)「人間と宇宙のまつり」 73年 奥多摩 PHOTO 赤松英 p47Oku

9)その他、この本には気になる写真がたくさん収容されている。ひとつひとつピックアップしようとも思ったが、時間切れである。

10)新宿風月堂についての一文もなかなか振るっている。

 風月堂の閉店。ひとつの時代は終わった。だが、感傷にふけっているヒマは、ぼくたちにはない。新たなる、旅立ち。p56

11)この本が埋もれていて、なおかつ著者である今上武蘭人の消息不明なのは、ちょっと残念である。すこし探してみよう。

<3>につづく

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2014/07/14

「ロートレアモン全集」 全一巻 石井 洋二郎 (翻訳)

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「ロートレアモン全集」 全一巻
ロートレアモン (著), Lautr´eamont (著), LAUTREAMONT (著), 石井 洋二郎 (翻訳) 2001/03 筑摩書房 単行本: 672ページ
Total No.3296?????

1)ロートレアモン、とは誰か? 

2)新宿風月堂→阿部薫→芥正彦→ロートレアモン、という図式がひとつあった。

3)まったく予期せぬ出来事だったが、同じ日に、古い友人から、ロートレアモンの話がでた。友人が彼について詳しい、ということではない。かなり昔に、共通の友人(しかも女性)が、読んでいたというロートレアモンの一冊を本棚から取り出してきた。

4)ジャズの話をしていたから、しかも、モダンジャズの中の、さらにフリージャズについて語り合っていたから、そんな連想があったのかも知れない。あるいは、まったく違うかも知れない。

5)とにかく、ロートレアレモンではなく、ロートレアモン、である、ということは分かった。

6)同時に出てきたということは何かがあるのかも知れない。まずは一冊読んでみよう、ということで、図書館に予約した。10数冊あるうちの、一番「マトモ」そうな奴を選んだ。配本されるまで数日かかるだろう。でもその前に、ネットなどで情報を得ることはできるのではないだろうか。

7)検索してみると、いろいろ出て来る。フランスの詩人で、すでに百数十年前に24歳で亡くなっているという。自殺か病死か、死因は確かではないという。生前は認められることはなかったが、没後、徐々に評価があがり、現在に至るまで、その名声は消えることはなさそうだ。ふむふむ。

8)とは言え、所詮、表現論は、結局表現に留まる。表現が途絶えたところにこそ真実があるとするならば、どれほどの表現であったとしても、所詮、それは真実ではない、ということにもなる。

9)しかしながら、あらゆる表現を含み、さらにそれを超えたところに真実があるとするならば、それらの表現物もまた、真実の一部である、とも言える。あるいは、その表現がどれほどの広がりを持っていたとしても、それを超えているのが真実だとするならば、表現の偉大さこそが真実のさらなる偉大さを示している、とも言える。

10)などなど、ちょっと身構えたが、何はともあれ、ロートレアモン全集とやらが届いたら、まずは、ページをめくってみようではないか。

11)あれあれ、そんなことしていいのかな。それではますます本道に戻れなくなるよ。まぁ、いいじゃないか、そもそも当ブログの目的はほぼ達成されて、すでに終わっている。モノローグのように見せて、実はダイアローグでしかない当ブログも、結局は、かけ会いあっての「表現」でしょう。

12)友人たちからの「リクエスト」とあらば、未知なる領域ではあるが、敢えて受けて立ってみよう・・・

つづく

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「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」 地球の子供たちから愛をこめて 今上 武蘭人<1>

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「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」地球の子供たちから愛をこめて<1>
今上 武蘭人 (著) 1976/12 ブロンズ社 単行本  221ページ
Total No.3295★★★★★

1)今上武蘭人。確かにこの名前の人がいた。ヘアースタイルもボリュームがあり、身長も高そうで、目立つキャラクターであったと思う。「話の特集」編集部から独立して本間健彦が立ち上げた「新宿プレイマップ」に参加し、さらにそこから独立して「地球の子供たち」というイベント集団やらミニコミやらスペースの立ち上げをしていた人だ。メディアへの露出も多かったように記憶する。

2)その彼の名前でググッてみると、この本一冊が登場するだけだ。その他の情報は、今のところ、まったくない。この本にしても、すでに話題になることも少なく、情報は皆無に等しい。

3)ところが、最近でた「20世紀エディトリアル・オデッセイ」 時代を創った雑誌たち 赤田 祐一 +ばるぼら(2014/04 誠文堂新光社)では、キチンと紹介されている。あるいは、電脳・風月堂参考資料リストの中にも、新宿風月堂に言及している一冊として紹介されている。

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4)29ページには画像としてだが、我が「時空間」も紹介されている。「名前のない新聞」、「存在の詩」、「AUM」、「オーム」、「人間家族」、「王舎城」などとともに紹介されているというのは光栄なことである。珍しいところでは「長距離ランナー」などの紹介もある。

5)この本はブロンズ社という亡くなって久しい出版社からでており、また著者も「行方不明」となれば、なかなか本来の存在感を示すこともできず、ネットを通じての古書としても入手不可能な一冊だ。ただ救いは、国会図書館を初め、全国のいくつかの図書館には収容されていることだ。

6)たくさんの貴重な画像も収容されている。p107には、プラサード出版の「やさしいかくめい」の編集会議風景だろうか、左から、キコリ、キク、プラブッダ、あぱっち、などの写真も残されている。

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7)この本、青春時代の甘酸っぱい香りがする。「ぼく」「ぼくら」で語られる楽観的な未来像は、果たしてその後の時代の荒波を、どう超えていったのだろうか。

8)この本の出版の直後、著者である今上武蘭人は、新潟県の魚沼に移住し、スペース「ボヘミ庵」という活動を続けたようだが、その後の動きは、今のところ、ネットでは検索できない。

<2>につづく  

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「死の淵を見た男」 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日 門田 隆将 (著)

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「死の淵を見た男」 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
門田 隆将 (著) 2012/11 PHP研究所 単行本 380ページ
Total No.3294★★☆☆☆

1)一読して、この本は「嘘」が多いと思う。少なくとも、この本は、吉田昌郎一人を書いた本ではない。3・11当時の原発事故において、福島第一原発に携わっていた多くの人々のことが書いてある。別段に吉田を中心に書く必要などあったのだろうか。

2)ふたつめに、500日と語っているが、そういうことでもない。敢えていうなら、この本に書かれているのは、事故後の100時間であり、せいぜい500時間と言っていいだろう。この本がでたのが、事故後の500日あたりだったので、本を売るための戦略として、このようなタイトルができたのだろう。

3)もっと言うなら、吉田はこの本がでた7ヵ月後にはガンで死亡しているのだから、「死の淵を見た男」というタイトルも、どうも的を外しているように思う。

4)いろいろ言われていることだが、事故後の当時の首相だった管直人のことを悪く書いているのも、私はあまり面白くない。別段に反論材料があるわけではないが、官邸と東電がぶつかっている時に、まずは東電側の心情を先行して書いていることが、私は面白くない。

5)反論として、管直人の後日のインタビューや述懐を付け足してはいるが、つねに視点は東電側にある。

6)この本自体が、東電関係の多くの人々へのインタビューや取材で成り立っている以上、その協力者達への配慮から、これらの人々を悪く書くことはできない。それは理解できる。そして、このような一冊が残されたということは、後年における再検証の点からも、大変貴重なことではあると思う。

7)しかし、ひとりの人間として見た場合、あまりに東電の視点から物事を見過ぎている。すくなくとも、そもそも論として、原発の是非がまったく語られていない。原発ありき、偶然おきた原発事故に、自らの命を投げ出して戦った「美談」として語られ過ぎている。

8)今回の3・11に限らず、歴史的にも、世界的にも、苛酷な状況を戦った人々は多くある。その中のひとつの「美談」として、このレポートを鵜呑みにするわけには行かない。

9)少なくとも、吉田を始め、この本に登場する人物たちは、「すべて」原発推進派というばかりではなく、その存在によって、生活を成立させてきた人々である。事故があったら、その任務を全うするのが当然であるはずであり、大仰な賛美は避けるべきだ。

10)むしろ、当事者、責任者たちでありながら、後ずさりした人々の姿も若干書いてあり、その人々の「無責任」さをこそ問うべきである。

11)この本においては管直人のことを、まるで道化役として書いているが、それは納得できない。むしろ、一般人の感覚を持っていたのは管直人のほうであり、当時の首相としての、「責任」の持ち方が、「東電」側から見た場合、滑稽に映ったかもしれないが、全体として見た場合、滑稽な位置へとはみ出してしまっていたのは、「原発」そして推進派そのものである。

12)つくづく思う。原発はやめようよ。原発は人間にはコントロールできないのだ。無理なのだから、それを変な「美談」で歪曲するのだけはやめよう。

13)大きな視点から見れば、吉田は、単に現場指揮官の一人に過ぎないのだから、その蔭にいる、大きな資本や「意志」こそ糾弾されるべきだろう。「木口小平は、死んでも口からラッパを離しませんでした」なんて「美談」で、現場を括られてしまってはいけない。

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2014/07/13

「エンドレス・ワルツ」 稲葉真弓

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「エンドレス・ワルツ」
稲葉真弓 1992/03 河出書房新社 単行本: 149ページ
Total No.3293★★★★☆

1)1978年に亡くなったフリージャズ・アルトサックス奏者・阿部薫と、1986年に亡くなった元女優・作家・鈴木いづみの、出会いと愛憎の生活と、その終焉を描いた小説。稲葉真弓が1991年12月に雑誌「文藝」に発表し、翌年、女流文学賞受賞。

2)この小説を原作として、若松孝二が映画化している。ネット上で見ることもできる。

3)この小説が発表されたのが1991年12月だとすれば、先日見たテレビ番組の阿部薫特集、この小説の発表がきっかけとなって企画されたものだろう。当時、ちょっとしたミニ・ブームみたいなものが起きていたのかもしれない。

4)破滅型のミュージッシャンと元・女優作家の生活を描いた小説としては、淡々と時系列に整然と書き連ねて書いてあり、どこか、グラフ用紙か原稿用紙に、きっちりときれいな字で書かれたような印象がある。楽譜のない人生を、逆にそのことが、くっきりと浮かび上がらせる。

5)この小説は鈴木いずみの自伝的小説の形を取っているが、後年に浅場真弓が関係者からの証言や鈴木いずみの本やその他の資料から書き上げたものである。ある意味、阿部やスズキの人生とは、まるで違った手法ながら、まるで破綻のないような一遍の小説に仕上げている。

6)この作品を映画化した若松孝二も、2012年10月(ごく最近のことだ)に亡くなっている。

7)1977年に「Milford Graves‎– Meditation Among Us」に参加していた阿部薫。極北の志向性を持ちながら、しかもメディテーションという概念のすぐ脇に存在しながら、もし、この小説に書かれたような人生だったとしたら、やはり、彼の身における音から無音の世界へ、という大転換は、無理だったのだと思う。

8)三上寛のいうように1978年を超えることが、阿部薫にはできなかったのだ。

9)稲葉真弓の他の作品にも関心が深まるが、当の本人である鈴木いづみの残した作品群にも目を通しておく必要があるだろう。

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Milford Graves‎– Meditation Among Us

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「メディテイション・アマング・アス」
ミルフォード・グレイブス 阿部薫ほか 1977年収録 ディウレコード CD 収録時間: 36 分
Total No.3292★★★★☆

1)1949年生まれの阿部薫、1978年にはブロバリン98錠を服用して中毒死。29歳。事故か自殺かは判明していない、とのこと。

2)このアルバムは1977年収録。阿部薫、晩年の一作と言っていいだろう。

3)阿部薫と交流のあった三上寛の論旨はなかなか興味深い。特に1975年の捉え方。そして、29歳の阿部薫がブロバリン98錠を服用して中毒死した1978年の捉え方が面白い。

4)1978年ではなく、阿部薫が死ぬなら1972年あたりのほうが適当だった、という三上の言説も悪くない。

5)阿部薫が1977年に携わったアルバムのタイトルが「Meditation Among Us」であった、ということは興味深い。

6)彼のフリージャズは、時代を超えて、80年代の「瞑想」に到達し得なかったのではないか。当ブログにおいては、阿部薫というミュージッシャンの生きざまを通じて、時代の流れを感じた、というべきだろうか。

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「火垂るの墓」DVD 野坂昭如原作

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「火垂るの墓」
野坂昭如(原作)、高畑勲(脚本)、山口朱美(監督)、辰巳努、白石綾乃、他 (出演)、 1967年直木賞、1988年映画化、東宝系で公開、DVD 88分
Total No.3291★★★★☆

1)「ええ? また見るの~~」と、奥さんはおっしゃる。「もう、見たくない。悲しすぎる」

2)と、言われても、私はまだ見ていない。内容は大体分かっている。でも、映画版はまだ見ていない。

3)2歳半の孫を連れて、図書館に飛び込んで、とりあえず棚にあった他のジブリ作品と一緒に借りてきた。幼児が見るような映画ではないかもしれないが、それだったら、ジブリが作品化するはずないだろう。幼児だって、見ておく必要がある。

4)これは1960年代どころか、1940年代の日本の現実だ。もっともっと悲惨な状況が幼児たちを襲っていた。世界のあちらこちらでは、2014年の現実でもある。

5)ネットでは、予告編ばかりか、英語版とは言え全編見ることができる。「 Grave Of The Fireflies」

6)悲しすぎる。

7)でも、これって、実に限定的な悲しさだ。箱庭的、個人的、時代的、地域的な表現に留まっている。この物語を越えて、もっと本質的でグローバルな視点から、見直さなければならない。

8)戦争はだめだよ。みんな悲しくなる。悲惨で、惨めになる。やっちゃいけないんだ。だけど、いまだになくらない現実。

9)私もやっぱり、悲しすぎて、繰り返しは見ないだろう。

10)でも、こういう話があったということは、ず~~と記憶しておかなくてはならないのだ。そして、世界には、もっと惨めなことがあふれている。

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2014/07/11

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <46> 授乳

<45>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<46>「授乳」

1)孫におっぱいをやる。別段にめずらしいことでも、初めてのことでもない。孫に限らず、自分の子供たちの時にもやったし、子供時代、ちょうど東京オリンピックのあった年に、我が家ではとなりの共稼ぎ若夫婦の子供を預かっていた。その頃、小学5年生だった私は、頼まれて、何回もミルクを作って、飲ませたことがある。

2)もちろん私は男だから、形としては小さな乳首を二つ持ってはいるが、自分の体でミルクを作ることはできない。そして、奥さんのような年齢の女性にもそれは無理なのだ。

3)では、授乳は若い女性、特に母親の特権か、というと、もちろんそうではない。母乳第一主義の人もいて、私はどちらかというとそのことに賛成なのだが、いざとなった場合、母乳でもミルクでも、どちらでも行ける、という体制のほうが、サバイバルできそうだ、と思う。

4)特に3・11の時のように、十分な環境がない時、母乳とミルクを要領よく切り替えられたほうが、「便利」だと私は思う。

5)上の孫たちの中には、母乳しか受け付けないという赤ちゃんもいた。どうも練習しないと、哺乳瓶からうまくミルクを飲めないらしい。飲ませ方も悪いのかもしれない。あるいは、ミルクを作るのも結構手間がかかるらしいから、母乳一辺倒という環境も、まぁ、あることであろう。

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6)さて、我が家の4人目の孫は、バイリンガルじゃなかった、バイミルカルというか、母乳とミルクと両方いけるように訓練中。母親が上の子の検診で不在になる時、一緒に留守番することになった。私は、これ幸いと、ミルク授乳にいどんだという訳である。

7)時には時間がかかると言われていたが、スプーン5杯のミルクを70℃のお湯100CCで溶いて、水道の流水でひと肌まで覚ましたあと、赤ちゃんの口元にあてて見た。

8)おお、なかなかいい感じで飲んでくれる。30分くらいかかったなんて言っていたけど、きっとその時は眠かったのかもしれない。今回は、うまくいって、なんとか10分もかからずに飲み切ってしまった。

9)ゴクゴクと音を出して飲んでもらうと、なんだか、母親になったような快感が伴う。吸い口からうまく空気が入っていかないと、詰まってしまうのだが、最近の哺乳瓶はうまくできているのか、あまり気にせずに授乳することができた。

<47>につづく

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2014/07/07

「新宿考現学」 深作光貞 1968 <1>

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「新宿考現学」 <1>
深作光貞 1968/09  角川書店 単行本 244ページ
Total No.3290★★★★★

1)60年代風月堂の香りを辿って、電脳・風月堂参考資料リストの中に、風月堂に言及しているとされる本から、これまで当ブログが読んだリストを作ってきた。そろそろ終わりだが、最後に来てこの本は結構ヘビーである。どこかを切り抜いて終わり、とすることがなかなかできない。

2) 通称マリア(といっても女性ではなく、阿部という姓からアベマリアの下半分をつけたのだという)が仲間と共同で出したポスターなどを売る店イルミナシオンも順調だという(以下略) p130「新宿族の生態」

3)これは伝説のフリージャズの天才、アルトサックス奏者・阿部薫のことらしい。このことについては別記事にメモした。前後して面白いくだりがある。

4)みずから「現象野郎」などと名乗っている宮井陸郎は、ユニットプロダクションを主宰し、フーテンを集めてアングラ・サイケデリックショーを催しながら、マスコミへの進出を企てている。p130 同上

5)これは、Oshoサニヤシン、スワミ・アナンド・シャンタンのことである。私は、彼の過去のことなどなんの頓着もなく、1977年にインド・プーナで彼に会った。それから十数年の付き合いがあったが、彼は90年代には日本から姿を消した。

6)再登場したのは00年代の半ばになってからだろう。それ以後の活動は、それぞれのSNSにも登録してあるので、各人ご承知のとおり。またまた前後して、次のようなくだりもある。

7)「赤烏部族」という一派は、インドのヨガをとりいれた奇妙な新聞を一万部刷ったところ、物珍しさも手伝ってけっこう売れたともいう。p130 同上

8)著者は1925年生まれ(現在ご生存なら89歳)の文学者なれば、その表現にやや不正確なところがないわけではない。まぁしかし、1968年の段階において、キチンとした単行本にこのような記述が残されているのは貴重である。

9)さて、そもそもが新宿風月堂追っかけの途中であれば、それに関連する部分もメモしておこう。

10)新宿の喫茶店風月堂には常時3、40名の外人の若者たちが出入りしている。女性は、多い時期で10人ぐらいもいようか。しかしなぜ、よその店ではなく、みんな風月堂に集まるのであろうか? 

 外人のヒッピーやヒッチハイカーたちに接してみて、「なるほど」と思った。この店が、ネットの中にあるからにほかならない。ここに来ると、必ず同じような仲間たちがいて、着いたばかりの者にいろいろ教えてくれる。

 宿舎は、新宿4丁目の横町のホテルにゆけば、一泊600円で泊まれるとか、もっと安くあげたければ、だれだれが六畳一間を月7000円で借りているから、そこに割り込ませてもらえば、月3500円でやれる、それに飯ならこうしたらいい。

 金がなくなったならば、色チョークで歩道の上に絵を描け、日本人たちは外人を珍しがって、おいてある帽子の中に金を入れてくれ、一時間で2,3000円ぐらいになる、ただし、絵は銀座か渋谷で描くこと、地元の新宿ではやるなよ、それが新宿への仁義と礼儀だ、などといったことである。そうしたさいには、彼らのあいだに、連帯感がそれは奇妙なほどに発揮されるのである。

 彼らは、みな20歳前後の外人で、アメリカ人、フランス人、ドイツ人など、国籍は多様だが、彼らに国籍意識は少ない。ヒッピーやヴァガボンドの同族意識で、助け合っている。p132 同上

11)この本は、そもそも新宿という街のできる由来から書きき起こしている。そして、「考現学」の名前に恥じず、多方面から多角的に現代(1968年当時)の新宿という街の現象を分析している。2014年の今となっては、すでに「考古学」に属する部類であろうか。貴重な記録ではある。

<2>につづく

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こだわりTV「阿部薫とその時代」1991/12 芥正彦、相倉久人、三上寛、五木寛之、他

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「阿部薫とその時代」
演奏 阿部薫 出演 芥正彦、相倉久人、三上寛、五木寛之、他 こだわりTV プレステージ 1991/12? テレビ番組 170分
Total No.3290★★★★☆

 今読み始めた「新宿考現学」(1968)には次のように書いてある。

 通称マリア(といっても女性ではなく、阿部という姓からアベマリアの下半分をつけたのだという)が仲間と共同で出したポスターなどを売る店イルミナシオンも順調だという(以下略)深作光貞「新宿考現学」(1968/09角川書店)p130「新宿族の生態」

 これは伝説フリージャズの天才アルトサックス奏者・阿部薫のことらしい。映画「A.K.A. Serial Killer」(1969足立正生)のバック音がリアルだったことを書いたら、その関連で教えてもらったのが、阿部薫である。

 これだけの諸説のある人物の生きざまに対して、ほんの数時間前に知っただけの通りすがりのジャズ音痴がどうのこうの言うことさえおこがましいが、日記代わりの個人ブログである。まぁ、今日の感じたままを書いておこう。

 阿部薫でググッてみると多数情報がでてくる。まずはYoutubeでのテレビ番組を見てみた。1949年に生れ、1978年に亡くなった阿部の13年後の番組というから1991年のことだろう。しかも一年の締めくくりらしいので12月だと思う。

 テレビにも出演している芥正彦がアップしている動画であるが、5分から10分弱きざみで細切れでアップされていて、ちょっと見にくい。それでも、コマーシャルのところをカットしてあるだけなので、まぁ、元のテレビ番組を見るような感覚では楽しめる。

 それでもなんと、170分、2時間50分に渡る「大作」である。阿部薫の、一本の縦糸はこの番組の中に見つけることはできるだろう。https://www.youtube.com/watch?v=AJJYJ1Ntn0o から見ると、1/25から25/25まで連続で見ることができる。

 1/25から25/25まで、一気に見てみた。結果としては、10人10様で、出演者一人一人の本性が暴き出されたような番組だった。 一番、阿部薫に近いと思われたのは、このビディオをYoutubeにアップした芥正彦だろう。でも、この二人だけを並べたら、きっと、意外や意外、結局、対局に離れ離れになってしまうのではないだろうか。問題は、どこに座標軸を置くかだが。

 妹さんが言っていたように、阿部薫は、アルトサックスというグローブをはめて、リングの上で、命をかけて戦っていたのだろう。 三上寛の、75年やら78年やらの時代論には賛成。75年を通り越して、80年代まで、阿部薫は生きられなかったのだ。時代と死ぬなら、やはり72〜73年頃だったのだろう。 彼は1978年に亡くなっている。

 しかし、五木寛之が言っていたように、人の生死については、曰くいいがたしのところがある。 ジャズ喫茶のママさんコンビには、実際に手を焼きそう。どちらのママさんとぶち当たっても、ハイ、おっしゃる通りです、と、うなづいて、早々に退散した方が良さそうだ(爆)。

 「ジャズより他に神はなし」の平岡正明が、何も語れなかったのは、なんとも可笑しく、可愛いかった。 察するに、この番組の放映は1991年12月。この番組からでさえ、2014年の今日、すでに23年が経過している。

  どちらかと言うとパンタに近い世代の私だが、やはりジャズはなくても生きていける。もっと言うなら、「僕にはコミック雑誌なんかいらない」。僕のまわりは漫画ばかり。 24時間365日、ライブすることが必要だ、と言った阿部薫。あともう一つ、図地反転が必要だった。

 番組中でも討論があったが、アーティストの10年間の活動を、例えばレコードを集めようと思えば、現在なら一日もかからないでできるだろう。そのアーティストのことをソーカツすることなど、難しいことではない。

 しかし、それでそのアーティストのことを全て知った、ということにならないのは当然のことである。あるいは、たった一枚のCD、あるいは一曲、一音だけで、そのアーティストの全てが分かってしまう、ということも、理論的にはあり得る。

 問題は、そのアーティストを理解するということではなく、その音楽、その芸術に対峙した時の、自分とは誰かを理解することが問題なのだ。だから、そもそも長年に渡ってアーティストと深い関係を結んできている人々やディープなファンに、人物論や音楽論を仕掛けて、昨日今日の一見さんが勝てるわけはないのは当然だ。

だが、外部ではなく、内部にこそ、大事なコアがあるとするなら、ここは臆することなく、自らの感性をメモしておくことにする。

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2014/07/06

「 A.K.A. Serial Killer」 略称・連続射殺魔 (1969)足立正生 

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「A.K.A. Serial Killer」略称・連続射殺魔 (1969)
足立正生Masao Adachi 1969年制作 1975年公開 上映時間: 86分
Total No.3289★★★★★

1)この映画を何と評すればいいのか。当ブログにおいては、レインボー評価は最高評価であるのだが、過去に、そこをさらに飛びぬけてしまったものがある。それは、ビックレッド★5で評価しておいた。過去においては、小出裕章氏のほんの数点だけしかない。「原発ゼロ世界へ」(2012/01 エイシア出版)、「日本のエネルギー、これからどうすればいいの?」 ( 2012/05 平凡社)、「福島原発事故」(河合文化教育研究所 2012/04) 。

2)当ブログは読み方、受け取り方に大きなムラがあり、公平ではない。だが、ただ、少なくともこれが個人的な気ままな読書ブログであってみれば、独断と偏見で評価を連ねておくにも、それなりの妥当性がある。

3)この作品は、久々に、ビックレッド5、と評価してみた。この作品は4作目。

4)コンテナとしての映画という技法があり、コンテンツとしての永山則夫がおり、受け手としての足立正生とそれにつらなるコンシャスネスがある。

5)この映画には、商業映画として成立させるためのエンターテイメント性を強く拒否する矜持がある。中上健次+長谷川和彦+ゴダイゴの「青春の殺人者」(1976公開 ATG)のような、ナイフ殺人シーンの血のりや、放火自殺の執拗な火事の炎に包まれるようなシーンは一切ない。

6)また、新藤兼人+原田大二郎+乙羽信子の「裸の十九才」(1970公開 近代映画協会)にみるような文学作品性や思想性の高さを誇示する姿勢なども、まったくない。

7)殺害シーンも、殺人武器も一切ない。主人公さえいない。自衛隊、米軍基地、機動隊などの風景はあるが、新藤兼人作品が連投したような、デモ隊風景も一切ない。ナレーションも、実に最小限。ただ、バックに流れる静かな、時には実験的と思われる最小限の楽器の音は秀抜。

8)彼の生い立ちを追う形で、その風景が切り取られていくが、長々と撮影したものをカット分けにしてストーリーを作っていく、というスタイルではない。その関連がありそうな風景をただひたすら取り続ける手法である。ある意味、アンディ・ウォホールの「チェルシー・ガールズ」を連想するような手法だ。

9)ドキュメンタリーと言えば、これほどのドキュメンタリーはない。そもそも、まともなナレーションが入っていないので、永山則夫のストーリーが分からなければ、なんのことか分からないことも多い。というか、私なんぞは、多くのシーンの意味を、ほんとうは理解していないだろう。

10)例えば、終末部分になって1時間15分以降にでてくる、「ビレッジ・バンガード」のシーンなどは、永山則夫が働いていたことのある新宿モダンジャズ喫茶のことだ、とちょっと前までの私などはまったく気がつかなかったに違いない。

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11)さらに、つづく場面では、タクシーの助手席からの連続早回しのシーンがある。あれはなんのシーンなんだろうか。ひょっとすると、それは永山が乗ったタクシーの行程を再現しているのかも知れない。そしてその終着点は、事件の現場なのだろうか。

12)とにかくこの作品は、余計な説明はない。解釈も、解説もない。主人公もなければ、関係者の回想もない。ただリアリティとしての風景だけを追う。事件は1968年秋、逮捕は1969年春。そして撮影は1969年夏から秋。当然、永山がみた風景とは一年のズレがあり、まったく同じということはあり得ない。

13)逮捕間もない時期に、これほどまでの永山の行動履歴が公開されていたのかどうかは定かではないが、限りなく可能な形で、「現場」が切り残されている。

14)視聴者としての、私たち、私は、何を見ているのだろう。少なくとも、ここに描かれているのは、連続ピストル殺人事件なんかではない。もちろん、永山則夫の「特殊」性などではない。

15)ここで見るのは、足立正夫の意識であるし、また、その問いに答える形での、自分の意識である。いやむしろ、この映画を前にして、自らの意識へと立ち返らないのであれば、この映画を見る必要はない。

16)そもそもこの映画は、「非公開」を前提にして撮影・制作されたようだ。撮影されたのは1969年であったが、公開されたのは1975年になってからだった。

17)足立正生は、映画というコンテナを捨てる。そして作品や思想「性」というコンテンツをもすてて、彼自身の意志に従って、彼の見る「コンシャスネス」へと飛び立った。それが世界革命だったのか、「戦争」だったのか、そして、その方向性に、どれほどの妥当性と、どれだけの正当性があったのか、今の私にはわからない。

18)少なくとも、同じころ、私は、自らの思う「コンシャスネス」に向けて、自らの意志に従って「飛び立った」。そのことについて、私自身も、その方向性に、どれほどの妥当性と、どれだけの正当性があったのか、いまだに、まったくわからない。

19)比較するような問題ではないが、ただ、それぞれに、そういう道があった、ということだけは、かすかにわかる。

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2014/07/05

「裸の十九才」 監督・新藤兼人

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「裸の十九才」 
新藤兼人 (監督) 原田大二郎、乙羽信子、他(出演)  1970年公開 近代映画協会 DVD 117 分 
Total No.3288

1)★5かレインボー評価かで悩む。当ブログは犯罪に類するものに組みするものではないが、ひとつの事件、ひとりの人間の内面を深く探求する映画作品としては、飛びぬけた位置にある作品と思う。単なるフィクションではなく、実在の人物、事件を下敷きにしているだけに、そのストーリー性にも、強く惹かれる。

2)1968年に起きた事件なのに、1970年に映画化されているという、このスピード感は、一体何事が起きていたのか、と驚愕する。

3)新藤兼人監督の奥さんである乙羽信子が母親役であり、人よりスマートな原田大二郎が主人公というのは、どこかウソ臭い。160センチくらいしか身長のなかった永山則夫とはかけ離れたモデルだろうし、おそらく母親という人も、もっと時代の地方人の姿をしていただろう。

4)しかし、それにもかかわらず、その時代背景の切り取り方が鋭く、リアリティを失っていない。網走や青森での生活、性描写、何度もでてくる(10回はでてきただろう)デモ隊風景なども、説明過多になっていないだけに、鋭角的で、刺激的だ。

5)この作品はモノクロ。1970年にどのような公開のされ方をしたのだろう。Youtubeで予告編やダイジェストなどを簡単に探してみたが、なかった。連続ピストル射殺事件として有名な事件が題材だが、この映画では、そのシーンは、淡々と小さく語られるにすぎない。

6)モノクロで、ピストル音もかなり抑えた消音銃のように取り上げられている。これは1976年公開の「青春の殺人者」(長谷川和彦監督 ATG)のナイフ刺殺シーンに比べたら、実に抑えたトーンである。

7)しかし、その連続殺害のシーンよりもその人生の背景のほうが、凄惨きわまりない。

8)職業を転々とする中卒の少年。そのひとつの仕事先として書かれているのは、永山則夫も務めていたという新宿のジャズ喫茶「ヴィレッジヴァンガード」だろうか。 

9)永山則夫の死刑執行は1997年。48歳まで彼は生きていた。

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2014/07/04

「となりのトトロ」 プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <45>

<44>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」<45>

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「となりのトトロ」 
宮崎駿 (監督) 1988年公開上映 スタジオジブリ  形式: DVD 86分 
Total No.3287★★★★★

1)前回、この孫たちとの対話を書いてからすでに3ヵ月が経過しているのか。あっという間ではあるが、書こうと思えば、いっぱい書くことがあった。あり過ぎて書けなかった、ということでもある。なんせ、毎日が、孫たちとの日々なのだから、エピソードにこと欠かない。

2)今年の大きな変化と言えば、お正月そうそうに3人目の女の子の孫ができて、賑やかになったと思ったら、5月にはさらに4番目の孫、男子が生まれた。これでまぁ、大体の私の家族は全部出そろったことになるのだろうか。

3)あと、ひとり二人いてもいいな、とも思うが、そもそもが天の配剤、私の力の及ぶところではない。まずは、私の人生の後半は、このスタッフがメインキャストとなることだろう。

4)下の子を出産するために母親がお里帰りし、その間ひと月ほど、ジジババと上の二歳児が留守番同居することになった。二歳児とは言え、割と聞きワケがあるもので、お母さんは病院にいってるよ、というと、すぐ納得し、それほどムズかるものではない。

5)そのかわり、何度この「となりのトトロ」をかけさせられただろう。事あるごとに「となりのトトロ」である。アンパンマンやトミカプラレールのYoutubeにも付き合わされるが、むしろごく最近はトトロ一辺倒である。

6)二歳児男子にしてみれば、主人公のひとり4歳設定の女の子メイちゃんに一番シンパシーを感じているようである。特に、シチコク山病院に入院しているお母さんに会いたい、という心境は、実に自分の心境を表してくれている、ということになるようだ。

7)何度も何度も「メイちゃんのお母さんは、シチコクヤマ?」と聞いてくる。それは、自分のお母さんも、今、入院中なんだ、ということの確認でもある。すでに母子ともども健康で実家に戻って静養しているのであるが、今はとにかく、まだ入院中なんだ、と確認することで、納得しているようでもある。

8)この映画も実に名作である。1988年公開だから、我が家の子供たちが5歳と3歳の時の作品。映画館に行ってみた記憶もあるが、ビデオやらDVDでも、何回も繰り返しみてきた作品だ。あの頃、子供たちをインドに連れていって、四か月のプーナ暮らし体験の後、帰国後もいろいろあったな。

9)スタジオジブリ作品は、別に好きだから見ているわけではないが、子供や孫たちといると、好むと好まざるとに関わらず、とにかく見るチャンスは多い。そして、ストーリーは大体分かっている筈なのだが、毎回見てしまう。それと言うのも、本当は、子供たちと見ていると、途中から見たり、同じところだけ何回も繰り返したりと、毎回見方が変わってくる、ということも影響しているかもしれない。

10)ジブリ作品と比較するに、ジョブズの鼻の息がかかった一連のピクサー作品も悪くはないが、アニメ対CGという対決からすると、どうもジブリが勝っているような気がする。日本人対アメリカ人の感性の違いはあるが、両方ともグローバル・マーケットを意識して作られているのは間違いない。それでもやっぱりジブリは、ごはんとみそ汁の味がし、ピクサーは、ポップコーンとホットドックの味がする。

11)しかしまぁ、孫たちと一緒にいないことには、これほど、これらの作品を繰り返し見るということはありえないだろう。いつまで続くかは知らないが、とにかく、孫たちの視点から世の中を見直してみる、というのは、すごい体験だ。

12)日々、自宅内のスペースは侵略され、落書きやら散らかしやらの「被害」が続いてはいるものの、これもまたいつまでも永遠に続くものでもあるまい。いずれは、あの頃はよかったね、と懐かしむ時代もくるやも知れない。

13)実は、トトロの他にも二つほど、ジブリ作品を控えとして押さえてある。いよいよトトロに飽きが来たら、次は、そちらに目先を変えてやろうと思う。って、本当は、自分が見たくてウズウズしている、というのが本当かな。

14)トトロをあのように見るなら、こちらはどう見るだろう。孫の視線を借りて、私は世界を見ている。

<46>につづく

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2014/07/03

「青春の殺人者」 デラックス版 DVD 中上健次原作

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「青春の殺人者」 デラックス版
中上健次(原作「蛇淫」) 長谷川和彦 (監督)  水谷豊、原田美枝子、内田良平, 市原悦子、他 (出演),   ゴダイゴ(音楽) 1976年上映 ATG  DVD 120分
Total No.3286★★★☆☆

1)中上健次追っかけが始まるのかどうか。まずは、映像資料ということでこの映画を借りてきた。他にも「十九歳の地図」の映像があるが、借り出し方法が難しい。

2)寝ながら見ようとパソコンを枕元に。最近うちのパソコンは調子悪い。特になにやらソフトがバージョンアップされていないとかで、色が出ない。何かの色が脱色している。ちなみに顔は緑で、髪の毛は赤茶けてみえる。輪郭や音はなんとか行ける。

3)結論としては、この環境が良かった。この映像の、血のりや炎などのシーンがリアルに再現されたなら、気の弱い私なんぞは、見るのをすぐやめただろう。昔、力道山のプロレスで、出血シーンがあって、心臓マヒで死んだお年寄りがいた。私も、もう、その年代である。

4)まず良かったことから書けば、ゴダイゴの曲がよかった。デビュー作の「新創世記」から4曲程使われているらしい。この禍々しい映画のバックに流れることで、救われた。モンキー・マジックの前あたりに作られていた曲であろうか。

5)よかったと言えば、水谷豊とか原田美枝子の、どうも軽めの演技に救われた気もする。どこかヘビーになりきらない、虚構性に、多少は救われた。

6)とにかく前半の50%位は、私の苦手や、というか嫌いなシーンの連続で、こんな映画なんで見てんだよ、と、後悔した。見続けられたのは、繰り返すようだが、色彩がリアルに再現されない我がパソコンの故障が幸いした、ということだろう。

7)後半はまぁ、なんとか慣れてきて、最後まで付き合うことができた。

8)観終わったあと、DVDに収録されている長時間の「監督インタビュー」を見た。これが面白かった。特に「真実とフィクション」というような部分。そもそもが中上健次が実際にあった両親殺人事件をモデルにして書いた「蛇淫」という短編小説があり、それを脚本家の田村猛が見つけて長谷川和彦に、監督一作として勧めたということだ。

9)実際の事件の現場に足を運び、関係者にもできるだけ会ったという。蛇のような女と表現された女性は、その時、トルコ嬢だったという。青年は千葉一高の卒業生。青年は無実を主張していたようだが、この映画が完成したあと、死刑が確定した。この映画では、最初から青年実行説で突っ走っている。

10)この映画、あまりにも有名な一作なので、タイトルも監督の名前も知っていたが、見る気は全くなかった。私とまったく無関係な、違った次元の作品だと、思ってきた。

11)今回、何の因果か、脈絡なくこれを見て、確かにこれは私とは異次元の作品であることは確認できたが、その1976年上映という時間性に、やや、興味を持った。

12)この時代、私は大きな曲がり角にいた。過去を封印して、どこか遠くへ行ってしまいたかった。私の青春は1975年に終わりにしたのだ。あの頃、自分の記憶はまだら模様だ。77年にインドに行くわけだが、そして、私の「青春」はまだまだ続くのだったが、少なくとも、あの血塗られたような、炎の真ん中に立っているような、そういう青春は終わりにした(かった)。

13)あのまま1970→1975年の流れにいたら、私にはその実行力は無かったものの、加藤三郎のような単独爆弾犯のような道しか残っていなかったのではないか。そのような結論に行ってしまうような70年代前半という時代性を、私はとにかく切り捨て、封印してしまいたかった。

14)遠くに行ってしまいたかった私の眼の前に、ぱっくりと口を開けて待っていたのがOshoであっただろう。他にもいくつも選択肢はあったが、もっとイージーで、しかも、もっとも必然性があり、もっとも妥当性があった。あの過去を封印してしまおう、という力の作用がなかったら、私はOshoサニヤシンにはならなかっただろう。

15)だから、この映画に描かれている世界は、私と無関係な世界とは到底思えないが、であるがゆえに、自分の中では封印して忘れてしまいたいもの、避けて、なかったことにしてしまいたい世界への細道であった。

16)おそらく、70年代後半から80年代にかけて、いわゆるこの映画に書かれたような世界や、そのような世界に拘泥しようという試みについては、それが芸術やら、ノンフィクションやら、という肩書はともかく、一切、興味を持つまいと思った。

17)これが、結局は、幼馴染の石川裕人(ニュートン)との1980年代における分かれ道だったのだろう。

18)私はそもそもが、フィクションの虚構性を遊ぶような力量を欠いている。漫画も小説も、無くても生きていける。面白ければ読むが、そうそう面白いものにはぶち当らない。上手ならパチンコもやるが、下手だからパチンコなどで時間を費やさない、というのと、同じ感覚だろう。

19)中上健次を追っかけることはシンドイ。できれば、この忙しい時期、避けたい。見たくないことの連続だ。しかし、もし、それが中上とか、血とか、戦いとか、という外在物ではなく、内に在る何か、出来れば目をそらしたい何か、そんなものがまだ自分の中に残っているとするなら、これら禍々しいものを視覚に入れながら、自らの内に、いまだ潜んでいる何物かをおびき出す手段、と考えてみるのも、悪くない。

20)中上健次は好きにはなれないが、自分が内に抱えている何か「好きになれない」ものに、もう一度意識を振り向けてみるのも、悪くない冒険だ。

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2014/07/02

「KDPではじめる セルフパブリッシング」 倉下忠憲

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「KDPではじめる セルフパブリッシング」
倉下忠憲 2013/12 シーアンドアール研究所 単行本(ソフトカバー) 256ページ
Total No.3285★★★★★

 この手の本は、何度読んでもダメ、何冊読んでもダメ、結局、実際にやらなきゃ意味がない。ってことは分かっているのだが、どうも前に進まない。

 小泉俊昭  「Kindleセルフパブリッシング入門」電子書籍でベストセラー作家になろう(2013/04 日本実業出版社)を読んで、その気になったのは、すでに一年以上前のこと。それからまったく手つかずで進んでいなかった。

 さらにようやく、もうどうにでもなれ、とシジル(SIGIL)とやらをダウンロードして、さらにアドビ・デジタル・エディションとやらもインストールして、先に用意しておいたコンテンツのサンプルをアマゾンに送ったはずだった。

 しかし、まだ登録が完璧ではないようだ。あれからさらに一ケ月が経過してしまったのだった。なんせ、忙しい、というか、こちらの作業に集中できない。とにかく、一冊出版する工程をなんとかクリアしたのだが、いつまでも延び延びになっている。

 実は、さらにもう一冊、「Kindleダイレクト出版 完全ガイド」(2013/05 インプレスジャパン)なんてのも、実は手元にある。何冊あってもダメなのです。実際にやってみなければ。(笑)

 ちょっと言い訳すれば、コンテンツの準備に時間がかかっている、というのも実は確かなのだ。前から用意していたコンテンツをワープロで文字化して、画像の準備もしている。それが、とりあえず二つある。

 あとは、順次、当ブログのまとめをやっていくつもりなのだが、はてさて、いつのことになるのやら。

 この本で新たに分かったことは、99円が値付けで一番安い設定だということ。取り分は、35%と70%とかがあって、それぞれの志向性が違うこと。あとは、アメリカの税金を払わなければならなかったり、アマゾンから売上を振り込まれる時に、手数料が取られるのだが、取られない銀行口座もあるということ。

 それらの雑多な情報にまみれつつも、とにかく、コンテンツをもうちょっと準備して、あとはいよいよ突入するぞ。

 と、いつもの掛け声ばかりは勇ましい。

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「十九歳のジェイコブ」 中上健次

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「十九歳のジェイコブ」
中上 健次   (著) 1986/10 角川書店 単行本 227ページ
Total No.3284★★☆☆☆

1)まず気になるのは、ジェイコブとは何か、ということ。調べてみれば聖書などにでてくるヤコブの事であるようであるが、それ以上の突っ込みは必要ないだろう。単に、ジャズ喫茶仲間の中での呼び名であり、主人公のニックネーム以上のものではない。

2)中上健次を読み始める(か、かどうかはまだ未定)にあたって、まず第一冊目がこれでよかったかどうかは定かではない。ただ、よくもわるくもこの作家の特徴を強く表現した一冊であることは間違いない。

3)1986年に出版されたことになっているが、書かれたのは1978/07~1980/02の雑誌「野性時代」に連載された「焼けた眼、熱い喉」。これが原文となり、それが加筆・改題されたものである。

4)この時代で思い出すのは、1976年の「群像」新人文学賞である村上龍「限りなく透明に近いブルー」。村上のデビュー作で書き下ろし。ロック、ファック、ドラックの小説と呼ばれ、一世を風靡した。当時22歳になったばかりの私は、ああ、日本にもこの時代が来たか、と思った。この小説はその年の第75回芥川賞を受賞した。

5)こちらの中上の作品は、並べて称するなら、モダンジャズ、オマンコ、クスリ、の文学と言うべきか。

6)中上健次は同じ1976年に「岬」で第74回芥川賞を受賞している。中上を評するなら、続いて「岬」も読んでみなければならないだろうが、村上が「限りなく・・」でデビューしたことに対して、当然、中上もライバル意識をもっただろう。その対抗策として、このような作品が生まれたのではないか、とも思った。この世界を書くなら、俺のほうが上だぜ、という自負が見える。

7)たしかに村上がロックなら、中上はパンクやヘビーメタを超えて、とてつもない世界へと突っ込んでいってしまったような雰囲気さえある。(それがモダンジャズなのかどうかは定かではない。むしろ、ある意味、ド演歌の世界でもあるような・・・)

8)そもそも「野性時代」とはどのような雑誌だったのだろうか。野性というタイトルはともかくとして、1974年創刊のエンターテイメント小説中心の角川雑誌である。

9)邪推すれば、中上が角川から村上に負けないエンターテイメント作品を、と注文を受け、雑誌に連載していたもので、途中とびとびになりながらも何とか収拾をつけた作品と言えるかもしれない。最初から、自伝的なストーリーがあった作品というより、まずは時代の話題になっている潮流のエンターテイメントとして、ぶつ切りに書かれた、と言えなくもない。

10)この作品をともかく読んでみようと思ったのは、最近この作品が舞台化され新国立劇場で上演された、ということを知ったからだ。この作品を演劇化するというのは、どういうことなのか。たしかに興味はそそられる。

11)中上健次の名前がちらちらでたのは、新宿風月堂追っかけをしていて、「東京ジャズ喫茶物語」(1989/11 アドリブ)をめくっていた時。風月堂ではなかったが、中上が出入りしていたジャズ喫茶というのも出てきて、なるほど、この小説の舞台かな、と推測できそうな店の紹介もあった。

12)仮に自伝的小説と受け取るとして、1946年生まれの中上健次の19歳と言えば1965~6年当たりのこと。なるほど、若者たちの街、新宿の風景の一断面として、見ることも可能である。風月堂の日々をこれほどまでにリアルに書き上げた作品は見ていないが、書かれなかった部分の真の姿を垣間見る、という意味では、参考資料としては価値は高いだろう。だが、一般風俗というより、中上の個人的内的風景、というニュアンスのほうが強い。

13)しかし、この小説が書かれた1980年直前という時期、そして1986年出版というタイミングは、いかにも角川エンターテイメントらしい。作品を商品として消費し、娯楽化していったとするならば、当然、私のような者のアンテナにはひっかかってこなかった、ということも理解できる。

14)表紙の「十九歳」の「十」の字がデザイン的に大きく処理されていて、いかにも十字架を連想するように作られているが、思わせぶり過ぎるだろう。この小説の結句、「ジェイコブの眼にモダンジャズ喫茶店は教会(シナガゴーグ)のようにみえた。」p227も、まぁ、思わせぶりだが、創られ過ぎている。

15)エンターテイメント路線にまんまと乗せられているように見せながら、さらにその作戦を内側からぶった切ってやろう、という中上健次の力量も相当なものだが、果たして、この丁々発止の戦いの結末はどうなったのだろう。おそらく、両者相撃ち、という結末だったのではないだろうか。

16)19歳と銘打っている限り、著者の初期の作品「十九歳の地図」にも目を通す必要があるだろう。

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