「 A.K.A. Serial Killer」 略称・連続射殺魔 (1969)足立正生

「A.K.A. Serial Killer」略称・連続射殺魔 (1969)
足立正生Masao Adachi 1969年制作 1975年公開 上映時間: 86分
Total No.3289★★★★★
1)この映画を何と評すればいいのか。当ブログにおいては、レインボー評価は最高評価であるのだが、過去に、そこをさらに飛びぬけてしまったものがある。それは、ビックレッド★5で評価しておいた。過去においては、小出裕章氏のほんの数点だけしかない。「原発ゼロ世界へ」(2012/01 エイシア出版)、「日本のエネルギー、これからどうすればいいの?」 ( 2012/05 平凡社)、「福島原発事故」(河合文化教育研究所 2012/04) 。
2)当ブログは読み方、受け取り方に大きなムラがあり、公平ではない。だが、ただ、少なくともこれが個人的な気ままな読書ブログであってみれば、独断と偏見で評価を連ねておくにも、それなりの妥当性がある。
3)この作品は、久々に、ビックレッド5、と評価してみた。この作品は4作目。
4)コンテナとしての映画という技法があり、コンテンツとしての永山則夫がおり、受け手としての足立正生とそれにつらなるコンシャスネスがある。
5)この映画には、商業映画として成立させるためのエンターテイメント性を強く拒否する矜持がある。中上健次+長谷川和彦+ゴダイゴの「青春の殺人者」(1976公開 ATG)のような、ナイフ殺人シーンの血のりや、放火自殺の執拗な火事の炎に包まれるようなシーンは一切ない。
6)また、新藤兼人+原田大二郎+乙羽信子の「裸の十九才」(1970公開 近代映画協会)にみるような文学作品性や思想性の高さを誇示する姿勢なども、まったくない。
7)殺害シーンも、殺人武器も一切ない。主人公さえいない。自衛隊、米軍基地、機動隊などの風景はあるが、新藤兼人作品が連投したような、デモ隊風景も一切ない。ナレーションも、実に最小限。ただ、バックに流れる静かな、時には実験的と思われる最小限の楽器の音は秀抜。
8)彼の生い立ちを追う形で、その風景が切り取られていくが、長々と撮影したものをカット分けにしてストーリーを作っていく、というスタイルではない。その関連がありそうな風景をただひたすら取り続ける手法である。ある意味、アンディ・ウォホールの「チェルシー・ガールズ」を連想するような手法だ。
9)ドキュメンタリーと言えば、これほどのドキュメンタリーはない。そもそも、まともなナレーションが入っていないので、永山則夫のストーリーが分からなければ、なんのことか分からないことも多い。というか、私なんぞは、多くのシーンの意味を、ほんとうは理解していないだろう。
10)例えば、終末部分になって1時間15分以降にでてくる、「ビレッジ・バンガード」のシーンなどは、永山則夫が働いていたことのある新宿モダンジャズ喫茶のことだ、とちょっと前までの私などはまったく気がつかなかったに違いない。
11)さらに、つづく場面では、タクシーの助手席からの連続早回しのシーンがある。あれはなんのシーンなんだろうか。ひょっとすると、それは永山が乗ったタクシーの行程を再現しているのかも知れない。そしてその終着点は、事件の現場なのだろうか。
12)とにかくこの作品は、余計な説明はない。解釈も、解説もない。主人公もなければ、関係者の回想もない。ただリアリティとしての風景だけを追う。事件は1968年秋、逮捕は1969年春。そして撮影は1969年夏から秋。当然、永山がみた風景とは一年のズレがあり、まったく同じということはあり得ない。
13)逮捕間もない時期に、これほどまでの永山の行動履歴が公開されていたのかどうかは定かではないが、限りなく可能な形で、「現場」が切り残されている。
14)視聴者としての、私たち、私は、何を見ているのだろう。少なくとも、ここに描かれているのは、連続ピストル殺人事件なんかではない。もちろん、永山則夫の「特殊」性などではない。
15)ここで見るのは、足立正夫の意識であるし、また、その問いに答える形での、自分の意識である。いやむしろ、この映画を前にして、自らの意識へと立ち返らないのであれば、この映画を見る必要はない。
16)そもそもこの映画は、「非公開」を前提にして撮影・制作されたようだ。撮影されたのは1969年であったが、公開されたのは1975年になってからだった。
17)足立正生は、映画というコンテナを捨てる。そして作品や思想「性」というコンテンツをもすてて、彼自身の意志に従って、彼の見る「コンシャスネス」へと飛び立った。それが世界革命だったのか、「戦争」だったのか、そして、その方向性に、どれほどの妥当性と、どれだけの正当性があったのか、今の私にはわからない。
18)少なくとも、同じころ、私は、自らの思う「コンシャスネス」に向けて、自らの意志に従って「飛び立った」。そのことについて、私自身も、その方向性に、どれほどの妥当性と、どれだけの正当性があったのか、いまだに、まったくわからない。
19)比較するような問題ではないが、ただ、それぞれに、そういう道があった、ということだけは、かすかにわかる。
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