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2014/08/07

「黒の手帖」 檸檬社 <2>

<1>からつづく 

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「黒の手帖」 <2>
檸檬社 1969/01、1971/05~1972/09 全19冊 雑誌 A5判 
Total No.3304~7★★★★☆

1)石川裕人(ニュートン)蔵書シリーズ第3弾は、「黒の手帖」四冊。

 1月号(第2巻1号) 1971年 ホモロジー 表紙木村恒久
 4月号(第2巻4号) 1972年 酒とゲロと解放 表紙木村恒久 
 5月号(第2巻5号) 1972年 出発 
 8月号(第2巻8号) 1972年 ブラック・ユーモア小説 
  

2)70年前後のアングラ文化の徒花であるこの雑誌については、当ブログにおいてもすでに触れておいた(2014/04/30)。しかし、それにしても、こんなに早く、こういう形でこの雑誌シリーズと再会するとは、意外な展開である。

3)よりにもよって、ニュートン蔵書から出て来るとは思っていなかった。そして、よりにもよって、この4冊だけ、ってのも、どうしたことだろうと、疑問にもなる。当時のシリーズ19冊の中の4冊。どうも腑に落ちない。なぜ、この4冊だけが彼の手元に残っていたのか。

4)テープで縛ったひとくくりの中から抜き出したのだから、他の人がすでに購入してしまったのではない。また出店した古書店の主人が「抜き取りをしていない」というのを信用する限り、まずはこの4冊だけが残っていた、と云うのは事実として受け止めることにする。

5)腑に落ちないのは、この雑誌シリーズには書込みがあることである。しかも、あまり綺麗な字ではない。赤だったり、黒だったり、する。彼の字は、中学生の時代から見ているが、決してお手本のような字ではないが、割と揃った字で、書き面に抑揚がないはずなのである。

6)ところが、この雑誌シリーズへの書込みはかなり乱雑である。乱雑さでは、むしろ私のほうに似ている。ひょっとすると、私が飽きたので、彼にあげたのかな、と思ったりもしたが、これは、私の文字ではないように思う(自分でもよくわからない)。書き込んでいる内容は、私の文脈であるような気もする。

7)ニュートンは、晩年において、戯曲を書きながら、ブログを三つ書き、さらには自筆の個人手帖(非公開)を書いていたというから、いずれ、それを見る機会があれば、その文字と照合してみることもないではない。

8)ここで想定してみることは、ニュートンは後年なんらかの形でこの雑誌シリーズを手にいれたのであり、リアルタイムでは読んでいなかったのではないか、ということ。しかし、この雑誌は、私も探したが、古書店ではまず出ていない。あり得ない古書である。だから、だれか友人知人から手にいれたものではなかろうか。

9)あるいは、古書店で見つけたとしても、今回の私のように、偶然見つけたために、この4冊を脈絡なく購入したのかもしれない。そうとでも思わないと、あの全19冊のうちの、この4冊、ということがどうも納得がいかない。

10)無理くり納得しようとすれば、この年代である。1971/01~1972/08という発行年月日は、何を意味しているだろう。私は高校を卒業してヒッチハイクで日本一周していた時期。中学浪人で一年遅れた彼は、この年、高三だった。

11) 「朝日ジャーナル」特集:ミニコミ’71---奔流する地下水(1971/03/26朝日新聞社)から、「ニッポン若者紳士録」(1973/01 ブロンズ社)までの間の読書だとすると、まぁ、そういう流れもあるかとも思う。

12)この雑誌、結局はこの次の号で休刊になるのであり、後半部分になってのこの部分の読書ということになったのであろうか。いずれにせよ、この雑誌らしさ、というか、私自身がこの雑誌を強烈に覚えていて、しかも「影響」を受けた、と思う号ではない。これらには、ダダカンも、末永蒼生、アサリ式色彩心理診断も出てこない。

13)この4冊をぱらぱらめくってみて、おやっと思ったのは、まず鈴木いづみが1971/01号に「世の中、右も左もオカマだらけじゃござんせんか」を書いていること。p66  さらには、1972/04号には今上武蘭人が「ごっこ思想のススメ」を書いている。p78 伝説のサックス奏者・阿部薫と出会う前の鈴木いづみであり、「新宿プレイマップ」を出てまもなく、「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」1976/12 ブロンズ社)を出す4年前のの今上武蘭人の貴重な足跡である。

14)この4冊で著しい変化といえば、1972/04号までが中綴じであり、次の1972/05号から平綴じになっていること。当時「話の特集」が中綴じで、この手の雑誌の定番化していたので、追随する同傾向の雑誌は、それに倣ってA5中綴じ雑誌文化を形成していた。そこから脱却しようとしたのは、何か意味があったのだろうか。

15)その他の記事についてメモし始めればキリはないが、1972/04号で鎌田忠良+内田孝一「見世物小屋①呪詛をいだく下降の旅」p71の中に「エビ娘」の話が写真付きで長々と紹介されていること。実は小学生時代に、私はこのエビ娘を岩沼市竹駒神社の初午大祭で見て、いまだに強烈な記憶を持っている。あの時「娘」とは言っていたが、実はそうとうの年配であり、もう当時でも50歳ほどの方だったのだ、とあらためて驚愕した。

16)それと、平岡正明も相変わらず健筆をふるっている。実は、ハイティーン時代の私は、デザイン的には横尾忠則、文体的には平岡正明エピゴーネンであった。この二人さえいれば、私の雑誌はできる、と思っていた。だから、表紙はあんな風になり、文体もあんな風になった。ことさら「男根」という単語を使用していたのは、平岡正明「永久男根」などの影響をもろに受けていたのである。

17)さらに言えば、かの「星の遊行群」(1975/03)の私の文章の間を飾ってくれた一群の「広告」は、実は、この「黒の手帖」の各号からセレクトしてコピーしたものであったことを、今さらながらに思い出した。

18)この雑誌シリーズは思うところ多い。今後全シリーズをふたたび揃えることになるかどうは、全く定かではないが、意外に意外な展開を見せるかもしれない。

つづく・・・・・かなぁ・・・

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21)さすらいの夏休み」カテゴリの記事

コメント

veeraさん
この雑誌は貴重です。市場とアングラの接点の、ギリギリのところに位置していたように思います。地方のウブな高校生がアングラを一般書店で知ることの出来る稀な機会でした。
このシリーズで私にとって一番大きかったのは、末永蒼生氏が浅利式色彩心理診断法を紹介していたことでした。
大学行って心理学をやろうとしていたのですが、イマイチ面白くなさそうだった。そこにこの記事と出会って、それから一気にネットが広がり、方向性が急展開したのでした。

投稿: bhavesh | 2014/08/07 21:10

ものすごく貴重なお話をありがとうございます。あんなふう、こんなふう、面白いです。出版経験から言うと、出版部数も関係しているかもしれないと思いました。少なく刷ると、確実に足りなくなります。運がよければ、希少本ということになります。。

投稿: veera | 2014/08/07 02:47

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