「童貞としての宮沢賢治」押野武志<2>
<1>よりつづく
「童貞としての宮沢賢治」 <2>
押野武志 2003/04/01 ちくま新書 新書 p221
★★★★☆
1)「センダードマップ」(1987/09 カタツムリ社)につづく、石川裕人(ニュートン)蔵書シリーズの2冊目。第一印象は前回のメモで書いてしまっている。今は、あの時、彼の部屋で目についた本そのものが、すでに私のモノとして目の前にあり、私の蔵書となった。
2)彼の蔵書の特徴は、極めて綺麗に保存していることである。この本も、巻末に彼が読書した日付の鉛筆書きを綺麗に消してしまったら、このまま店頭に並べても新品として流通しそうなことだ。腰巻にも「ストイシズムの快楽」と書いてあったことが、この蔵書によってあらためて知ることができた。
3)全てがそうなのかどうかはわからないが、他の栞や案内などが挟まっているページも、彼の場合は要注意である。付箋の代りに挟めている可能性もある。この本ではp048~p049の間に挟まっていた。「学生たちのオナニー」、「白樺派のオナニー」の小見出しの間であった。ここにニュートンが何かの思い入れをしたかどうかは、今のところ定かではない。
4)この本のタイトルは、出版社からのオファーであって、著者自身はむしろ躊躇するようなネーミングであったことを巻末の「おわりに」で知った。当然このタイトルに恥じない内容の論旨が展開されてはいるが、全体としては全うな賢治論である。いやむしろ、他の多岐にも渡る立派な文学論である。
5)しかるに、追えば追うほどわからなくなる賢治像である。そこがまた賢治追っかけをする者の心をくすぐるのだが、深追いすればするほど、もっとシンプルな賢治でいいではないか、と思ったりする。宮澤和樹監修「宮澤賢治 魂の言葉」(2011/06 ロングセラーズ)あたりの、あっけらかんとした賢治ワールドダイジェストが恋しくもなる。
6)ニュートンの描いた賢治ワールドは決して難しいものはなかった。哲学的に深追いしたり、他の多くの文学者とのリンクを張り続けることもなかった。単純に宮澤賢治を愛した。あるいは、演劇や戯曲としての、その場に関わる人びと、つまり、戯曲者、演出者、役者、観客、参加者、協力者、それぞれの共通理解としての宮澤賢治を遊んでいたと思う。
7)しかりながら、語るべき台詞を、別な役者に語らせたり、複数の童話をまぜこぜにして、賢治の不思議ワールドをさらに膨らませた。そこには、賢治を丸映しするというよりも、読み方がいろいろあり、またそこから更なる新しい物語が作れることを示していた。極論すれば、石川版「宮澤賢治」というものであって、そこから、あまり強引ではない形で、石川演劇が頭をもたげてくる。
8)ニュートンは、この小さな新書をどのような形で読んでいただろう。すでにブログに書いていたことも知っているし、その頃彼がどのような芝居を書いていたことも分かっている。私としては、この本を手にすることによって、当時のニュートンの存在感が、すくっと実像を結んでいくような想いに襲われた。
9)巻末の鉛筆書き。00304280 裕人
これは「2003年4月28日読了」の意味である。4月1日発売の本、その月末には読了している。常に新刊本にも目を見張っていた(特に演劇論や賢治論)ニュートンの読書生活がほうふつとする。
10)ちょっと気になった部分を転記しておく。
宮沢家は結核患者を多く出す家、すなわち「マキ」と呼ばれて差別を受けていた。p149「賢治は私たちを癒してくれるのだろうか」
この「マキ」は、畑山博他「宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版」(2011/07 求龍堂)においては、次のように述べられている。
賢治の両親は、ともに姓を宮沢という。父方も母方も宮沢家である。祖先をたどってゆくと、一人の人物にで行き当たる。つまり遠縁の一族なのだ。その人物とは誰か。江戸中期の天和・元禄年間に京都から花巻にくだってきたといわれる、公家侍の藤井将監(しょうげん)である。この子孫が花巻付近で商工の業に励んで、宮沢まき(一族)とよばれる地位と富を築いていった。(中略)
いずれにしても、賢治の祖先は、京都からの移民である。つまり、賢治の中に流れている地は蝦夷以来の、みちのくの土着ではない。天皇を頂点とするクニに反逆する血ではないのだ。「宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版」p106「生涯」
11)この部分は、当ブログとしては、非常に気になっている部分である。結核菌を「播く」という<マキ>なのか、富を独占することによって一族をまとめたという意味での、とり<まき>なのか、と想像してみるが、関連資料も少なく、決定稿もない。
12)いずれにせよ、結核病み一族として距離を置かれていたのか、余所からやってきた他所者として距離を置かれていたのか、この「マキ=まき」には、何かの秘密が宿っていそうだ。
13)過去300年程の血の連続を確認できる私としては、どうも賢治を東北の「常民」と見るよりは、どこからかやってきた「マレ」人として見たほうが分かりやすいように思う。彼は「東北人」ではないように思う。そう、賢治は、賢治そのものが「風の又三郎」だったのだろう。
14)そういう意味においては、石川裕人も父親のルーツを塩釜に持ち、母親のルーツを山形天童に持ちながら、父親の仕事の都合で住みついた名取という地においては、やはり「マレ」人であり、彼もまた又三郎の一人であっただろう。
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