「緑の党」ってなんだろう 緑の党* 政治・選挙スクールin宮城...<2>
「緑の党* 政治・選挙スクールin宮城」...〜社会を変えたい人、この指とまれ!〜
https://www.facebook.com/
■日時・場所:
8月23日~8月24日
http://www.hm-sendai.jp/
野次馬的に参加して、あっと言う間に4時間が経過したわけだが、面白いと言えば面白い集まりであった。途中で、申し訳ないが、30分ほど居眠りをして、舟をこいでしまったが、これは毎日の午後の日課なので、許してもらうしかない。
緑の党、とやらの、それなりの輪郭が、私なりに、少しづつ、わかってきた。日本的理解としては、ウィキペディアの「緑の党」を見ると、なにがなんだかわからない動きと言える。私も現代民主主義国家の一有権者としては、一度も選挙権を棄権したことはないわけだから、振り返れば、その時その時の自らの投票行動心理は、それなりに湧き上がってくる。
しかし、それらの「歴史」的因果関係と、いま、目の前にある「緑の党」を、ことさら関連付けて考える必要もあるまい。かつての「うんどう」と、今、目の前にある「かつどう」の大きな違いは、現に3・11が起きてしまい、すでに解決せざるを得ない「もんだい」が、より明確になってしまっている、というところにある。
単的に理解するとすれば、緑の党には、「緑」と「党」があるということである。緑は高邁な理想や理念である。これがないことには、緑の党とはいえない。何を最大限の課題とするかは微妙なところであるが、まず第一義で経済復興などは提唱しないだろう。
国民的関心度のトップとはいえないなれど、原発問題、エネルギー問題を考えなければ、「緑」派とはいえない。そして、それはどんな言葉を持ってくるにせよ、すでに多量の放射線はばらまかれてしまったのだから、原発問題は、もはや、根本的に「かいけつ」することはなくなった。
「党」としての緑の党は、現実的な実現可能性を追求するしかない。どれほど理想を語っても、絵に描いた餅では、選挙は戦えない。どのように現実化するかだ。緑の党にとっての現実化とは、早い話が、一人でも多く議員を作ることである。選挙に勝たなければならない。
つまり「緑の党」という言葉の中には、二律背反的な極めて深いジレッタントがある。このテーマに向かって、頭を寄せ集めて、ハートを寄せ合って、どうしたらいいかを話し合っている「かいぎ」のひとつが、このスクールである。
ここまで理解が進めば、あとはあまり難しくはない。ようは、これを楽しんでいくしかないのだ。当ブログにおける重要なキーワードは「Meditation in the Marketplace」である。実にパラドックスを含んだ奇妙なキーワードではあるが、実はこれこそが「しんじつ」なのである。
講師は89年あたりから、このいわゆる「緑」派の「選挙」に関わってきた「猛者」であるようだ。つまり、選挙参謀とか黒幕(ちょっと言葉は悪いが)などの役が似合いそう。今回のテーマは、国政ではなく、いわゆる自治体レベルの話である。選挙民が10万とか、時には1万を切るようなレベルでの「せんきょ」を、いかに「勝つか」、そこのところが語られている。
あらゆるマキャベリズムを駆使しても、結局落選してしまえば、たぶん、何も残らない。落選してもいい体験だった、などというのは、結局、落選者の弁でしかない。選挙は勝たなくてはならないのだ。つまり、勝てる選挙をしなくてはならない。
勝つには、勝てる候補者が最も必要であるが、勝てる候補者でも負ける時がある。これはもったいない。ポスターの作り方、個別訪問や、チラシの蒔き方、投票の依頼の方法、選挙管理委員会への対応、ひとつひとつは、体験者のみ知り得るレベルの話がいっぱいある。講師は、この手のたくさんのエピソードの実体的語り部である。
さて、本日の勉強会は、4部のうちの2部までだった。明日は、3部と4部。参加するかどうかは、まだ決めていないが、この「みち」を楽しもうと思えば、せっかくだから続けて参加してみる価値はありそうだ。
われわれの言葉で言えば、まぁ、「ゾルバ・ザ・ブッダ」の、この世の楽しみ方のひとつと心得るなら、緑の党、も悪くない。(結果として、この世のすべては、こう言えるのだがw)
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