「終末から」1973年6月号(創刊号)~1974年10月号(終刊号)
「終末から」
1973年6月号(創刊号)~1974年10月号(終刊号)筑摩書房 雑誌: 286ページ
Total No.3318~3321★★★★☆
石川裕人(ニュートン)蔵書市の第21~24弾。私が買い求めたものは1号(創刊号)、2号、8号、9号(終刊号)の4冊。3~7号が中抜けになっているが、すでに誰かに抜かれてしまったのか、もともとなかったのかは不明である。おそらく、蔵書市にはこの4冊しか出展されていなかったのだろう。
このところ70年を挟んだ、60年代から70年代にかけての雑誌や文化のリバイバルの兆候が見られるが、思えば、この「終末から」を取り上げているところは殆どない。そもそもが、スチュアート・ブランドの「ホール・アース・カタログ」(WEC)つながりで、サブカルチャー的なものが取り上げられる傾向がある。
この「終末から」は、カタログ的というよりは、伝統的な総合雑誌的な作りになっている。しかし、サブカルチャーというより、カウンターカルチャー性から言えば、この時代、この雑誌を外すことはできないだろう。
いま考えてみればわずか9冊しかでていなかったのか、と、あっけなく思う。当時の文化状況を考えれば、この雑誌はなかなか注目度が高く、私たちの共同生活体「雀の森」にも全巻揃えてあった。
私がこの雑誌のバックナンバーを持っていないのは、当時、個人所有ではなかったので、きっと流峰でも保存してくれているに違いない。
雑誌一冊一冊を読み返したりはしなかったけれど、気になるところと言えば、この創刊号から、井上ひさしの「吉里吉里国」の連載が始まっていること。そうか、このタイミングだったのだ。1934年生まれの井上、38歳時の執筆スタートである。
この吉里吉里国の独立譚は、当時の「独立」夢想の一連の中にあったのかも知れない。琉球国独立、アイヌ独立など、夢多く語られた。その中にあって、私たち「雀の森の住人達」が、中山平の「星の湯」で合宿したのは1973年の暮れ、この独立ブームに乗って、「東北独立合宿」と銘打ったものだった。
---ある6月下旬の早朝5時、12輌編成の急行列車が、仙台駅のひとつ上野寄りの長町駅から北へ向かって、糠雨のなかをゆっくりと動きはじめた---創刊号p257
この小説読み返してみれば、なんとスタートは、わが最寄りの長町駅から始まるのであった。ああ、そうであったのか。今あらためて感動する。毎回足げく通う図書館があり、ダダカンが近くに住み、3・11の被災者住宅が軒を並べており、そして最近では大型家具店IKEAがオープンして話題になっている、わが長町。
とはいうものの、あの当時は、むしろ国鉄東北本線ではなくて、山形へと繋がる国鉄仙山線の近くのほうにいたので、見落としていたかもしれない。
いや、むしろ、当時の私はこの小説を好ましいものとは思っていなかったかもしれない。「男はつらいよ」の「フーテン」などという言葉使いも、なんだか揶揄されているみたいで、嫌いな映画のひとつだった。今、全巻ライブラリーを持っているなんて、信じられない。
だから、東北のごく一部が「独立」してしまうなんていうこの小説を、気にはしつつ、できるだけ目をそらそうとしていたかもしれない。だが、今読んでみれば、ますます面白い。3・11後にこの小説が一部で話題になっていたことは理解できる。
銃声があがって一分ほどしてから、二人の男がグリーン車に入ってきた。ひとりは背が高く背広を着ている。もうひとりは小柄な躯に作業ジャンパーを背負っていた。背広男は少年に、
「お、少年警官イサム・安部君、ごぐろさん」
と強い訛りでねぎらい、
「えー、急行十和田3号グリーン車に乗り合せなすった皆しゃん、おはよごぜぇます」
と、これまた強い訛りで挨拶した。創刊号p274
おお、なんとここで最初に登場する少年は、イサム・安部と名乗る吉里吉里人だったのである。わがアベ一族としては、これはこれは、私たちの為に描いてある小説なのではないか、と思えるほどだ。ここを読んで、これから私のペン・ネームはイサム・安部にしようか、と胸ときめいたほどだ(笑)。
だがしかし、当時の私は本当に「東北独立」を夢見ていた「革命」少年だったのだから、当時この小説を読みながら、なんだか揶揄されているようで、嫌だったのではないだろうか(笑)。これを機会に、いずれこの分厚い超大作をゆっくり読んでみようと思った。
雑誌類にはあまり書込みをしないのかなと思っていたニュートンではあるが、創刊号の末頁には'73 7/8 Shiroishi Takajin とメモしてある。書店の名前でもあろうか。現在検索してみると、菓子店はあるが、書店はないようだ。この当時、私たちは同じ雀の森の屋根の下で暮らしていたのではなかっただろうか。
2号の裏表紙見返しには '73 7/23 From Yaesu とある。これは当然、仙台駅前ビルにあった、われが八重洲書房のことであろう。何かのおりに白石に行き、この雑誌の創刊号を見つけて購入し、2号を買いに八重洲書房に行った、当時のニュートンの姿が、目に浮かぶようだ。
8号には特に書込みはないが、9号(終刊号)には、やはり末頁に'74 10/3 邑 の書込みがある。当時彼は、いしかわ邑人のペンネ―ムを使っていた。
当時、ニュートンが何を求めてこの雑誌を読んでいたかは、現在となっては定かではないにせよ、井上ひさしの「吉里吉里国」を読んでいたことは間違いない。あれから20数年を経過して、仙台文学館で、井上ひさしVS石川裕人の対談が行われるようになるなんて、この雑誌が出た当時は、誰も思いつかなかったであろう。
僕も決して「好きな雑誌」とまでは言えなかったけど、気になる一冊ではあった。その一番の要因は、このタイトルにあった。「世紀末から」でも、「終末論から」でもなかった。もちろん「週末から」でもない。
時代の低迷する時代風潮を、政治的敗北論を脱却させ、地球環境的、あるいは歴史的視点からの見直し戦略へと、回転軸を移動させるような意図が見え隠れした。この雑誌が長く続かなかったとすれば、良くも悪くも、この誌名にそのゆえんはあるだろう。
時代は、70年的敗北感から離れて、高度成長幻想時代へと突入して行く。そのとき、「終末」を掲げ続けることは重くなりすぎた。よかったか、悪かったか。歴史を長いスパンで見れば、むしろ80年代的バブルが異常だったといわざるを得ない。
もう少し、謙虚な気分で「終末から」 を思い続けたほうが、高度成長論に踊らされ、原発エネルギーを浪費する社会構造をつくる必要性に駆られることがなかったのではないか。
21 世紀にして、再び私たちは「終末から」の状況に追い込まれている。
よくよく見ると、この雑誌には、横尾忠則の織り込みポスター(全8頁分 1メートルをゆうに超える長尺物)がついていたのだった。ニュートンはこれを綺麗に切り取っているので、残された雑誌をみただけでは全く気がつかない。 そう言えば、私もこのポスターを雀の森の机の脇に張ってきた記憶がある。絵そのものが、この雑誌にふさわしいかどうかはともかく、インパクトはすごい横尾ワールドである。 もし古書店で、この創刊号を見つけて、この付録がついていたら、即買いでしょう。
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