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2014年8月の37件の記事

2014/08/31

「終末から」1973年6月号(創刊号)~1974年10月号(終刊号)

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「終末から」
1973年6月号(創刊号)~1974年10月号(終刊号)筑摩書房 雑誌: 286ページ
Total No.3318~3321★★★★☆

 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第21~24弾。私が買い求めたものは1号(創刊号)、2号、8号、9号(終刊号)の4冊。3~7号が中抜けになっているが、すでに誰かに抜かれてしまったのか、もともとなかったのかは不明である。おそらく、蔵書市にはこの4冊しか出展されていなかったのだろう。

 このところ70年を挟んだ、60年代から70年代にかけての雑誌や文化のリバイバルの兆候が見られるが、思えば、この「終末から」を取り上げているところは殆どない。そもそもが、スチュアート・ブランドの「ホール・アース・カタログ」(WEC)つながりで、サブカルチャー的なものが取り上げられる傾向がある。

 この「終末から」は、カタログ的というよりは、伝統的な総合雑誌的な作りになっている。しかし、サブカルチャーというより、カウンターカルチャー性から言えば、この時代、この雑誌を外すことはできないだろう。

 いま考えてみればわずか9冊しかでていなかったのか、と、あっけなく思う。当時の文化状況を考えれば、この雑誌はなかなか注目度が高く、私たちの共同生活体「雀の森」にも全巻揃えてあった。

 私がこの雑誌のバックナンバーを持っていないのは、当時、個人所有ではなかったので、きっと流峰でも保存してくれているに違いない。

 雑誌一冊一冊を読み返したりはしなかったけれど、気になるところと言えば、この創刊号から、井上ひさしの「吉里吉里国」の連載が始まっていること。そうか、このタイミングだったのだ。1934年生まれの井上、38歳時の執筆スタートである。

 この吉里吉里国の独立譚は、当時の「独立」夢想の一連の中にあったのかも知れない。琉球国独立、アイヌ独立など、夢多く語られた。その中にあって、私たち「雀の森の住人達」が、中山平の「星の湯」で合宿したのは1973年の暮れ、この独立ブームに乗って、「東北独立合宿」と銘打ったものだった。

 ---ある6月下旬の早朝5時、12輌編成の急行列車が、仙台駅のひとつ上野寄りの長町駅から北へ向かって、糠雨のなかをゆっくりと動きはじめた---創刊号p257

 この小説読み返してみれば、なんとスタートは、わが最寄りの長町駅から始まるのであった。ああ、そうであったのか。今あらためて感動する。毎回足げく通う図書館があり、ダダカンが近くに住み、3・11の被災者住宅が軒を並べており、そして最近では大型家具店IKEAがオープンして話題になっている、わが長町。

 とはいうものの、あの当時は、むしろ国鉄東北本線ではなくて、山形へと繋がる国鉄仙山線の近くのほうにいたので、見落としていたかもしれない。

 いや、むしろ、当時の私はこの小説を好ましいものとは思っていなかったかもしれない。「男はつらいよ」の「フーテン」などという言葉使いも、なんだか揶揄されているみたいで、嫌いな映画のひとつだった。今、全巻ライブラリーを持っているなんて、信じられない。

 だから、東北のごく一部が「独立」してしまうなんていうこの小説を、気にはしつつ、できるだけ目をそらそうとしていたかもしれない。だが、今読んでみれば、ますます面白い。3・11後にこの小説が一部で話題になっていたことは理解できる。

 銃声があがって一分ほどしてから、二人の男がグリーン車に入ってきた。ひとりは背が高く背広を着ている。もうひとりは小柄な躯に作業ジャンパーを背負っていた。背広男は少年に、
「お、少年警官イサム・安部君、ごぐろさん」
 と強い訛りでねぎらい、
「えー、急行十和田3号グリーン車に乗り合せなすった皆しゃん、おはよごぜぇます」
 と、これまた強い訛りで挨拶した。
創刊号p274

 おお、なんとここで最初に登場する少年は、イサム・安部と名乗る吉里吉里人だったのである。わがアベ一族としては、これはこれは、私たちの為に描いてある小説なのではないか、と思えるほどだ。ここを読んで、これから私のペン・ネームはイサム・安部にしようか、と胸ときめいたほどだ(笑)。

 だがしかし、当時の私は本当に「東北独立」を夢見ていた「革命」少年だったのだから、当時この小説を読みながら、なんだか揶揄されているようで、嫌だったのではないだろうか(笑)。これを機会に、いずれこの分厚い超大作をゆっくり読んでみようと思った。Kirikiri_2

 雑誌類にはあまり書込みをしないのかなと思っていたニュートンではあるが、創刊号の末頁には'73 7/8 Shiroishi Takajin とメモしてある。書店の名前でもあろうか。現在検索してみると、菓子店はあるが、書店はないようだ。この当時、私たちは同じ雀の森の屋根の下で暮らしていたのではなかっただろうか。

  2号の裏表紙見返しには '73 7/23 From Yaesu とある。これは当然、仙台駅前ビルにあった、われが八重洲書房のことであろう。何かのおりに白石に行き、この雑誌の創刊号を見つけて購入し、2号を買いに八重洲書房に行った、当時のニュートンの姿が、目に浮かぶようだ。

 8号には特に書込みはないが、9号(終刊号)には、やはり末頁に'74 10/3 邑 の書込みがある。当時彼は、いしかわ邑人のペンネ―ムを使っていた。

 当時、ニュートンが何を求めてこの雑誌を読んでいたかは、現在となっては定かではないにせよ、井上ひさしの「吉里吉里国」を読んでいたことは間違いない。あれから20数年を経過して、仙台文学館で、井上ひさしVS石川裕人の対談が行われるようになるなんて、この雑誌が出た当時は、誰も思いつかなかったであろう。

 僕も決して「好きな雑誌」とまでは言えなかったけど、気になる一冊ではあった。その一番の要因は、このタイトルにあった。「世紀末から」でも、「終末論から」でもなかった。もちろん「週末から」でもない。

 時代の低迷する時代風潮を、政治的敗北論を脱却させ、地球環境的、あるいは歴史的視点からの見直し戦略へと、回転軸を移動させるような意図が見え隠れした。
この雑誌が長く続かなかったとすれば、良くも悪くも、この誌名にそのゆえんはあるだろう。

 時代は、70年的敗北感から離れて、高度成長幻想時代へと突入して行く。そのとき、「終末」を掲げ続けることは重くなりすぎた。よかったか、悪かったか。歴史を長いスパンで見れば、むしろ80年代的バブルが異常だったといわざるを得ない。

 もう少し、謙虚な気分で「終末から」 を思い続けたほうが、高度成長論に踊らされ、原発エネルギーを浪費する社会構造をつくる必要性に駆られることがなかったのではないか。
21 世紀にして、再び私たちは「終末から」の状況に追い込まれている。

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 よくよく見ると、この雑誌には、横尾忠則の織り込みポスター(全8頁分 1メートルをゆうに超える長尺物)がついていたのだった。ニュートンはこれを綺麗に切り取っているので、残された雑誌をみただけでは全く気がつかない。

 そう言えば、私もこのポスターを雀の森の机の脇に張ってきた記憶がある。絵そのものが、この雑誌にふさわしいかどうかはともかく、インパクトはすごい横尾ワールドである。

 もし古書店で、この創刊号を見つけて、この付録がついていたら、即買いでしょう。

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2014/08/25

自民・東電・メディアが作った原発日本「SIGHT (サイト)」 2011年 08月号

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「SIGHT (サイト)」 総力特集・自民・東電・メディアが作った原発日本
2011年 08月号
  2011/6/30発売 出版社: ロッキングオン 雑誌 季刊誌
Total No.3317★★★★☆

 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第20弾。彼の蔵書の中には、いわゆる反原発、脱原発の書籍も多かったのだろうが、私の目についたのは、「原発はいらない」( 小出 裕章 2011/07 幻冬舎ルネッサンス)とか、この雑誌とかだった。他の演劇関係の本とのバランスをとるため、そして、より最近の彼の動向を探るために、この本も一冊入手したのだった。

 勉強不足でこのような雑誌があったことを始めて知った。責任編集が渋谷陽一である、ということにもびっくりした。 さらにびっくりしたのはロッキン・オンの増刊号としてこの「SIGHT」シリーズがでていることだった。地味ながら、確実な出版をつづけている本もあるのだなぁ、と感心した。

 この本3・11直後の2011夏号となっているが、発売されたのは6月末日。実際の編集は震災直後のゴタゴタの中で編集されたものだろう。ニュートンは、雑誌類に関しては入手年月日のメモ書きを遺してはいないが、とにかく販売直後にこの雑誌を入手したものと思われる。

 雑誌全体をパラパラめくってみると、あの3・11直後にフラッシュバックして、私はこの雑誌をまともに読む気にはならない。執筆陣や編集内容について、いろいろ言うことは可能かと思う。しかし、今でもその意欲はわかない。

 「自民・東電・メディアが作った原発日本」という総力特集のタイトルも、今となってはごく当たり前に在り得るタイトルではあるが、「自民・東電・メディア」と言いきってしまうところに、小気味よさを感じないわけではない。

 民主党政権下で勃発した3・11であってみれば、現政権の対応のまずさばかりがクローズアップされたが、実は長年、原発を推進してきたのは自民党だった。そして現実の経済界をコントロールしていくには原発容認の態度を取らざるを得なかった野田どぜう政権も、分からないでもない。でも、所詮は、やっぱり民主党だって、同じ穴のどぜうなので、あった。

 東電と名指しされて、たしかに電力業界のリーダーではあっただろうが、他の電力会社も右ならいしていたという意味では、同罪であり、私の地区の東北電力だって、なんら体質は変わらない。いろいろなイベントなどでも感じたことではあるが、相当に強い力を感じる。

 ただ、電力会社から離れて暮らせるわけもなく、オール家電といった宣伝文句を看過し、そのような方策に敢えて強いノンを言わなかった限り、私たち一般市民にも責任はあったわけで、無過失ではない。ひとり東電を火ダルマにして解決する問題では決してない。

 メディアの迷妄は、いまあらためて言挙げするような内容ではない。とにかく複合汚染のなかで原発日本があったことは間違いない。そして、それは必ずしも日本に限ったことではない。アメリカ、ロシア、フランスをはじめ、ことさら「日本」を名指しして云々しても、いまさら仕方ないではないか、と思う。

 3・11直後は、地震、津波、原発のトリニティの中で、私なんぞは、とりあえず原発問題は「余裕のある人たち」にまかせて、実際的な地震+津波の被害のほうに目が行っていた。地震は一過性のものであり、建造物や社会インフラに支障はきたしたものの、いずれ修復が可能なように思われた。

 津波の被害は甚大であり、全体を把握するだけでも大変だった。だが、極私的に考えれば、一家族としては津波の被害はなかった。それでも親戚・友人・知人・顧客、あるいは多くの人々の惨状を考える時、なかなか原発問題までに思考を拡大していくことは、無理があった。

 余裕がある人が考えてくれ、と距離をおいていた原発問題だが、こうしてより直視しようとしている現在の自分を考える時、少なくとも地震・津波に関してはそれなりに方向性が見えてきた、という余裕を感じる。

 原発問題は、いまだ進行中であり、もはや完全なる「解決」という方策はなくなった。いかにこの問題から目を離さず、直視しながらも、持続的に、自らの必須項目として、この問題とは生涯関わっていかざるを得ないことを痛感している。そんな今頃である。

 いずれにせよ、震災直後にニュートンはこのような雑誌に目をとおし、芝居を書き、そしてその芝居を持って、多くの被災地を訪れ、そして力尽きて(出し切って)、その生涯を終えた。そのようなストーリーをキチンと押さえておきたい。

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「緑の党」ってなんだろう 緑の党* 政治・選挙スクールin宮城...<3>

<1>からつづく

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「緑の党* 政治・選挙スクールin宮城」...〜社会を変えたい人、この指とまれ!〜<3>
https://www.facebook.com/events/301866313328301/
■日時・場所:
 8月23日~8月24日    
http://www.hm-sendai.jp/sisetu/simin/sisetu/aoba01.html

ということで、2日目も参加して見ることにした。朝起きは辛い(夕べは寝苦しかった)。いつもは早朝に目が覚めてしまうのに、夕べは夜中にジュラシック・パークのDVDなんか見ちゃったからなぁ。

会場到着、部屋も変わって、2日目は昨日よりやや小ぶりか。

参考図書として、こんな本が回って来た。
http://koujinnotomo.com/・・・/kaeyou・・・/kaeyouchihougikai.html

 金もボランティアも集まらない候補者は、ダメである。

チラシと選挙公報 表現力が当落を決める!

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選対のみんなの意見が合意したこととは、むしろインパクトがない。最後は候補者の意見が大事。偏りがあったほうが効き目がある。

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早い話がポピリズムのお話だが、選挙と言わず、ブログのアクセス数をアップするとか、自分の日常の業務とかへの活用ができないわけじゃない。日々の営業を反省する。

立候補したいけど、家族が反対している、という人もいる。

閉会間際に飛び込んできた現職職員の演説、始まる。

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2014/08/24

「演出家の仕事」 六〇年代・アングラ・演劇革命/日本演出者協会/西堂行人<3>

<2>からつづく


「演出家の仕事」 六〇年代・アングラ・演劇革命 <3>
日本演出者協会/西堂行人(編)  2006/02 れんが書房新社 単行本 p269
★★★★☆

 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第19弾。この本についてもすでに何度か触れている。60年代、アングラ、演劇革命、というフレーズにおいては、私もニュートンも、遅れてきた青年に過ぎない。私たち当時の高校生がアングラに触れるのは1970年であり、演劇センター68/69(黒テント)にしたって、私たちが見たのは1970年になってからだっただろう。

 一方、現在の私は、ある仲間うちから「アンダーグラウンド会議室」というネット集まりに誘われており、60年代に始まる「アンダーグラウンド」流れのアーカイブズを作ろうというグループに属している。

 おそらくこの名前のこの目的のグル―プのメンバーとしては、私はふさわしくないだろう。60年代において、そのようなものに関わってはいないし、蔵書も少なく、知らない、というのが本音である。

 ただ、私が思っているのはこのグループは、自分たちの言いたいと思っている「うごめき」に対して、つける名前をまだ的確につかんでいないのであり、おそらく「仮称」が前についているのだろうと、いうことだ。

 アンダーグラウンド、カウンターカルチャー、ニューエイジ、ビート、ビートニク、ヒッピー、叛文化、グリーン派、反体制運動、学生運動、スチューデント・パワー、全共闘、全学連、地域闘争、反原発、フーテン、フリークス、イッピー、・・・・ などなど、ある時期からのうごめきは、さまざまな言葉で語られてきたが、どれも全てを包括するような使われ方はしていない。全ては不完全であり、他の何かの要素を含みつつ、しかも独立して離れているわけではない。

 私は、結論としては、私自身のブログの中の中枢を名付けるなら「地球人スピリット(・ムーブメント)」というのが、一番だと思っている。ここが核心であり、より深化すべきものとしてある。

 さはさりながら、はてさて「アンダーグラウンド」とは何か、という、古くて新しいテーマにまたまた直面することになる。60年代新宿の風月堂にくわしいフーゲツのJUNによれば、「アンダーグラウンド」の名付け親は、金坂健二であるという。かなり信ぴょう性のある説ではあるが、当ブログとしては、まだ結論をみていない。

 はてさて、我が友ニュートンにおいて、晩年のブログを見る限り、自分の理想とするのは「アングラ」であり、やりたいことは「アングラ・サーカス」である、と言っているようだ。

 彼においてのアングラとは、いわゆる60年代文化の踏襲であり、かつ、サーカスとは、テントであり、野外であり、吊りものや、階層的な仕掛けにあるだろう。火あり、煙あり、水あり、光あり、のサーカス的アングラ芝居、それをやりたかったに違いない、と思う。その代表作として彼は自身の「時の葦舟」を脳裏に浮かべるのである。

 宮沢賢治にまつわるPLAY・賢治シリーズや、シニアに提供したシリーズでもなく、子どもたちに提供したシリーズでもなく、あるいは社会派的批評劇でもなく、寸劇でもない。とにかく、彼は、そう表現するしかない「アングラ・サーカス」をやりたかったのである。

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 ニュートンは、この本を2006/05/16に自らの蔵書リストに収蔵している。発行が2006/02/15であるが、おそらくこの本は店頭に新刊本として並んだのではなく、誰かの紹介かカタログを見て、書店などに注文したのではないだろうか。

 アングラ、という言葉を、60年代的文化の形容詞とみるなら、「まだなにも終わっていない」と言うコピーは、むしろ宙に浮いた空虚なものになるだろう。

 ここはむしろ、60年代に生まれながら、その中核的なスピリチュアリティにおいて、いまだ命脈を保っている芸術的エネルギー、文化的足跡、という風に定義づけておけば、むしろ「アンダーグラウンド」というコンセプトは、今後も、確かにまだまだ生きつづけていくように思える。

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「八〇年代・小劇場演劇の展開」 演出家の仕事③日本演出者協会+西堂行人<4>

<3>よりつづく


「八〇年代・小劇場演劇の展開」 <4>
日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社 単行本  305p
★★★★★

 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第18弾。すでに何度か触れてきた本書である。個人的な彼との双方向性を考えるなら、互いの80年代を解くカギは、片やOSHO「ダイヤモンド・スートラ」にあるだろうし、片やこの 「八〇年代・小劇場演劇の展開」にあるだろう。

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 彼は、この紹介文をおそらく自分で書いたのだろうが、彼自身はこれで満足していただろうか。正直言って、私は満足していない。

 そもそも彼は自らを山形県東根市出身と「偽って」いるが、実際は、そこは母方の出身地であり、母が御里帰り出産をしたとはいうものの、そこを出身地というのは、宮城県人の私としては納得いかない。むしろ、塩釜市出身の父親の出身地を語るべきではなかったのか。少なくとも、幼くして名取市に移住したのだから、名取市出身としても可笑しくはなかった。だが、彼は敢えて、山形県出身を主張した。

 80年代の十月劇場からスタートしたように書いてあるが、それもちょっと待ってほしい。小学校時代の学芸会までは遡らないまでも、高校時代からスタートした劇団「座敷童子」、そして高校卒業後に組織した劇団「洪洋社」は、すっぽり抜けおちてしまっているのではないか。これでは当時関係した人々が、ちょっとさびしい思いをする。

 少なくとも、劇団「座敷童子」時代に情宣を一部担当した私としては、自分のいる位置がなくなってしまう。そう言った意味においては、いしかわ邑人、石川邑人などのペンネームも、どこかに起き忘れ去られてしまっている。80年代における彼は、そういう形で、自らを「演劇人」として「演出」していった。

 この本には、この本の出版にまつわる私文が残されている。

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 しかしまた、彼の側から見えた私も、いよいよ問題であっただろう。せーこーはせーこーだろう。Bhaveshだなんて「偽名」を使ったところで、お里は見えている。何をあいつはやっているのか。キャリア・ロンダリングはさせないぞ。

 まぁ、お互い、そういう位置関係にいた時代だった、ということになろう。(笑)

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 本を大事にする彼は、当然のことながら、この本の腰巻も大事に保存している。著者から発送されたのが2009/10/14。受け取って収蔵したのが、巻末の鉛筆メモから2009/10/17だったということが分かる。

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『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<8>

<7>よりつづく

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <8>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第17弾。ニュートンの蔵書市があると聞いた時、まず最初に頭に浮かんだのはこの本である。この本はなんとしてでも回収しなければならない。決して、他人に譲ってはならない。

 彼が亡くなったあと、書斎をのぞかせてもらい、入口の平積みの本の下部にこの本があったことを確認した時は、とても驚いた。彼がOSHOを読んでいるとは、思ってもみなかったからだ。

 よもやと思って、他の棚も目を凝らして探してみたが、私が発見したのは、OSHOの本としては、この本一冊だった。他、クリシュナムルティとかグルジェフなどの「古典」を探してみたが、彼にはこの手の読書志向はなかったかに見える。

 蔵書市に行った時、この本はすでに他の来客の購入分になっていた。それはまずいでしょう、ということで、頼んで私のものにしてもらったのだった。

 人間というもの、それぞれの嗜好があるわけだし、何をどう読むかは、それぞれの自由なわけだから、お互いの勝手だが、私は、もっとニュートンにはOSHO本を読んで欲しかった。彼の側から見れば、私の演劇理解がもっと深まって欲しいと思っていたに違いないのだが、これがお互いの生涯埋まらなかった立ち位置の差だった。

 彼の脳裏には、小学生の時から「シナリオライター」という言葉が埋め込まれてしまったのだろうし、こちらも父を亡くした小学生の時代からの思いが10代には「瞑想」という単語に置き換わっていたので、これはやむを得ない、それぞれの道だったのであろう。

 いずれにせよ、私もまた演劇や芝居に多少の理解を示そうとしたように、彼もまたOSHO本に手を出したという履歴は残ったようである。ただし、この本には、彼が通常残すような鉛筆メモがないので、いつ購入し、いつ読了(ツンドクだった可能性もないこともない)したのかもわからない。

 例によって、腰巻もキチンと残され、ページの間には、読者カードや出版案内なども残されている。決して粗末な扱いでもなければ、まったく読まなかった風でもない。

 私は今でもOSHOの本を読むのは得手ではないが、特にこの「ダイヤモンド・スートラ」は簡単ではない。読めば読むほど、含蓄が深く、ある意味、だからこそ、この本こそはOSHOの真髄とさえ言えるものではあるが、ニュートンがたった一冊OSHO本を読むとしたら、この本だったのかどうか、ちょっと悩むところである。

 しかしながら、結果として、この本だけが一冊ニュートン蔵書として残された限り、私の側からの、私とニュートンを繋ぐラインとしては大事な一冊になってしまったといえる。この本から彼の風景をたどって見る道が唯一残されたといえる。

  彼が長く手元に所蔵していたこのリアルな一冊が、今、私の手元にあるのだ、ということをメモして、とにかく、今日のところは、一人静かに納得することにする。

<9>につづく

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「緑の党」ってなんだろう 緑の党* 政治・選挙スクールin宮城...<2>

<1>からつづく

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「緑の党* 政治・選挙スクールin宮城」...〜社会を変えたい人、この指とまれ!〜
https://www.facebook.com/events/301866313328301/
■日時・場所:
 8月23日~8月24日    
http://www.hm-sendai.jp/sisetu/simin/sisetu/aoba01.html

 野次馬的に参加して、あっと言う間に4時間が経過したわけだが、面白いと言えば面白い集まりであった。途中で、申し訳ないが、30分ほど居眠りをして、舟をこいでしまったが、これは毎日の午後の日課なので、許してもらうしかない。

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 緑の党、とやらの、それなりの輪郭が、私なりに、少しづつ、わかってきた。日本的理解としては、ウィキペディアの「緑の党」を見ると、なにがなんだかわからない動きと言える。私も現代民主主義国家の一有権者としては、一度も選挙権を棄権したことはないわけだから、振り返れば、その時その時の自らの投票行動心理は、それなりに湧き上がってくる。

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 しかし、それらの「歴史」的因果関係と、いま、目の前にある「緑の党」を、ことさら関連付けて考える必要もあるまい。かつての「うんどう」と、今、目の前にある「かつどう」の大きな違いは、現に3・11が起きてしまい、すでに解決せざるを得ない「もんだい」が、より明確になってしまっている、というところにある。

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 単的に理解するとすれば、緑の党には、「緑」と「党」があるということである。緑は高邁な理想や理念である。これがないことには、緑の党とはいえない。何を最大限の課題とするかは微妙なところであるが、まず第一義で経済復興などは提唱しないだろう。

 国民的関心度のトップとはいえないなれど、原発問題、エネルギー問題を考えなければ、「緑」派とはいえない。そして、それはどんな言葉を持ってくるにせよ、すでに多量の放射線はばらまかれてしまったのだから、原発問題は、もはや、根本的に「かいけつ」することはなくなった。

 「党」としての緑の党は、現実的な実現可能性を追求するしかない。どれほど理想を語っても、絵に描いた餅では、選挙は戦えない。どのように現実化するかだ。緑の党にとっての現実化とは、早い話が、一人でも多く議員を作ることである。選挙に勝たなければならない。

 つまり「緑の党」という言葉の中には、二律背反的な極めて深いジレッタントがある。このテーマに向かって、頭を寄せ集めて、ハートを寄せ合って、どうしたらいいかを話し合っている「かいぎ」のひとつが、このスクールである。

 ここまで理解が進めば、あとはあまり難しくはない。ようは、これを楽しんでいくしかないのだ。当ブログにおける重要なキーワードは「Meditation in the Marketplace」である。実にパラドックスを含んだ奇妙なキーワードではあるが、実はこれこそが「しんじつ」なのである。

 講師は89年あたりから、このいわゆる「緑」派の「選挙」に関わってきた「猛者」であるようだ。つまり、選挙参謀とか黒幕(ちょっと言葉は悪いが)などの役が似合いそう。今回のテーマは、国政ではなく、いわゆる自治体レベルの話である。選挙民が10万とか、時には1万を切るようなレベルでの「せんきょ」を、いかに「勝つか」、そこのところが語られている。

 あらゆるマキャベリズムを駆使しても、結局落選してしまえば、たぶん、何も残らない。落選してもいい体験だった、などというのは、結局、落選者の弁でしかない。選挙は勝たなくてはならないのだ。つまり、勝てる選挙をしなくてはならない。

 勝つには、勝てる候補者が最も必要であるが、勝てる候補者でも負ける時がある。これはもったいない。ポスターの作り方、個別訪問や、チラシの蒔き方、投票の依頼の方法、選挙管理委員会への対応、ひとつひとつは、体験者のみ知り得るレベルの話がいっぱいある。講師は、この手のたくさんのエピソードの実体的語り部である。

 さて、本日の勉強会は、4部のうちの2部までだった。明日は、3部と4部。参加するかどうかは、まだ決めていないが、この「みち」を楽しもうと思えば、せっかくだから続けて参加してみる価値はありそうだ。

 われわれの言葉で言えば、まぁ、「ゾルバ・ザ・ブッダ」の、この世の楽しみ方のひとつと心得るなら、緑の党、も悪くない。(結果として、この世のすべては、こう言えるのだがw)

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2014/08/23

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<16>

<15>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<16>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 「フタバスズキリュウ発掘物語」(長谷川 善和(著) 2008/03 化学同人)を読んでしまった。

           9784759813142

 そして、スーパーマーケットで、ガラ鳥が税込100円で特売だった。

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 そして、何と言っても、フタバスズキリュウ(フタバサウルススズキィ)のカッコいいモデル画像を発見してしまった。

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 ああ、このことが私をして、ある衝動へと掻き立てる。今日、私はしらずしらずの内にカシワ屋の前で足を止め、丸鳥を買っているのだった。

<17>につづく 

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「緑の党」ってなんだろう 緑の党* 政治・選挙スクールin宮城...<1>

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緑の党* 政治・選挙スクールin宮城...
      〜社会を変えたい人、この指とまれ!〜 <1>
https://www.facebook.com/events/301866313328301/
■日時・場所:
 8月23日 13:00~17:00  仙台市青葉区中央市民センター第2会議室
 8月24日  9:00~12:00     同          第4会議室
 
 仙台市青葉区一番町2−1-1 (JR仙台駅から徒歩13分)
http://www.hm-sendai.jp/sisetu/simin/sisetu/aoba01.html

 福島県双葉郡、漠原人村の「満月祭」に参加した時に、何台もバンパーステッカーを張った車を見た。ふ~~ん。

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 「緑の党」と書いてある。よくよく見ると、何種類かあるらしい。大きさもいろいろあるのかな。

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 「緑の党」のステッカーがあるのだから、自民党とか公明党とか、民主党、共産党、などのステッカーもあってもよいが、それはなさそう。それとも、漠原人村にくるのは、「緑の党」が一番似合っている、ということなのだろうか。

 そもそも、「緑の党」とはなんだろう。3・11直後、あの中沢新一が「緑の党、みたいなもの」をつくりたい、とか言っていたから、それとなく留意はしていた。でもなぁ、そちらからは何も出てきそうな気配はない。

 そこにこのステッカーが登場した。こちらは別に中沢新一とは、直接の関係はなさそうだ。中沢新一が、旗印に使いたいと言っていた宮沢賢治や南方熊楠あたりとは、こちらの党も相性はよさそうだが。

 70年代からのヨーロッパの緑の党の動きはそれなりに気をとめてきた。が、いまだに日本ではそれらしきものは、キチンと成立していなかったのではないか、と推測する。

 うちの孫のひとりは、ミドリちゃん、というし、私は緑が大好きである。この緑の党とやらの実体は、現在、どうなっているのだろう。本当は、もうすこし獏つながりのイベントに連続して参加してみたいが(たとえば山水人YAMAUTOなどの祭り)、なかなか滋賀県までは足が伸びない。

 せめて近くで何かないかな、と思ってみたら、なにやら近々スクールとかあるらしい。内容は良く知らないが、まぁ、とにかく、「行って」様子を見てこよう。なにかわかるかもしれない。

<2>につづく

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「兄のトランク」 宮沢清六 <3>

<2>よりつづく 

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「兄のトランク」 <3>
宮沢 清六 1987/09 筑摩書房 単行本: 241p

 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第16弾。ニュートン蔵書に賢治関連書籍は多く、今回も何種類か入手してきたが、例えば、文庫本の賢治全集10冊組みなんてのも、実は欲しかった。今でも、あれ欲しかったな、と思う。1冊100円だから、1000円、と思ったが、その10冊組の第3集がすでに誰かが購入済みだった。

 う~ん、10冊のうちの一冊だけ買って、あとは9冊残されると、ちょっとその全集の価値は落ちるかも。他の人も欲しそうにしていたが、そのことがネックになって、最後まで売れ残っていた。でも、今考えてみれば、ほしかったな。

 「兄のトランク」。文庫の全集に比したら、この一冊は迷わずゲット。賢治の「全集」は、おそらく「全集」としては成立していないだろう。ひとつの作品がいくつも書きなおされていたり、およそ作品の体をなしていなかったり、日記あり、手帳あり、となれば、あとは編纂者の思惟が色濃く残るものであり、全集も、いくつも買い並べて比較しながら、その差異を味わう、ということになるだろう。

 「兄のトランク」は賢治関連の中でも出色の一冊である。有名になった賢治を自ら解読したような本がそれぞれたくさんあるが、この本は、実弟が、賢治の「遺言」によって、戦時下においても守り抜いて、とにかく出版までこぎつける話であり、「作られた」お話ではない。

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 前回この本を図書館から借りだして読んだのは2011/11/08。3・11後、あわてて賢治おっかけを始めた私にとっても、再読リストのベスト3に入るような、圧倒的な読後感だった。別に購入しようとは思っていなかったが、こうしてニュートン蔵書からさらに私の蔵書となったこの一冊を眺めていると、そのエネルギーは、強烈だ。

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 解説者や研究者の手によるものではないがゆえに、なお、つよい説得力を持っている。ニュートンは、この本を1988/01/21に初版第四刷で購入している。いつも新刊本を待ってましたとばかりすぐ購入している彼だが、この本には多少のタイムラグがあった。

 この本の売られ方も、おだやかに、静かに発信されたのかもしれない。ニュートンがこの本を遺しておいてくれらおかげてで、こうして腰巻も見ることができるわけだが、この腰巻を見ているだけで、私なんぞは、ジンワリと来てしまう。

 今後、私は、賢治を思い、清六を思い、ニュートンを思い、そして清六の孫にあたる人のお店「林風舎」を思いながら、私の中にも静かに芽生えてきた賢治の芽を、少しづつ温めて、水をやりつつづけていきたい。

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「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1<5>

<4>よりつづく

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「嗚呼!! 水平線幻想」 <5>
伊東竜俊戯曲集1 1980/06 カタルシス社 単行本 372p

 
 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第15弾は、この本。ニュートンが亡くなった後、その後を追うようにして、2か月後になくなった伊東竜俊。なんという因縁であることか。

 この本を最初ブログに書いた時、実はこの画像はネットオークションから借りてきたものだった。私は、もう本は増やしたくないので、いつも図書館から借りて済ましているのだが、どうやら、この本は私たちの共通の友人であるサキが落札したらしい。「貴重だろう」という彼の自慢げな顔に、ああ、そうだね、と答えておいた。

 私は別にこの本を所蔵しようとは思っていなかった。だけど、結局、この本は私のところに来ることになっていたのだろう。竜俊が、東光印刷で作り、ニュートンに渡し、結局、蔵書市で私のところに来ることになったのである。因縁の一冊である。

 この本を手にした私を見て、カズエちゃんが、あれ「せーこー、この本、持っていなかったの?」と笑っていた。持っていなかったんだよね。だって、あの芝居は77年だし、この本は、その脚本だけど、出版は1980年になってからだった。

 前回は、ネット画像だったからはっきりしなかったが、今回はジックリ腰巻などにも目が行きましたよ。

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 「河北新報<激賞!>」は、伊東竜俊本人のコピーであろう。別に「激賞!」という程ではないではないか、と、出演者の一人としては、ちょっと恥ずかしくなる。(笑)

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 当時の河北新報の夕刊に載ったのはこの写真であろう。私は、後ろでヘルメットをかぶって、上半身裸である。私の人生の中での唯一の演劇写真w

 この本をニュートンはいつ読んだのだろうと思ってみたが、メモ書きはない。それどころか、この本には、表紙扉裏に、為書きがあった。

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 なんと、この本、2006年にして、ようやく竜俊からニュートンへ「贈呈」されたものだった。おいおい、いまさら何をやっているのかね。

 それにしても、35年目のお付き合い、という竜俊のコピーも、相変わらず臭い。そもそもあの二人が遭遇したのは1973年か74年の筈。ということは2006年はせいぜい32年目あたりではなかったのかな。まぁ、竜俊は、ニュートンより学年で3学年上だったはずだが、彼にしてみれば、ニュートンはスリスリしたい存在だったのだろうなぁ。

 こいつら、いつもつるんで酒ばかり飲んでいた。あっちに行っても、まだ飲み続けているのかなぁ。

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「宮沢賢治 」存在の祭りの中へ 見田宗介 <2>

<1>からつづく

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「宮沢賢治」―存在の祭りの中へ <2>
見田 宗介(著) 1991/8/12岩波書店 同時代ライブラリー 新書 290ページ
Total No.3317★★★★☆

 石川裕人(ニュートン)蔵書市の第14弾。私もすでにこの本を読んではいたが、1984/02岩波書店発行の、古いヴァージョン。読んだのは2012/02/18だからごくごく最近のこと。宮沢賢治山尾三省の繋がりのなかで読んだのだった。

 この本はいくつかのヴァージョンがあるようであり、収蔵のされ方によって、すくなくとも4種類以上はあるようだ。ニュートンは、この1991/8/12発行の本を1991/8/21に読了(あるいは購読)している。巻末の鉛筆メモにはそう記してある。いずれにしても、まいど相変わらずの速効で読みたい本は直ぐに購入しているようだ。

 本書では、元本になかった「補章 風景が離陸するとき シャイアンの宮沢賢治」p255以下、およそ25p分が追補されている。彼はこれが読みたかったのだろうか。あるいは初読だったのかは、明らかではない。

 アメリカ原住民シャイアンの人タシナ・ワンブリが日本に来て、宮沢賢治に強く魅かれ、「鹿踊りのはじまり」や「なめとこ山の熊」をシャイアンの使うことばに訳して書き送ったところ、アメリカに住む原住民の人たちのほんとうに深い共感を呼んだという。

 彼女が日本に来て親しくなった日本の友に、シャイアンに伝わるいくつかの話をしたところ、その友人がおどろいて、「日本にもそれと同じ話がある。」と語ってくれたのが、賢治のいくつかの童話だという。

 賢治が自分の童話集の序に、

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。  (「注文の多いレストラン」)

 と記しているのは、ふつう言われているように賢治の謙遜でも空想でもなく、ほんとうのことだとわたしは思う。

 それは文化を超えナショナリティを超えて、人間が動物たちや、木や石や虹や月あかりたちと直接に交わるところで、これら気層と地層の綾なす現象の語ることばに、ただ心をすきとおらせて耳を傾け、刻(しる)されたことばにちがいないからだ。p279見田 「補章 風景が離陸するとき」  

 石川作品には賢治にまつわる話は多い。今回の蔵書市でも、他にも賢治関連本を入手してきた。それらとの関連で、いずれ、まとめて眺めてみることにしよう。

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    2014/08/22

    新訂「方丈記」 市古貞次(翻訳)

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    「方丈記」新訂
    鴨 長明(著), 市古 貞次(翻訳) 1989/5/16 (岩波文庫)文庫– p151
    Total No.3316★★★★☆

     石川裕人(ニュートン)蔵書市の第13弾。タイトルがタイトルだけに、彼の遺作となった「方丈の海」との直接の繋がりを感じさせる。この本にはめずらしく、4か所に付箋がついている。読了したのは2011/11/06だが、この本は第37刷目。2011/03/15の発行となっている。じつに3・11大震災の真っただ中の出版だったことになる。

     当ブログでも、方丈記は二種類読んだ。「方丈記 現代語訳付き」(簗瀬一雄翻訳 2010/11角川学芸出版)と、「方丈記」(浅見和彦翻訳 2011/11 筑摩書房)。古典中の古典につき、いずれがどうと比較するような問題ではないが、それぞれに翻訳者たちの人生観がつよく香ってくる。

     前著を読んだのが2011/06/22、後者を読んだのが2012/06/13。一年を挟んで二種の方丈記を読んでみたのだが、さらに、ニュートンに倣ってこちらの市古翻訳本も読んでみるのもいいだろう。

     彼の遺作となった「方丈の海」は、この鴨長明の「方丈記」と、三島由紀夫の「豊饒の海」がかけ言葉として元を成していると思う。丁寧な読み方をしていないので、すぐには指摘できないが、彼のユーモアのセンスから考えれば、それは多いに在り得るドラマツルギーである。

     4か所に貼りつけてある付箋は、決して代表的な部分ではないのだが、おそらく芝居の中に描写する時に必要になる部分であったのだろう。いずれ時間ができたら、この4か所を深読みするのも面白そう。

     彼が大作家として評価され、もっともっと時代が過ぎてしまった後なら、この本に残された付箋の意味するところが、大きな話題を生む、なんてこともあるかも知れん、とひとりほくそ笑む。

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    「麻原彰晃の誕生」  高山文彦 <2>

    <1>からつづく

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    「麻原彰晃の誕生」 
    高山文彦 2006/02 文春新書 p249

     石川裕人(ニュートン)蔵書市の第12弾。当ブログなりに麻原彰晃との一団が引き起こした事件を、ずっと時間をずらしておっかけてみたが、この本は、出色の一冊だった。麻原の生い立ちを尋ね、類本に見ないじっとりとした姿勢で事件の本質を追う。

     ニュートンがこの本を読んだのは、2006/02/25。この本もまた彼はリアルタイムで購入している。ここまでやられると、実に、私なんぞは、出版されてすぐ購入する本などというものはないのではないか、とさえ思えてくる。

     ましてやすでに書店から本を購入するのをやめて、図書館から借りるのを中心としてからは、リアルタイムで新刊本を読むということはほとんどなくなった。あったとしても、月一度くらいの書店での立ち読みで済ましてしまうことがほとんどである。

     それでは身につかないでしょう、という向きもあるかもしれないが、身になどつかなくても構わない。所詮、読まない本を購入してツンドクにしてしまうより、月遅れの図書館本でも、こうして読書ブログにメモしておけば、それなりに、自らの情報源には成り得るのである。

     それにしても思いだすのは、彼の芝居を決定的に見なくなったのは、1995年の、いわゆるオウム事件の直後に、彼がオウムを「おちょくって」書いた芝居が、あまりに私の視点と違っていて、ああ、これは、全く違うと痛感してからだった。

     私には、芝居を「見る」という行為が、まったく意味をなさなくなったのは、あれからだった。

     あの問題は、今だ解決していない。いずれ、あの問題に再突入しなければならないだろうと、覚悟はしているが、どうもいまいち意気があがらない。

     おそらく、彼のほうが、あの事件や、その背景にあることごとを、少なくとも私よりかは、客観的に見ることができる立場にあるように思う。そして、彼は「共感」的よりかは、「冷笑」的に、あの事件を見ているだろうと思う。

     そうしてみると、私は逆に、彼よりかは、もっと身近にあの事件を「感じざる」を得なかった、ということになろう。だからこそ、私はあの事件を再点検しようという気分になるまで10年かかったということになる。

    私がこの本を読んだのは2007/.07/29。この本自体、いわゆる一過性のブームに遅れること10年を経過しての出版だったのだが、私はやはり一年半遅れのタイミングで読んでいる。この本は、読んでいて、ちょっと恐ろしくなった本である。

     そう言えば、 「オウム帝国の正体」(一橋文哉 2000/7 新潮社)なんて本も怖かった。おそらく、ニュートンは、こちらの本もリアルタイムで読んでいたに違いない。蔵書市では見つけることはなかったが。

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    「2001年宇宙の旅」講義 巽 孝之 <2>

    <1>からつづく 

    『2001年宇宙の旅』講義 (平凡社新書)
    『2001年宇宙の旅』講義 <2>
    巽 孝之 (著) 2001/05新書 平凡社 205p
    ★★★★★

     石川裕人(ニュートン)蔵書市の第11弾。私もこの本にハマった。珍しく自分でもこの本を買った。とは言っても読んだのは2010/11/22。実に出版からほぼ10年後のことである。かたやニュートンは出版直後の2001/05/29に読んでいる。ええ、ほんとかよ、いうタイミングで新刊本を読み続けている。

     そもそも、彼はSFの大ファンだった。彼がいたから「2001年宇宙の旅」などに興味を持った私だったが、実際にその意味をよく理解していたか、というと、あまり定かではない。

     それに比して、最初の最初、小学生や中学生時代から、彼はSFを追っかけていたし、それらを大局的にみるチカラを持っていた。だからこそ、この「講義」もすぐ見つけて読んでいるのだろう。

     もっとも私は、この本の中の夢枕獏の小説「上弦の月を喰べる獅子」に関するくだりにハマっていったのだった。宮沢賢治ゆかりの小説であるだけに、賢治については一歩も引かない独自の理解を示し続けたニュートンゆえ、この夢枕の小説についても読んでいたであろう。

     まぁ、よそ様の読書と比較してどうの、というのも、なんだか下世話な趣味だが、それにしても、彼の先見性と巾の広さ、そしてリアルタイムで追いかけていたその姿勢に、今さらながら、圧倒される。

    <3>につづく

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    「インターネットの中の神々」 21世紀の宗教空間 生駒孝彰 <2>

    <1>よりつづく

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    「インターネットの中の神々」 21世紀の宗教空間 <2>
    生駒孝彰 1999/10 平凡社 新書 p211

     石川裕人(ニュートン)蔵書市の第10弾。う~ん、こんな本まで読んでいたか。実は私はこの本は好きではない。特にOSHOのことが書いてあり、どんなことが書いてあったか、忘れてしまったが、いいことは書いていなかったはず。

     だから、彼がOSHOの「ダイヤモンド・スートラ」を読んでいた、ということの反面、このような本にも手をだしていたのか、と、ちょっと寂しい、ちょっと悲しい気分になる。

     彼がこの本を読んだのは、1999/10/22。これらの日付が決して読了の日ではなくて、購入の日であったとしても、実にリアルタイムで本を購入し続けていたという感じがする。

     彼の細君は、一月に5冊も6冊も本を買っていた、と言っていたが、まぁ、よくよく考えてみれば月に5~6冊はそれほど多くはない。私だって、その位のペースで本は読んでいるだろう。ただ、彼の場合は、次々と新刊本を買い続けるのが特徴だ。

     芝居の脚本家というものは、時代のインテリのやる仕事だ。だから、本や音楽CDや映画、それぞれに最新の情報を入手しつづけていたのだろう。仲間うちの芝居を見るのだって、決して招待券とか無料券があったわけではないようだ。

     それだけの投資をし続けた上での彼の芝居があったということだろう。すさまじいまでの芝居への執念である。私がこの本を図書館で見つけて、腹ただしい気分で読んでいたのは、2006/12/30のことであった。彼に遅れること7年以上。考えてみれば、私の読書は実に、時期を外した、のんびりとしたものである。 

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    「<帝国>」 「マルチチュード」 「世界共和国へ」<4> 

    「<帝国>」<4>よりつづく

    「マルチチュード」<再読>よりつづく

    「世界共和国へ」<再読ii> よりつづく

     

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    「<帝国>」グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性<5>
    アントニオ・ネグリ(著), マイケル・ハート(著), 水嶋 一憲(翻訳), 酒井 隆史(翻訳), 2003/01 以文社 単行本: 579ページ

     石川裕人(ニュートン)蔵書市の第6弾~9弾。まずは「<帝国>」。彼が亡くなったあと、自宅の書籍を覗かせてもらった時にこの書を見つけた時には、ちょっと驚いた。失礼ながら、彼がこのような本まで読んでいるとは思っていなかったので、意表を突かれた。蔵書市にあっては、やはりこの本を拾っておかなければならない、と思った。

     彼はこの本を本当に完読しただろうか。巻末を見ると、2005/10/07のメモがある。必ずしも発売された直後に読んだわけではなさそうだ。栞の紐はp22に挟まっている。彼はここで退却したのではないだろうか。それにしても、キチンと腰巻まで保存している彼の蔵書としては、この本には蔵書が残されていない。

     かくいう私がこの本を最初に読んだのは、2006/10/21。彼に遅れること丸一年である。私自身は、この当時、本というものを殆ど読んでいなかった。ブログの書き方も、実に不安定な時期である。

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    「マルチチュード」 上 <3>
    <帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)アントニオ・ネグリ(著), マイケル・ハート(著), 幾島 幸子(翻訳) 2005/10/30 NHK出版 
    単行本: 335ページ

     「<帝国>」とくれば「マルチチュード」が来なくてはならない。彼が巻末にメモしているのは2005/10/30。実に販売日に購入し、読了したことになっているが、読了はしていないだろう。少なくとも「<帝国>」の僅か三週間後にこの本を購入したとすれば、よほど、このセットが気になっていた、というのは確かだろう。

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    「マルチチュード」 下 <帝国>時代の戦争と民主主義 <3>
    アントニオ・ネグリ(著), マイケル・ハート(著), 幾島 幸子(翻訳) 2005/10/30 単行本: 309ページ

     こちらもまた2005/10/30と巻末にメモがある。これは単に上下本を同時に購入した、ということを意味しているだけだろう。同時に読み切れる筈はない。そして、彼の読書の特徴は、ここから更にアントニオ&ハートの一連の書籍に食指を伸ばしていったわけではない、というところ。少なくとも、同じ著者の書籍は私は見つけることができなかった。

     かくいう私が最初にこの本を読んだのは、上巻が2006/10/23、下巻が2006/10/08。上下逆転しての読書であったが、いずれにせよ、彼に遅れること一年である。当時から、この本については、ちょっとタイミングを外しているかな、と思いつつ読んではいたが、それでも、彼との比較では一年程度でおっかけていたのだ、と、ここで確認する。

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    「世界共和国へ」―資本=ネーション=国家を超えて<4>
    柄谷 行人(著)  2006/4/20  岩波書店 新書: 228ページ

     私がネグリ&ハートに気付いたのはこの本において。2006/10/01。つまり、ここから急にネグリ&ハート追っかけが始まったということになる。 ほぼ同時に「ネオ共産主義論」(的場昭弘 2006/04 光文社)を2006/10/06に読んでいる。

     はてさて、それではニュートンはというと、こちらの本も発売とほぼ同時の2006/04/25に読んでいることになっている。いやはや、実にアンテナを張りっぱなしで、しかも、読書道楽に専念している、という雰囲気がする。私なんぞは、図書館の棚にあるものを遅れ遅れに手に取っていた、ということだろう。それでも、ここではその落差は半年に縮まっているか。

     それにしてもこの2005~6年代においても、彼、石川裕人の読書は、ゆかりなく果敢に攻め続けられていた、ということができるだろう。

     ただし、私は、一連のこの本たちの追っかけをしたものの、結局は、自分の道ではないと悟らざるを得なかったし、おそらく彼にしても、決して深追いはしていなかっただろう、と推測される。おそらく、当時の流行であったのだろう。

    「世界共和国へ」<5>へつづく

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    2014/08/19

    「ゴジラ、完全復活!」 Pen(ペン) 2014年 7/15号

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    ゴジラ、完全復活!」
    Pen(ペン) 2014年 7/15号 阪急コミュニケーションズ 雑誌 月2回発行
    Total No.3315★★★☆☆

    1)最近は、定期的に購読している雑誌というものがない。考えてみれば、定期購読している新聞もないので、割とふらふらとした、識見のない、浮遊層になってしまっているのかもしれない。まぁ、それはそれでいいのだが。

    2)その中にあっても、雑誌「Pen」は書店に行ってもちょっと気になる本であり、たまに、そう、年に一冊か二冊かは「これは」と思う特集がある。それらが一冊の本になったのがPen Booksであり、その中に「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線( 2011/07 阪急コミュニケーションズ)もあった。

    3)その雑誌「Pen」の特集に「ゴジラ」があると、恐竜ならぬ怪獣ではあるが、どことなくそそられてしまうのだった。

    4)そもそもは、1954年に始まった日本映画の「ゴジラ」から始まって、ハリウッドで製作された最新作へ至る特集であり、あえて言えばこの最新作のパブリシティで作られた特集だから、それほど期待はしていなかった。

    5)それでもふと思う。娯楽やエンターテイメントとして核実験とゴジラとが対となっているのなら、本来はもっと現実に対峙して考えてみなければいけない。むしろ原発と恐竜を対にして考えてみたほうがいいのではないか。

    6)ゴジラ映画はまだ見たことないが、Youtubeでも見れそうだし、わが図書館にもAV資料として多数所蔵されている。今後見るかどうかはともかくとして、これだけ問題意識を持たれていながら、いまだに原発を廃絶できない、というのが、現人間界の現実である。

    7)フィクションを語っていられる時代は終わった。すでに起きてしまった現実に対処しなければならない段階になっている。

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    8)いまはもう、福島第一原発からほど近い双葉郡で目を覚ました、フタバスズキリュウが、現代地球人に、その蒙昧さを教えてくれる時代になってしまった。

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    2014/08/18

    「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<15>

    <14>よりつづく


    「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<15>
     鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

    この辺で、恐竜関連リストを作っておこう。

    恐竜関連リスト 工事中

    「ジュラシック・パーク」1993年公開 リチャード・アッテンボロー (出演), サム・ニール (出演), スティーブン・スピルバーグ (監督) DVD

    「NHKスペシャル 生命」 40億年はるかな旅 第1集 :海からの創世 出演: 毛利衛 1994/4/24放送 DVD

    「だんボールでつくる 恐竜・20」 滝口あきはる(著) 1994/04 星の環会

    「NHKスペシャル 生命」 40億年はるかな旅 第2集 進化の不思議な大爆発 出演: 毛利衛 1994/05/29放送:

    「NHKスペシャル 生命」 40億年はるかな旅 第3集 魚たちの上陸作戦 大島ミチル (アーティスト), 毛利衛 (出演・声の出演) 1994/06/26放映

    「NHKスペシャル 生命」40億年はるかな旅 第4集 花に追われた恐竜 1994/07/31放映

    「NHKスペシャル 生命」40億年はるかな旅 第5集:大空への挑戦者 1994/09/25放映

    「NHKスペシャル 生命」40億年はるかな旅 第6集:奇跡のシステム“性” 1994/10/30放映

    「NHKスペシャル 生命」 40億年はるかな旅 第7集  昆虫たちの情報戦略 1994/11/27放映 1995/01/29放映

    「NHKスペシャル 生命」40億年はるかな旅 第8集:ヒトがサルと別れた日 1995/01/29放映

    「NHKスペシャル 生命」40億年はるかな旅 第9集:ヒトは何処へいくのか 1995/02/26放映

    「NHKスペシャル 生命」40億年はるかな旅」 最終回 地球と共に歩んで 1995/03/19放映

    「メイキング・オブ・ジュラシック・パーク」完全収録版 スティーヴン・スピルバーグ (出演), ジョン・シュルソ (監督) 1995/10/21 販売元: CICビクター・ビデオ VHS

    「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」1997/11公開 ジェフ・ゴールドブラム (出演), ジュリアン・ムーア (出演), スティーブン・スピルバーグ (監督) 販売元: ジェネオン・ユニバーサル | 形式: DVD

    「チキンの骨で恐竜を作ってみよう」 クリス・マクゴーワン (著), 瀬戸口 烈司 (翻訳), 瀬戸口 美恵子 (翻訳), ジュリアン マロック(画) 1998/08 青土社

    「恐竜たちの地球」カラー版  冨田幸光著 1999/9/29 岩波書店

    「ジュラシック・パーク 3」 2001年公開 サム・ニール (出演), ウィリアム・H・メイシー (出演), ジョー・ジョンストン (監督) |ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン  DVD

    「地球大進化」〜46億年・人類への旅 NHKスペシャル2004 2004/04~2004/10放映

    「Sue スー」  史上最大のティラノサウルス発掘 ピ-タ-・ラ-ソン&クリスティン・ドナン著 冨田幸光監訳 池田比佐子訳  2005/03 朝日新聞出版

    「ティラノサウルス」小田 隆/作絵  真鍋 真/監修 2005/03 金の星社

    「恐竜ファイル」―先史時代の地球を闊歩した恐竜たちの驚くべき生態120種リチャード・ムーディ (著), 東 眞理子 (翻訳) 2007/2/2 ネコ・パブリッシング

    「スーパーリアル恐竜大図鑑」―精密なCG・イラストで代表的な32種を徹底解説 富田京一監修 2007/07 成美堂出版

    「木の実の恐竜と小動物」-自然素材で作る 自然素材工作編集部 2007/10 誠文堂新光社

    「フタバスズキリュウ発掘物語」-八〇〇〇万年の時を経て甦ったクビナガリュウ 長谷川 善和 2008/03 化学同人

    「恐竜学ノート」恐竜造形家・荒木一成のこうすればかっこうよく作れる恐竜模型 荒木一成 2008/04 今人舎

    「フライドチキンの恐竜学」 食卓の骨には進化のナゾがつまっている盛口 満 2008/06 ソフトバンククリエイティブ 

    「新版 恐竜の飼いかた教えます」 ロバート マッシュ 著, 新妻 昭夫 (翻訳), 山下 恵子 (翻訳), リチャード・ ドーキンス 2009/03

    「よみがえるTレックス」 謎の幼年時代を解明 ナショナル・ジオグラフィック 2009/06

    「ぼくは恐竜造形家」 夢を仕事に 荒木 一成 2010/02  岩崎書店

    「24 HOURS AFTER 恐竜絶滅の日」 ナショナル ジオグラフィック 2010/03  日経ナショナル ジオグラフィック社

    「2億5000万年後の地球」 ナショナル・ジオグラフィック 2011/02 角川出版販売

    「リアルダイナソー 恐竜は何色だったのか 」 ナショナル ジオグラフィック 2011/05 日経ナショナル ジオグラフィック社

    「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)真 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ

    「日本の恐竜図鑑」 じつは恐竜王国日本列島 宇都宮 聡 (著), 川崎 悟司 (著) 2012/2/1 築地書館

    「鳥類学者 無謀にも恐竜を語る」 川上和人 2013/03 技術評論社

    「恐竜の飼い方」 「もしも?」の図鑑 土屋 健 (著), 群馬県立自然史博物館 (監修) 2013/3/19 実業之日本社

    「対決!恐竜展 ティラノサウルスとトリケラトプス」震災復興・国立科学博物館コラボミュージアムin会津若松 2013/07~09 福島県立博物館 企画展示室

    「恐竜せんせい」 NHK福井放送局開局80周年記念ドラマ  マイコ×高橋光臣 2013/09/04 NHKBSプレミアム

    「大人のための『恐竜学』」 土屋健他 2013/10 祥伝社

    「ゴジラ、完全復活!」 Pen(ペン) 2014年 7/15号 阪急コミュニケーションズ 雑誌

    「GODZILLA ゴジラ」 監督: ギャレス・エドワーズ出演:渡辺謙 2014/05

    「恐竜大研究」 スリーエム仙台市科学館 夏の特別展 2014/07/19~08/24

    <16>へつづく

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    2014/08/17

    「フタバスズキリュウ発掘物語」-八〇〇〇万年の時を経て甦ったクビナガリュウ 長谷川 善和<1>

    9784759813142 
    「フタバスズキリュウ発掘物語」―八〇〇〇万年の時を経て甦ったクビナガリュウ<1>
    長谷川 善和(著) 2008/03 化学同人 単行本: 193ページ
    Total No.3315★★★★★

    1)福島県双葉郡川内村にある漠原人村の「満月祭」に参加して、より身近に「フクシマ」を感じることとなった。帰宅してから、いろいろ地図を見ていて、あらためて、浪江町と双葉町が全面的に帰宅困難地域として立ち入りが制限されていることを再認識した。

    35865_2       福島県HP 「帰還困難区域迂回路情報」より

    2)ふとその時、ちょうど一年前の夏、会津若松にある福島県立博物館を訪れ、 「対決!恐竜展 ティラノサウルスとトリケラトプス」という企画展を見たことを思い出した。震災復興ということで国立科学博物館から借りだした恐竜の立体模型を展示したコラボレーション展示だった。

    3)あの時は、ついつい「有名な」恐竜にばかり目がいって、正直言って、常設館に展示されていた「フタバスズキリュウ」にはあまり時間を取らなかった。

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        福島県立博物館 企画展示室 2013/08 by bhavesh

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    4)しかし、本当は、こちらのほうが、もっともっと重要なのだ、ということが、この頃になってようやく分かってきた。

    5)フタバスズキリュウの命名の由来は、1968年に、当時高校2年生だった、鈴木直さんが、偶然に双葉郡の海岸付近でその脊椎の化石を発見したことに由来する。1968年と言えば、東京電力の原発施設の工事が始まる時期である。当時高校二年と云えば、私より2学年上のほぼ同時代の少年だった。

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    6)今回の旅の上(↑)の地図を見てみると、双葉町は閉鎖されているが、この恐竜の骨が発掘されたところはどうやらその地域からは外れているらしい。かなり至近距離だが。私が住んでいる仙台からは東北道を郡山まで行き、そこから磐越道を東にくだり、いわきから更に北上しないといけないという、かなりな遠い地域になってしまっているが、行けないことはない。

    7)私はどういう訳なのか、3・11の後、チキンの骨で恐竜のモデルをつくることにハマっている。(↓)これは私の制作によるものだが、ティラノザウルスは全長50センチ以上ある。20分の1スケールで制作したのだが、なかなかボリュームがある。

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    8)そもそも私は、龍に興味があった。絵やら文献やら物語やらを、やみくもに検索していることが多かった。今回も「NO NUKES ONE LOVE」―いのちの祭り’88 Jamming book (1990/07 プラサード書店)p32に、ドラゴンの写真があったりすると、ドキッとする。

    D000788年2月「出力調整反対、通産省行動」でデビューし、「2万人行動」、浜岡、六ヶ所村と駆け巡った龍神様。p32

    Fb0039)勿論、龍は想像上の動物だが、縄文の時代から、人類の記憶としてDNAに深く刻印されたイメージであるようだ。それに比較すれば、恐竜の発掘などはわずか150年の歴史しかないが、科学の力は、その実体をより正確に、しかも地球規模のスケールで掘り起こし続けているようだ。いつの間にか、私の中の龍のイメージは、実際の恐竜の像に仮託されてしまったのかもしれない。

    10)これは、大鹿村に棲むカズ(現・大鹿村中央構造線博物館学芸員)が1996/04に東北大で行われた地質学学会にやって来て同行した時、学会の出店で購入したものだ。当時小学生だった子供におもちゃとして預けていたものだが、最近になって帰って来た。

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    11)はてさて、このような状況の中で、私はまた、チキンの骨でフタバスズキリュウの骨格モデルを作ることになるのであろうか。

    <2>につづく

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    「NO NUKES ONE LOVE」いのちの祭り’88 Jamming book <1>

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    「NO NUKES ONE LOVE」―いのちの祭り’88Jamming book <1>
    ONE LOVE Jamming(著) 1990/07 プラサード書店 星雲社 単行本: 173ページ
    Total No.3314

    1)88年の8月に長野県八ヶ岳に8000人という人々を集めたBe inイベント「いのちの祭り」があったことを記憶している人は多いだろう。その8月8日、朝8時8分、8秒、会場全体を満たしたのは「NO NUKES ONE LOVE」のヴァイブレーション。「地球の未来に愛の波動をおくりたい」

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    2)8つながりのこの日、そしてこの場所、縄文の縄をイメージする∞∞∞∞の繋がりの中で、集まったこの人々は、自らの生き方を問い、そして、現代文明の極とも言える「核文明」にNOをつきつけた。

    3)あれから23年後の2011年3月11日、地球の北半球、そして極東、日本列島に何事が起こったのかは、今や地球全体、地球に住まうひとりひとりに知られることになった。

    4)1987年インドに4ヵ月滞在していた私たち家族にもこのイベントの企画が届いていた。88年になって参加を予定していたが、突然の車の故障により、参加を断念せざるを得なかった。それでも、1991年の青森県六ケ所村での「いのちの祭り」などには、家族でテントを張って参加したし、その後もずっと気になるつながりである。

    5)今回、この祭りの報告集ともいうべきこの本の存在に気付いたのは、「20世紀エディトリアル・オデッセイ」(2014/04 誠文堂新光社)p23に紹介記事が載っていたからだった。

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    6)この報告集をまだ読んでいなかったので、いずれ読みたいとプラサード書店に頼もうと思っていたところ、期せずして、今年の福島県双葉郡川内村にある獏原人村の「満月祭2014」で落ち合った店主キコリが持ち込んでくれていたのだった。

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    7)キコリは今回、他の出版物やポスターなども多く持ち込んでくれていた。(後々アップする予定)。その他、「生存への更新」トモ(大友映男)くんへのロングインタビューなどを企画してくれた。

    Nn009   獏原人村(福島川内村)「満月祭2014」でのキコリ(左奥)

    8)この本、実に臨場感あるれる内容で編集されている。イベントの後、出版まで2年かかったというのも分かる気がする。

    9)「名前のない新聞」編集長のあぱっちは、「スペクテイター」誌30号(2014/05幻冬舎)ホール・アース・カタログ後篇・特集において次のように述べている。

     1988年の「いのちの祭り」は関わった多くの人にとって人生の転機になるような出来事だったとよく聞いたが、僕にとってもそうだった。祭りの前に仕事をやめ、すぐに次の仕事を決めていたのだが、いのちの祭りを経験した後は、人から雇われる普通の仕事はしたくないと感じた。

     また自分がやるべき仕事は、はやり自分で新聞を出すことだと確信したので、祭りが終わった後、さっそく「新聞」を出す準備を始めて、その年の12月に第○号を出すことができた。祭りの関係で知り合った人や前からの知り合いに原稿の執筆を頼んだり取材をし、祭りの関係で知り合った全国の店で販売してもらうことにした。浜田光(あぱっち)、「スペクテイター」誌30号p118

    10)ここでもわかるように、78年以降、休刊が続いていた「名前のない新聞」は88年の「いのちの祭り」で「デイリー・ガイヤ88」新聞を発行したことを契機に復刊し、第二期が始まることになる。この「デイリー・ガイヤ88」も第8号までの各号が、この「NO NUKES ONE LOVE」―いのちの祭り’88Jamming bookに収録されている。 

    11)この貴重な記録集は、ネットで検索すると中古品が出品されているが、高値を呼んでいて、元値の倍ほどで取り引きされている。だけど、聞くところによると、若干ながらまだ新品が残されていて、希望者にはかなり割安で提供されているとか。フェイスブック「プラサード書店」なら連絡がつくかも。

    <2>につづく

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    2014/08/16

    福島浪江町復興支援!「なみえ焼そば」 【浪江焼麺太国おめでとう!】【B-1グランプリ公認】

    復興支援!「なみえ焼そば」
    合資会社 旭屋(福島県双葉郡浪江町) <ギフトBOX:3食入> ¥ 1,080 【浪江焼麺太国おめでとう!】【B-1グランプリ公認】
    Total No.3313★★★★☆

     2014年獏原人「満月祭」に参加してきた。行くまでは6号線の海岸線を走り、それから内陸部に入って行ったわけだが、帰り道は、磐越道に出て磐越道にでて郡山で東北道に乗り換え、阿武隈高原サービスエリアに入って、ようやく一休み。お土産でも買おうかと、売店を見たら、これが目に入った。

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     これまでは、福島の麺類と言えば、喜多方ラーメンくらいしか知らなかった。「なみえ焼そば」、とは聞いたことがなかったが、この「なみえ」というところにピンときた。今回の旅で、悩まされたのは、「浪江町」に入れないことだった。浪江さえ通れば、獏はすぐそばだった。なんども立ち入り禁止の交通規制に出会った。

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     ちょっとこの写真じゃ見にくいが、看板に確かに「浪江町」と書いてある。南相馬とか、飯館村とか、「有名」になってしまった他の市町村に比較して浪江町は、ちょっと認識不足だった。立ち入り禁止エリアになっていたのである。

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     私の頭にはすっかり今回の旅で「浪江」の名前は刷り込まれたのだった。「売上金の一部は、福島県浪江町の復興の為に役立てられます。」と書いてある。今回の旅のお土産はこれで決りでしょう。

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     帰宅して、さっそく食してみることに。なかなかの太麺である。そばというよりウドンに近い。我が家ではいろいろ野菜やら入れたが、実際には豚バラ肉50g、もやし170gと麺1袋を、添付の純正ラードを引いてフライパンで炒める、という方法だった。付属の濃厚ソースと一味唐辛子をかけると、なかなか風味も増す。

     漠然とフクシマと語られてしまう福島県の災害状況だが、私は不勉強で、隣の県の町の名前をよく覚えていなかった。一緒についていたパンフレットには、福島県の中でも、さらに浪江町の位置がわかるイラストがついていた。

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     ああ、私が住んでいる地域とは、決して離れていない。すぐ、お隣、という感覚の位置にある町だった。

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    福島県HP 「帰還困難区域迂回路情報」より

     私は結局、今回、仙台から6号線を南下して、地図の中の「Uターン」マークのところまで行き、そこから引き返して南相馬の「B」地点までもどり、そこから西に登って12号線をたどり、川俣町の「2」地点から県道349号線を南にくだり、「小野」町から細道を東に399線に向けて走り、ようやく川内村に入ったということになる。

     なるほど、3時間の行程の予定が10時間になってしまうわけだ。途中でご飯を食べたり、昼寝したりしたからだけど、それでも、地図で見ると実に大回りしたのだった。もう少なくとも、私は一生、良くも悪くも浪江町の名前は忘れることはできないなぁ。

     さて、最後に、この「なみえ焼そば」は発祥が1946年ということで、けっして3・11の「絆」ブームに便乗したわけではない。震災の前年2010年には当地グルメまちおこしの祭典「B-1グランプリ」にすでに出場していたということだ。

     販売会社の住所は浪江町になっているが、「協力委託工場で製造していて、安心・安全な商品である」、とのことである。3人分で1080円は、私の生活感覚からすれば、ちょっと高めの設定である。そもそもが肉体労働者のための食事だったというから、もうすこし安くてもいいように思う。まずはとにかく、今日はなみえ焼そばを食べながら、浪江町にLOVEを送った。

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    2014/08/15

    「恐竜大研究」 スリーエム仙台市科学館 夏の特別展

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    「恐竜大研究」 
    夏の特別展 2014/07/19~08/24 スリーエム仙台市科学館
    Total No.3312★★★☆☆

     そもそもは2歳児と3歳児の孫たちと地下鉄に乗って恐竜展を見に行く予定だった。ところが、ひとりの孫が「怖い」と言いだしたので、ドタキャン。行き先は動物園に変更され、キリンさんやゾウさんやカバさんを見て帰ってきたのだった。

     しかし、それでは満足できないのが、爺さん。昨日は結局、ひとりで恐竜を見てきた。

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     昨年の夏休みは、会津若松の福島県立博物館の「対決!恐竜展 ティラノサウルスとトリケラトプス」を見てきたのだった。

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     自分でも、ここまで恐竜にハマるとは思っても見なかった。チキンの骨で作ったティラノザウルス。全長60センチ。我ながら、惚れ惚れする出来だ。

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     自分でトリケラトプスを作っていて思ったが、造形的に実に面白い。人気があるわけだ。

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     今ではチキンの骨で作った、ティラノザウルストリケラトプスの模型はわがオフィスの重要なインテリアとなっている。

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     竜脚類、獣脚類とくれば、つぎは翼竜類の代表はプテラノドンでしょう。これもなかなか魅力的。 

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     世界でも最も大きい翼竜はケツアルコアトルスということになっている。我が家のサンプルの両翼の巾は80センチもある。Qq1
     よくよく見ていただくと、わがオフィスの天井には翼竜プテラノドンケツアルコアトルスが飛んでいるのが、分かっていただけるでしょう。w

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     会場に行ってみれば、結構小さい子供たちがいっぱい来てたから、我が家のちびっこたちも、来年になれば、恐竜も大丈夫になるだろう・・・

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    2014/08/14

    「満月祭」 太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡 獏原人村 8/8~12 <8>

    <7>からつづく

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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 <8>
    福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12

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    10日の深夜になって、ついに雲間から満月が顔をだした。スーパーフルムーン。

    獏原人村 満月祭 どうもありがとう

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    「満月祭」 太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡 獏原人村 8/8~12 <7>

    <6>からつづく

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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 <7>
    福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12

    1)3・11の直前、2010年秋から冬にかけて、私は、パーマカルチャーエコビレッジという可能性を模索していた。それは漠然としたものだったが、友人たちに出会うことによって、少しづつ具体化し始めていた。

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    2)自宅を引っ越してでもやってみたいね、という友人と、かなり広い土地があるので、何か可能性を考えようかな、という知人がいた。そこは、私たちの住居スペースから車で一時間足らず、標高400メートルで雪深いところではあったが、春になれば、さまざまな実験やイベントが出来そうだった。

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    3)広さとしては、屋久島・白川郷の山尾三省たちのスペースとほぼ同じ広さ、アメリカ・シエラネバダの森にあるゲーリー・スナイダーのキットキットディジーの4分の1程度の面積を持っている。かなりの広さではあるが、現在は知人がその数%(赤丸の中)を活用しているにすぎず、他の部分なら、使ってもいいよ、という申し出だったのである。

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    4)とても嬉しいプロジェクトではあるが、もともとこの類の試みは、そうそう簡単にできるものではない。慎重にミーティングを重ねながらも、より多くの仲間を集めたら、何事かできるかもな、と思えた。雪解けは4月末の連休。それまでに、より具体化したスケジュールを準備して、3月初めには一部機材なども持ち込んでいた。

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    5)蔵王連峰を見渡すことのできる、温泉も近い、なかなか魅力的な土地であり、本当に自分はこの土地を楽しむことができるだろうか、と自問自答した。その時、自分としては三つの条件はクリアしなければならないな、と思った。
    ①トイレ、特に女性用のトイレの確保は重要だろう。
    ②自分はネットさえ繋がっていれば、仕事のかなりの部分ができるので、できればネット環境が欲しい。
    ③対社会的にも、何らかの「顔」が必要だろう。形としてはNPOのようなものにすべきである。

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    6)そう申しでると、①の問題は土地の所有者がすぐ対応してくれた。十分なものではないにせよ、私のように立ちション、野グソを女性陣に要求するわけにはいかない。かなり前進した。ケータイはすでに問題ないが、LTEのような無線高速回線も、時間はかかるが不可能なことではない、との電話局からの返事だった。③については、より吟味が必要であり、また時間も必要だが、具体的な手段や人名も挙げて、書類づくりを始めようとしていた。

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    7)そこに、あの3・11がやってきたのである。被災地にほど近いエリアに住む私たちは、致命的なダメージを受け、ほぼ一ヶ月に渡り活動を中止せざるを得なかった。震災に絡む作業が増大し、それぞれの自宅もかなりの被害を受けた。時間も経費もどれほどかかるか未知数だった。それでもプロジェクトは続けたいと思い、4月末の連休まで待って、現地ミーティングまでは、なんとか実現することができたのだった。

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    8)しかし、私たちの葛藤は、そこまでだった。このあと更に一部資材を現地に運んだりしたが、震災復旧の作業は、現地の進捗を阻んだ。特に、原発事故による放射線汚染の実体が、シロートの私たちには、暗雲として立ち込めてしまった。この事については、まったくの個人的な作業でもないので、ここまでしか書くことが出来ない。今後の好転を待つのみだ。

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    9)ところで、今回、期せずして獏原人の満月祭に参加できて、テントで台風通過をまちながら、一人で長い夜を過ごしている間、ふと、そういえば、あの3年半前の、自分たちのエコビレッジに課した三つの課題は、獏原人村ではどのように対処されているだろうか、と考えてみた。

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    10)まず①について。獏の土地は広い。そもそも男なら、どこでもやれるだろうが、今回私は一生懸命、備え付けの設備だけを使うことにした。小さい方は特に問題はない。大きいほうも、日に一日は使ったが、苦になることはなかった。第一、あの広大な敷地の大自然においては、非常なる解放感を感じたものである。ただし、この点は、いずれ他の人や、特に女性陣の意見も聞いてみたい。また、私のような外部の人間ではなく、建物の中にある設備は、さらに快適なものかもしれない。B073

    11)そして②であるが、通信回線は、獏においてはほぼ繋がらないと見ていい。ラジオもテレビもいまいちの繋がり具合であった。マサイに聞いたところ、ドコモならドームの前で繋がる時があるよ、との事だったので試してみると、これはイケた。アンテナ2本が立った。私から自宅の奥さんへの定時連絡は問題なかった。ただし、向こうで急用が発生した場合は、至急連絡は無理であろう。イーモバイル(AU系)のLTEも敷地全域で試してみたが、繋がる気配はなかった。ただし、AUケータイへのメールは、なぜか「圏外」なのに、知らないうちに受信していることがあるらしい。

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    12)さらには③であるが、これについては、おこがましくも細かいことは聞くことはできなかったが、むしろ獏存続の意義からすると、むしろ失笑されそうな質問となるのかもしれない。自由に活動することと、何か外部の許可や規制を受けることは、どこか大きく矛盾しているようでもある。

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    13)結論として、獏は獏であり、もし私が獏を訪れるなら、郷に入っては郷に従え、が一番いいのだろう、と思った。原人村としての獏に対して、私たちの未完のエコビレッジ構想を比較してもあまり意味のないものとなるだろう。ここは、ケータイの繋がり具合も含めて、獏は獏としてあって欲しいと祈るのが本筋だろう。

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    <8>につづく

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    「’68年にはじまる生存への行進 トモ(大友映男くん大いに語る」「満月祭」 太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡 獏原人村 8/8~12 <6>

    <5>からつづく

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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 <6>
    福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12

    1)今回の獏原人「満月祭」参加は、友人キコリの誘いが大きかった。トモくんも参加するなら、この機会に今までトモくんになかなか聞けなかった「むっか~し」の話を聞いておこうじゃないか、ということが、大きなきっかけのひとつとなった。

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    2)タイトルはなんとしようか。前夜、テントの中で、キコリと二人で泡盛をちびりちびりやりながら、結局は、私が提案したものが採用された。

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    「’68年にはじまる生存への行進 トモ(大友映男)くん大いに語る」

    おお、なかなかいいタイトルではないか!(自画自賛)B051_2

    3)会場は、大型ドームに隣接した、パオと呼ばれているドーム型の施設。小型ではあるが、これがなかなか雰囲気がある。ひょっとするとモンゴルの遊牧民族にちなんだものかもしれない。

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    4)10日の午前11時から2時間半。時折、到来していた台風の影響で、屋根に強く雨が叩きつけられ、時には聞き取りにくいところもないではなかったが、むしろ、そのことが、自然の中でのミーティングという臨場感が増す。

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    5)静岡で剣道部を作ったりした高校を卒業、1967年に東京の大学に進学したトモが、実際に「うんどう」に関わるのは、68年あたりからである。砂川反戦祭に関わるきっかけになったこと。多くの仲間と出会ったこと。山谷解放や竹中労氏との出会いなど、いままでなかなか聞けなかったことを、まとめて聴くことができた。

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    6)カメラやテープが数台回っていたから、いずれ講演の内容が、この場に参加できなかった人々にもシェアされることになるだろう。

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    7)プラサード書店の店主キコリが持参したたくさんのミニコミやポスター、資料集、関連出版物を前にして、2時間はあっと言う間に、たくさんの話題を提供した。

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    8)今回のインタビューでは「生存への行進」―いま生命の革命が始まっている ! 大友 映男(1982/04 新評社)に至るまでの経緯を、より詳しく聞くことができたことが大きな成果であった。

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    9)この本の後の、今日までの経緯についても、大いに関心があるところだが、その事を聞く機会もいずれ訪れるだろう。それまでは、小林志夫・監督が制作された「2013年 獏原人村 「満月祭」 in フクシマ ~地球は1つの共同体だ~」 (2014/06/20 ルーナル工房)に収容されているロングインタビューが貴重な情報を提供してくれるだろう。

    <7>につづく

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    DVD 2013年 獏原人村 「満月祭」 in フクシマ ~地球は1つの共同体だ~

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    「満月祭」2013年 獏原人村  in フクシマ ~地球は1つの共同体だ~
    小林志夫・監督・撮影・写真・編集 出演・大友映男・風見正博・他 2014/06/20 ルーナル工房 DVD2枚組 82分 パンフレット44P付き
    Total No.3311

    1)2014年 獏原人「満月祭」に参加してきた。その時、トモ(大友映男)やキコリ(槇田但人)と一緒に来ていた小林志夫(ユキオ)さんから、直接頂いたDVD。キャンプ暮らしの後始末をしたり、自分のカメラの整理をしたりしていて、拝見するのが遅れててしまったが、今拝見して、いやはや、とてつもないDVDであることが分かった。

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    2)小林さんは、年の頃、私(アラ還)より年配だと思われるが、永年東京三鷹周辺の市民運動などの映像記録に関わってきた方のようである。大きなカメラを三脚とともに担いで、獏内のあちこちを撮影していらっしゃった。

    3)獏というところは、昔から不思議なところで、一見さんには割と分かりにくいところ(本当はそうではない)である。キチンとした説明がないところがある(本当はそうではない)。ところが、このDVDの中のトモの説明で、ようやく全体像がつかめた、というのが、私の感想である。(以下、同封のパンフレットから抜粋p13~16)

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    4)このDVDの一部は、関係者がアップしている動画をYoutubeでも見ることができるようだ。

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    2014/08/13

    「満月祭」 太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡 獏原人村 8/8~12 <5>

    <4>からつづく

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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 <5>
    福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12

    1)獏原人村の象徴と言ったらなんだろうか。ずっと40年近くも住み続けて来た「村長」のマサイカップルそのものが象徴であるかもしれない。あるいは、年に一度のこの夏の「満月祭」こそが獏原人を表しているかもしれない。それとも、最も地域の人々に認知されている「自然卵」の生産を思う向きもあるだろう。どれもが象徴と言えるかもしれない。

    2)しかし、その中にあっても一番高台にあって、もっとも大きい建築物であるドームを思い起こす人も多くあるだろう。

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    3)このドーム、豊かな大自然のふもとにあり、どっしりとして穏やかな佇まいを見せているが、中に入ってみると、実にデカい。

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    4)中ではミニコンサートやセレモニー、雨天時のメインイベントなどが行なわれている。あるいは沢山の蔵書を擁する図書館でもあり、小さな子供やテントを持たない人々の宿泊場所であったりする。
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    5)このフラードーム、そもそも工法はどのようにして作られたのだろう、とも思うし、相当に経費もかかっていそうだな、とも思う。そもそも、どのような経緯でできたのだろう。何時か誰かに聴いてみたい。

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    6)ところで、このフラードームについて、60年代カウンターカルチャーの象徴とも言われる、ホール・アース・カタログの編集長スチュアート・ブランドは、最近、「スペクテイター」<30号>のインタビューで次のように発言している。

     失敗ね。たとえば「ドラッグ」、「コミューン」、「フリー・ラブ」なんかがそうだ・・・・・あとはバックミンスター・フラーのドームも忘れてはいけないね(笑)「スペクテイター」<30号>(2014/05 幻冬舎p071「スチュアート・ブランド」
            
    Spectator301_3

    7)この人物は良かれ悪しかれ論争的な存在としては知られているが、最近では「地球の論点」 現実的な環境主義者のマニフェスト(2011/06 英治出版)で次のようにも発言している。

     有力な環境保護論者のなかでこれから増えていくだろうと私が予測しているタイプは、仕方がないから我慢する、という「消極的忍耐派」だ。彼らが核エネルギーへの支持を表明する際には、複雑な言辞を弄してわざとわかりにくい表現にし、発言が引用されないよう気配りをしている。スチュアート・ブランド「地球の論点」 現実的な環境主義者のマニフェスト(2011/06 英治出版)p130「新しい原子力 支持派の見解」
           
    8)当ブログは、この数ヶ月から数年、この御仁の言葉に翻弄されていると言っていい。つまり、60年代からのカウンターカルチャーの旗手とも目されてきたこの人物が、スティーブ・ジョブズの講演で更に注目された。より発言力が増しているところで、実は原発推進派に「転向」したかに見える言動を続けているのだ。それは3・11以前に出た本で表明されたものだが、その後、この日本から赴いた「スペクテイター」誌へのインタビューでも、決して後戻りはしない雰囲気である。

    9)この人物は、原発を推進し、さらにはここで、かつてカウンターカルチャーのシンボル的意味合いを持っていた「ドラッグ」、「コミューン」、「フリー・ラブ」、「バックミンスター・フラーのドーム」などを、ことごとく一挙両断して「失敗だった」と決めつけているのである。

    10)異論も多くある。論争を呼び起こす発言である。さすがに「地球への論点」という挑発的なタイトルをつけるだけはある。当ブログとしては、最近この人物の発言は眉つばものとして、一歩も二歩も距離をおいて読んでいるのだが、しかし、痛し痒しのところを突いてくるのは確かなことで、「論点」である限り、できれば「クリア」に論破してみたいものだと思う。そう思うのだが、あせって拙速な結論には持ち込まないでいる。

    11)ところでさっき知ったのだが、関ちひろさんという方がいらっしゃる。この方、昨年の獏満月祭のステージに出演している。どうやらこの方は、最近の青森県六ケ所村の村長選挙に立候補し22票を獲得したようだ。だが、その後、なんらかのトラブルに巻きこまれているようである。現在ハンストまでしているという。26日目とか。

    12)細かいことはよくわからない。結局は自分が自分を生きる以外には何もできないのだが、ただ、60年代以降、カウンターカルチャー的傾向の元で、ある種の典型とされてきたライフスタイルが、時代とともに見直され、また否定され、また復活したりしているようだ。

    13)今日のこの書き込みは実にまとまってなくて、そして問題含みなのだが、敢えてここで一つだけ当ブログとして言っておきたい。もし過敏な脱原発派なら、福島第一原発から数十キロにある獏コミューンには住めないし近づけない、ということになりかねない。しかし、獏コミューンに何らかの意義を見つけ、今後もこの地に留まり、あるいは訪れてみたい、とするならば、何らかの形で原発との距離を見つけなければならない。(下の画像は友人の友人のFB写真からのお借りしました)

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    14)スチュアート・ブランドのように「消極的推進派」などとは言わないまでも、明日から線量がゼロ(元の数値)にならないのである限り、私たちの残された人生は、どのような形であれ、原発とは「共存」していかなくてはならないことになってしまっている事実は、認めなくてはならない。

    15)難しい時代になった、と嘆くことは簡単である。でも、それだけでは「解決」しない。何事かの「解法」があるとするなら、すこしづつでも、その歩みを止めるわけにはいかない。

    <6>につづく

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    「満月祭」 太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡 獏原人村 8/8~12 <4>

    <3>からつづく

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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 <4>
    福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12

    1)毎年のように、友人たちから誘いが来るのに、腰は重かった。なのに今年は何故か、ぜひ行ってみたいな、と決断した。スケジュールが空いていたせいもあるが、幾つも行きたいと思う理由が重なった。

    2)一番基本的なことでいえば、一年に一度ぐらいはテント暮らしをして、キャンピング・グッズを点検しておきたい、ということがある。特に3・11の時には、普段からキャンピング・グッツが我が家に常備してあることが大いに役だったし、いざという時の心の支えとなった。

    3)まず、手回し充電ライト、がある。この類は何種類か自宅においてあり、使い勝手を試している。アウトドラ・ライフとなれば必ずライトは必要になるのだが、乾電池だと、いつ切れるか分からないし、実際には結構な電池代になる。手回し充電だといくらでも使えるので、安心だ。テントの中でも1つ手元に転がしておきたい。ただ、実際には有用だったのはライトだけで、ラジオ機能は、獏での台風体験下では微力であった。

    6
    4)さらに、もう1つ、ソーラーチャージライトがある。この類は各種さまざまなモノが売り出されているが、我が家のものは、ワゴンセールで一個1000円で買った廉価版。安いので4個も買って、セットにしてしまった。

    1901638334_715)照明ライトだけなら、台風の中での日照でも十分に充電できるし、一個のLEDライトで一晩中明るく過ごせた。ケータイやスマホへの充電も考えたが、獏では電波が入ってこないので、WiFi機器やLTEなどの出番はなかった。Lt_3

    6)我が家でも昨年から屋根にソーラーパネルを設置して、発電状況を実験調査中だが、原発問題を考える場合は、どうしても電力問題からは目を離せない。

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    7)その点、獏原人においても、福島第一原発からわずか数十キロという距離にありながら、まったく電力会社から電気を買っていない、というのは見事である。各所にソーラーパネルが設置してあり、自家消費分は十分賄われているようである。
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    8)また獏原人と言えば、自然卵の生産者でもあるわけだが、地飼いのニワトリたちの鶏舎にもソーラーで発電された電力が電柵装置などに活用されているようだ。

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    9)さらには、日中から夜、それも深夜午前1時とか2時まで生バンドが演奏してくれる音響機器の電力はどうなっているのだろうか。これは他の発電装置を使っているように思われるのだが、エンジン音とかは聞こえなかった。まさかあれだけの機器を動かせるほどソーラー能力があるとは思えないのだが、もしそうだったとするなら、凄い。

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    10)個人的には、パソコンや通信機器のために車から100Vの電力を取り出せるように常にセットはしてあるので、小電力なら台風であろうが、アウトドアであろうが、特に心配はない。もっともそれはガソリンがある、という前提ではあるが。とにかく、こういう機会にいろいろチェックしておくことは大事だなぁ、とあらためて思った。

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    <5>につづく

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    「満月祭」 太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡 獏原人村 8/8~12 <3>

    <2>からつづく
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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 <3>
    福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12

    1)原発事故で富岡が立ち入り禁止になって、そのため海の方からは来れなくなったしまいました。
    ①東京方面から:常磐道でいわき中央インターで降りて国道399号を一時間くらい北上!川内村に入って500mくらい下ると松浦釣堀があります、さらに500mくらい直進すると右側にバク林道があって林道を15分みちなりで獏原人村到着。399行き過ぎるとトンネル!トンネルまで行ったらバック!

    ②東京方面、仙台方面どちらでも東北道で来る場合は郡山で降りて国道288号で都路まできて399号に入って川内村の二つ目の信号右折(その先20km圏内で立ち入り禁止)、10分くらい道なりでトンネルくぐってちょっとでバク林道入り口です左折ここまで399号、林道15分で原人村到着。小野インターのほうが近いけどわかりにくい。

    ③相馬方面からは海岸が通れないのと飯館、津島が線量高いので一度郡山に出てから288-399が安全
     関連ページより

    2)帰ってきてから見て見ると、確かにこういう事も書いてあった。特に③あたりは、十分含味すべきでした。しかし、今回は、どうしても海岸線から入りたかったし、時間もたっぷりあった。地図なき旅で、フクシマに触れてみるのも貴重な体験、と判断した。

    3)同じく40年数前にその土地を最初に訪ねた友人キコリは、こういう。

     40年前に歩いてしか入れない貘の地へは、この道ではなく、全く違う下戸渡(しもとわだ)から川の脇を下るレートでなかったのでは? キャンプすることになる裏側の川の右手からやって来たのだと思うよ!

     地図の下にあるマークが、いわき市小川町上小川下戸渡で、この辺りの集落から川を下ったよう。左が現在のバク林道入口。人が立っている所が、貘原人。 槇田 きこり 但人

    10401941_679977615412955_18391452_24)私にはさっぱり分からない。今度通った道からの風景も見たことあるような気もするし、キコリのいうことも正しいように思う。当時、ヒッチハイクで移動していたから大勢で移動していたのではないが、全く一人で行けたとも思わない。誰かと同行していたと思うが、記憶は定かではない。

    Img

    5)私の記憶に残っているのは、一番奥(案内図向かって左)の三日月荘の隣に立っているプレハブ小屋。これは確かに当時のものと思う。Imgp2114_2

    6)前回、獏に来たのは1991年だった。スピリット・オブ・スピリット・シンポジウムの情宣も兼ねて、やってきたのだった。あの時は自分のワゴン車で一人でやってきたのだが、たぶんあの時も、近くまで地図で来て、あとはスタッフが作ってくれた道案内に従って辿り着いたのだろう。それにしても、毎年来ているファンもいるというのに、私の獏訪問は実に緩慢だ。1973年、1991年、2014年。実に20年に一度の頻度である。分かった風なことは何も言えない(汗

    7)何はともあれ、空模様も不確かだし、ウロウロしていると日が陰る。ここはとにかく自分のベースを固めようと、キコリやトモの近くにスペースを見つけて一人分のテントを張った。

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    <4>につづく

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    2014/08/12

    「満月祭」 太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡 獏原人村 8/8~12 <2>

    <1>からつづく

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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 <2>
    福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12

    1)獏に行ってきた。その行程については、すでに少し他の記事に追記する形で書いておいた。たくさんの体験があったので、そのうちゆっくりまとめようと思っているが、そんなことをしていると、感想も風化してしまいそうなので、すこしづつ書いておこう。

    2)とにかく仙台から海岸線国道6号線を南下。5年前以上も前から使っている最小車載ナビには最新のデータは何も入っていない。獏の住所を入れると、所要時間3時間強で到着すると言っている。岩沼、亘理、山元、そして県を越えて、新地、相馬、南相馬と走る。何も知らないでいると、国道の回りの景色がどんどん変わるのが解る。

    3)2時間も走ると6号線は遂に行き止まり。ふと気がつくとそこは浪江町である。地域全域が閉じられているようだ。指導員に誘導されてUターン。あちこちに、3・11の時の風景がそのまま残されている。田んぼの中に転覆しているナンバー付きの車さえまだ残っている。一部、牛も放牧されているが、これはどういう意味なのだろう。

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    4)さてUターンしたものの、そこからの行程は大変だった。旧式ナビは懸命に浪江町を横切って隣の隣の川内村への案内を出すが、どれも通行止めになってしまう。まぁ、結局そのおかげで、高速を走っているだけでは見逃してしまう風景をいっぱい見ることができたのだった。何処をどう走っているのか分からない。踏切があったので、そこを超えると、実はそこは常磐線の「いわきおおた」駅付近。実はそこは3・11当時のまま。線路にはペンペン草が生え、復旧のめどは立っていない。

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    5)何もしらない旧式車載ナビは何度も何度も浪江町を横切るコースを検出する。ところがことごとく行き止まりである。まるでカフカの小説「城」のように、そこまで近づいているはずなのだが、なんとも近づかない。B003
    6)ウロウロしていると、除染地域に突入したようだ。あちこちに「除染作業中」の旗がたくさん目に付き始めた。おお、こここそは、「有名」な飯館村だった。おそらくこの地域も立ち入り禁止の期間があったことだろう。田園風景の中にも、人影はない。

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    7)たまたま近くで除染作業中だった古老に道を尋ねると、飯館から川俣町に抜けて、そこから田村市経由で小野、そしてあぶくま洞付近を通りながら、川内村に入らないといけないかなぁ、と気の毒そうに教えてくれた。「通常の三倍はかかるなぁ」、と本当に気の毒そうだった。しかしまあ、こちらとしては、遠回りであっても、愛する「フクシマ」を見ることができるのだから、これはこれでいいのだ。まだまだ午前中だ、昼間で着けばいいだろう。カーラジオもそれとなく入り、猪苗代湖ズの歌が流れたりする。
     

    8)海岸線や原発周辺から比較すれば、内陸部の福島は至ってのどから風景である。時折通り過ぎる工事関係車両などを気にしなければ、そこが被災地であることは忘れる。訪ねた「満月祭」の道案内は、至って簡素に道端に溶け込んでいる。これが満月祭の妙味である。B005

    9)ここからさらに数十分はしると、県道の脇にようやく「獏原人」の道案内があった。通常に走っていたら見逃してしまうようなたたずまい。そうそうこれなのだ。「自然卵」、「←獏原人村」まで「4キロ」。え~、ここからさらに山道を走るのだ。B006

    10)ここからの山道に最初に来たのは40年前のことであった。あの当時はまだまだヒッチハイクでここまで乗せてもらい、さらにここから徒歩だった。あの当時、足であるいた風景は確かに残ってはいるが、すでに足元はしっかり固められいる。道幅も確保され、路肩もキチンと整備され、時間の経過を感じる。

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    11)しかし、それにしても遠い。あれ、道を間違ってしまったかな、と思ったり、一本道だが間違いようがないじゃないか、などと自問するうちに、ようやく山道に小さな、実に申し訳なさそうな看板がポツリと立っている。そうそう、これなんだよ。獏の満月は、これが、このスタイルが持ち味なのだ。まったく派手ではなく、しかも実質的に、確実に存在感を示している。
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    12)アスファルト道路は切れ、コンクリートで固めた坂道もやがて凸凹になり、そして砂利道になった。でも砂利もキチンと整備してあるから実に納得である。その心遣いが実に嬉しい。ほんの申し訳なさそうにすれ違う車もある。四駆だったり、県外ナンバーだったりすると、ああ、獏はもうすぐだ、と実感する。

    13)心配している間もなく、ようやく辿り着いた。万歳。仙台を出発して、結局「獏」に着いたのは出発から10時間後の3時半頃になってからだった。あちこちのんびり走ってきたが、まだまだ日は明るい。

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    14)スタッフたちが笑顔で迎えてくれる。

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    <3>につづく

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    2014/08/09

    「原発はいらない」  小出 裕章

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    「原発はいらない」
    小出 裕章(著) 2011/07 幻冬舎ルネッサンス  新書: 240ページ
    Total No.3310 ★★★★★

    1)石川裕人(ニュートン)蔵書市の第5弾。3・11関係、あるいは原発関係は、彼の最晩年の遺作に深く関わるわけだから、たくさんの蔵書が出ていた。当然、私の読書とかぶる。その中で敢えて、この一冊を選んでおいたのは、もちろん、数ある中の原発研究者の中でも突出した誠意ある方、小出裕章氏の本であるからである。

    2)この本が出版されたのは2011/07/16。ニュートンはこの本を2011/07/21に読了している。発売されて直ぐ店頭に走った、というタイミングである。

    3)実はこの当時は、まだまだ被災地としての読書環境は整っていなかった。書店は転倒し、図書館ネットワークはぶち切れになった。当然、読書人としても読書の意欲もわかず、そもそも、なにがどうなっているのか、わからないことのほうが多かった。

    4)それでも、関係者各位のおかげで次第に事態は復旧し、ようやく方向性を見い出そうと歩み出していた頃だ。ただ、その中にあっても、原発事故の状況だけは混迷を深め、正しい情報も伝わってこなかった。

    5)私が小出裕章氏の仙台での講演会に参加できたのは2011/08/05のこと。「3.11から始まったこと」 ~東京電力福島第一原子力発電所原発震災を生きる私たちへの提言~ 小出裕章講演会。

    6)この日、実は朝起きて、何を想ったか、私は福島第一原発に向かって車を走らせた。とにかく一番最後の近寄れるところまで行ってみよう、と警備員たちが立って立ち入り禁止になっているところまで走った。海岸線の悲惨な状況を目にしながら、そして、遠くに見える送電線や関連施設の哀れな姿も見えてきた。

    7)その時、私のケータイが鳴った。敬愛するハグラ女史からの電話だった。今晩、小出さんの講演会があるけど、行く?。私は、福一からトンボ帰りして、仙台での講演会に参加したのだった。

    8)考えてみれば、あれからちょうど3年である。原発に関していえば、時間だけが経過しただけで、根本的には何にも変わっていない。いやますます混迷を深めているだけだ。

    9)そして今日、私は友人たちのお誘いで、原発にほぼ近い位置にある獏原人コミューンの「満月祭」に参加するため、出発しようとしているところだ。あれ以来の原発へのニアミスだ。

    10)すでに還暦した身となれば、被曝の影響も比較的少ないとは言われるものの、日常的に幼児や生後数カ月の新生児と日常的に同居している立場である。わが身の振るまいも、自然と慎重にならざるを得ない。肉体的にも、心理的にも。

    11)当時から、当ブログは、理解力のないままに、あれこれ原発関連の本も乱読してきたことは、その記録を見てみればよくわかる。推進派も、反対派も、虚心坦懐に目を通してきた。しかし、結論としては、私は、原発に関しては小出裕章さん、この方の意見を参考にしていれば、こと足りると思っている。

    12)もともと理系の素養のない身であれば、何度詳しい説明を聞いても、原発の仕組みなんてものは理解できない。今どうなっているのかなんてことも、いまさら聞いても仕方ない。しかし、自分自身の日々の身の振り方、いま、自分はどうすればいいのか、という最低限のことは決めていかなければならない。

    13)そう言った意味においては、この方の一連の書は、私にとっての羅針盤と言える。

    14)楽観的に振る舞ってはいるが、事態は決して容易ではない。憂慮すべきことが山ほどある。しかし、この中で人々は生きて行かなければならない。

    15)今夜は満月でもあるが、台風も来るという。一人分のキャンプ用品を車に積んで、まずは、夜があけたら、海岸線を南に向かい、フクシマへと向かう。

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    2014/08/08

    「1968年」 絓(すが)秀実

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    「1968年」 
    絓(すが)秀実 2006/10 筑摩書房 新書 302ページ
    Total No.3309★★★☆☆

    1)石川裕人(ニュートン)蔵書市の第4弾。2006/10発売で、巻末の鉛筆書きによれば、ニュートンはこの本を2006/10/26に読了している。いつも感心するのだが、すごい速さである。朝起きたら、まずは朝刊を読むような感じで、新書も、まずは出たらすぐ読むという感覚なのかもしれない。

    2)もっともこの本は、同じ著者による「1968年の革命」史論としての「革命的な、あまりに革命的な」(2003/05 作品社)や、「思想読本 1968」(2005/01作品社)、などが先行して存在していたために、その派生として、以前より注目されていたのかもしれない。

    3)いずれにせよ、この1968年という視点でニュートンがこの本をすぐに目をつけて読んでいたという事実に興味が湧く。1968年といえば、私たちは中学三年生。実際には、東北の片田舎の中学校において、「革命」なんてものはテレビで報道されるものを見る以外になかったはず。主体的にには何もできなかった1968年の私たちだった。

    4)そういえば、この中三の時の私側からのもっとも近い友人は、同じバスケット部のS君だった。ニュートンとはクラスも部活も違ったから、割と離れていた。S君も時代には敏感でいろいろなことを話し合ったり、影響しあったりしたものだ。彼は、現在、地元地方銀行の頭取をしている。

    5)私は正直言って、ニュートンはあまり「過激」な政治活動をしたことはなかったし、すべてを演劇に昇華してしまう芝居馬鹿で、演劇ボケだと信じていた。だが、2006年あたりにおいて、彼がこのような本に過敏に反応していたということを考えると、むしろ、ニュートンの側からみたら、私こそ、瞑想馬鹿で、PTAボケに映っていたかもしれない(汗)。

    6)先日、60年代から70年代、そして80年代にかけて、ざっとソーカツして「べ平連---マリワナ---瞑想」 と括ってみていたのだったが、この本では、1968年に関連してべ平連が大きく取り上げられているところは、私としては納得のいくところである。

    7)トピックとしては、べ平連の中核付近に出没した<山口健二>なる「正体不明」な人物にも関心をそそられるが、今は、追っかけるのは止めておく。

    8)太田竜に触発されて、美空ひばりや嵐寛十郎(アラカン)のルポ、ビートルズ・リポートの筆者として名高いルポライターの竹中労と、ジャズ評論家で石原莞爾や西郷隆盛についても論じることで知られる平岡正明は、太田とともに「世界革命浪人(ゲバリスタ)を自称した。p199「ヴァーチャルな世界のリアルな誕生」

    9)この部分も別途他のSNSで話題になっていたところであり、そのシンクロというべきリンクに笑った。ここからの「脱線」もなかなか気になるところであるが、今は慎んでおこう。

    10)「電脳・風月堂」芳名録で、「宮井陸郎」の名前が登場する、「マキタ」の項の牧田吉明についても、この本ではより詳しい。この人物はピース缶爆弾犯人で、背叛社グループでもあった。偽史的創造力に憑かれるようにして大本教にも接近して行った彼には自伝的書物「我が闘争---スニーカーミドルの爆裂弾」(山猫書林1984)がある、とのことである。p207~8

    11)三菱重工社長・牧田興一郎の子息であった牧田は、三菱の金を流用して(?)、80年代消費大衆消費社会を先取りするかのような、流行の先端を行くライブハウスや広告代理店を、70年代初頭に作ったりもしていた(すべて失敗)。p207 同上Mk           p209

    12)この本、巻頭において、1968年が世界的動乱であったと同時に、思想的な大転換も告知した(p7 まえがき)としながら、視点を1968年にとどめるのではなく、時代とともにスライドしていってしまうために、極めて広範な時代背景を語ることになってしまっている。特に後半は偽史論的な言説にも言及し、一部、「ホツマツタエ」にも触れたりして(p201)興味深いとは言えるが、結局は、最終的には何が何やらわからない内容となっている。

    13)そもそもが、「日本読書新聞」の元編集長という立場などから類推するだけだが、この長い期間に渡って、一体この著者自身がどこにいたのか、さっぱり分からない。両論併記するゆえに、結局は総花的な断片的な記述の切り貼りというイメージにさえ落ちてしまう。

    14)最初こそ、60年代的政治革命の党派性に拘泥しているので、ああ、面倒くさいと思わないでもなかったが、読み終わってみれば、なるほど、芝居の戯曲者たちには、さまざまな雑念やらイメージを提供してくれる、いいネタ本とはなっているようだ。

    15)この本の真価は、前述した先駆する二冊の著書「革命的な、あまりに革命的な」(2003/05 作品社)や、「思想読本 1968」(2005/01作品社)に目を通さないと決定はできないだろうが、今は、そちらに行くと脱線につぐ脱線になるので、まずは、この方の本はこの一冊にとどめておく。

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    「石川裕人蔵書市」 2014年7月27日(日)~28日(月)<3>

    <2>よりつづく

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    「石川裕人蔵書市」<3>

    石川裕人(ニュートン)蔵書関連リスト 工事中

    「黒の手帖」第2巻1号 1972/01 ホモロジー 表紙木村恒久

    「黒の手帖」第2巻4号 1972/04 酒とゲロと解放 表紙木村恒久

    「黒の手帖」第2巻5号 1972/05 出発 

    「黒の手帖」第2巻8号 1972/08 ブラック・ユーモア小説  

    「終末から」創刊号 1973/06 筑摩書房 雑誌

    「終末から」2号 1973/08 筑摩書房 雑誌

    「終末から」8号 1974/08 筑摩書房 雑誌

    「終末から」終刊号 1974/10 筑摩書房 雑誌

    「ソラリスの陽のもとに」 スタニスワフ・レム 1977/04 ハヤカワ文庫

    「2001年宇宙の旅」アーサー・C・クラーク 1977/05 ハヤカワ文庫 

    「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1 1980/06 カタルシス社

    「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社

    「兄のトランク」 宮沢清六 1987/09 筑摩書房

    「センダードマップ」 もうひとつの生活ガイド〈仙台・宮城版〉センダードマッププロジェクト編1987/09 カタツムリ社

    「マージナル」V0l.01 1988/04 現代書館

    「マージナル」V0l.02 1988/11 現代書館

    「マージナル」V0l.03 1989/04 現代書館

    新訂「方丈記」 市古貞次(翻訳) 1989/5 (岩波文庫)文庫

    「マージナル」V0l.04 1989/11 現代書館

    「『宮沢賢治』存在の祭りの中へ」 見田宗介 1991/08岩波書店

    「インターネットの中の神々」 21世紀の宗教空間 生駒孝彰 1999/10 平凡社

    「『2001年宇宙の旅』講義」 巽 孝之 2001/05 平凡社

    「<帝国>」グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2003/01 以文社

    「童貞としての宮沢賢治」 押野武志 2003/04 ちくま新書

    「マルチチュード」上下 アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2005/10 NHK出版 

    「麻原彰晃の誕生」  高山文彦 2006/02 文春新書

    「演出家の仕事」 六〇年代・アングラ・演劇革命/日本演出者協会/西堂行人(編)  2006/02 れんが書房新社

    「世界共和国へ」 資本=ネーション=国家を超えて 柄谷 行人 2006/04  岩波書店

    「1968年」 絓(すが)秀実 2006/10 筑摩書房

    「八〇年代・小劇場演劇の展開」 演出家の仕事③日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社

    「SIGHT (サイト)」 2011年 08月号 総力特集・自民・東電・メディアが作った原発日本  2011/6/30発売 ロッキングオン

    「原発はいらない」  小出 裕章 2011/07 幻冬舎ルネッサンス

    「石川裕人蔵書市」 ひやかし歓迎!2014/0/27~28 於・せんだい演劇工房10-BOX

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    2014/08/07

    「満月祭」太鼓と精霊のお祭 福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 8/8~12

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    「満月祭」太鼓と精霊のお祭
     福島県双葉郡川内村下川内 獏原人村 2014/8/8~12
    Total No.3308★★★★★

    1)お誘いである。もともと腰の重い私ではあるが、最近は年老いて、いよいよ出不精だ(デブ症でもある)。こういう時に、ひょいひょい乗っかって行く軽さが本当は欲しい。

    2)ということで、今年は何日間か参加しようかな。

    3)獏原人は、2012年2月の朝日新聞の記事「プロメテウスの罠」で思い出した。「足に土―原人・アキラ  須貝 アキラ 追悼集」やまびこ編集室 1998/9)をめくりながら、やっぱり、グループもぐらや獏原人を想った。

    4)知る人ぞ知る、この獏原人コミューンは、今や世界的にも稀なるコミューンだ。世界の現代地球人文明を危機に陥れている原発狂想曲の迷妄に、もっとも至近距離から睨みを利かせる対峙勢力、カウンターカルチャーの最々先端である。

    5)奇しくも、福一原発の稼働期間とほぼ同期間、原発からわずか30キロほどの山中で、若者文化としてのコミューン活動が連綿と続いてきた。ざっと40年と考えていいだろう。世代で考えれば2世代に及ぼうという長期間だ。

    6)「満月祭」は何時のころからか、毎年行われている。かくいう私が参加したことあるのは、ざっと今から20年程前のことであった。最初にこの土地を訪れたのはさらにその20年前の1972年のことである。ふ~~。

    1972

    7)正確を期せば、橋本農場、グループもぐら、獏原人と、微妙に位置は移動しているようだが、外部から見ている私などにとっては、それらは全体として一体の動きのように見えていた。

    8)はてさて、なにはともあれプログラムを見てみると、なにやらいろいろある。コンサートもありそうだし、太極拳とかソーラーパネルの展示販売もあるようでもある。食事用の出店もあるようだ。

    9)この手のイベントは、あまり先入観を持たないで、出会いがしらに楽しむに限る。私なら、せいぜい一人分のビバーク用のテントとシュラフ、あとは食事に必要なキャンプ用品を持っていけばいいだろう。

    10)小さなソーラーパネルは、この様な時のために用意したMA-551が役だってくれるだろう。ケータイとかスマホ程度のものならこれで十分チャージできるはずだ。

    11)ところで現地はイーモバイルなどのLTE回線は使えるだろうか。ざっと考えれば、なんだか無理そうだが、準備はしていこう。ネットが繋がらなくても、そこに沢山の仲間がいるわけだから、コミューンの中を歩いていけばいいだけだがね(笑)

    12)心配は、天候ですな。暑いなら暑いなりに夕立が、台風なら台風なりに大雨と大風が来そうかな。来たら来たでなんとかなるはず。最低、車に逃げ込めばなんとかなるだろう。

    <2>につづく

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    「黒の手帖」 檸檬社 <2>

    <1>からつづく 

    12 4

    5 8
    「黒の手帖」 <2>
    檸檬社 1969/01、1971/05~1972/09 全19冊 雑誌 A5判 
    Total No.3304~7★★★★☆

    1)石川裕人(ニュートン)蔵書シリーズ第3弾は、「黒の手帖」四冊。

     1月号(第2巻1号) 1971年 ホモロジー 表紙木村恒久
     4月号(第2巻4号) 1972年 酒とゲロと解放 表紙木村恒久 
     5月号(第2巻5号) 1972年 出発 
     8月号(第2巻8号) 1972年 ブラック・ユーモア小説 
      

    2)70年前後のアングラ文化の徒花であるこの雑誌については、当ブログにおいてもすでに触れておいた(2014/04/30)。しかし、それにしても、こんなに早く、こういう形でこの雑誌シリーズと再会するとは、意外な展開である。

    3)よりにもよって、ニュートン蔵書から出て来るとは思っていなかった。そして、よりにもよって、この4冊だけ、ってのも、どうしたことだろうと、疑問にもなる。当時のシリーズ19冊の中の4冊。どうも腑に落ちない。なぜ、この4冊だけが彼の手元に残っていたのか。

    4)テープで縛ったひとくくりの中から抜き出したのだから、他の人がすでに購入してしまったのではない。また出店した古書店の主人が「抜き取りをしていない」というのを信用する限り、まずはこの4冊だけが残っていた、と云うのは事実として受け止めることにする。

    5)腑に落ちないのは、この雑誌シリーズには書込みがあることである。しかも、あまり綺麗な字ではない。赤だったり、黒だったり、する。彼の字は、中学生の時代から見ているが、決してお手本のような字ではないが、割と揃った字で、書き面に抑揚がないはずなのである。

    6)ところが、この雑誌シリーズへの書込みはかなり乱雑である。乱雑さでは、むしろ私のほうに似ている。ひょっとすると、私が飽きたので、彼にあげたのかな、と思ったりもしたが、これは、私の文字ではないように思う(自分でもよくわからない)。書き込んでいる内容は、私の文脈であるような気もする。

    7)ニュートンは、晩年において、戯曲を書きながら、ブログを三つ書き、さらには自筆の個人手帖(非公開)を書いていたというから、いずれ、それを見る機会があれば、その文字と照合してみることもないではない。

    8)ここで想定してみることは、ニュートンは後年なんらかの形でこの雑誌シリーズを手にいれたのであり、リアルタイムでは読んでいなかったのではないか、ということ。しかし、この雑誌は、私も探したが、古書店ではまず出ていない。あり得ない古書である。だから、だれか友人知人から手にいれたものではなかろうか。

    9)あるいは、古書店で見つけたとしても、今回の私のように、偶然見つけたために、この4冊を脈絡なく購入したのかもしれない。そうとでも思わないと、あの全19冊のうちの、この4冊、ということがどうも納得がいかない。

    10)無理くり納得しようとすれば、この年代である。1971/01~1972/08という発行年月日は、何を意味しているだろう。私は高校を卒業してヒッチハイクで日本一周していた時期。中学浪人で一年遅れた彼は、この年、高三だった。

    11) 「朝日ジャーナル」特集:ミニコミ’71---奔流する地下水(1971/03/26朝日新聞社)から、「ニッポン若者紳士録」(1973/01 ブロンズ社)までの間の読書だとすると、まぁ、そういう流れもあるかとも思う。

    12)この雑誌、結局はこの次の号で休刊になるのであり、後半部分になってのこの部分の読書ということになったのであろうか。いずれにせよ、この雑誌らしさ、というか、私自身がこの雑誌を強烈に覚えていて、しかも「影響」を受けた、と思う号ではない。これらには、ダダカンも、末永蒼生、アサリ式色彩心理診断も出てこない。

    13)この4冊をぱらぱらめくってみて、おやっと思ったのは、まず鈴木いづみが1971/01号に「世の中、右も左もオカマだらけじゃござんせんか」を書いていること。p66  さらには、1972/04号には今上武蘭人が「ごっこ思想のススメ」を書いている。p78 伝説のサックス奏者・阿部薫と出会う前の鈴木いづみであり、「新宿プレイマップ」を出てまもなく、「ニュー・ライフ・ヴァイブレーション」1976/12 ブロンズ社)を出す4年前のの今上武蘭人の貴重な足跡である。

    14)この4冊で著しい変化といえば、1972/04号までが中綴じであり、次の1972/05号から平綴じになっていること。当時「話の特集」が中綴じで、この手の雑誌の定番化していたので、追随する同傾向の雑誌は、それに倣ってA5中綴じ雑誌文化を形成していた。そこから脱却しようとしたのは、何か意味があったのだろうか。

    15)その他の記事についてメモし始めればキリはないが、1972/04号で鎌田忠良+内田孝一「見世物小屋①呪詛をいだく下降の旅」p71の中に「エビ娘」の話が写真付きで長々と紹介されていること。実は小学生時代に、私はこのエビ娘を岩沼市竹駒神社の初午大祭で見て、いまだに強烈な記憶を持っている。あの時「娘」とは言っていたが、実はそうとうの年配であり、もう当時でも50歳ほどの方だったのだ、とあらためて驚愕した。

    16)それと、平岡正明も相変わらず健筆をふるっている。実は、ハイティーン時代の私は、デザイン的には横尾忠則、文体的には平岡正明エピゴーネンであった。この二人さえいれば、私の雑誌はできる、と思っていた。だから、表紙はあんな風になり、文体もあんな風になった。ことさら「男根」という単語を使用していたのは、平岡正明「永久男根」などの影響をもろに受けていたのである。

    17)さらに言えば、かの「星の遊行群」(1975/03)の私の文章の間を飾ってくれた一群の「広告」は、実は、この「黒の手帖」の各号からセレクトしてコピーしたものであったことを、今さらながらに思い出した。

    18)この雑誌シリーズは思うところ多い。今後全シリーズをふたたび揃えることになるかどうは、全く定かではないが、意外に意外な展開を見せるかもしれない。

    つづく・・・・・かなぁ・・・

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    2014/08/06

    「童貞としての宮沢賢治」押野武志<2>

    <1>よりつづく  
    Kennzi 
    「童貞としての宮沢賢治」 
    <2>
    押野武志 2003/04/01 ちくま新書 新書 p221
    ★★★★☆

    1)「センダードマップ」(1987/09 カタツムリ社)につづく、石川裕人(ニュートン)蔵書シリーズの2冊目。第一印象は前回のメモで書いてしまっている。今は、あの時、彼の部屋で目についた本そのものが、すでに私のモノとして目の前にあり、私の蔵書となった。

    2)彼の蔵書の特徴は、極めて綺麗に保存していることである。この本も、巻末に彼が読書した日付の鉛筆書きを綺麗に消してしまったら、このまま店頭に並べても新品として流通しそうなことだ。腰巻にも「ストイシズムの快楽」と書いてあったことが、この蔵書によってあらためて知ることができた。

    3)全てがそうなのかどうかはわからないが、他の栞や案内などが挟まっているページも、彼の場合は要注意である。付箋の代りに挟めている可能性もある。この本ではp048~p049の間に挟まっていた。「学生たちのオナニー」、「白樺派のオナニー」の小見出しの間であった。ここにニュートンが何かの思い入れをしたかどうかは、今のところ定かではない。

    4)この本のタイトルは、出版社からのオファーであって、著者自身はむしろ躊躇するようなネーミングであったことを巻末の「おわりに」で知った。当然このタイトルに恥じない内容の論旨が展開されてはいるが、全体としては全うな賢治論である。いやむしろ、他の多岐にも渡る立派な文学論である。

    5)しかるに、追えば追うほどわからなくなる賢治像である。そこがまた賢治追っかけをする者の心をくすぐるのだが、深追いすればするほど、もっとシンプルな賢治でいいではないか、と思ったりする。宮澤和樹監修「宮澤賢治 魂の言葉」(2011/06 ロングセラーズ)あたりの、あっけらかんとした賢治ワールドダイジェストが恋しくもなる。

    6)ニュートンの描いた賢治ワールドは決して難しいものはなかった。哲学的に深追いしたり、他の多くの文学者とのリンクを張り続けることもなかった。単純に宮澤賢治を愛した。あるいは、演劇や戯曲としての、その場に関わる人びと、つまり、戯曲者、演出者、役者、観客、参加者、協力者、それぞれの共通理解としての宮澤賢治を遊んでいたと思う。 

    7)しかりながら、語るべき台詞を、別な役者に語らせたり、複数の童話をまぜこぜにして、賢治の不思議ワールドをさらに膨らませた。そこには、賢治を丸映しするというよりも、読み方がいろいろあり、またそこから更なる新しい物語が作れることを示していた。極論すれば、石川版「宮澤賢治」というものであって、そこから、あまり強引ではない形で、石川演劇が頭をもたげてくる。

    8)ニュートンは、この小さな新書をどのような形で読んでいただろう。すでにブログに書いていたことも知っているし、その頃彼がどのような芝居を書いていたことも分かっている。私としては、この本を手にすることによって、当時のニュートンの存在感が、すくっと実像を結んでいくような想いに襲われた。

    9)巻末の鉛筆書き。00304280 裕人

     これは「2003年4月28日読了」の意味である。4月1日発売の本、その月末には読了している。常に新刊本にも目を見張っていた(特に演劇論や賢治論)ニュートンの読書生活がほうふつとする。

    10)ちょっと気になった部分を転記しておく。

     宮沢家は結核患者を多く出す家、すなわち「マキ」と呼ばれて差別を受けていた。p149「賢治は私たちを癒してくれるのだろうか」

     この「マキ」は、畑山博他「宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版」(2011/07 求龍堂)においては、次のように述べられている。

     賢治の両親は、ともに姓を宮沢という。父方も母方も宮沢家である。祖先をたどってゆくと、一人の人物にで行き当たる。つまり遠縁の一族なのだ。その人物とは誰か。江戸中期の天和・元禄年間に京都から花巻にくだってきたといわれる、公家侍の藤井将監(しょうげん)である。この子孫が花巻付近で商工の業に励んで、宮沢まき(一族)とよばれる地位と富を築いていった。(中略) 

     いずれにしても、賢治の祖先は、京都からの移民である。つまり、賢治の中に流れている地は蝦夷以来の、みちのくの土着ではない。天皇を頂点とするクニに反逆する血ではないのだ。「宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版」p106「生涯」

    11)この部分は、当ブログとしては、非常に気になっている部分である。結核菌を「播く」という<マキ>なのか、富を独占することによって一族をまとめたという意味での、とり<まき>なのか、と想像してみるが、関連資料も少なく、決定稿もない。

    12)いずれにせよ、結核病み一族として距離を置かれていたのか、余所からやってきた他所者として距離を置かれていたのか、この「マキ=まき」には、何かの秘密が宿っていそうだ。

    13)過去300年程の血の連続を確認できる私としては、どうも賢治を東北の「常民」と見るよりは、どこからかやってきた「マレ」人として見たほうが分かりやすいように思う。彼は「東北人」ではないように思う。そう、賢治は、賢治そのものが「風の又三郎」だったのだろう。

    14)そういう意味においては、石川裕人も父親のルーツを塩釜に持ち、母親のルーツを山形天童に持ちながら、父親の仕事の都合で住みついた名取という地においては、やはり「マレ」人であり、彼もまた又三郎の一人であっただろう。

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