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2014/09/29

「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン<3>

<2>よりつづく

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「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア<3>
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09 単行本 145p より抜粋
★★★★☆

 エコビレッジという言葉に惹かれるのはどうしてであろうか。それは個人的には、自分の生い立ちにあると思う。私が生まれた戦後の東北の農村地帯の大型農家のライフスタイルは、ある意味で、エコビレッジという概念に近かった。

 農業を基盤とした地域があり、村落共同体があり、そこに寄り添って生きる人々があり、また、私たちのような小さな子供たちが、遊び学んでいた。まずはそこが原点であり、子ども心に理想化された社会があった。

 それだけ幸せに暮らしていたということでもあろうし、また守られた優位な環境に囲まれていたということだから、必ずしも誰にでも当てはまることではない。

 その原点を切り崩していったのは、まずは高度経済成長の波の中でのバイパス工事であった。川の流れに沿って東西に伸びた村落は、南北に進捗する国道バイパス工事によって、真っ二つに分断された。そこからのいわゆる「現代文明」の進展は、良くも悪くも目を見張るものがあった。

 二つ目の切り崩しては、終戦にともなう憲法や民法の改正により、大家族、長子相続という旧民法の仕組みが崩れていったことだろう。つまり、相続により、相続人たる子は、すべて平等に相続権が与えられたのである。

 三人姉弟の三番目、二男に生まれた私にとっては、むしろ好都合な改正であったので、義務教育で受けた民法等の概念はおおいに私を鼓舞した。

 しかしながら、近隣の農家や、地域の発展を見た場合、この新民法は大家族を否定し、ひたすら核家族化を促進した。おのずと、一戸一戸の農家は機能不全化し、やがては地域の不活性化に繋がっていった。

 三つ目の切り崩しは、1970年前後に起きた「減反」という政策であろう。それまでの日本の農業は食糧不足を補うべく増産増産の連続だった。特に主食たる米は、原野を畑にし、畑を水田に転化することによって、どんどん耕作面積を広げていった。

 しかし、この減反政策によって、水田における米は生産を制限され、またそれに伴う補助金などの政策により、高価格化していった。農業そのものがイビツ化していったのである。現在のTPP問題に繋がる、重大な政策転換であった。

 この大きくは三つの出来ごとが、日本農業、東北の農村風景の、「パーマカルチャー」的要素を次々となぎ倒していった。

 さて、エコビレッジという言葉の中には、いわゆるコミューン的な要素も含まれている。上のような日本的風景の変化の中で、1970年頃から、私はカウンターカルチャーの方に身を寄せることになり、10代から20代にかけて、このコミューン的な活動に参加していった。

 ここでは詳細には触れないが、10代から仲間と共同生活体をつくり、また他のグループとの連帯も模索した。20代には、インドに渡りドミトリー暮らしをしながら仲間を増やしていった。20代後半にあたる1980年代には、アメリカの巨大コミューンの建設にも参加した。また、ブランチとしての共同生活も構成した。

 その後、私個人の家族も増えて、形としては核家族生活をいとなみながらも、30代である1980年代後半には、県内に数千坪の土地を見つけて、すぐに住所を移し、新たなるコミューン建設に着手したこともある。

 その後もずっと、自らの原点にある「理想」を求めて、コミューン的なものを模索してきたのは事実であるが、確たる基盤に出遭うことはなかった。そして、その過程において、かつての生家を包む地域環境も激変していった。

 村落共同体は失われ、農業基盤は崩壊し、人心にまとまりはなくなっていった。私は私なりに、時代とともに生きなければならず、次第に理想とするコミューン像のジオラマ化をはかり、ある種のノアの箱舟化せざるを得なかった。

 そのような状況にありながら、私を再び揺り動かす事態が起きたのは、3・11を挟む具体的な事例との接近であった。詳細は別途書いてあるので省略するが、つまりは、私の目の前に、エコビレッジでパーマカルチャー、という概念が、再び登場したのである。

 エコビレッジも、パーマカルチャーも、言葉としては、小さい頃から求めてきたものではないが、21世紀の今日的概念としては、これでいいのだと思う。地球と人間を見つめ直しながら、持続可能なライフスタイルを考える時、この二つの概念はとても有効である。

 3・11後、私は密かに、近くの開発地域に、ECOシティの可能性を見ていた。それについては、「ECOシティ」環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて 丸尾直美他(2010/05  中央経済社)の読後感として、当ブログにまとめておいた。

 しかしそのいわゆるECOシティ構想は、3・11を挟みながら、大きな可能性を持ちながらも、大型テナントが並ぶ、単なる都市化の波に過ぎないものであることが、はっきりしてきた。現代社会においては、夢は夢として終わり、経済原則の前では「理想」などは、一蹴されてしまうことが、より明白になった。

 また、最近気付いたことだが、私の自宅のすぐそばに、エコビレッジを商標とするハウスメーカーの販売店ができているようだ。名前は素敵だが、内容的には、通常の住宅メーカーである。どのように改善されていたとしても、名前の通りの、いわゆるこの本でいうところの「エコビレッジ」を推進しようという、という会社ではない。

 そんなわけで、私の夢と理想と、現実の限界と幻滅、その板挟みの中に、今突如、いわゆる「エコビレッジ」で「パーマカルチャー」という「可能性」が登場してきた。私は今60歳。すでに還暦を過ぎた老人である。孫も何人か生まれた。私に残された人生でできることは少ない。

 必ずしも、やり残したことの多い人生ではなかった。慎ましい人生ではあったが、基本的にやりたいことはやり続けてこれた人生だった。だから、現在のまま、私の人生が終わっても、悔いることは少ないだろう。あるいは、通常は、この程度の人生なのである。そういう意味で、私は満足している。

 しかしながら、今、新たなる可能性が見えてきたとしたら、私は、その「愉しみ」に賭けてみたいと思う。

 ついでに追加しておくとしたら、今夏、福島県双葉郡の「獏原人部落」に遊んだが、そこで会った仲間たちが続けて参加したのは、滋賀県琵琶湖々畔にある「山水人(やまうと)」だった。ごく最近、エコトピアとキャッチフレーズを変えたようだが、ごく最近まで「エコビレッジ」を標榜していたことも、私の魂を鼓舞した。

 前回この本を読んでいたのは、2011/02/26。3・11東日本大震災の半月前ほどのことであった。

<4>につづく

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