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2014/09/08

「蝶を放つ」 長澤 靖浩 <4>

<3>からつづく

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「蝶を放つ」 <4>
長澤 靖浩(著) 2014/08 鶴書院単行本: 143p
★★★★★

 読みだしてみれば、最後まで一気に読んでしまう作品である。不必要に長い、どちらかと言えば難解とも言えるような小説に何本も付き合わされて、自称小説嫌いを公言している私としては、ああ、この「程度」の小説なら読める、といえるほどの作品である。むしろ「小品」とさえ言っていいのかもしれない。

 時代背景や、うろ覚えに知っている著者の家族環境や職歴、海外渡航歴から考えると、これは、自伝的小説と言っていいのだろう。91歳の祖母がおり、その子であるおそらく60台の男性の死にまつわる話であり、さらにその子、40前後と思われる主人公の、内面的な逡巡である。

 小説や映画のストーリーやオチは、ネタばれになるから書かないのがルールなのかもしれないし、そんなことはまったくないのかもしれない。そんなことも知らないが、そもそも私はストーリーをダイジェストするような能力はあまりない。

 むしろここでは、いくつかの印象的な部分(つまり自分で付箋をつけたところ)の一部を抜き書きしておく。テーマは「蝶」である。

 ・・・・今、その丸椅子の縁には、紋白蝶が一匹止まっていた。力なく羽を開いたり閉じたりしている。僕は地面にしゃがみこむようして、その蝶に顔を近づけた。蝶は芥子粒のような眼で、じっと僕の顔を覗き込んだ。と、次の瞬間には舞い上がった。そして、風に流されて上昇していき、すぐに見えなくなった。p20

 この小説で一番最初に蝶がでてくるシーンである。もうこのシーンだけであとは蝶はでてこないのかな、と思っていたが、やっぱり最後まで、メインは蝶にテーマがある。ここでは、自然界のごく目にふれる蝶である。

 このシーンを読んでいて、私は蝶とは最近こういうふれあいはないが、ちょっと前に、我が家の屋根に巣食ったコウモリの幼鳥との体験がある。屋根からポタリと軒下に置いていた黒い、カエルほどの固まり。2歳児の孫が見つけ、チリトリと箒を持って片づけようと近づいた私に気付いて、飛び立っていったコウモリ。

 私はこの時、「蝶」を放つ、ではなくて、「コウモリ」を放つ、というテーマもあり得るな、と感じたのだ。私の中の蝶は、未来志向で、天上界志向である。見るからに美しい。しかし、「コウモリ」は、私の中では、過去回帰であり、広大な暗黒を意味する無意識界とも繋がっているようだ。

 僕の頭蓋の暗闇の中で、父の体はめらめらと燃えている。細胞のひとつひとつがふつふつと泡立ち、気化しては空気中に舞い上がる。その陽炎の中に無数の透明な蝶の姿が見えた。蝶たちは淡い虹色に耀きながら、次々と揺らめき舞い上がる。そして乱舞しながら、空に吸い込まれていく。p46

 ここにおいては、すでに蝶は比喩として使われ始めている。だが、まだ対象物、他者としての、他者の内面、あるいは「魂」の象徴として使われている。つづいて次のような表現がある。

 やがてその空から、蝶の鱗粉がさらさらと降ってきた。無数の細かな粉が鋭い光を放ちながら風に舞い、地上に降りそそぐ。p46

 う~ん、ここはちょっと先走りなのではないか。きっとそれを現象として、第三者における内面の展開として、著者が見たわけではないだろう。むしろ、そこは、自らの願望としてでてきているのかもしれない。そうありたい、そうあるべきだ。そこには著者の「意思」が働き始めている。

 一斉に羽化して飛び立つ蝶の群れが、僕の脳裏をよぎった。 p67

 作者は、一斉に羽化して飛び立つ蝶の群れを、見たことあるだろうか。私はない。ただ、一斉に羽化して乱舞する蝶の一群は見たことある。

 小学生の頃、まだ化学肥料や農薬の使用は一般的ではなかった。母親の実家である農家では屋敷の周りに大きなキャベツ畑を持っていた。上手に作られたキャベツにはたくさんの青虫がつき、やがて晴れた日に、一世に羽化して、キャベツ畑は紋白蝶に埋め尽くされた。

 しかし、あの蝶の一群は、一斉に飛び立ってはいかなかった。いつまでも、きっと、おそらく夕方まであのキャベツ畑を乱舞していた。エサから離れることはできない。

 一斉に飛び立つ蝶のイメージは、ある個人、ある個体が、分化され、さらに粉々に細分化されて、それぞれが単体の生命体となり、全体として昇華されるイメージであろう。これは、他者の上に見た現象ということではなく、他者にも希望し、自分にも願望する、著者の根源的な志向性であろう。

 雨合羽に身を包み、じっとして雨に打たれていると、僕は自分を一匹の蛹のように感じた。時機が訪れれば背中を割り、羽を広げて飛んでいける。だが今はまだ石のように押し黙っている。

 もしかすると僕はこのまま本当に石になってしまうかもしれない。蛹のまま死んでしまわないためには生まれ出ようとする強い意志が必要だと思えた。p87

 ここで初めて蛹がでてくる。著者は青虫ではなくて、蛹から自らをこの小説の中に登場させている。青虫はどうしたのか。青虫は蛹になるために葉っぱを食べるのではないか。蛹にならないまま青虫は燕や他の鳥たちのエサになってしまうこともあり得る。それは青虫の死である。

 もし、蛹の到達点が蝶だとして、蝶は、蝶になればそれで万々歳なのか。蝶は蝶で、次なるステップへの、待機段階ではないのか。著者の繰り出してくるイメージと葛藤する、一読者としての自分がいる。

 雲に映った僕の影の周りを無数の蝶が羽ばたいている。何千何万という光る蝶の群だ。蝶の群は螺旋を描いて旋回しながら、いったん空高く舞い上がったかと思うと、錐揉みしながら、虹色の門の奥に吸い込まれていった。p98

 ある意味、長い間、そう生まれてからずっと主人公を呪縛していた「父」は、こうして純化される。純化されてみれば、「父」とは、勝手に自分がもっていたイメージであり、その呪縛とは、自分が自分を縛っていた限界性なのであった。今、そこから解き放たれようとしているのは自分であり、蛹として脱ぎ捨てるべきは自分自身であった。

 がっがっと瓦礫を踏みしめながら下山道を歩き出すと「そうや、もっと自分の中の蝶を解き放たんとあかん」と急にはっきりと感じた。その仕事は始まったばかりで、これから僕は一生をかけて自分の中の蝶を羽化させつづけなければならないのだ。p98

 主人公はおそらくアラフォーのごく当たり前の家庭環境にある中年男性である。この男を蛹の中で既に死んでしまっているのか、今まさに背中を割ろうとしているのか、判断するのは難しい。盛んに青虫として葉っぱを食んでいる段階ではなさそうだ。

 この男、すこし遅すぎないか、と心配になる。遅れている。羽化する季節はもう過ぎたのではないか。もうすこし早く気付くべきだったのではないか。

 僕の細胞の一つ一つに閉じ込められている無数の蝶・・・・。たとえそれがどんなに醜い羽を持っているとしても、すべての蝶を羽化させ解き放ちたい。そう考えると体中の細胞が一斉にふつふつと沸き立ち、光を放った。(了) p99

 この部分は、主人公の述懐であろうし、私小説(といっていいのかどうか)の書き手としての著者自身の述懐でもあろう。そして、おそらくすでに50歳を超えているだろうと思われる著者は、まだ、このような小説的空間で十分に羽を伸ばして切っているようには思えない。

 蝶として羽化しただけでは、まだまだだ。そして、蝶のあとに、何がくるの、という、さらなる問題意識が、いずれ著者に舞い降りてくるだろう。

 やがてその空から、蝶の鱗粉がさらさらと降ってきた。無数の細かな粉が鋭い光を放ちながら風に舞い、地上に降りそそぐ。p46

 本当にそうか。そんなきれいごとで行くか。今のところ、私にはわからない。だが、このようなイメージだけでは、私には納得できない。ここをさらに、さらに、新たなるフォーマットで描ききっていく必要があるだろう。「たとえそれがどんなに醜い羽」であったとしても、著者はその羽化に立ち会っていく必要があろう。

 スタートはこれからだ。

 この本には、もう一遍「仙田くん」という更に短い小説がついている。

<5>につづく

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