今日の気分はこの3冊<5> スナイダー、山小屋、地球
<4>からつづく
今日の気分はこの3冊<5> スナイダー、山小屋、地球
ようやく自らの何かがまた動きはじめた気がする。ふたたび山の椒エコビレッジ構想を思うと、胸が熱くなる。
こんな夜、三冊、枕元におくとすれば、この三冊がいいかもな。
いまさら、めくってみるような本でもない。すでに何度も開いている。あとは、自分の血となり、肉となってくれればいいな、と思う本たちである。
「聖なる地球のつどいかな」 ゲーリー スナイダー (著), 山尾 三省 (著) 山里勝己(監修), 1998/07 山と溪谷社
この本の持つ意味は深い。三省つながりから読むこともできるが、今回はスナイダーの側から読みたい。スナイダーのキッドキッドディジーの3分の1とは言え、広い山の中に足の置き場を見つけた今、この本に引き込まれる度合いが深まる。
ヨシローもスナイダーはいいと言うし、航くんのお母さんも、この本からブログの名前を取っていた。もし今、三人共通の一冊、と言ったら、この一冊に決まるかも知れない。
スナイダーには素敵な本が多い。「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」(1975/12 社会思想社)もなかなかいい。魂が鼓舞される一冊である。
また「For the Children 子どもたちのために」 (山里勝己・ 編集, 翻訳, 高野建三・写真2013/04)もなかなかいい。実質、「聖なる地球のつどいかな」の続編と言える。誰がつけたか、このタイトルも実に、私の現在の心境にピッタリだ。
「山で暮らす愉しみと基本の技術」大内正伸 2009/06 農山漁村文化協会
この本を読んでメモしていたのは、2011/02/25のことであった。あの3・11がなかったら、もっともっと私たちのエコビレッジ構想は前に進んでいた。そして、この本はもっともっと活用されていたことだろう。
しかし、私たちの思いは、決してまっすぐには進まなかった。山の道のように曲がりくねった道になった。あの石を超え、あの大木を避け、あの川を渡らなければならない。
ぬかるみ、暗闇、豪風、そして獣たち。私たちは、それらと遭遇し、時には佇み、時には退却、時には頓挫する。だがしかし、魂の、どこかから湧き出て来る叫びを押さえることはできない。いずれ、また歩きだすのだ。
この本は、対象としての「山」を見失ってしまった場合は、空しい一冊となる。技術があっても、街において空想しているだけでは、ちっとも愉しくない。ジェラシーで忘れてしまいたくなる一冊である。
しかし、暮らせる山が身近にあったとするならば、この本は、基本中の基本となる。
「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」乙須敏紀 2008/11 ガイアブックス/産調出版
ガイアという言葉が、もし、ジェームス・ラブロックの「ガイア理論」にのみ依存するのだとしたら、もはやガイアという言葉は実にたわいもない、歪曲された意味だけを持ってしまうかもしれない。
そしてまた、まるで地球を蚕食するかのような現代建築の異様さばかりに目を奪われてしまうなら、この本も一体、なんたるおふざけか、と感じてしまうような一冊である。
しかるに、私はこの本が大好きである。何かが、何かと対峙している。決して調和しているとは思わない。何かと何かの接点にこの本はある。
この本は、カラーグラビア誌であるだけに、実に美しい。そして、大自然と、現代建築がキチンと写し込まれている。
その中にあっても、たった一枚、私は、この写真に心奪われてきた。(p15)
ここにあるのは、なんだろうか。
私は、山に入って山菜をとったり、たき火をしたり、あるいはニホンミツバチを追ったり、あるいはテント暮らしをしたり、天体望遠鏡で空を見たり、という楽しみを超えて、この一枚のような風景の中に、自分を置きたいと思うのである。
森の中に隠れるような現代建築の固まり。その窓際に立って、いる。
このガラス窓一枚の向こうとこちら側との対比。
山に入って何をしたいのか、と言われれば、私の場合は、たった一枚、この写真を差し出すことも可能である。
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