「For the Children 子どもたちのために」 ゲーリー・スナイダー<6>
「For the Children 子どもたちのために」
ゲーリー・スナイダー (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真) 2013/04 新泉社 単行本:
143p
★★★★★
今はおそらくロイド・カーンでもなければ、パーマカルチャーでもないだろう。建物に意味があるわけでもなく、農業に意味があるわけでもない。今は人間に意味があるのである。人間としての生き方、そのことが問われている。
ゲーリー・スナイダーという人を知らない人は、この本を一冊読めばいい。それでなんとなくわかるだろう。
わからないかもしれない。しかし、それはどうしようもない。この本を読んでピンと来なければ、スナイダーなど、追っかける必要はないだろう。
この本は入り口だ。スナイダー文学の入り口? いやいや、そうじゃなく、自分の人生と、どう取り組むか、という入り口である。
この本のタイトルは取ってつけたようで、好きでもあるし、嫌いでもある。
子どもたちのために? それは嘘だろう。だが、子どもとしての自分のため、というなら、納得できる。みんな、誰もが地球の子供たちだ。その子どもたちのために、というなら、この本のタイトルは、そう、その通りなのだ。
山の椒のコンテナハウスを清掃中。今週末にも友人たちがやってくる。急いで、急いで、清掃中。カッコいいところ、みせたいよな。
だけど、本当は、いろいろと作業が遅れている。あれもこれもしたいよ。だけど、手が回らない。
ビジョンがどんどん湧いてくる。あれをこうして、これをああするのだ。そして、それからこうなるに違いないから、その次は、こうやるよ。
そんなプランが、バンバンでてくる。
いつまでも、コンテナハウスと呼びならわすのはやめよう。ここで、私はこのコンテナに名前を付けた。
スナイダー・オフィス。
スナイダーがオフィスつながりになることに賛同しない向きもあろう。しかし、スナイダー自身は、問題なく賛成する。
森の中のジュラルミンの建築物は、やはりオフィスという名にふさわしい。できるだけクリーンにしよう。ほこりを払い、カビを取り、壁や屋根をデッキブラシでごしごしきれいにしょう
空間には何もおかないことにしよう。冷蔵庫も今はあるけれど、いずれ小さいものに換えよう。絵は壁にホワイト・ターラーを架けよう。ベットはキャンプ用の折りたたみ式。椅子も二つもあれば十分だろう。これもキャンプ用折りたたみ式だ。
ネット環境は、この前、それぞれの手持ちのセットで確認していたが、繋がらないこともないのだが、やはり、ここは、最速最新のものが似合うと思う。
今は、大きな窓兼入口がついているが、私はもう一つ付けたい。後ろのバックエンドの空間に、窓とドアを付ける。
そして、いつでも5~6人で飲めるようにする。
防犯は、あまり高めなくてもいいだろう。なくなってもいいようなもので構成すればいいのだ。なくなって困るような貴重品は、それぞれが身につけて持ち帰ればいいのだ。
ジュラルミンとスナイダー。これって、意外とお似合いだ、と私は睨んでいる。そしてスナイダーとオフィス。これも、きっと、決まりだよ。
スナイダーの魅力のひとつは、まだ生きている、ってこと。過去の人ではない。
もし、ここで、スナイダーを山の椒のゲストとして迎えよう、と思えば、それはおそらく、実現する。
実現しないとすれば、それは、いつもの私の悪い癖だが、ちょっとしたことで、すぐいじけること。簡単に人に道を譲ってしまうことだ。
ここは、もうすこし、我を通して、自己主張しようではないか。それは許されるタイミングではないか?
想像性が爆発しているよ。
与えられた空間、あてがわれた自由。いやだね。
湧きあがる自由、爆発する想像性。
ここまできたよ。そして、もうここ以上、もうないかもよ。
だから、今日のわずかな疲れを癒しながらも、明日への作業の手順を考える。友達を笑って迎えよう。楽しもう。
これは、ほんの始まり。そうだな、10のうちの1であり、また、その10は、100のうちの1に過ぎない。
とにかく、今夜は、勝手ながら、あのコンテナハウスの名前はスナイダー・オフィスとしたい、と思った。
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