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2014/10/28

「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<11>

<10>よりつづく 
 

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <11>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

第一番目---「自己に対する知覚は起こらない」
これら四つの言葉は理解されなければならない
それはほとんど同義的、ただし「ほとんど」だ
self(自己、自我)
being(生けるもの、存在者)
soul(魂)
person(個人)
辞書のなかではこれらはほとんど同じだ
しかし仏陀はこれらにちがう色合いを与える
そしてこれらはちがう色合い、わずかなちがいを持っている
 

第一にselfは自我(エゴ)を意味する
自分を構成する五要素から切り離されてある、「私の」「私のもの」「私」を意味する
人間は五つの要素から構成されている
ただその五つの組み合わせにすぎない
その五つをばらばらにすれば、人間は消える
 

仏陀はその五つの要素よりほかには何も存在しないと言う
それはちょうど馬車のようなものだ
あなたは馬車の構成部分をばらばらにする
車輪を取り、馬を取り、その他のものもすべて取り払う
そうすると最後には、馬車がどこにあるか知りたくてもその馬車は消えている
それは馬車がそういう部分の組み合わせにすぎなかったからだ
 

これは仏陀の最大の洞察のひとつだ
ほかのどんな宗教もその高みまで行っていない
ほかの宗教はすべて、何かしらの「自己」「自我(エゴ)」という観念で止まってしまっている
どんなに洗練され、どんなに神聖で、どんなに美徳があるとしても
まだ何がしかの自我観念が残っている
あなたはそれを「自己」とか「魂」とか「真我(アートマン)」とか呼ぶ
それを何と呼ぼうと問題ではない
仏陀は、それについては
あなたの最も深い核心は空で構成されていることについては、非常にはっきりしている
そこには自我(エゴ)はいっさいない
 

「私」という言葉は便宜的なものにすぎない
それはどんなに現実にも一致しない
それは必要なものだ
仏陀でさえそれをつかう
それは意志伝達する手段としてはいい
それは指摘するが、そんな現実にも一致しない
だから第一の「自己」は、「私は構成要素から分離している」ということを意味する
仏陀は、あなたは存在しない、そこに存在するのは構成要素だけだ、と言う
あなたは全き<虚空>だ
 

第二はa beingだ
beingとは、「個」を意味する
つまり「異なる時間に自分を同じものだとみなす観念」を意味する
あなたは言う
「私はかつて子供だった
いま、私は若者だ
そしてやがて私は老人になるだろう」
あなたは自分が継続するものであるかのような観念をもっている
自分はかつて子供で、次に若者になったが、自分は同じままだ
これから年老いてゆくだろうが、自分は同じままだ、という観念を---
だが仏陀は、一瞬一瞬あなたは変化している、と言う

彼は完全にヘラクレイトスに同意する
あなたは二度と同じ川に足を踏み入れることはできない
川は流れつづける
子供であったときあなたはちがう個人であったし、いまのあなたは別の個人だ
年をとればあなたはまた別の個人になる
実際のところ、毎日あなたはちがっている
一瞬一瞬あなたはちがっている
 

「私は同じだ」というこの観念はなぜ持続するのだろう?
それが持続するのは、変化はごく微妙だがあなたの視覚はそれほど微妙でないからだ
それはちょうど夜に蝋燭をともすようなものだ
それは一晩中燃えるが、朝になるとあなたはそれを吹き消して言う
「私がいま吹き消している炎は同じ炎だ
そうではない
炎はたえず変化し、一瞬一瞬、消えては、新しい炎が生まれている
だが、二つの炎の間隔
一つが消えもう一つが生じるその隙間はあまりにも微妙で小さいのであなたには見えない
だから「個」、「存在者」というこの観念が持続する

仏陀は、生は過程だ、生は物のようではないと言う
それはたえまない動きだ
生は川だ
仏陀は言う
現実に忠実でありたければ、人は言語からすべての名詞を落とすべきだ、と
ただ動詞だけが真実だ
「川」は真実ではなく「川している」が真実だ
「木」は真実ではなく「木している」が真実だ
「愛」は真実ではなく「愛している」が真実だ
生は名詞からではなく動詞から成り立っている
 

次に第三のものはsoulだ
肉体の中に住んでいる超越的な力という観念
ほかのあらゆるものから分離し、統一や生気を与える力という観念だ
それもまた、仏陀は「超越的な力」もまた存在しないと言う
あなたの内側に住んでいるものは何もない
あなたが家で、その家のなかに主人や住人がいるというわけではない
内側に住むのはただ純粋な<無>だけだ
 

そして第四はperson、存在するという観念だ
何度も生まれ変わり、転生する永遠不変の実体への信仰だ
これを仏陀は「個人person」と呼ぶ
あなたは死ぬ、そしてあなたの「個人」はただちにほかの子宮の中に生まれる
そこは継続性はあるが「個人」はない
継続するがそこには「自己」はない
継続はするがそこには「個」はない
継続はするがそこには「魂」はない
 

仏陀のこのヴィジョンはあまりにも独特だから
この国でさえ、これほど宗教的なインドでさえ、それをのみこむことができなかった
まるで仏陀が宗教の土台全部を破壊しようと決めてしまったかのように感じられたのだ
彼はまったく新しいヴィジョンを与えていた
魂、自己などという普通の観念よりもはるかに高いヴィジョンを---
なぜならそういう観念のなかに、あなたの自我(エゴ)はかたちを変えて隠れつづけるからだ
それらは、自我(エゴ)が存在し、生き存(なが)らえてゆくための道にほかならない
仏陀は言う
 

   それは何故か?
   スブーティよ
   これらの菩薩たちには
   自己に対する知覚は起こらないからだ

人が内側に向きを変えたとき
あなたの意識が内側に転じて、あなた自身の存在をのぞきこんだとき
そこには何も見つからない
 

   自己に対する知覚は起こらない
   生けるものに対する知覚は起こらない
   魂に対する知覚は起こらない
   個人に対する知覚は起こらない

これら四つのものはただちに溶け去る
 

   またこれらの菩薩たちには
   法(ダルマ)に対する知覚は起こらない

法(ダルマ)とは生における肯定的な要素を意味する
非法(ノーダルマ)とは生における否定的な要素を意味する
肯定性と否定性---
仏陀は、それらでさえ真実ではなく消えてゆくものだ、と言う
ダルマに対する知覚は起こらない
あなたは内側で肯定的な現実には出会わない
あなたは内側で否定的な現実にも出会わない
あなたが出会うのはただ全面的な<無>だ
 

そして憶えておきなさい
その<無>は、非現実、否定性と同義に考えられるべきではない
<無>とは、たんに肯定的でも否定的でもないということだ
両方とも消えている、そこにあの二元性はもうない
それは完全な沈黙だ
何も見つからず、あなた自身さえ見つからず、あなたは自由になっている
あなたが自由になるのではない、あなた自身から自由になるのだ
ほかの人たちが自由のことを話すとき
彼らはいつも「あなたがそこにいて、自由だ」ということを意味している
仏陀が自由について語るとき彼は言う
あなたは排除される、あなたはそこにいなくなる---と
どうしてあなたが自由のなかにありえよう?
もしあなたが自由のなかにあれば一種の監禁がある
あなたがその監禁だ
あなたが自由になることはできない
あなたがいないとき、自由がある
あなたがあるとき、自由はない
 

そして第七番目、非知覚---
そこに見る対象が何もないとき
どうやって「それは知覚だ」ということを見ることができよう?
自己もなく、肯定性もなく、否定性もない
見るべきものは何もない
見るべきものが何もないときには
「ある知覚が起こった」ということを見ることはできない
知覚は知覚すべき何かを必要とする
だから第七番目のことは、知覚はいっさいない、ということだ
だがそうなったら、あなたは「では非知覚はあるのか?」と言いかねない
仏陀は言う
見る者も見るべき物もないとき、どうして非知覚がありえよう?
彼は自我(エゴ)のあらゆる根、自我(エゴ)のあらゆる微妙な在り方を破壊している
 

これらが八つの障害物だ
これらがことごとく消えたとき、人はボーディサットヴァだ
 p290 OSHO 「<光明>の味」

<12>につづく

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