「庭仕事の愉しみ」 ヘルマン・ヘッセ /フォルカー・ミヒェルス <3>
「庭仕事の愉しみ」
<3>
ヘルマン・ヘッセ /フォルカー・ミヒェルス 1996/06 草思社 322p 原書HERMANN HESSE FREUDE
AM GARTEN 1992
★★★★★
1877(明治10)年に生れたヘルマン・ヘッセ。年代で言えば、現在還暦した私の、その祖父よりも、さらに上の世代となる。だから、おじいさんというより、ひいおじいさんに近い。
それこそジェネレーションギャップも、そうとうあるはずなのだが、亡くなったのが1962年、85歳だったと聞くと、決してそれほどかけ離れた世代の人ではなかったのだ、と思う。少なくとも、この地球上で、ともに生きていた時代はあった。
世代は3つほど離れているのだが、この人の感性には、極めて同時代人的な親近感を持ってしまうのは、決して小数の人々ではあるまい。
第一次世界大戦や第二次世界大戦という悲劇の時代を生きながら、ともすればヘッセはミーイズムの世界を生きつづけた。悪く言えば、元祖ひきこもりだ。あるいは、社会の動静に関わらず、独自の世界を切り開き続けた、とも言える。
独自の世界と言っても、決して魑魅魍魎な世界ではなく、ごく大自然に沿った、より自由な生き方を選びとったのだ。
地球や空や大地が与えてくれる環境の上で、ひとりの人間として生きようとした場合、時代や空間を超えて、共通項を多く見つけることになる。
ヘッセは書店の店員という職業から作家へと自立していったわけだから、決して誰にもできるような人生ではなかった。しかし、文を書いたり、絵を描いたりするという生活を同じか、それ以上の重きをもってヘッセの生活を形作っていたのは、山での暮らしであり、庭での仕事であった。
そういった意味においては、時代を超えた多くの人々のハートにダイレクトにヘッセのメッセージは届いてくる。
そのとき私の心に、私が何年も前から専念している思考の遊戯が始まる。それは、ガラス玉遊戯と名づけた、ひとつの素晴らしい想像の産物で、その骨組みは音楽で、その根底は瞑想である。
ヨーゼフ・クネヒトが名人で、私はその人のお陰で、この美しい空想をめぐる着想を得た。
よろこびのときには、それは私にとって遊戯であり幸福であり、悩みと困惑のときには慰めであり瞑想でtある。
そしてここで焚き火をし、篩(ふるい)を使いながら、私は、とうにもう、クネヒトのようにはできないけれど、このガラス玉遊戯をしばしば愉しむ。
土の円錐が搭のようにそびえ、土の粉末が篩から流れ落ちているあいだ、その合間に、必要に応じて、機械的に右手がくすぶっている炭焼き窯に奉仕したり、新たに篩に土を満たしたりしているあいだに、家畜小屋から大きなヒマワリが私を眺め、ブドウの木の茂みの向こうに、はるかな空が真昼の青色に香っているあいだに、私は音楽を聴き、過去と未来の人間を見、賢人、詩人、研究者、芸術家が心を合わせて、何百もの入り口をもつ精神の大伽藍を建設するのを見る。
---私はそれを、いつか将来記述するつもりだ。その日はまだ来ていない。
けれど、その日が早く来ようと遅く来ようと、あるいは決して来なくとも、私が慰めを必要とするたびごとに、このヨーゼフ・クネヒトの、友情にみちた意義深い遊戯は、いつもこの老いた東洋旅行者を、時間と年を離れて、すばらしい兄弟たちのところへ連れて行ってくれるだろう。
その美しい合唱に私の声も加えてくれる兄弟たちのところへ。p155「庭でのひととき」から抜粋
私にとってのヘッセは、「車輪の下」でも「シッダルタ」でもなければ、「デミアン」でもない。私にとってのヘッセは「シャボン玉遊戯」である。シャボン玉についての記述があってこそのヘルマン・ヘッセであった。
しかるに、それは文学者としてのヘッセであって、本当の、人間としてのヘッセではない。リアルなヘッセは、ヨーゼフ・クネヒトを遠く離れて、庭に遊ぶ無個性な、つまり個人を離れた、自然と等質な存在へと、消え去ろうとしていた。
| 固定リンク
「21)さすらいの夏休み」カテゴリの記事
- 「おとなのiPhone 」一目置かれる使いこなし術 高橋 浩子<1>(2014.10.27)
- 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<15>(2014.10.27)
- 「For the Children 子どもたちのために」 ゲーリー・スナイダー<10>(2014.10.26)
- 「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<10>(2014.10.26)
コメント