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2014/11/10

「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<12>

<11>よりつづく 
 

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <12>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

気づいたときはいつでも、どんな時点であろうと、その時点から留意するがいい
---ただたんなる留意だ---
そしてことの全体から離れるがいい
そうすればまもなく、もつれたマインドがもう以前ほどにはもつれていないのが見える
物事が消えはじめる
そして如性、タタターの瞬間が来る
そのときあなたはただそこにいて、<存在>もそこにある
そしてあなたと<存在>のあいだにはどんな意見もない
すべてが思考によってかき乱されず、思考によって汚されない
<存在>はある
だがマインドは消えてしまっている
そのノーマインドの状態こそ如性と呼ばれるものだ

仏陀は言う

   <如来>は<真の知性>と同義である

同義---
つまり、知性という質を持っているのではない
如来が<知性>なのだ

そして仏陀は言う

   如来(タターガタ)は現実(リアリティ)に従って語る

彼はそれ以外の方法では語れない
彼が現実(リアリティ)に従って語ることを選択するというわけではない
選択はいっさいない
何であれ現実であるものが彼を通して語られる

それは彼がこう選択するということではない
「これは現実だ、私はこれを語らなければならない
あれは現実ではない、私はあれは語らない」
---そういう選択が生じたら、あなたはまだ仏陀ではない

タターガタは<無選択>から語る
だからタターガタは真理を語るというのではない
実際のところ、それはこのように言われるべきだ
「タターガタによって語られたことは何であれ真理である」
彼は現実に従って語る

実際のところ、現実、真実が彼を通して語る
彼はただ媒体、中空の竹だ
現実、真実が彼を通してその歌をうたう
彼には自分自身の詩はまったくない
彼の意見はすべて消え、彼自身も消えている
彼は純粋な空間だ
真理は彼を通って、世界のなかへ入ることができる
真理は彼を通って、世界のなかへ降臨することができる

彼は、真理を語る
彼は、<あるがまま>---ヤター・ブータムを語る
何であれ実体(リアリティ)を、彼は語る
彼はそれについてどんなマインドももたず、決して干渉しない
彼はひとつの物事も落とさず、ひとつの物事も付け加えない
彼は鏡だ
鏡は鏡の前に来るものは何であれ反映する
この反映性が如性だ

   スブーティよ
   <如来>は<真の知性>と同義である

なぜ彼は真の如性と言うのか?
偽りの如性というものがあるのだろうか?
そのとおりだ
あなたは練習することができる
あなたは如性というある質を練習し、養成することができる
が、それは現実にはならない
真の如性は養成されるべきものではない
それは来る

たとえば、「あなたは養成できる」と私が言うとき
それはどういう意味だろう?
あなたはこう決心できる
「私は、どんな結果を招こうとも、真理のみを語る
たとえこの命を失なわなければならないとしても、私は真理を語る」
そしてあなたは真理を語るが、それは真の如性ではない
それはあなたの決心だ
偽りがあなたのなかに沸き上がる
あなたがその偽りを抑えつけつづける
あなたは「たとえ命が危なくなっても、私は真実であることを決心した」と言う

それは努力だ
真実があなたの威信になってしまっている

奥深いところでは、あなたは殉教者になることにあこがれている
奥深いところでは、あなたは全世界に知らせたいのだ
あなたが真実に満ちた人間だということを
そのためなら自分の命をも犠牲にする覚悟があるということを
あなたは偉大な人間、マハトマだということを---

そしてあなたは自分の命を犠牲にするかもしれない
だがそれは真の知性ではない

真の知性はまったく選択を知らない
あなたはたんに真実(リアリティ)の道具だ
あなたは介入しない
あなたはあいだに立ち入らない
あなたはあさっり身を引いた
鏡はこう決心しない
「この人は私の前に立っている
私は、どんな結果を招こうとも、彼のほんとうの顔を彼に見せるつもりだ
たとえ彼が私に石を投げつけても
---というのも彼はとても醜いからだ、彼は怒り出すかもしれない---
私は彼にほんとうの顔を見せよう」

もし鏡がそんなふうに考えたら、そのときには鏡はもう鏡ではない
マインドが入ってきている
それは反映していない
それは彼の決心だ
純粋性は失われている
しかし、鏡はただそこにあるだけで、どんなマインドももたない
ブッダもそうだ
だから仏陀は、真の如性(真如)という言葉をつかう

留意するというこの仏陀の瞑想---
それを試してみなさい
それで遊ぶがいい
私はそれを練習しなさいとは言えない
私はそれで遊びなさいとしか言えない
坐りながら、歩きながら、ときどきそれを思い起しなさい
ただそれで遊ぶことだ
そうすればあなたは驚くだろう
仏陀は、内奥の核に浸透する最大の技法(テクニック)のひとつを世界に与えていたことに--- 
P673 Osho「完全に光明を得た者

<13>につづく

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