「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン<6>
「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア<6>
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他
日本経済評論社 2010/09 単行本 145p より抜粋
★★★★★
友人から、エコビレッジについては一般に情報過多で、コミュニケーション不足、という指摘があった。言わんとしていることは分かる。そこで、せっかく3・11直前にこの本から抜き書きしていた23章について、ひとつひとつ再掲して、自分からコミュニケーションを発信しておく。受け止めて、返信してくれる人はいるだろうか。
エコビレッジ運動は、目的共同体の生活に関する古代思想が1960年代から1970年代にかけて出現した国際的な環境保護運動に出会ったときに誕生した。エコビレッジとは、「人類の健全な発展を支え、限りない未来にうまくつながる方法を採用することにより、人間の活動が自然界に害を及ぼすことなく溶け込んでいるヒューマンスケールの集落である」と定義されている。すなわち、それは、平和的に相互依存的な集団生活を営む持続可能な共同体である。p5
つまり私たちが一般に60年代からのカウンターカルチャーと総称しているところの、コミューンとか共同体とか言われたライフスタイルの中に、如何に古代から続いてきた伝統をうまく取り入れていくか、ということであろう。
エコビレッジという言い方は、いつ頃からでてきたのかまだ調べていないが、おそらく、それほど昔ではない。2014年においてなら、コミューンとか共同体とか言っても、少し手垢がついていて、意味がぼけてしまっているが、ポスト3・11においては、エコビレッジという言い方の、その意味が明確に浮き上がってきそうだ。
もし家庭菜園をやりたいとか、ログハウスを作りたいとか、田舎暮らしをしたい、という個的な発想では、エコビレッジというスケールには辿り着かないだろう。エコビレッジには個人を超えた、ある集団性が必要となろう。
それは個的なレベルが不要である、という意味ではなく、それらを、もっと大きなスケールでまとめあげていくデザインが必要である、ということであろう。
それでは、その集団性を何処に何に求めるのか、ということが、結局は、この本の最終的なテーマとなるであろう。
ヒューマンスケールという言葉も、とても心地よいものではあるが、規定力は弱い。人間らしく、とか、ありのままとか、なにかほかの言葉で代言されてしまいそうだが、ここはもう少し規定力を高めておく必要があろう。
いつも思うのだが、コンコルドなどの音速飛行機は、技術的には可能だったが、ある種のヒューマンスケールからはみ出してしまい、結局は、このモンスター化した飛行機はついに地球上から姿を消した。
そう言った意味においては、原子力発電や、リニアモーター新幹線などは、おそらく人間の技術を駆使すれば出来上がるものであろうが、そこには、ヒューマンスケールから大きく外れた、マッド・サイエンスが作り上げたモンスターが存在しているだけではないだろうか。
私から見えれば、1000万人を超すような巨大都市や、何百メートルの高さで聳え立つ高層ビルなどは、ヒューマンスケールを大きく外れた、マッドサイエンスが作り上げたモンスター以外の何モノでもない。
では、どの程度が適正なのか。私が暮らしている100万都市も決してヒューマンサイズとは思えない。周辺を過疎化させて、中央部だけ栄えようというのは、巨大なモンスター都市をスケールダウンしただけであり、その思想は同じもので作り上げられている。
私は、個人的な生活を営むとしたら、おそらく200人くらいの友人知人がいれば、一生を送れるのではないか、と想像している。それは、各個人が毎年だす年賀状やグリーティングカードのリストの数から想定したものである。
年賀状を500枚出す、という人もいるが、これは交友がある人間以外を含んだビジネス用DMも兼ねているようである。あるいは勿論まったく出さない人もいるわけだが、受け手としたら、おそらく数十通。無理しなければ7~80通のやりとりは可能なようである。
この辺は平均値を取るのがベストとばかりも言えないが、すくなくとも20人を中央値と見ることもできないし、2000人を中央値と見ることもできない。私が考えているヒューマンスケールの、個人生活の交友数の中央値は200としておく。
市制施行には人口が3万人とか5万人とか法で規定されているが、おそらく一つの都市の、適正なヒューマンスケールは20万人程度であろう。この程度なら、経済も成り立ち、それぞれの都市機能が発達し、しかも、無理のない日常生活が送れそうだ。
エコビレッジという概念は、ともすれば、過疎や無人地帯が広がる原野に作られるようなイメージもあるが、必ずしもそれはあたっていない。敢えていうならエコシティという呼び名が正しいのであろうが、それでは、実現可能性が薄くなるので、エコビレッジという名前に留まっている、ということであろう。
であるなら、全国、あるいは全世界に存在する20万人都市に移住すればいいかと言えば、そうではない。歴史や産業構造のゆがみの中で、一つのプロセスとしてその数字に留まっているところが多いからである。増えるにせよ、減るにせよ、ひとつの到達地点としての姿を20万人都市あたりにおくのが良いのではないか、と思っている。
そして、その根底としてある、構成する人間関係の単位が200人程度の共同性であれば、それがエコビレッジと名付けられるのではないか、と、まずは想定しておく。
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