「For the Children 子どもたちのために」 ゲーリー・スナイダー<11>
「For the Children 子どもたちのために」<11>
ゲーリー・スナイダー (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真) 2013/04 新泉社 単行本: 143p
★★★★★
「場所」の喪失、移動、漂流というパターンを、1945年以降のオキナワと2011年以降のフクシマの人々が期せずして共有することになった。
フクシマの破壊された原子炉周辺のバリアや、オキナワの軍事基地を取り囲むフェンスは、人々から場所の記憶を奪い続ける。
フクシマとオキナワには、場所と人間、場所と文化、あるいは場所と近代工業文明の問題として語られるべきものである。
なぜ人は、強制的に排除された場所にいくたびに戻って行こうとするのか。そこには、容易に説明しがたい人間と土地の深い絆が横たわっているのである。p133山里勝己「場所を喪失した人々---オキナワとフクシマ」
さて、あたらしいカテゴリ「絆の都」を始めることとする。最初、どこから始めたらいいのやら、とまどってしまった。そもそも「Yah Man Osho」というカテゴリ名にしようと思ったのだが、諸般の状況から、それは今後に繰り越すこととした。
理由のひとつ。まず、石川裕人の「畢竟の三部作」である「時の葦舟」の中から、「無窮のアリア」と「さすらいの夏休み」がカテゴリ名として採用されたのに、「絆の都」だけが、外れてしまったこと。忘れないように、ここにひとクッションとしていれておこう。
二つ目。「Yah Man Osho」は、良い思いつきであり、いずれカテゴリ名として当ブログに登場することは必定である。しかるに、どうも現在の私の姿勢は前のめりである。そう指摘してくれる人もあり、私自身もそう感じる部分がある。ここは、すこし三歩進んで二歩さがるくらいの余裕が必要のようである。
三つめ。私は、正直言って、「絆」も「都」も、言葉としては、あまり好みではない。しかし、石川裕人が言った意味において、「絆の都」は、はっきりと容認できる。それは巨大化した大都市を意味しないし、「復旧復興」の旧態依然の昔に戻ることを意味していない。
---ようこそテンマク・シティへ。
---こんにちは、こんにちはみなさん、こんにちは。
---Welcome, Welcome,Welcome,
---アジアの片隅、テンマク・シティへ、御一行様ご案内。
---世界でもうここしかない人間の生きる町。石川裕人「時の葦舟」p9 第一部「絆の都」
絆の都の意味するところ、それは「天幕シティ」であり、テント村のことである。「世界でもうここしかない人間の生きる町」。それは、地球人すべてにとっての意味でなくてもいい。すくなくとも、そこにたどり着く人々にとっては、もうここしかない、場所である。
今、当ブログに見えているのは、ひとつのハードとひとつのソフトである。それらがどのようなリアリティとしてつながるのか。そこが見どころなのである。
なぜ人は、強制的に排除された場所にいくたびに戻って行こうとするのか。そこには、容易に説明しがたい人間と土地の深い絆が横たわっているのである。p133山里勝己「場所を喪失した人々---オキナワとフクシマ」
当ブログは、もう一歩「野生の実践」が必要である。そして、その絆の向こうには「Yah Man Osho」が見えてくるはずなのである。
そんな意味合いを込めて、このカテゴリをゆっくりスタートさせておくことにする。
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