「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<13>
「ダイヤモンド・スートラ」
- OSHO 金剛般若経を語る <13>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03
めるくまーる社 単行本 p739
★★★★★
選ばないことだ
執着しないことだ
雲の象に執着したら、あなたは惨めになる
次の瞬間にはその象が去っているのを見る
そして、あなたは叫ぶ、あなたは泣く
だが、いったいだれに責任がある?
雲に責任があるのだろうか?
雲はたんにその本性に従っているだけだ
憶えておきなさい
雲は変わるためにそこにある
マインドもそうだ
あなたの内なる大空から見まもりなさい
そして雲を漂わせなさい
ただ見まもる人になることだ
そして憶えておきなさい
雲は往来するが、あなたは無関心のままでいることができる、ということを----
仏陀は<無関心>に非常に重要な価値を与えた
無関心のままでいなさい
それはたいした問題ではない p707 Osho 「完全に光明を得た者」
仏陀は、だからこそそれを完全な<光明>と呼ぶ、と言う
世界には、<光明>の観念が「完全な」と呼ばれない他の宗教がある
例えばキリスト今日の三位一体の観念だ
神と子と聖霊と
それは、究極に至っても、三つの区別、三つの分裂があることを意味する
それはなんらかの雲が保たれていること
なんらかの形、形式が保たれていることを意味する
わずかだが依然として「世界」が続いている
マインドがまだ完全にはおとされていない
ヒンドゥー今日の観念はもう少し良い
残るのはただ二つだけ---神と魂だけだ
三つよりはましだが、まだ二つが、二元性がある
二元性はすべてマインド的なものだ
物事を分離するのはマインド、定義づけするのはマインドだ
だからこれも完全な<光明>ではありえない
ジャイナ教の概念ではただひとつのものだけが残る
----魂だ
この方がさらにいい
キリスト教よりも、ヒンドゥー教よりもいい
残るものはただひとつ---魂だ
しかし、仏陀はそれもまた完全な<光明>ではないと言う
一つを考えるためにには必然的に二、三、四、五のことを考えなければならないからだ
ただ「一つ」と言うだけで、全数列を持ちこむのにじゅうぶんだ
「一」が定義されたら、必ず「二」をそのなかに持ちことになる
「一」と言うことはどういう意味か?
あなたは「不二」と言わなければならない
だから、「一」は少なくとも、その定義づけのためには「他」を必要とする
その「他」は以前としてどこかに隠されている
それはまだ完全には消えていない
もし私がそこにいるとしたら、そのときあなたもそこにいる
それは完全に消えることはできない
「私」は「あなた」を必要とする
「私」自身が完全に存在するためには、「あなた」が必要だ
「私」は「汝」と二つ一組でしか存在しない
この二つは共にある
「我--汝」はひとつの現実だ
そこで、仏陀は「私」も消えなければならないと言う
そうなったら三位一体はすべて消える
究極の体験においては、三もニモ一もない
それは純粋な大空だ
無、非在、非実体だ
それはゼロ、シュンニュータだ
だから仏陀は言う
それは「無上の 正しい 完全な<光明>」だ p719 OSHO 同上
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