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2014/12/07

「もし僕らが生き続けるなら」 自由の世界への出発 塚本晃生<3>

<2>からつづく

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「もし僕らが生き続けるなら」自由の世界への出発<3>
塚本 晃生 1972/12 大和書房 単行本 204p

 敬愛する「名前のない新聞」編集長あぱっちからの依頼である。成人式を3回繰り返した還暦男の、まずは第一回目の成人式の前後から走り書きしておこう。

 私自身は小学校5年で東京オリンピックを迎え、中学校一年でビートルズ来日を迎えた。高校二年生でいわゆる70年安保を体験し、高校を卒業する頃にはあさま山荘事件が起きていた。

 私自身は小学校3年から新聞部で壁新聞を作ったりしていた。5年生頃にはガリ版で学級新聞をつくり、卒業文集には将来なりたい職業として新聞記者と書いていた。中学校時代には友人たちと漫画肉筆誌を作ったりして、漠然と将来はジャーナリズムや出版に関わる仕事をしたいと思っていた。

 そんな私の人生の前に大きく立ちふさがったのは、70年安保という時代性だった。当時新聞部に属していた私は、べ平連のフランスデモに参加する程度だったが、校内で起きた生徒たちによる職員室バリケード事件に大きな衝撃を受けた。新聞部として取材していた私まで連行されることになり、また、それを報道するマスメディアの姿勢に実に落胆したものである。

 その後、私は学校新聞部を休部し、自分でガリ版ミニコミを作ることにした。内容は自分の身の周りのことがほとんどであるが、すでにある権力や常識にとらわれたくないという表現の手段でもあったのである。自己表現であり、またプロテストだった。

 折よく愛読していた「朝日ジャーナル」誌のミニコミ特集に取り上げられることによって、私のミニコミは読者を拡大した。全国に紹介されることも多くなり、テレビや雑誌の取材を受けることもたびたびあった。普通では手に入らない情報も、そのようなルートで入ることも多くなった。

 そして、高校卒業後は、そのような活動の中で出会った流峰や仲間たちとアパートの一室を借りて共同生活をするようになった。「雀の森の住人達」と名付けた仲間たちと、旅をした。72年には80日をかけてヒッチハイクで日本一周した。高倉健さんゆかりの網走番外地から、復帰したばかりの沖縄コザ市まで。10代の若者の目には、日本全体が極めて新鮮で多様なものに思えた。

 自分たちの共同生活の場に戻った私たちは、ガリ版新聞をつくり、手作りのミニコミ雑誌を作ることにした。その雑誌もまたさまざまな形で取材を受けることとなる。当時の取材の一つに塚本晃生「もし僕らが生き続けるなら」(1972/12 大和書房)がある。内容は極めて簡単なものだが、取材されている人々の中では私が一番若輩者であった。

 私たちは、自分たちが作ったミニコミ雑誌を、当時出始めていた全国のミニコミ書店に配給するために、またヒッチハイクで出かけ、その途中で、気になるミニコミや、同じような共同生活の場を取材した。そして、それをまた次の号の雑誌に書いたのだった。

 私が「名前のない新聞」に最初に出会ったのは、この日本一周ヒッチハイクの途上であった。幼馴染の親友が東京キットブラザーズに参加しており、当時彼らが鳥取県の佐治村に作ろうとしていた「さくらんぼユートピア」を尋ねた時だった。

 初めて友人に見せてもらった「名前のない新聞」は、私たちのミニコミと同じようにザラ紙に謄写版で印刷されたものだったが、編集長のあぱっちの丸文字が実に似合っていた。しかも、その内容が、それまで見慣れてきたアジビラのようなトゲトゲしい表現ではなく、なんとも、ほんわかとした、新しい時代の到来を告げているように思えた。

 ミニコミ発行、ヒッチハイクの旅、そしてコミューンと呼ばれた共同生活の場を通じて、私たちの若者文化のネットワークはどんどん広がっていった。その中でも、一番仲良くなったのは、鳥取の私都(きさいち)村とか、北海道のピキピキ舎とか、福島のグループもぐらなどに加えて、東京の練馬にあった都市コミューン「蘇生」だった。

 トモ、キコリ、などと、伊豆の農家で合宿をしたりしている中で、私たちも東北で合宿形態のグループワークの場を持つようになり、74年冬には東北の温泉どころである西鳴子「星の湯」で、全国から仲間を呼んで、長期合宿をした。それが、75年の「星の遊行群ミルキーウェイ」キャラバンにつながっていった。

 75年になると、合宿に参加しなかった他の多くの仲間たちも参加することになり、ナナオやポンなどの部族、おおえさんたちのオームファンデーション・グループ、日本山妙法寺の関係者たち、セブンや夕焼け楽団などのミュージッシャン達もどんどん加わり、大きな渦になっていった。

 沖縄から北海道まで、徒歩やヒッチハイクで半年をかけて走破するミルキーウェイキャラバンは、70年代中盤におけるビックイベントになったし、また、それからの日本におけるカウンターカルチャーの方向性を決める、決定打になっていった。

 そのような大きなうねりの中で、私は割と個人的な思いにふけっていた。当時私たちのコミューンでは、立てつづけに子供たちが生まれていた。女性たちの希望もあり、自宅出産の道を選び、みんなで勉強会をつづけ、また友人たちのコミューンでの体験をレポートしてもらったり、実際の体験者にきてもらってサポートしてもらったりしていた。

 すでに共同生活も4年目を迎えており、仲間たちが増えて手狭になり、それぞれに分化してスペースを持つようにもなっていた。私自身もすでに20代の青年として自らの人生の展望とその夢の更なる具体化に歩を進める段階になっていた。

 そんな私の目に飛び込んできたのは、Oshoの講話録「存在の詩」だった。誰に勧められたものでもなく、購入したものでもなかった。旅人の誰かが私たちのスペースにおいて行ってくれた一冊だった。誰もいなくなった一軒家の縁側の陽だまりに、ポツンとその講話録はあった。

 チベット密教タントラの聖者、ティロパとナロパの間で交わされた詩にOshoがコメントを加えた手作りオフセットの一節の言葉が、やたらと身にしみわたった。「流れるままに流れなさい」。講話録全体の意味などわからない。ただただ、その一節が、私を解放した。

 私はその後、12号まで続いた季刊ミニコミ誌「時空間」を休刊し、コミューンをでて印刷会社で働き、インド行きの資金を貯金することにした。働きながら、さまざまな全国の友人たちと交流があり、またアングラ劇団に加わり、人生一度の役者の体験もした。

 77年にインドに渡ってOshoのサニヤシンになった。インドに行くまでは私の意思は固まっていたわけではないが、一緒に行ったプラブッタたちのサポートも素晴らしかった。途中、ビザ更新のためスリランカに渡り、当時仏足山に滞在していた藤井日達上人のもとで、1ケ月間、南無妙法蓮華経のお太鼓をたたかせていただいたこともある。

 当時、Oshoのサニヤシンたちも、日本山妙法寺のご出家たちも、おなじピュア・オレンジの衣服を身につけていた。私は、お太鼓の法悦の中で、ひとつの悟りを得た。日本山は、仏教の2500年サイクルの、最後の、夕焼けのまぶしいオレンジの光であり、Oshoは新しい時代へ向けての朝焼けの輝かしい日の出の光であると。

 あの時の私の思いの是非はともかくとして、私はこれまでOshoのビジョンを自らの道として生きてきた。帰国後、瞑想センター活動を始め、仲間たちと瞑想会を重ねた。コミューンの形もとり、その仲間たち多数と、アメリカにできた新しいOshoコミューンへ数週間に渡って参加したことも数度ある。

 日本において、瞑想会の仲間たちと社会的なビジネスを成功させたこともあるし、全国の仲間たちと呼応して、会社を立ち上がるようにもなった。そして、私は結婚した。今では、子供たちや孫たちと一緒に暮らす生活をしているが、生活費を稼いだり、マイホームを建てたりすることは、私にとって決して容易ではなかった。

 いま振り返ってみれば、でこぼこの人生で、なんともお恥ずかしい限りではあるが、Oshoの「流れるままに流れなさい」というメッセージに呼応したのが私の人生だったとするならば、なるようにしてなった、人生だったともいえる。

 88年には八ヶ岳で「いのちの祭り」があり、私は参加できなかったが、日本のカウンターカルチャーが再編成される動きがあった。90年にはOshoが亡くなり、91年には仙台で行われた国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」のスタッフとして積極的に参加した。

 95年は、大きな事件が3つあった。一つは阪神淡路大震災であり、二つ目はオウム事件であり、三つめはウィンドウズ95の発売であった。私はすでに40代になっていたが、この年が大きな境目になっているように思う。

 私はカウンセラーとしての資格を取って活動するとともに、リスクマネジメントの専門家としても業務を拡大していた。また仲間たちとのネットワークもインターネットを通じて、大きく拡大した。いわゆる1999年問題もなんとかクリアしたあと、私たちは、夢にみていた21世紀に突入したのであった。

 その後の、世界貿易センタービル撃墜事件を初めとする21世紀については、もはや私が語らずとも、誰にとってもまだまだ新しいことであろう。私は子供たちの成長に合わせて、町内会やオヤジの会、学校の父母の会に積極的に参加した。業界団体の面倒な役も積極的に引き受けた。県大会で優勝した高校野球部の甲子園出場支援に没頭した日々もあった。

 そんな中、私は人生の中での、大きな節目の予感を持っていた。ある年齢に達すれば、何かが起きる。それは予感とも予知とも言えぬ、私自身に織り込まれたDNAのようなものであったかもしれない。私は、他のボランティア活動などを次第に停止し、業務も次第に沈静化させ、静かにその時期を待った。

 そして、その50代半ばになった私に届いたのは、他のいくつかのメッセージとともに、あの3・11東日本大震災であった。

 この2014年になり、私が今、日々いそしんでいる生活を支える業務のほかには、エコビレッジでパーマカルチャーというテーマがある。宮城蔵王山脈の中腹にある4万坪の土地は、すでに年上の友人が10数年にわたって開拓してきた自然菜園である。その場が今解放され、私もその企画に参加するようになった。

 この企画にどのような妥当性があり、将来性があるのか、今の私にはわからない。しかし、人生もすでに老人の域に達し、次々と、人生を共にしてきた大事な友人たちを病気で失いつつある時代になって、残されている私のワークとは一体何なんだろうと思う。

 すでに孫たちもいる。一緒に生活しながら、3・11後に生れてきたこの子供たちのことを思う。子供たちは可愛い。誰もがこの地球に子供として生まれる。そして、この子供たちも、きっといつか今の私のような老人になるのだ。

 私は、地球人として、この大地に二本の足で立つことは大事な基本に思える。そして、自らの食料を作り、家族の住める家を作るのが基本中の基本であるように感じるのである。しかしながら、それは都会の雑踏でビジネスに明け暮れ、スーパーの食料を買い占め、高級マンションに住まうことを必ずしも意味していない。

 私には、生活をまかなう職業が与えられ、時には不協和音が流れないわけではないが、平和な家庭が与えられている。郊外の外れではあるが、雨露をしのげる、ややくたびれてはいるが、小さな家もあることはある。私が今、ここで死んだなら、ああ、これはこれで私の人生であったな、と納得するに違いない。

 しかし、私が25歳の時に大病して、余命半年を宣言されながら、いまだに30数年間を生き延びているとしたら、私には私がやるべき何か他のワークが残されているのではないか、と思わざるを得ない。

 私の若い時代を彩った三大話と言えば、ミニコミ、コミューン、旅、であった。今、私はあの時代をもう一度思い起こそうとしている。当時のミニコミ活動は、現在ならネットのSNSやブログにあたるだろうか。私はこの10年ほど、図書館から借りだした図書類をネタにしてブログを書き続けている。これは私にとっての、ミニコミ活動の後継に位置するものである。

 そして、若い時代に夢見、部分的に参加して、なお見果てぬ夢としてあったコミューン活動は、今、友人たちの好意によってエコビレッジでパーマカルチャー、という活動に進化している。3・11後の被災者住宅に住む人々に思いを寄せながらも、森の中で暮らすことに、どれだけの妥当性と意味があるのか、今の私には、分からない。しかし、この道は、残されてある。

 三つ目の旅は難しい。もうヒッチハイクはしないだろう。気分はバックパッキングではあっても、すでに腰痛に悩まされる老年とあっては、無理は利かない。ましてや地域密着型の業務を担当しているとすれば、長期の気ままな旅はすでに無理と、諦めている。それに、おそらく、私はそう遠くはない将来、長い長い旅にまたでるはずなのである。

 私の人生の、もっとも初期の十代で問われた問いは、「もし僕らが生き続けるなら」というテーマであった。そして、今、すでに僕らは生き続けてきた、と言えるのかもしれない。思えばさほどの時間ではなかった。人生など、あっと言う間に過ぎ去るものである。

 しかし、次々と生まれる可愛い孫たちを抱っこしながら、目の前にある3・11の被害に目をやる時、私は再び、自らに問う。

 「もし僕らが生き続けるなら」

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コメント

塚本晃生様
直接返信いただき感激です。ことの経緯は、上の三回分のブログに書いたとおりのことですが、貴兄が「やさしいかくめい」に関わっている、ということを後になって知って(というか21世紀になってからですが)びっくりしました。そして、やっぱりなぁ、とも思いました。そういう縁なんだなぁ、と。
それにしても、この本のタイトルは素敵ですね、「もし僕らが生き続けるなら」。私のブログのタイトルか、サブタイトルにお借りしたいくらいです。
私の現在のライフスタイルは、当ブログから類推していただければ、大体おわかりとは思いますが、まさに貴兄のおっしゃるように、どこまでもこころある旅を続けていこうと思っています。そして、もう一回

もし、僕らが生きつづけるなら

投稿: Bhavesh | 2016/02/22 22:28

連れ合いの編集者、佐藤明美(バリ島じゃらんじゃらんの著者)に教えられびっくり、感激いたしました。貴兄には当時、大変お世話になり感謝しています。年月がたち、当時のことを思い出したい自分の本を探したのですが見つかりません。ただ、おおえさんとはいまも交流していて、あぱっち、きこりなどの消息は届きます。ぼくの出会ってきた人たちは貴兄も含め、いまなを、ドン・フアンの”こころある道”を生きつづけていることをしり絶望することはありません。どうか、この先も、死ぬまで”こころある道”ゆきをつづけられんことを、祈っております。

投稿: 塚本晃生 | 2016/02/22 10:30

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