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2014/12/09

「女のいない男たち」村上春樹

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「女のいない男たち」
村上春樹 2014/04 文藝春秋 単行本: 288ページ
Total No.3348★★★★★

 発売直後に予約を入れていた本が、今頃、忘れた頃にやってきた。あれから8か月。市図書館には合わせて30冊近くこの本が入っているのに、私の番が来るまでこんなに時間がかかるのか。

 年末のクソ忙しい時期になってこんな小説なんか読んでいられるか、と思うが、こんな短編集くらい、さらっと読み終えてしまう、という余裕もほしい。

 ましてや、私の後に、すでに200人を超すウェイティングリストの羅列がある。さっさと読み切って、次の人に渡さないとな。

 小説は苦手である。ましてや村上春樹なんか、と思う。でも、何年か前に、必要(?)に迫られて、図書館にある彼の本およそ60冊以上に、一気に目を通してから、周囲との話題のバランスをとるために、一応は新刊には目を通すようにしてきている。

 今回も、まあ、あまり期待せずにさらっと目を通したのだが、この程度の(つまり80枚程度)の短編小説は、割りと私の性格にあっているようだ。あっと言う間に読み切るわけでもないが、そんなに読み切れないほど延々とストーリーがあるわけではない。チキンナゲットのように、食べやすいようにサイズをそろえてある。

 今回のテーマは、表題のとおりの内容だ。同じようなテーマの短編が6編まとめられている。

 で、相変わらず村上春樹ワールドである。この程度のことを特に小説で読まされる必要はないし、どうかすると、面倒くさい。人生の中で、この短編集を避けて通れない、なんてことはない。読み始めてみれば、なるほど面白いのだが、さりとて、それがどうした、と啖呵を切りたくなる。

 これがノーベル賞云々と取りざたされる日本の、そしていまや世界の「大作家」エンターティナーの最近作なのか!

 そう思ってくると、何篇か同じようなテーマの小説を読み終わったあとは、ストーリーをおっかけながらも、どこかで醒めてしまい、自分の余裕のあるメモリーやハードディスクが、あるいはCPUが、他のワークをマルチタスクで、仕事を始める。

今日の気分はこの3冊<8> 「世界のエコビレッジ」、「パーマカルチャー」、「女のいない男たち」

<7>からつづく

 さて、最近は、「今日の気分はこの三冊」の二冊は決まっているのだが、どうも三冊目がない。これだ、というキマッタ本との出会いがすこし途切れているのである。戯れに、その二冊の中に、この村上春樹を挟んでみた。

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 私は森に行って、菜園仕事をしながら、村上春樹を読むだろうか。この問いは、そもそも否定されるべく設定されたものである。こんなチャラけたシティボーイのなれの果て達のストーリーを、森の中で、土だらけになりながら、読むなんて、おかしいだろう。

 大体において、この短編集に、エコビレッジやパーマカルチャーに類する単語がでてきたか。みんな、適当に街でうまくやっている連中の、たわごとではないか。アホらしい。

 そう思いつつ、やはりメインは小説を読んでいるのだが、いやちょっと待てよ。この三冊の中で、むしろ、私に一番近いのは、この春樹本の方ではないか、と思い始める。エコビレッジも、パーマカルチャーも、実は、ちょっと気どって、かっこつけている本たちなのである。少なくとも私にとっては。

 エコビレッジとパーマカルチャーは、むしろ、私の演技の部分で、この「女のいない男たち」のほうが、私の実情に近いのではないか。エコビレッジでパーマカルチャー、では、何かが足らない。エロスと、タナトス、と、そして何か。

 ふと、思う。エコビレッジという夢想に追い回されながら、山の中腹にある、ちょっと荒れた開発地にいて、パーマカルチャーという、出来もしないプロジェクトをあれこれしながら、震災で傾いたままのコンテナハウスで、凍えそうになりながら、なにかの本を読む。

 本は、別になんでもいい。小説であってもいいではないか。そう村上春樹でも悪くはない。そしてたまたま手元にあったのが、「女のいない男たち」だったとしても。

 そのシチュエーションを、私はきっと楽しむことができる。そして、その時、私にとっての真実とはなにか。誰もこないエコビレッジとやらに、できそうもないパーマカルチャーという夢を見ながら、一冊の、手の中にある小説を読む。

 その時点においては、私にとっては、むしろ、小説を読んでいるという私こそが私なのであり、もしその小説の中に、何事か私を突き動かすものがあったとするならば、それはそれ、それこそが、今の私なのだ。

 私が蝶の夢を見ているのか、蝶が私の夢を見ているのか、と荘子は問いかけたけれど、それは、今の私の問題でもある。どちらがどちらで、どちらがどちらなのか。

 私は急いで、この短編集を読み切ろうとしている。私が読んだあとは、珍しく奥さんも読みたいと言っている。私が読んだ本を奥さんが読みたいということは稀で、また同じように、奥さんが読み終わった本で私が読みたい、と思う本は稀である。読書のターゲットは殆どかぶらない。

 しかしながら、この人気本はそうそう順番は回ってこない。奥さんが別途別なチャンスにリクエストしても延々とずっと後回しになるだろう。きっと、私が読み終われば、その後すぐに、奥さんがこの小説を読むのだ。そして、その後には、他の家族もきっと、読みたいと、言いだすに違いない。

 そう思うと、私はちょっと気恥ずかしいというか、気まずいというか、気持ち悪くなった。この小説について、夕飯でも食べながら、家族で読後感想を言い合うなんて、そういう状況が作られたりするのだろうか。

 正直言って、私は、それは避けたいと思う。読み終わったあとは、何事もなかったかように、知らんぷりしていようと思う。はい、次の方どうぞ、と、風呂の順番でも来たように、そっと告げて、あとは、まったく別のジャンルでも読んでいるふりをして、まるでこの本を読んだ痕跡すら残さないようにするかもしれない。

 だけど、今思う。もし、今日の気分はこの三冊、として、他の二冊が決まっていて、あと一冊という時に、この一冊を持ってきても悪くはないのではないか、と。

 たしかに、どちらが蝶で、どちらが私かは、決定できない。むしろ、この三冊の、どれにも自己同期できないまま、そのデルタ地帯で、ウロウロする自分がいたら、実は、本当は、その辺に自分がいるんだと、と推定することにしよう。

 そしてさらに思う。この程度のことなら、80枚程度のことなら、自分でも小説を書けるのではないか。いや小説を書きたくて小説を書くのではない。どうしても書いて残しておきたいことが、すこしある。

 しかしそれは、通常の私のブログのような形では残せない。が、小説という形なら、残せるかもしれない。不特定多数に読ませようというわけではない。ある、特定の人に残しておくメッセージだ。しかし、それはその人にとっては決してふさわしいものではないかもしれない。

 しかるべき時に、しかるべきタイミングで、その人に届いたら、それはその目的は達成されるのだ。しかし、そのしかるべき時は、いつ来るかわからない。そしてしかるべきタイミングが来たとしても、その時、私がそのメッセージをうまく伝えることができるかどうかも定かではない。

 なんらかの形で、それは残されるべきエネルギーだ。冬の長い夜、深い森にいて、ひとり薪ストーブでも焚きながら、小説を読むばかりではなく、小説を書いてみることも悪くはないのではないか。

 届くかもしれない、届かないかもしれない、小説。すでにくたびれてしまった記憶。だが、いまだに朽ち果てないストーリー。いつかは誰かが、形を与えてあげないと、消滅しないエネルギー。それは、小説という形を待っているかもしれない。

 今日の気分はこの三冊。今日のところは、しぶしぶながら、私はこれはこれでいいんじゃないか、と思った。

「今日の気分はこの三冊」<9>につづく

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