「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン<14>
<13>よりつづく
「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア<14>
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09
単行本 145p より抜粋
★★★★★
1) この「絆の都」カテゴリを閉めるにあたって、最後の三冊の二冊目として選んだのはこの本。実際にはビル・モリソン達の「パーマカルチャー」 農的暮らしの永久デザイン(1993/09 農山漁村文化協会)も、意味としては含まれている。
2)私(たち)の目の前には、厳然として、4万坪の森が存在する。目をそらして通り過ぎることも可能であるし、真正面からぶつかり四つに取り組むことも可能である。しかしながら、どちらになるのか、あるいはどちらにもならないのかは、私、というより、私「たち」の在り方に依存している。
3)正直に言えば、私自身は、それほど大きなウェイトで「農業」を第一に考えていないところがある。身の周りには農家が多く、食料の多くは彼らが作ってくれるものを消費することが多い。彼らプロやセミプロに任せておいたほうがいい、と思ってしまうからである。
4)それらを敢えて「パーマカルチャー」と呼ばずとも、日本においては、パーマカルチャー的にならざるを得ない。それが無農薬なのか有機栽培なのかは、大きな違いではない。例えば多少放射線量が確認されるかもしれない食料であったとしても、高齢の私は、如実な影響が認められない限り、彼らからの贈り物はありがたく頂いている。
5)エコビレッジという時、それは、ある意味、私がかつて生まれ育った農村風景が目に浮かぶ。何もあらたまってカタカナにせずとも、あの風景はエコであったし、ビレッジであった。しかしながら、それは「かつて」なのであって、今、自分の生地を見てみると、決して「エコ」でもなければ「ビレッジ」でもない現状がある。
6)もちろん厳密には、かつての日本的「パーマカルチャー」も「破壊」されている。
7)戦後の価値観の中で、グローバル文化の進行により、現代農業のメインストリームは異様な進化を遂げ、ある意味、命脈を絶たれた。おそらく、これから不連続な改革を避けては、日本の農業は再生しないだろう。
8)一つは大型化&モノカルチャーの道である。大資本の導入、大量消費地の確保、雇用形態の現代化。それらはおそらく、一時の成功を収めるが、最終形態ではないだろう。
9)それに対抗してでてくるのが「エコビレッジでパーマカルチャー」というスタイルである。現在の状況というより、未来に向けての提案である。そこには実際には目新しいものなど含まれていない。ある意味、原点回帰、原則回帰でしかない。
10)エコビレッジという概念で捉えられる「運動」は、世界各地に見られるが、成功例として数えられるのは、ほんの一握りである。あるいは、その「成功」も限定的な意味でしかない。すくなくとも数年以上存在していれば「成功」と見られるだろう。
11)しかし、3・11後を見るにつけ、人口増加、価値観の多様化、自然環境の大変化などなどを直視していれば、次なる可能性を模索せざるを得ないのが、意識ある人間の生き方である。
12)さて、目の前にある「森」が、最適で、最良だとは、とても言えない。ある意味、残された、利用価値の少ない土地である。ある価値観から見れば、利用すべき部分が少ないかもしれないが、視点を変えれば、優良な土地にも見えてくる。
13)まず私にとっては、道のり30キロの至近距離にあるということ。今のところ、ほとんど投資なしで利用が可能であること。多くはないにせよ、賛同する仲間がいるということ。私自身が、そこに「夢」を描けるということ。
14)これらは、極めて軟弱な地盤に立っている。その土地はいつまで利用可能なのであるか。どれほどのリスクを抱えているのか。仲間うちに支えられているとはいうものの、それはどれだけ盤石なネットワークたり得るのか。
15)そしてなによりも、自らの内に抱えた「夢」は、本当にその地で「実現」できるのか。
16)疑問だらけであるし、難問だらけである。
17)エコビレッジの創設において、中核となるグループを確認し、土地を見つけ、地域計画当局に働きかけ、投資資本を調達し、適切な法体系を作り、建物を建設し、どのようにして所得を得るか、どのようにして所得を分配するかという意思決定機構を決め、利害対立を処理するなどの、エコビレッジの形成に関わる第一歩は決して簡単な仕事ではないということは、確かな事実である。
それにもかかわらず、一般的に認識されるひな型あるいはモデルと見なされるケースが欠如していることによって、しばしば将来エコビレッジとなるつもりの各新規グループが一からやり直すはめになっているのである。p108「エコビレッジの新しいフロンティア」
18)石川裕人「時の葦舟」のなかの「絆の都」もまた、決してパラダイスやユートピアとして描かれてはいない。むしろ破壊されたデトピアとして描かれている。そしてかの演劇はここからスタートするのであった。
19)今回、あらためてこの本を通読しなおして、思うところ多々あった。未来に馳せる夢の大きさに比して、眼前に横たわる難問も決して小さくはない。いやむしろ、難問のほうが大きいと言える。
20)ましてや、一人の人間の生き方や、一個のエコビレッジの成否云々を超えて、いまや地球環境の激変の中、人類の存在そのものさえ問われつつあるのである。自ら為した行ないの間違いに気付くことなくこのまま突き進めば、その結果はおのずと自明なのである。
21)存在そのものの「自然治癒力」が働き始めている。その流れに同調できるかどうか。そのことと、今、森の前に立っていることの繋がりは大きい。
| 固定リンク
「20)絆の都」カテゴリの記事
- 「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<14>(2015.01.24)
- 「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン<14>(2015.01.23)
- 「タイニーハウス」―小さな家が思想を持った レスター・ウォーカー<2>(2015.01.21)
- 再読したいこのカテゴリこの3冊「絆の都」編(2015.01.24)
- 地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<53>「絆の都」カテゴリについて(2015.01.24)
コメント