「かもめのジョナサン 完成版」 リチャード・バック <8>
「かもめのジョナサン完成版」 <8>
リチャード・バック (著), 五木 寛之 (翻訳) 2014/06 新潮社単行本
170ページ
★★★★☆
いまさらこの本に何を書き残しておくべきだろうか。小説は小説なのである。何年前にでて、新たに最近未発表だった部分が付け加えられたとしても、もう、当ブログとしては、ほとんどの仕事は終わっている。
Oshoは、この小説を、1980年の段階で、「私が愛した本」の中の一日目の10冊の中の、4番目に挙げている。だが、文中では、細かいことには触れていない。ただタイトルに触れているのみだ。何がどうした、ということではない。
ただ、同時に挙げられている他の本達をみると、「ツラトウゥストラ」にしても、「カラマゾフの兄弟」にしても、「ミルダットの書」にしても「老子」、「荘子」、「バガバッドギータ」、あるいは「ミラレパ」にしても、はっきりとした類型を持っている。
そしてその類型の典型は、二日目の二冊目に登場しながら、実になんども取り上げられているカリール・ギブランの「預言者」に現れている。言ってみれば、宗教性におけるマスターと弟子のすがたを、ひとつの原型とし、そのマスターの位置に自らを置こうとしたのがOshoである。
このところが、80年代後半に起きたグルイズム「批判」のルーツともなっている要因である。その時代のグルイズム批判とやらの人々の業績がどれほどのものであったかは定かではないが、私から見れば、ことOshoに関しては、まったく無意味であったと思う。
やがて、二百年もしないうちに、ジョナサンの教えのほぼすべての内容が、それは<聖なる言葉>であるという宣言によって、日常の営みから遠ざけられていった。ふつうのカモメたちにとっては無縁のものになったのである。ジョナサンの名のもとに確立された儀式典礼は強迫観念になっていった。p143「Part Four」
この第四章において、「付け加えられた」問題意識は、どこかの、いつの時代かの流れにおいては、的を得ているかもしれないが、こと私のかかわる範囲においては、まったく的外れであると断言しておく。
すくなくとも、1974年当時の問題意識であろうと、80年代後半に噴出した批判であろうと、あるいは95年代に勃発した大事件についてであろうと、すでに解決済みである。少なくとも私自身はそうありたいし、そうあり続けたい。
yだから、この小説をどう読むか、と言えば、この小説に関する限り、私は自分の問題としては読めない。もしその問題意識を共有するためにもっと我が身に引きつけて考えるとしても、第四章という形で表現された小説のような「雑」さでは、ちっとも解決も進歩もしていないと思う。
40年前に発表されようが、ようやく最近付け加えられようが、問題そのものはなにも解決していない。そして、分かっていたとしても、これまで秘匿しておくことによって、作者みずからは、問題意識から責任回避していただけにすぎないのではないか。
長い年月を経て、この物語が神秘的に神秘化を否定する結末をむかえたことに不思議な感慨をおぼえずにはいられない。p163「ゾーンからのメッセージ」五木寛之
物語がどのような結末を迎えようと、それは物語の世界の話である。私自身はここから何の教訓もインスピレーションも受けない、ということだけは、メモしておきたい。
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