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2015年1月の38件の記事

2015/01/29

「『反原発』異論」 吉本 隆明

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「『反原発』異論」
吉本 隆明(著)  2015/01 論創社 単行本 272ページ
No.3381★☆☆☆☆

1)図書館の新刊コーナーにこのようなタイトルの本があれば、とりあえず手に取って確認することになる。ましてや著者が吉本隆明となれば。

2)本著は大きく「3・11/以後」と、「3・11以前」の二つに分かれており、当然、当ブログとしては前者のほうに強い関心を持つ。

3)ただし著者は3.11後ほぼ一年後の2012/03/16に亡くなったので、ほんの一年足らずの間に受けたインタビュー記事が中心となっている。ほとんどは雑誌やオムニバス本に収録されたものの再編集である。

4)この本の可笑しなことは、まず前文を書いている副島隆彦なる人物のトンチンカンな文章から始まる。

5)いずれの爆発(四つの原子炉の爆発)でもメルトダウン(炉心溶融)は起きていない。今の今でも「メルトダウンが起きた」と騒いでいるのは、ものごとの真実を明確に自分の脳(頭)で確認しようとしない愚か者たちである。

 原子力工学の専門家たちの意見を今からでもいいから聞くべきである。私はたくさん聞いた。彼らを”御用学者”と決めつけて総なめに忌避したことの報いが日本国民に帰ってくる。p003 副島隆彦「悲劇の革命家 吉本隆明の最後の闘い」

6)18歳から40余年、吉本隆明を読み続けたとする、自称「吉本隆明主義者」(p01~02)の、2014年秋の著述である。東京電力であれ、政府であれ、原子力工学者であれ、いまや一台もメルトダウンしていないと主張できる人間はいないだろう。

7)いまやメルトダウンよりさらに進んでメルトスルーしている可能性が高い。少なくとも副島のように主張するのは無理がある。この言葉自体、そっくりそのまま書いた本人に降りかかるだろう。

8)日本の原子力発電所や原子力関係で死者が出たとか、放射能汚染に侵されたという例は、戦争のときの広島・長崎の原子爆弾と、焼津の漁師さんがアメリカの水爆の実験場の近くに出漁して、放射能を浴びて亡くなった以外にはないわけです。 

 少なくとも日本では、半世紀、死者を出すような事故はないんですから、逆に考えて、「これほど安全なものはない。航空機よりも安全だ」ということになるんですね。p249吉本隆明「原子力・環境・言葉」1994/10

9)1999/10の東海村JCO臨界事故がおこる以前の発言とは言え、すでにスリーマイルやチェルノブイリの事故が起きていたのを知りながらの暴言である。ましてや3・11後にこの発言を敢えてこの新刊に掲載すべきだったのであろうか。

10)原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。

 燃料としては桁違いにコストは安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。p114吉本隆明「科学に後戻りはない」2011/08/05「日本経済新聞」

11)当ブログがこの本をメモしておくのは、スチュアート・ブランドの「地球の論点」(2011/06 英治出版)と対比してみようと思ったからである。ブランドの方は地球温暖化を避けるには原発推進しかない、という結論づけであったが、吉本御大の方は、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない、という支離滅裂な自己撞着によるものである。

12)この本、「自然科学者としての吉本隆明」奥野建男」257pという一章で締められているが、とてもとてもこの程度の論理性では、吉本を思想家とも科学者とも呼べない。噴飯ものの一冊である。

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2015/01/24

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<53>「絆の都」カテゴリについて

<52>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<53>「絆の都」カテゴリについて

 書かれたのは2014/11/02から2015/01/24までの、年末年始の繁忙期。

 そもそも当ブログは、「メタコンシャス 意識を意識する」まで上り詰めた時に、3・11に遭遇し、「森の生活」へと、不連続に、ジャンプしたのだった。

 それは抽象性から具象性への、単なる回帰ではなかった。

 そもそもは、石川裕人作「時の葦舟」三部作の第一部のタイトルをカテゴリ名に借りたものである。

 具象性から抽象性へ、そして抽象性から具象性へ。

 このカテゴリにおいて、当ブログは、不思議な錐もみ状態を味わっている。逆ベクトルの意味で、3・11に匹敵する、非連続性の、シフトである。

 「再読したいこのカテゴリこの3冊」 は 

「タイニーハウス」小さな家が思想を持った  ワールド・ムック―Living spheres
レスター・ウォーカー(著), 玉井 一匡山本 草介  2002/08 ワールドフォトプレス 
 

「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09  

「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 

の三冊。

 次のカテゴリ名は、まだ敢えて決めてはいない。暫定的に仮名で始まり、やがて自ら正しき名称を獲得するだろう。

<54>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「絆の都」編

前よりつづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊

「絆の都」

 

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「タイニーハウス」
小さな家が思想を持った  ワールド・ムック―Living spheres
レスター・ウォーカー(著), 玉井 一匡山本 草介  2002/08 ワールドフォトプレス ムック: 223p

 

【送料無料】世界のエコビレッジ
「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09 単行本 145p より抜粋

 

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る<14>

<13>よりつづく
 

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <14>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

ニュートンが私に残した一冊Osho「ダイヤモンド・スートラ」で、このカテゴリを締めるのがもっともふさわしかろう。「時の葦舟」三部作、その第一巻は「絆の都」であった。ここは終わりではない。ここがスタートなのである。

一瞬一瞬が、ちょうど息のように、生じている
あなたは息を吸い、息を吐き出す
ひとつひとつの吸う息が生であり、ひとつひとつの吐く息が死だ
あなたは息をすうたびに生れ、息を吐くたびに死ぬ
一瞬一瞬をして生と死たらしめるがいい
そうすればあなたは新しくなる
この新しいものはあなたの過去、指向、衝動とはなんの関係もない
それは臨機応変に行動するはずだ
それは反応(リアクション)ではなくて対応(リスポンス)だ
過去をもとに為されたことはすべて古い
そのために人は自分だけでは何ひとつ新しいことができない
それを見ることは、古いもの、過去、自分自身と手を切ることだ
私たちにできることはただそれだけだ
だがそれが全部だ、それがすべてだ
古いものが終わるとすぐに、新しいものが続くかもしれないし、続かないかもしれない
それはたいした問題ではない

新しいものに対する願望そのものが古い願望だ
そのときには人は全く開放的(オープン)になる
新しいものを求めることさえ古い願望だ
p213「<彼方>から」

 「絆の都」カテゴリの最後の一冊はこれ。すでに何度も何度も読んでいる。前回は、講話の部分だけを読みとおした。今回は、Q&Aだけを読んで、最後のメモを残そうと思っていた。

 しかし、Oshoの前にあっては、そのようなはからいはつねに破綻する。ここからここまでが一区切りということはない。たしかに本はそうできていて、それをひと固まりのものとして、区切り区切りで読みつなぐことはできる。

 だが、そうはならないのは、いつものOsho本の読書である。

 それでも、随分この講話も読み進んだ。長く手元にありながら、それほど精読したことはなかった。もしニュートンこと石川裕人が、この一冊を、彼の蔵書として残さなかったら、私は今回読みなおしもしなかっただろうし、カテゴリ名にもしなかっただろうし、メモもしなかっただろう。

 何かを機会をとらえて、何回も何回も、元に戻されるのがOshoの世界である。

この「私」がおそれている、ほんとうのあなたではない
存在(ビーイング)は恐怖をもたない
だが自我(エゴ)は恐怖をもつ
なぜなら自我(エゴ)は死ぬことを非常に恐れているからだ
自我(エゴ)は人工的なもの、かってにつくられたもの、組み合されたもの
それはいつでもばらばらになりうる
そして新しいものが入ってくるとき、恐怖がある
自我(エゴ)はおそれる
ばらばらになるかもしれないからだ
それはどうにか自分を繋ぎ合わせよう、自分をひとつの塊に保とうとしてきた
そしていまや何か新しいものがやってきている
それはめちゃめちゃするものだ
だからあなたは新しいものを喜びをもって受いれない
自我(エゴ)は自分が死ぬのを喜びをもって受けいれることはできない
どうして自我(エゴ)に、自分自身の死を喜んで受けいれることができよう
p215同上

 おそらく、この講話を「読み終わる」ということはないのだ。たしかに字面を追い、最後のページに辿り着き、裏表紙を閉じることはあり得る。いや、もう何度もそうしてきた。

 しかしながら、それは「読み終わった」ということを意味しない。読んでいる、のであって、読み終わることはない。

 このメモで、このカテゴリは終わりだが、まだ本の最後の頁までは辿り着かない。最後まで辿り着かないが、本の途中で終わることもあり得るだろう。いつの日か、もうこの本は読まなくてもいい、と感じる日がくるかもしれない。

 そう言った意味においては、まだこの本を読み終わってはいない。

 そしてまた、この本は、ある意味、何処から読んでもいいのだ。少なくとも全体的に、字面には、どこにどんなことが書いてあるか、ざっと把握した段階で、読みだすのは、別に最初の第一ページからじゃなくても構わない。

 そして、そういう意味においては、今、この本をようやく読み始めた、と言うことだって、可能なのだ。

自分は自我(エゴ)ではないということを理解しないかぎり
あなたは新しいものを受けいれることはできない
ひとたびあなたがこのことを見たら・・・・
自我(エゴ)はあなたの過去の記憶で、それ以上の何ものでもないということ
あなたはあなたの記憶ではないということ
記憶はちょうど生体計算機(バイオ・コンピューター)のようなものだということ
それは実用的な機械、機構だということを・・・・
だがあなたはそれを超えている
あなたは意識だ、記憶ではない
記憶は意識の中身だ
あなたは意識そのものだ
p216同上

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2015/01/23

「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン<14>

<13>よりつづく
【送料無料】世界のエコビレッジ
「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア<14>
ジョナサン・ドーソン/緒方俊雄他 日本経済評論社 2010/09 単行本 145p より抜粋 

1) この「絆の都」カテゴリを閉めるにあたって、最後の三冊の二冊目として選んだのはこの本。実際にはビル・モリソン達の「パーマカルチャー」 農的暮らしの永久デザイン(1993/09 農山漁村文化協会)も、意味としては含まれている。

2)私(たち)の目の前には、厳然として、4万坪の森が存在する。目をそらして通り過ぎることも可能であるし、真正面からぶつかり四つに取り組むことも可能である。しかしながら、どちらになるのか、あるいはどちらにもならないのかは、私、というより、私「たち」の在り方に依存している。

3)正直に言えば、私自身は、それほど大きなウェイトで「農業」を第一に考えていないところがある。身の周りには農家が多く、食料の多くは彼らが作ってくれるものを消費することが多い。彼らプロやセミプロに任せておいたほうがいい、と思ってしまうからである。

4)それらを敢えて「パーマカルチャー」と呼ばずとも、日本においては、パーマカルチャー的にならざるを得ない。それが無農薬なのか有機栽培なのかは、大きな違いではない。例えば多少放射線量が確認されるかもしれない食料であったとしても、高齢の私は、如実な影響が認められない限り、彼らからの贈り物はありがたく頂いている。

5)エコビレッジという時、それは、ある意味、私がかつて生まれ育った農村風景が目に浮かぶ。何もあらたまってカタカナにせずとも、あの風景はエコであったし、ビレッジであった。しかしながら、それは「かつて」なのであって、今、自分の生地を見てみると、決して「エコ」でもなければ「ビレッジ」でもない現状がある。

6)もちろん厳密には、かつての日本的「パーマカルチャー」も「破壊」されている。

7)戦後の価値観の中で、グローバル文化の進行により、現代農業のメインストリームは異様な進化を遂げ、ある意味、命脈を絶たれた。おそらく、これから不連続な改革を避けては、日本の農業は再生しないだろう。

8)一つは大型化&モノカルチャーの道である。大資本の導入、大量消費地の確保、雇用形態の現代化。それらはおそらく、一時の成功を収めるが、最終形態ではないだろう。

9)それに対抗してでてくるのが「エコビレッジでパーマカルチャー」というスタイルである。現在の状況というより、未来に向けての提案である。そこには実際には目新しいものなど含まれていない。ある意味、原点回帰、原則回帰でしかない。

10)エコビレッジという概念で捉えられる「運動」は、世界各地に見られるが、成功例として数えられるのは、ほんの一握りである。あるいは、その「成功」も限定的な意味でしかない。すくなくとも数年以上存在していれば「成功」と見られるだろう。

11)しかし、3・11後を見るにつけ、人口増加、価値観の多様化、自然環境の大変化などなどを直視していれば、次なる可能性を模索せざるを得ないのが、意識ある人間の生き方である。

12)さて、目の前にある「森」が、最適で、最良だとは、とても言えない。ある意味、残された、利用価値の少ない土地である。ある価値観から見れば、利用すべき部分が少ないかもしれないが、視点を変えれば、優良な土地にも見えてくる。

13)まず私にとっては、道のり30キロの至近距離にあるということ。今のところ、ほとんど投資なしで利用が可能であること。多くはないにせよ、賛同する仲間がいるということ。私自身が、そこに「夢」を描けるということ。

14)これらは、極めて軟弱な地盤に立っている。その土地はいつまで利用可能なのであるか。どれほどのリスクを抱えているのか。仲間うちに支えられているとはいうものの、それはどれだけ盤石なネットワークたり得るのか。

15)そしてなによりも、自らの内に抱えた「夢」は、本当にその地で「実現」できるのか。

16)疑問だらけであるし、難問だらけである。

17)エコビレッジの創設において、中核となるグループを確認し、土地を見つけ、地域計画当局に働きかけ、投資資本を調達し、適切な法体系を作り、建物を建設し、どのようにして所得を得るか、どのようにして所得を分配するかという意思決定機構を決め、利害対立を処理するなどの、エコビレッジの形成に関わる第一歩は決して簡単な仕事ではないということは、確かな事実である。

 それにもかかわらず、一般的に認識されるひな型あるいはモデルと見なされるケースが欠如していることによって、しばしば将来エコビレッジとなるつもりの各新規グループが一からやり直すはめになっているのである。p108「エコビレッジの新しいフロンティア」

18)石川裕人「時の葦舟」のなかの「絆の都」もまた、決してパラダイスやユートピアとして描かれてはいない。むしろ破壊されたデトピアとして描かれている。そしてかの演劇はここからスタートするのであった。

19)今回、あらためてこの本を通読しなおして、思うところ多々あった。未来に馳せる夢の大きさに比して、眼前に横たわる難問も決して小さくはない。いやむしろ、難問のほうが大きいと言える。

20)ましてや、一人の人間の生き方や、一個のエコビレッジの成否云々を超えて、いまや地球環境の激変の中、人類の存在そのものさえ問われつつあるのである。自ら為した行ないの間違いに気付くことなくこのまま突き進めば、その結果はおのずと自明なのである。

21)存在そのものの「自然治癒力」が働き始めている。その流れに同調できるかどうか。そのことと、今、森の前に立っていることの繋がりは大きい。

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2015/01/21

「タイニーハウス」―小さな家が思想を持った レスター・ウォーカー<2>

<1>からつづく 

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「タイニーハウス」―小さな家が思想を持った  ワールド・ムック―Living spheres <2>
レスター・ウォーカー(著), 玉井 一匡、山本 草介  2002/08 ワールドフォトプレス ムック: 223p

 現在のカテゴリ「絆の都」も、あと残すところ三冊をメモするばかりとなった。何を残そうかと考えた結果、同時に「再読したいこのカテゴリこの三冊」を同時に思案していたこともあり、この三冊で決めることにした。

 「絆の都」は畏友・石川裕人<畢竟の三部作>「時の葦舟」の第一部から借りている。「絆の都」→「蒼穹のアリア」→「さすらいの夏休み」の三部で、全体が「時の葦舟」というタイトルになっている。

 これら4つのネーミングはすでに当ブログのカテゴリ名として使用済みである。必ずしも、演劇と当ブログの内容はクロスしないが、常に私は、彼の作品を頭に入れて、メモし続けてきた。

 クロスしたかしなかったかは、読み方の違いによる。

 さて、そういった意味において、「絆の都」の終盤において、まずはここに登場するのは「タイニーハウス」である。そもそもは「可笑しな小屋」居心地のいい「ミニハウス」---羨望の35軒 ジェィン・フィールド=ルイス(2013/12 二見書房)のバーナード・ショーの小屋に見とれていたのだが、この「タイニーハウス」において、更なる見取り図がついていたりしたことが大きかった。

 このカテゴリ内でも例えば坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる」(2013/08 集英社新書)などもめくってはみたが、必ずしも、タイニーとは廉価を意味するものではない。むしろ、タイニーに比較すると、何々円と表記することの卑屈さが、ますます鼻について、嫌いになった。

 佐々木俊尚 「仕事するのにオフィスはいらない」 ノマドワーキングのすすめ(2009/07 光文社) も、面白くないわけじゃないが、すでに、零細とはいうもののオフィスを持っているものにとっては、あんまり意味をなさない。

 ことほど左様に、本当のことを言えば、アメリカを中心とするタイニーハウス・ブームも、第一ハウスを持っている人間が、第二のハウスとしてタイニーハウスを持とうとするのは、どこかコンセプトエラーのようである。

 昨日、ある造園業の社長と話していた。すでに古希を迎える彼は実に働き者だ。私は十代の時に、まだ30そこそこの彼の事業所でよくアルバイトをさせてもらった。私ばかりか私の主だった友人たちも、だいぶ彼のところでアルバイトをした。40年来付き合いのある懐かしい人々である。

 その彼が、何回かに建てた事業所を今回売却することになったという。すでに従業員も減らして、来月からは一人でやるという。え?何処で?と聞いたら、なんと、スキー場の麓の山中にすでに300坪の土地を確保しているという。あらあら、立派な自宅の他に、さらに別荘地も獲得していたのか。

 300坪の土地はともかくとして、小屋は、6畳ほどのコンテナハウス、これを事務所にするというが、電話をつけたり、水道を引いたりするかどうかはまだ決めていないという。

 残った資材の置き場としては20坪ほどの電柱骨組みの小屋を建ててあるという。さすがに準備がいい社長のことである。

 しかしまぁ、なんとも手回しがいい。山中とは言え、その土地は宅地になっているそうで、本格的な建築も可能なのだ。一人息子も、立派に成長したので、本当は悠々自適の身なのだが、息子には「死に水を取ってくれれば、それでいい」と言ってあるらしい。

 私はその土地はまだ未訪問だが、近いうちに訪問することになるだろう。風が強いところらしく、また雪も積もる。決して、住宅や事務所に最適とは言い難い土地ではあるが、結局、彼があれだけ一生懸命働いて残ったのは、自宅と息子とそのタイニーハウスである。

 この人生、このハウスには、どこか必然性があるなぁ、と思う。私なんぞは、基本、働き者ではないので、今から、そんなに立派な環境を揃えることなどできないが、ホント、うらやましい。

 あるいは、人生って、やればできるんだな、と思ったのだった。そう思ったのは、実は、他に研修会もあり、なるほど、人生捨てたもんじゃないなぁ、と感慨に耽っていたせいでもある。

 それでまぁ、この「タイニーハウス」に戻るが、なにかの流行や奇をてらっているのではなく、必然の中で、このように、質素に、簡単に、頑丈で、必要最小限の住居スペースが作れるよ、というのがこの本なのであった。

 家そのものは、そもそも「思想」なのである。どのような住まいをするかは、その人のなりを表わすのだ。

 思えば、私の自宅も、実にタイニーハウスである。細々と、本当に必要に迫られて作った住まいである。あれもしたいこれもしたい、と思いつつ、結局はこれでいいじゃないか、という妥協の産物とも言える拙宅ではあるが、小さきながらも楽しき我が家ではないか。

 私はこの本を読みながら、正直言って、吾唯足知の境地であった。これでいいじゃん。ここで遊んでいければ、別に、あれやこれやと思いをあちこちに飛ばす必要もない。

 そもそもタイニーなんだから、タイニーを極めればいいじゃないか、と、ある種の諦めではあるが、ふと落ち着いた心境になったのであった。そういった意味において、本書は面白かった。

 

 

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2015/01/19

「朗読の時間 宮澤賢治」 (朗読CD付き名作文学シリーズ)長岡輝子(朗読)

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「朗読の時間 宮澤賢治」 (朗読CD付き名作文学シリーズ)
宮澤 賢治(著), 長岡 輝子(朗読) 2011/08 東京書籍 単行本CD一枚付き 101pTotal No.3380★★★★★

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「サンガジャパン 」vol.1Vol.11(2012Autumn) 特集:瞑想とは何か

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「サンガジャパン 」vol.1 特集:瞑想とは何か
アルボムッレ・スマナサーラ, 田口ランディ, 吉福伸逸, 石飛道子, 葛西賢太,他 2012/09 出版社 サンガ 単行本(ソフトカバー) 335p
Total No.3379★★★☆☆

 スマホの読書アプリに配本されてくる無料サービスのなかにこの一冊があった。へぇ~、こういう本があったのか。たしかサンガという新書は何冊か当ブログでも読んでいたが、このような雑誌があることはしらなかった。古い雑誌とは言え、何百ページにもわたって無料公開されるということに、私は素直にびっくりした。

 いまさら、瞑想というものについてあれこれゴシップを漁る気はないので、ひとつひとつの記事を読む気にはならなかったのだが、一つの記事に目がとまった。

 「ダンテス・ダイジの説いた冥想」SCL広島精神文化研究所 渡辺郁夫、という方の文章が14ページに渡って掲載されている。p222

 ダンテスダイジの著書については、以前何冊か当ブログでもメモしたことがあるが、まったく十分なものではない。その関心の発端も、必ずしも純真なものではない。しかし、気になる存在ではある。

 どうして気になるかについては、過去に書いたかもしれないので、あえてここでは繰り返さない。他に、この文章の類書を見たことないが、ここでこの文章に触れることができたのは何かの縁と、メモしておく。

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「人が集まるボランティア組織をどうつくるのか:」 「双方向の学び」を活かしたマネジメント

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「人が集まるボランティア組織をどうつくるのか:」 「双方向の学び」を活かしたマネジメント
長沼 豊(著) 2014/09 ミネルヴァ書房 単行本 215p
Total No.3377★★★★☆

 これだけベタなタイトルの本を借りることは、ちょっと気恥ずかしいが、新刊本コーナーに並んでいて、まだ借りる冊数に余裕がある場合などには、どさくさに紛れこんで借りてくることになる。

 町内会やPTA活動、業界団体活動などもボランティアの範疇にいれる著者の姿勢には賛成である。かくいう私も、人生の半分以上の期間にわたって、なんらかのボランティア活動に参加してきた。時には、リーダー的役割を与えられ、四苦八苦したことも、いろいろある。

 この本に書かれていることは至極ごもっともという感じがする。ながく活動していれば、ほとんどの人が感じる、共感できる内容だろう。

 しかし、それは、その中にいて活動したからこそ得ることのできた感慨であって、あらかじめハウツウ本としてあることに、私ならちょっと躊躇する。

 しかし、いまでは就職活動ならぬ、婚活などのマニュアル本も多く出ているご時世である。必要な人には必要な内容となるだろう。

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「ヒューマン・コマース」グローバル化するビジネスと消費者 角川インターネット講座 (9)三木谷浩史(監修)


「ヒューマン・コマース」グローバル化するビジネスと消費者 角川インターネット講座 (9)
三木谷 浩史(監修) 2014/10 KADOKAWA/角川学芸出版 単行本 256p
Total No.3376★★★☆☆

 現在のインターネット状況を楽天、あるいは三木谷浩史的視点からとらえた一冊。15冊シリーズとなれば、このような視点も必要となろう。

 楽天的と言えば、それはビジネスであり、ベースは日本であり、また販売である。それ以上でも、それ以下でもない。

 楽天は地元に球団・球場があるし、そもそも当ブログがスタートしたのも楽天ブログであったので、見知らぬ動勢ではないが、格別に好きとは言い難い。むしろ、なんの縁故もなければ、と遠ざかっていたい動勢である。

 せっかくのインターネットなのだが、楽天や三木谷にかかると、現実的すぎて、面白味にかける。何と言えばいいのか、本当に面白い部分の30%くらいがカットされて、当たり前な60%くらいで結論を得るというような、あくびがでるような結果になる。

 そう感じるのは、こちらがすでに還暦した初老の男を生きる時代になっているからかもしれない。今から30年前、私はまだ30代になったばかり。小なりとは言え、企画室という一つの部屋を与えられ、予算をつけて、ひがな本を読まされた時期があった。

 あの頃なら、この本はすごく楽しく読めたと思うし、また、このような未来へとつなぐべく日々読書を重ねていたのだった。

 そして思う、21世紀になろうが、インターネットが進化しようが、あの当時と今とでは、基本はそう変わらないのではないか。つまりだ、楽天が展開しようとしている世界は、それこそその原型と言われる楽市楽座の江戸時代も今も、基本は同じようなものであろう。

 逆に言えば、30年前でも、還暦過ぎた初老のシルバー達はいたわけであり、この本が面白くないと嘆くより、もうこのような本は必要なくなった我が人生の変遷にこそ心寄せるべきなのである。そう気付いた。

 インターネットはメディアではなく、インフラであるというのは冒頭で述べたとおりだが、交通や輸送、通貨といった従来のインフラに加えて、インターネットという横断的な新しいインフラができたわけだから、既存の制度や法律も変えなければいけないのは当然だ。

 あるいは、インターネットはグローバルでもあり国境がないのだから、法律自体がまったく意味をなさない。国内業者だけを規制しても効力がないとう事態も当然発生する。p023「ヒューマン・コマース」三木谷浩史

 商いの実体は常に変化していくわけだし、利を求めるのは仕方ないにしても、それは突然に変化するものではない。徐々に連続して変化していくものであるし、不連続になってはいけないものだ。

 集合知も創発も一度暗転するととてつもない愚劣な知識と混沌を残すだけのものになってしまう。したがって、無数の多様な知識やマグマのように爆発する創発力を、混沌や破壊だけに向けない何らかの制御が必要なのである。

 しかし、そうした破壊力のあるネットのもつ創発力をまとめあげるのに、またかつてのようなエリートだけに閉ざされた知識教育やカリスマ的リーダー育成が必要なのであろうか。多分、それは違う。

 結局、膨大な集合知や創発的破壊力をより高い次元で平和共存や民主主義、そしてすべての人に保護される基本的人権や福利厚生に結びつけていくには、やはりこのネット自体がもつ集合知や創発力に頼らなければならないのだろう。

 筆者の願いは、こうした「誰のものでない手」が、ネット上における破壊力や収束不能とも見える混沌を超えて、われわれをより豊かで自由な世界に導いていってくれることである。p296米倉誠一郎「ネットの混沌を超えて」

 外側が豊かになっていくことに、なんの疑念もない。しかし、この視点からでは、内面の豊かさへの足がかりが、まったくないことになるのではないか。

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2015/01/18

「災害ユートピア?」 てつがくカフェ第41回 せんだいメディアテーク

<2>からつづく 

災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
「災害ユートピア」―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか <3>
レベッカ・ソルニット (著), Rebecca Solnit (原著), 高月 園子 (翻訳) 2010/12亜紀書房 単行本: 440p
★★☆☆☆

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てつがくカフェ 41回 「災害ユートピア?」
smt仙台メディアテーク 2015/01/18 7Fスタジオ

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1)行ってきました。今回は私が一番の高齢者だったかもしれない。若い女性が多かった。20代、30代が中心か。若い男性も結構いて、このタイトルは、若い人向けかな、と思った。

2)しかし、若い人たちはこのコンセプトには割と辛口に対応していた。今回も色々な意見が聞けて極めて有意義だった。他の人々の意見もともかくとして、以下は会場で、私が話した(話したかった)内容のまとめ。

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3)災害ユートピアというけれど、原書ではパラダイスという言葉が使われており、厳密にいうと違う。しかし、今回は語義にこだわらないということなので、このポイントは軽くスルーする。

4)会場には、仙台以外で被災した人たちが多かったので、私自身はこの会場からほんの数百メートル離れた新築の高層ビルで3・11を迎えたことを話した。四角い箱の会議室で、落ちるものなど何もない空間での「被災」であった。

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5)他の人の「備えあれば憂いなし」という発言に、私は、その空間で、リスクマネージャー達と、地震保険のことについて研修していたことを話した。地震保険など、亡くなってしまった人にとっては何の役にも立たないが、もしもっと加入率が高ければ、災害住宅からもっと多くの人が、もっと早く出ることができたのではないか。

6)他の地域で被災した出席者から、仙台でどういう状況があったのか話して欲しいという発言からあったので、私は、一例として、あすと長町にある被災者住宅の集会所で、劇団オクトパスの、宮澤賢治をモチーフとした演劇の上演があり、その時の風景について話した。

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7)宮沢賢治は、厳しい岩手県の自然をイーハトーブと幻視していたし、仙台のことをセンダードと名付けていたことに触れ、私は、あの3・11における「災害ユートピア」を、「センダード2011」と名付けている、と話した。

8)問いかけとして、言葉を作るとしたら、という設問に、私は「災害ユートピアはいつまで続くのか?」という提案をした。そもそも災害ユートピアはあったのか、あったが、それはすぐに消えてしまったのか。あるいは今でも続いているのか。そしてそれはいつまで続くのか、という問いかけである。

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9)今日NHKテレビで福島の川内村のドキュメンタリー番組があり、それに友人もでたようだ。原発から30キロで、高線量の状態が続いているかつての農業コミューンが、今、新たな意味を持ち始めているのではないか。色々な角度から「災害ユートピア」との対比で見てみるのも大事なことだろう。

10)そもそもテーマそのものがキチンと規定されていなかったので、全体としては漠然とした体験や意見の羅列になりがちだった。それでも、こういう切り口で、それぞれの意見を聞いてみることは貴重なことであると感じた。今後も機会があれば、ぜひ参加してみたい。

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「ネットが生んだ文化」誰もが表現者の時代 川上 量生 (監修) 角川インターネット講座 (4)


「ネットが生んだ文化」誰もが表現者の時代 角川インターネット講座 (4)
川上 量生 (監修)  2014/10  KADOKAWA/角川学芸出版 単行本: 256ページ
Total No.3375★★☆☆☆

「炎上とバトルはネットの花」
この言葉はいつのころから私の造語として、わがアフォリズムの重要位置をしめているのだが、全然ポピュラーな言葉にならない。著作権を主張したいようないい言葉だとは思うが、誰もReTweetしてくれない(笑)もちろん元ネタは「火事と喧嘩は江戸の花」である。

いずれにせよ、この本は、このアフォリズム一本で作られているような一冊である。私は本当は「花」とは思っていないのだが、この本における花=文化は、この炎上とバトルに終始するかのような執着ぶりである。

確かに、頁のアクセス数を上げようとするならば、炎上ネタを積極的にアップするのも作戦ではあるが、まぁ疲れますね。

90年代初めにパソコン通信でようやく設定が終わって仲間内の書き込みが飛び込んできたと思ったら、グループ内のバトルの最中であった。2005年になってmixiに誘われた時も、炎上中の火消し役に呼ばれた、というのが正直なところだった。バトルや炎上も、野次馬として参加するのも、たまにはありだが、当事者になるのは嫌だ。

日本のネット言論空間の最大のオピニオンリーダーで、ベストセラー「ウェブ進化論」(ちくま新書)の著者だった梅田望夫氏が、ネットへの失望を表明して、事実上言論から撤退してしまったという事件がある。

 

起きたのは2008年11月のことだ。きっかけは梅田氏が自身のブログ「My Life Between SIlicon Valley and Japan」に、作家水沼美苗氏の「日本語が亡びるとき」という本を好意的に紹介したことだった。p098「日本のウエブは『残念』」佐々木俊尚

「ウェブ進化論」と梅田望夫は、当ブログが実質的にスタートするきっかけにもなった重要なポイントなので、この記事はなかなかタメになった。基本、私は梅田望夫の意見に賛成である。「撤退」などしなくても、ネット上の「良質」な部分においては、あの高邁な理想は進行していると、見ている人は多いだろう。

ネット上におけるメインユーザーはおそらく30代であろうから、還暦も過ぎた私などがとやかく言ってもしかたないことなので、ダンマリを決め込むことも多いが、概してネットは上手く進化しているのではないだろうか。

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2015/01/17

「ネットを支えるオープンソース 」ソフトウェアの進化 まつもとゆきひろ監修 角川インターネット講座 (2)


「ネットを支えるオープンソース」ソフトウェアの進化 角川インターネット講座 (2)
まつもとゆきひろ監修 2014/11 KADOKAWA/角川学芸出版 単行本: 282ページ
Total No.3374★★★★★

 最近見かけたシリーズでは、 なかなか興味惹かれるシリーズ。昨年の11月にスタートし、全15巻が発行される予定。現在のところ、5巻がすでに刊行されている。強い関心を呼びそうなものから、パスしてもかわまない巻もありそうだが、とりあえず、全15巻に目を通しておきたい。

 この号は二巻目、第一回刊行分の一冊である。なんせオープンソースが対象だけに読み落とすわけにはいかない。プログラミング言語 Rubyの開発者まつもとゆきひろが監修をおこなっている。全8人が執筆陣に加わっている。

 ひとつひとつが面白いが、多数の人間が執筆しているために、内容的にダブる部分があるのは止むを得ないか。興味のある人なら、中学生でも十分読めそうだ。内容的には、多少ゴシップ的な部分もなきにしもあらずだが、このようにまとめられていると、全方位的に理解しやすくなるだろう。

 Linuxを初めとするオープンソースに脚光が浴びることが少なくなっているんかな、とも感じるが、実際は、全てにおいてオープンソース化が進んでいて、むしろ、ソフトに限らず、インフラやハードにおいてもオープンソース化が必要だ、とするあたりは、実に納得した。

 いったん、インターネットやウェブの外に出て、根本からその設計を見つめなおす時が来ている。インフラはインフラ、ソフトウェアはソフトウェア、ハードウェアはハードウェアとレイヤーごとに分かれて発展してきたインターネットだが、現状のままでこの大きな変化を乗り切ることができるのだろうかと考えると、このレイヤーを一度オープンにして、連携しながら新しい時代のインターネットの枠組みを考える必要がある。p246「オープンソース化が生んだ変化」瀧田佐登子

 分厚い本だが、あっと言う間に読んでしまえるような一冊である。

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「DIME (ダイム) 」2014年 12月号 「iPhone6」使い倒してわかった◯とX


「DIME (ダイム) 」「iPhone6」使い倒してわかった◯とX
小学館 2014/12 小学館 雑誌 特集頁16頁
Total No..3373 ★★★☆☆

バカ売れですが、ほんとうのところどうなの?、というサブタイトルがついている。こういう商品名で検索すると、図書館の蔵書はまだまだ手薄である。出てくるのはほとんど雑誌の類。しかも新刊なので、館外持ち出し禁止だし、一ヶ月後になっても、すでに何人も予約が入っている。

私のところに来るには、もうすでにだいぶ時間が経ってからということなので、すでに記事としては旬を過ぎている。しかも特集とはいうものの、わずか16頁なので、十分なツッコミとはならず、おざなりな紹介記事でおわっている。

しかし、キャリア選びなどの記事では、我が意を得たりという気がした。私はこの10数年間、ずっと同一キャリアをつかっているので、このキャリアでiPhoneというチャンスをずっと待っていたのだった。「長く安心して支える」という評価は当然ながら、納得。

キャリア別の速度調査結果をチェック、なんてコーナーは、結局、東京山手線の各駅での調査であり、こちらは、いまから山の森の中で使えるかどうかが問題なので、ぜんぜん役立たない。

従って、今のところ、 SIMフリー版なんてのもお呼びじゃないので、役に立たない。他パラパラめくってみるものの、まずは、自分の持ち物となったガジェットがあちらこちらに記事となっているという満足以上のものを、この雑誌に求めることは、所詮無理であった。

以上、メモ残す。`

 

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2015/01/16

「シルクスクリーン」材料・ステンシルの作り方・多色刷・乾燥 植田理邦

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「シルクスクリーン」材料・ステンシルの作り方・多色刷・乾燥
植田理邦 1970/06 美術出版社 ハードカバー p102
Total No.3372★★★★★

 シルクスクリーンの夢を見た。ふと茶の間に戻ったら、なんと家族が茶の間のテーブルで、何事もなさそうな顔でシルクスクリーン印刷をしているのである。え~、まさか、こんな茶の間でやっていいの!とびっくりしているうちに目が覚めた。

 いや~、シルクスクリーンの夢は60年間生きてきて初めて見た。若い時分、インドに行く前に勤めていた印刷所の夢は良く見る。定番である。定番というより、私が見る夢の中では一番回数が多いかもしれない。

 私はあの印刷所が大好きだった。あの社長も大好きだったな。子供がない夫婦だったから、あのまま私があそこに居座ることができたら、ひょっとすると、あそこを引き継いで、今でも印刷所をやっているのではないだろうか、とさえ思う。

 夢の内容は、毎回バージョンが変わっており、工場の中の機械の配置やスタッフも違う。でも、一階建てで、ちょっと古びているというのは何時も同じだ。大体は、会社を一回やめて、また戻ってきたので、みなさんよろしく、とスタッフに挨拶まわりする、というのが大体のストーリーである。

 ところが、シルクスクリーンの夢は一回も見たことがない。大体が、印刷所に勤めるよりさらに4年前に、見よう見まねで始めたのがミニコミ雑誌「時空間」の表紙であった。私がどこからシルクスクリーンという言葉を覚えてきたか、今では定かではないが、とにかくミニコミを作るならガリ版の中身とシルクスクリーンの表紙、という組み合わせにしたいと思っていたのだ。

Jkk1        「時空間」創刊号1972/11

 出来上がったのはこの表紙。悪戦苦闘した。参考にしたのはこの美術出版社のマニュアル本「シルクスクリーン」一冊。ただ、この創刊号に、私の技術は間に合わなかった。実は、この「時空間」のタイトルの楕円の中は金色に染まる予定だった。

 このタイトルのロゴは、当時先端を行っていた「新宿プレイマップ」に影響受けていた。そもそもがシルクスクリーンのまったくのシロートなのに、最初から金粉を混ぜたインクを使うことが無理だったのだ。

 若葉マークは、ちょうどそのころスタートしたばかりで、初心者マークと創刊号をかけたアイディアだった。もちろん、この若葉マークもシルクでやる予定だったのだが、できなかった。時間があれば、もうすこし頑張れたのかもしれないが、まったく時間切れで、結局は、この若葉マークは一冊一冊、手で色を塗ったのだった。

Jkk2                「時空間」2号 1973/01 

 季刊誌を目ざしていたので、創刊2号は1973年1月。念願の金色のインクで印刷はしたものの、インクの濃さの調節がうまくいかず、どろどろのスタートだった。それでも、これが私のシルクスクリーンの最初の作品なのである。

 デザインは、当時は確かビートルズのレコードのジャケットから借りてきたように記憶しているのだが、今となっては何のレコードだったのか、自分でも定かではない。いずれにせよ、手作りの木枠にナイロンの布を使い、インクも専用でないものを使った、実におどおどしいスタートであった。

Jjk3                「時空間」3号 1973/04

 あまり上手に出来なかったので、3号は、れおんの作品となった。「時空間」というタイトルもリライトされた。これはタイトルだけがシルクスクリーンでで他は謄写版である。なかなかのセンスだなぁ、と思う。

Jjk4         「時空間」4号 1973/07

 4号ともなると、他のポスターなども作っていたりしたので、私自信だいぶ印刷そのものになれてきて、デザインにも気を配る余裕がでてきた。まったく稚拙ではあるが、私はこのデザインが大好きなのである。

Jkk5         「時空間」5号 1973/11

 5号は、流峰が表紙作成した。タイトルは謄写版で、白インクを使った。その頃は誰が何を担当ということが決まっていなかったので、表紙も当番制であった。

Jkk6         「時空間」6号 1974/02

 6号も、れおんが全部謄写版で印刷した。シルクスクリーンはまだまだ私たちの手には負えなかった。

Jkk7         「時空間」7号 1974/05

 7号も、れおんの作品。この頃になると、シルクの方法がなんとなく確立していった時期であった。このままいけば、表紙の担当は、れおんになったかもしれない。だが、彼は東京に在住していたので、編集のたびに一ケ月仙台に戻ってくるのは、この後、大変になった。

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 結局そのご8号から12号までの5号分は私が表紙を担当した。色ラシャ紙を使い、シルクで二色、その上から謄写版で黒を入れると、結構カラフルなデザインができるのであった。

 今考えてみると、実に毎号々々葛藤の連続であった。失敗の連続であったとも言える。私は、この「時空間」の12号、実質的な休刊号を最後に、シルクスクリーン印刷をしたことはない。

 しかし、当時私たちのコミューンの仲間であるサキが独自に写真製版を始め、ニュートンの芝居のポスターなどを手がけるようになり、かなり腕を上げた。そして、その後、その技術は芝居仲間の若い女性の手に移り、あれ以降、その彼女は30年ほどプロのシルク屋として活躍している。

 ビートルズに「サージェント・ペーパー・ロンリ―ハート・クラブ・バンド」という名盤があるとすれば、私たちの拙い青春の最高峰は、第10号の「南無飛行少年命」だろう、と私は勝手に思っている。ははは、変な喩え・・・(笑)

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2015/01/13

居心地のいい「ミニハウス」---羨望の35軒 「可笑しな小屋」 ジェィン・フィールド=ルイス<4>

<3>からつづく

ジェィン・フィールド=ルイス (著), 松井 貴子 (翻訳)  2013/12 二見書房 単行本: 155ページ

 この本、やっぱり面白い。どうして面白いんだろう。面白いところを、文章なら抜き書きするのだが、写真集では、なかなかそれをコピーするというのははばかれる。これとこれと、これ、面白いよなぁ、とヨダレたらしながら見ている。

 確かに全部が全部面白いという訳ではない。これは屋根が大きすぎるし、これはチープすぎる。建材が新しすぎるのも嫌だし、ちょっと大きすぎるのもいやだ。半分くらいは、好みじゃないかもしれない。でも半分くらいは、うっとりとしてしまう。

 どうしてなんだろう、といろいろ考えてみると、他のこの手のタイニーハウスの本は、そのタイニーハウスそのものに焦点を合わせてしまうために、そこでの暮らしがワンパターンになってしまう。

 屋根があり、壁があり、窓があり、ベランダがあり、リクライニングチェアがあり、ベットがあり、キッチンがあり、トイレがある。時にはタイヤがついていたりするが、結局はある大きさがあり、それを超え過ぎてもいけないし、あまりにも小さすぎてもいけない。その範疇が決まりすぎているのだ。

 ところがこの本は、確かに小屋に焦点の一つはあたっているが、その中のインテリアや、その小屋を中から外から支える植物たちに大きな焦点を当てているところが、我が心をゆするのだろう。

 つまり、小屋なんて、ある意味、どんな形であっても、なんとかなるのだ。だからあまりに小屋そのものにこだわりすぎると、そこから先が見えなくなってしまう。

 この本は違う。そこから先に行っている。小屋を建てるのが目的なのではなくて、そこでどう暮らすのかが練り込まれている。

 この手の本は、このシリーズを筆頭としていいろいろあるが、やっぱりこの本が一番面白い。インスピレーションが湧く。これは、というアイディアがいろいろ詰まっている。できれば、こうしたい、ああしたいが、この本はいろいろ教えてくれる。

 私はこの本が大好き。

<5>につづく

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「おとなのiPhone 」一目置かれる使いこなし術 高橋 浩子<6>

<5>からつづく

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「おとなのiPhone」 一目置かれる使いこなし術 <6>
高橋 浩子(著), パソカレッジ(監修) 2014/5 技術評論社 単行本(ソフトカバー): 208ページ★★★★★

 この本についてのメモはこれで6回目である。随分引っ張ってきたものだが、そろそろ卒業する時が来ているかも。本当は延長してもう少し読みたいところだが、後ろに予約が沢山溜まっている。待っている人々に速やかに渡すのも、図書館利用者のマナーの一つでもあろう。

 この本に限らないが、岡嶋裕史佐々木俊尚の、いわゆるIT関連本を、それなりに余裕を持って振り返ってみようかな、という心のゆとりが、3・11後の自分の中にも、すこしづつ湧いてきているようだ。

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 iPadを使っていても、どうしても物理キーボードが欲しくなり、初売りで購入。ポイントが溜まっていたので、ほとんど苦になるような金額ではなかったせいもある。実際に使ってみると、やはりヴァーチャル・キーボードよりかははるかに使い勝手がいい。

 マウスの代りにタッチペンを多用すると、ほとんどがパソコン状態になるので、これで実際にはわがモバイル環境はだいぶ前に進んだということになる。あとはファックスやらプリンターやらだが、解決できない問題ではない。いずれ、必要とあらば、準備しよう。

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 そう考えてみれば、本当に緊急の時は、わがiPhone6plusでも、この物理キーボードが活躍する時代がくるだろう。

 いつもはiPadでプレゼンしている顧客に、iPhone6plusでプレゼンしてみた。操作手順がやや不手際があったものの、この5・5インの画面でも十分できることを確認した。あとは慣れであろう。

 必要に迫られてのiPhone6plusへの転向であったが、いざ慣れてくると、いままでの作業を置き換えているだけで、あ、こんなもんだ、という落胆もある。これだけか。

 いえいえ、実はいろいろまだまだ活用していない機能やアプリが山ほどある。いままで、長年ITガジェットを使ってきて、実際にその機能を使いきったということはなかった。

 そもそもいわゆるガラケーと言われるだけあって、ガラパゴス状態に進化した日本のIT環境は、必ずしも、ジャストフィットしたものではなかった。本当に使いたいものが見つからず、そして使いたくないものに時間を取られ過ぎることもままあった。

 これから、この機種を使っていくにあたっては、よりすみやかにカスタマイズをして、より使いやすい状態にメンテナンスし続ける必要があろう。

 この本、実に分かりやすかった。なんせ「おとなの」ってところが、くすぐられる感じで心地良かった。いずれもうすこししたら、復習のために、また再読したら、ああ、ここまで来たな、と自分の進化を確認できるに違いない。

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2015/01/12

「仕事するのにオフィスはいらない」 ノマドワーキングのすすめ 佐々木俊尚<2>

<1>よりつづく 


「仕事するのにオフィスはいらない」ノマドワーキングのすすめ<2>
佐々木俊尚 2009/07 光文社 新書 243p
★★★★☆

 久々に著者の新刊「自分でつくるセーフティネット」(2014/08 大和書房)を読んで、なんとなくこちらも読み返してみようと思った。読み返してみて、なるほど面白かったのだが、なんせ、時代は5年半も経過している。しかもその間に3・11という大きな事件が挟まっているのだ。

 政権の交代劇があり、原発事故の後始末の行方もいまだ分からない。能天気にノマドなどとばかりも言ってはいられない時代であることを再認識した。

 しかしまた、この本で語られている「ノマド」環境は、実にごくごく一般的になっている2015年だなぁ、とつくづく考え込んでしまった。そのノマドが「ワーキング」まで高められているかどうかは定かではない。

 人は、決して「ノマド」を望んでいるわけではないのだ。ノマド「ワーキング」を好む人は一定数いるだろうが、決して多数派ではないのではないか。人々は「ワーキング」を求めている。そして、求めることができたワーキングが「ノマド」だったりしているに過ぎないのではないか。

 積極的にノマドワーキングを取り入れる層もあることはあるだろう。しかし、モバイル環境と、クラウド環境と、そしてもうひとつの要素と言われるサードプレイスと言われる、自宅でもオフィスでもないワーキングの場所を日々求めてノマドする、ってのはどうなのかな。

 私なんぞは喫茶店とかでノマドする気にはほとんどなれない。だったら自宅で、あるいは車の中で、あるいは森の中で、ということになるだろう。まぁ、これはこれでひとつのノマドではあるのだが。

 iPadにブルーツゥース・キーボードを付ければ、小型パソコンになり、テザリングができるスマホを持てば、即、モバイル・ノマド環境ができてしまう。ワーキングそのものが、そのように作り替えられてきている。

 あとは、ファックス送信と、モバイル・プリンターが必要となるだろうが、これも、ぜひとも必要とあらば、すぐにでも解決できるところまで時代は進んでいる。

 この本で言えば、あとはジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジャック・アタリあたりを、もう一度スキャンする必要ありそうだな、と感じた。

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「プログレッシヴ・ロックの哲学」巽 孝之


「プログレッシヴ・ロックの哲学」
巽 孝之  (著) 2002/11 平凡社 単行本: 142ページ
Total No.3371★★★★☆

 ピンクフロイドの新アルバムについて何人かの友人が話題にしていた。そのうち自分も聞こうと思っていたところ、ネットに一枚だけとは言え、まるまんま視聴できるコーナーがあった。おやおやと思いつつ、SNSにはりつけておいたら、CDで聞くより音質が悪い、という書き込みがあった。

 当然のことであろうと思いつつ、何故か、その書き込みに反応している自分を発見した。

 大きく端折っていえば、私は生粋の音楽ファンでもなければ、オーディオマニアでもない。極端にいえば、音楽などなくたって生活できる人間なのである。今更、ことほど左様に音質がどうしたなどとのたまわれても、あんまり意味がないのだ。

 おっしゃることはその通りなのだが、なにも今更そんなこと、私のスレに書きこんでくれたりしなくてもいいと、何か、自分の中の堆積物に引火したのだろう。そのような爆薬、地下マグマが、どこにあるのか、自分でもよくわからないことがある。

 さて、自分のが好きな音楽の分野はなに?と聞かれれば、やはりフュージョン系かプログレと答えることになる。だが、かと言って音楽論を戦わせるほど聞いてもいないので、まぁ、特にないです、とお茶を濁しておくほうがいいのだろう。

 この本は、ピンクフロイドをキーワードとして我が図書館を検索したところヒットした一冊である。「プログレッシヴロック」というところもいいが「哲学」というところも、我がハートをヒットした。

 著者は「『2001年宇宙の旅』講義」の巽孝之。1955年うまれということだから、時代体験的には、私の同等か、やや若い、二学年下である。あの時代に登場したロックシーンをリアルタイムで体験していて、それを個的な一冊としてまとめているんだから、一般性には欠けている。しかし、類書をまだ読んでいない当ブログとしては、小さな本ながら、なかなか興味深く読んだ。

 キング・クリムゾンは「恐竜」で自らの音楽遺伝工学的な復活を歌い、ELPは19世紀音楽と 20世紀音楽の間に対位法的関係を構築したが、さてイエスはヨーロッパ的自然とアメリカ的自然が溶け合う幻想的庭園を徹底的に探求した。これら三者のアプローチが交差するところにこそ、プログレッシブ・ロックといわれる音楽の本質が立ち現れる。p92「イエスまたはポストロマンチック・ファンタジア」

 このトリニティの中に私の好みが入っていないのが残念だが、著者がいうのももっともという気もする。つまり、逆説的にいうと、私の本当に好きなジャンルは、かならずしもプログレッシヴロックだったとは言いにくい。いずれにせよ、我が狂気やら奥深くのマグマなどは、これらのプログレでは解放されなかったと見える。

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2015/01/10

「デジタルアーカイブ」‐記憶と記録を紡ぐ 髙島 秀之

「デジタルアーカイブ」‐記憶と記録を紡ぐ
髙島 秀之 2013/05 創成社 単行本: 256ページ
Total No.3370★★★☆☆

 本書は大学での講義をまとめたものである。受講対象は、デジタルネイティブではあるが、学芸員や司書、教職課程の資格取得の一環に属している学生たちである。著者の生年は不明なれど、戦前生まれの方であるようだ。

 東大をでてNHKに勤務したあと、大学の教壇にたった方であり、この本も内容は重厚かつ精緻、各論的に精読すべき箇所は随所にある。

 メガデータや個人情報など、いらぬデジタルアーカイブスばかりが目につくが、実際には、図書館や博物館、美術館といった知の集約機関において、これからのデジタルテクノロジーに活躍してもらいた分野が多くある。

 だが、逆にそれを活用しようとすれば、それなりに問題が山積みになっていることに気づく。一挙に解決することなどできない。ひとつひとつ丁寧に追いかけていくしかない。

 また、完全などということはない。記憶されるべきもの、記録されるべきものは多くあるが、また、それらが全て完全に残されることなどないだろう。

 何度も失われ、破壊されるにちがいない。

 究極には、失われ得ないもの、破壊され得ないものを、内なる知恵として発見する以外に解決する方法はないのだが、まずはデジタルアーカイブにできることはしっかりとやっていただくしかない。

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「デジタルデトックスのすすめ」「つながり疲れ」を感じたら読む本 米田智彦


「デジタルデトックスのすすめ」「つながり疲れ」を感じたら読む本
米田智彦 2014/02 PHPエディターズ・グループ 単行本 p173
Total No.3369 ★★★★★

 IT と瞑想を対峙させたなかなか良い本。出版社はPHPグループ。なるほどね。この組み合わせなら分かる。著者は1973年生まれの男性。私たちより世代は一つも二つも違うので、その世代の人達が読む本としてはいいのではないだろうか。

 1990年代から、世界中のデジタルカルチャーをいち早く取り上げてきた雑誌「WIRED」の日本版(Vol.9) では、「瞑想せよ。仏の教えをハックせよ シリコンヴァレーが、いままた『禅』にハマる理由」というタイトルで、 Googleの瞑想への取り組みを紹介する記事が掲載されました。p19「デジタルデトックスはなぜ必要か?」

 デトックスとは解毒の意味だとか。この言葉に大きな意味があるわけではない。つまりはネット繋がりをすこし休みしてみましょうよ、という提案である。かつての「デジタル・ストレス」から、この手の本はよく出てくる。要望があるからでてくるのだろうが、まぁ、この本が突出しているわけではない。

 ITと瞑想を対峙させているという意味では、2014年において目立っているかもしれないが、10代より、瞑想もITも大好き人間の私としては、まぁ、このような本から新たに得る情報はほとんどない。だが、今、こうしてこのような振り返りがあるのだ、という事実を確認できることは嬉しい。

 若い人達、ひょっとすると瞑想なんてしらない、あるいは悪い先入観を持っているような人などは、いちどこのような本を読んで、虚心坦懐に瞑想で「デトックス」するのもいいだろう。お勧めしたい。

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「自分でつくるセーフティネット」生存戦略としてのIT入門 佐々木俊尚

「自分でつくるセーフティネット」 生存戦略としてのIT戦略
佐々木俊尚 2014/08 大和書房 単行本 p205 
Total No.3368★★★☆☆

 なかなか不思議な本である。ひさしぶりにこの人の本を読んだけど、昔のなにかから脱皮しようとしているかのような一冊に感じた。思えばこの本は大和書房からでている。私がこのブログを書くようになってから、大和書房の本をメモすることはおそらくほとんどなかったと思うが、若い時にはよくこの出版社にお世話になった。

   いわゆる「人生論」がお得意な出版社だ。だからこの本もおそらく、高校生とか大学生、あるいは就活の若い人たちをターゲットにして書かれている一冊だろう。すくなくとも、私のようなアラ還おとこをターゲットにはしていないだろう。

 ネット社会のボヤキ節の一冊だが、私より若い人に「昔話」されるのは、あまり気持ちいいものではない。全体としてはボヤキなのだが、しかたないよね、とオプティミズムに戻ろう戻ろうとしてかかれた一冊のようにも思える。

 著者の本をまずはこの本からスタートした人もいるだろうが、この一冊はおそらく著者の世界の入り口としてはちょっと変化球なのではないだろうか。私はこのような本は嫌いではないが、あえて読まなくても過ごすことはできる。新書

 とりあえず著者関連のリストを作っておこう。

佐々木俊尚関連リスト

「ヒルズな人たち」 IT業界ビックリ紳士録 2005/5  小学館

「ネットvs.リアルの衝突」 誰がウェブ2.0を制するか  佐々木俊尚 2006/12 文春新書

「ウェブ2.0は夢か現実か?」 テレビ・新聞を呑み込むネットの破壊力

「グーグルGoogle―既存のビジネスを破壊する」

「次世代ウェブ」 グーグルの次のモデル 2007/1 光文社新書

「サイバージャーナリズム論」 「それから」のマスメディア 歌川令三 2007/07 ソフトバンククリエイティブ

「ネット未来地図」ポスト・グーグル時代20の論点 佐々木俊尚 2007/10 文藝春秋

「ウェブ国産力」日の丸ITが世界を制す 佐々木俊尚 2008/01 アスキー

「ブログ論壇の誕生」佐々木俊尚 2008/09 文藝春秋

「2011年新聞・テレビ消滅」 2009/07 文藝春秋

「仕事するのにオフィスはいらない」ノマドワーキングのすすめ2009/07 光文社

「自分でつくるセーフティネット」(2014/08大和書房)

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「ビッグデータの罠」 岡嶋 裕史

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「ビッグデータの罠」
岡嶋 裕史 2014/11 新潮社  単行本 191ページ  
Total No.3367★★★☆☆

 3・11後、これらIT関連の本を読むことは極端に少なくなった。それ以前から見切りをつけていたものの、なお一層距離ができた感がある。久しぶりに図書館のパソコンコーナーに足を止め、眺めていると、確かに興味をそそられるタイトルはあるのだが、なるほど、なぜ自分が4年近くも、これらのコーナーに魅力を感じなくなったのかがわかる。 とはいいつつ、手にとってみたといういみでは、やはりあれから4年ちかくの年月が経過したのだな、という実感が湧いてくる。

 匿名化はただすればよいというものではなく、どの水準の匿名化を何の目的でどのような手段で行っているかを明らかにし、かつそれを利用者にわかりやすい言葉で示さなければならない。できれば、利用者が匿名化の水準や個人情報を活用してよい範囲を指定できるのが理想だが、システム構成上の理由で困難であったり、利用者の負担も増えることから、必ずしも現実的な選択肢ではないかもしれない。p140「被監視者が監視者になる時代」

 最近、大手のSNSが正月そうそう利用規程を改定した。こまかい事は、一般ユーザーにはわからない。先駆的な仲間のユーザーがリーダーシップをとり、他のユーザーはそれに追随するという形が多い。いずれにせよ、一般的なユーザーには、何が何だかわからない、というのが実態だ。だから、多少冒険心のあるユーザーはあまり気にしないで、どんどん進み、臆病なユーザーはそのようなサービスには近づかない、ということになる。

 かくいう私も、自分の行動を「監視」されにのは気持ちよくないので、ビッグデータ取得者に対しては、とかく非協力的である。しかたなく取得されてしまうのは仕方ないとしても、出来るだけ私のデータはマダラ模様で、あまり活用しがいがなようにしている。

 一方で、業務上、私たちもまた、個人情報に触れるチャンスは多くある。扱いについては十分気をつけなくてはならないし、ホームページなどでみずからの使用ポリシーを明確にするよう指導されている。

 かなり前のことだが、あなたの初恋の人探します、なんてテレビ番組があった。情報網が薄い時代ならそれもテレビ番組になったかもしれないが、いまなら、個人であったとしても、かなりの確率でその作業ができるのではないだろうか。私もやってみよかな、などと思うが、いつの間にか、その情熱は薄れてしまったので、もうそういうことはしない。

 p158のわかりやすいパスワードベスト20のリストは面白い。幸い、私は採用していないが、一般的になるほどこういう文字列がみなさんお好きなのね、ということが分かる。くわばらくわばら。

 かつて私が事業者として盛んにローン申込書を作成しなければならなかった頃、うちではローンは嫌いだからと現金主義に徹していたお客さんもたくさんいた。それはそれで立派なポリシーで、一部私も見習っているのだが、カード社会の現在、このポリシーを徹底できている人は少ないだろう。

 この本において、著者はあの光文社シリーズで見せるカマトト冗句は封印している。なければないで、ちょっと寂しい著者の冗句である。

 ビッグデータの罠、というありそうなタイトルであり、また内容もそれに即した、よくありそうな回答となっている。常識的な回答ではあるが、ちょっと常識的でもの足りない読者も多いだろう。

 サービスが複雑に連携している現在では、情報漏洩が生じてもどのサービスに原因があったのかわからないことすら考えられる。各サービスにすこしずつ異なる情報を登録しておく方法は一定の効果がある。自分に関する情報をわざと間違えて入力しておき、この間違え方で登録したサイトはここであると、漏洩元サイトを突き止めた利用者もいる。p183「私たちは『危うさ』をどれだけわかっているのか」

 たまにはこのような本で、自分のITリテラシーをブラッシュアップすることは、きわめて大事だと感じた。

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2015/01/09

モバイル+キーボード

今日、ブルーツゥース・キーボードを買った。折り畳み式のものを狙っていたが、残念ながら売り切れだった。他、似たようなモノがいくつか出ていたが、結局、繋がればいい訳だし、どっちみち一緒に持ち歩くわけだから、iPadより小さい必要はないのであった。

  今、そのキーボードを使って打ち出してみたのだが、いつも使っている配列に近いものを選んだので、ほとんどタッチタイピングで問題ない。ただ、となりのキーとの敷居がないので、ミスタッチはまだ多い。多いけれども、バーチャルキーボードを使うよりはるかに早い。ストレスも少ない。

   iPadだから、マウスは使えないが、あたかもマウスのようにタッチペンを側において、随時併用することによって、なんとかいきそうだ。語彙の選択も、打ち込みに使い続けていれば、次第に使いやすくなるだろう。

  iPhone6plusではまだためしていないが、まあ、だいたいこんなものだろう。そして、ここからブログの書き込みができれば、私のモバイル環境はほぼ完成したことになる。

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  うむ、なかなか快適である。

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スマホでもOKですね、当然だが。

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2015/01/08

「個人情報ダダ漏れです! 」 岡嶋 裕史

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「個人情報ダダ漏れです!」
岡嶋 裕史 2013/09 光文社新 新書 新書: 214ページ
Total No.3366★★☆☆☆

 著者の本は、当ブログの好みとしては、ちょっと硬派すぎる。やや技術に偏っていて、専門的な情報を素人に教えてくれようとするのだが、その素人が知りたい範囲を超えて、正確な専門知識を展開してくれているので、いつも申し訳ないなぁ、と思う。

 それを感じ取っているのか、著者は、ちょっとくだけた話題でも入れようと、ジョークもいれてくるのだが、逆にいうと、ジョークについては耳年増なこちらとしては、ちょっとそれはカマトトでしょう、というような、アマチュアなジョークが多すぎる。そこが、著者の本を読んでいて、いつも「痛々しく」感じる所以である。

 何冊かすでに読んでいるが、驚いたことに「迷惑メールは誰が出す?」(2008/10 新潮新書)について今から7年ほど前にメモした時は、多くの人がアクセスしてきた。その後、半年か一年以上、ずっとアクセスが多く続いていたのには驚いた。

 彼の本が面白くて、多く読まれたのかもしれないし、逆に、読まれなくて、私のブログメモが目だったのかもしれない。あるいは、両方だったかもしれないし、私のメモが特段面白かったのかもしれない(でもこれはないだろう)。

 とにかく不思議な魅力の持ち主だなぁと思っているのだが、NHKテレビテキスト「スマホ&タブレット 」なるほど便利! くらしで使える、を取り上げた時もアクセスが増加した。さらには、私のページからこの本を買う人が続出し、私は、そのわずかではあるがアフェリエイトで収入(笑)があったのだった。

 この人、真面目だし、技術的にも専門的だし、ジョークを言ってもあまりクダけすぎることもないので、なるほどNHKテレビの解説者向きなのかもしれない。

 突き詰めて考えると、使うのやーめたってなっちゃうと思うんです。
 まあ、それも一つの選択肢なんですけど。
 ただ、何度も書いてきたことですけど、利便性と安全性ってトレードオフになっているので、ネットが危険というのは、安全性が脅かされるほど魅力的ってことでもあります。
 恋愛も危ないほどいいってゆうじゃないですか。一盗二婢三妾四妓五妾とか。いや私は二次元しか興味ないんですけれども。
p196「あとがきに代えて」

 ネット社会を忌避したり、謝絶したりする必要はまったくないけれども、たまにこのような本を読んで、自らのITに対する態度を見直し、情報セキュリティを高めていくのも大事だろう。

 読む気もないまま、だんだん読み進めてきてしまって、結局いつの間にか溜まってしまった著者の本だが、まとめて、リストを作っておく。

岡嶋裕史関連リスト

「郵便と糸電話でわかるインターネットのしくみ」(2006/03光文社)

「数式を使わないデータマイニング入門」  隠れた法則を発見する(2006/05 光文社)

「構造化するウェブ」 ウェブの理想型を実現する技術とは(2007/11  講談社)

「迷惑メールは誰が出す?」(2008/10 新潮新書)

「アップル、グーグル、マイクロソフト」クラウド、携帯端末戦争のゆくえ(2010/03 光文社)

「ハッカーの手口」ソーシャルからサイバー攻撃まで(2012/10 PHP研究所)

「スマホ&タブレット 」なるほど便利! くらしで使える(NHKテレビテキスト趣味Do楽)(NHK出版 2013/03)

「個人情報ダダ漏れです! 」(2013/09 光文社)

「ビックデータの罠」(2014/11新潮社)

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「『いいね!』」が社会を破壊する」 楡周平

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「『いいね!』が社会を破壊する」
楡周平 2013/10 新潮社 単行本: 239ページ
Total No.3365★★☆☆☆

 以前より図書館の書棚で気になるタイトルの本であったが、よくある手の本だろうと、手に取ることもしなかった。正月休みの暇つぶしの一冊にいいかな、と借りておいた本だが、これは実は割とマジめなビジネス書だった。

 タイトルは、ツカミである。タイトルの内容を期待して読み始めるとオヨヨとなる。そしていきなり自分がかつて務めていたコダック社の話になるのだが、これもまた、ツカミである。どんどん、自らの世界へ読む者を引きづり込んでいく。

 著者の名前から、スリラーやハードボイルドを得意とする小説家を連想出来る人は、むしろ、このタイトルの意外さで本書を手にとるのかも知れない。だが、小説にはとんと縁がない当ブログとしては、多数ある彼の本の中でも、この本以外に読むものはないかもしれない。

 私はソーシャルメディアの類は一切やっておりませんので、実感に乏しいのですが、伝え聞くところによると、たとえばフェイスブック上にアップしたコメントや写真に対し、「いいね!」ボタンを押さないと怒る、あるいはそれを強要するといった人たちが結構いるらしく、最近では会社の上司が部下にこれを強いる「ソーハラ」(ソーシャル・メディア・ハラスメント)という言葉まで生まれているそうです。p181「『いいね!』ほど怖いものはない」

 この本のタイトルに対する著者からの問題提起はこの程度のものである。ちょっと拍子抜け。考えようによっては、ドン引きの一冊である。たくきよしみつ「デジタル・ワビサビのすすめ」 (2014/04 講談社)のようなウィットに富んでいる本ではない。デジタル反動、アナログ保守とさえ呼べるような一冊に仕上がっている。

 本人自身は一生懸命、陰謀論者ではないことを強調しているが、表面的な事象を語る上では、まるで彼らが心配していることとと、そう変わらない次元のことを著者は「心配」している。

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2015/01/07

「モバイルハウス」 三万円で家をつくる 坂口恭平

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「モバイルハウス」 三万円で家をつくる
坂口 恭平 2013/08 集英社新書 新書: 192ページ
Total No.3364★★☆☆☆

 著者に対する当ブログの印象はちょっと偏っているかもしれない。そもそもが、誰かさんに、もうひとりのBhaveshがいるようだ、と評価されたことが出発地点である。へ~、どんな人なんだろう、あの人から見て、わたしはこの人と同類項に見えているんだ、というところからのスタートだった。

 正直言って、よくもわるく、この方と私はまったく違っていると思う。当然のことである。しかしながら、共通項というか、似ていなくもない部分も多くある。そこのところがちょっと気になった。

 それで、わたしの行動としては、まずこの人との違いを明確にするところから始まった。違うことのほうが多いのでそれは簡単な作業だったが、それをやりつつ、結局は、著者を「批判的」に見る癖がついてしまった。そして、「違和感」も実は多く残っているのである。

 その最たるものは、彼が自らの「病歴」をオープンにしていることで、私はこのことを「フェア」だとは感じないので、それを契機にこの人の本は読まないことにした。あ~、それなのに正月早々、「現実脱出論」とともに、この本も読んでしまうことになった。

 モバイルハウスをつくろう、というのも面白い。モバイルハウス・ビレッジをつくろう、というのも面白い。しかし、それ以上に気になる何かがある。

 2万6千円でモバイルハウスを作ったとして、一月の使用料が2万3千円の駐車場に運ぶ、というのが、どうもいけない。モバイルハウスが移動できるからと言って、東京から熊本までトラックで運ぶという感性が私には分からない。

 都市に寄生する形で生存するモバイルハウスなら、別段にそれほどの革新性はないのではないか。いくらゼロ円を標榜しても、それは旗印としてのゼロ円なのであって、実質ゼロ円ではない。虚偽広告、誇大広告なのである。

 100歩譲って、モバイルハウスに、現代文明を「批判」する力があるとしても、だからと言って、この人を登場させる意味はほとんど感じない。

 今、モバイルハウスの中には、三畳間の空間とベッドがあるのみだ。
 これ以外に何が必要なのかを考えてみると、実は何もないことに気付く。
 僕は現在、全ての仕事をパソコンで行なっているので、パソコンさえあればどこでも大体仕事ができるのである。このモバイルハウスはインターネット環境もばっちりであるし、太陽光パネルで自家発電した電気が溜まっているバッテリーにUSBが接続されているので充電もできる。それで後は何もいらない。
 寝たいときはベッドに寝転がる。ベッドは、使わないときには折り畳めるので、邪魔にもならない。
 トイレはどうするか。吉祥寺のときはコンビニを使おうと思っていたが、今回は僕が借りている事務所兼避難所のゼロセンターのトイレを使う。家にトイレが付いていないことは、面倒臭そうに思うかもしれないが、逆に気分転換になったあ。
 つまり、家には実はトイレもいらない。
 共用のトイレが近くにあればなんの問題もない。
 お風呂、これも同じである。熊本でもすぐ近くに銭湯があった。
 モバイルハウスにはキッチンもないが、ちょっとしたものならカセットコンロを使い、ちゃんと料理しようと思ったときはゼロセンターのキッチンを利用した。
 結論を言うと、この三畳間の空間で十分だった。もちろん、人は押し入れにいろんなものを入れているし、たくさん興味もあるだろうから、これだけの空間では足りないと感じる人もいるだろう。しかし、人間がただ生活するならば、そしてどのくらいの空間が必要なのかと考えるのならば、僕はこう断言できる。
 三畳間もあれば十分だ、と。
p132「モバイルハウスでの生活」

 この人はこの部分でなにを言おうとしているのだろうか。立って半畳、寝て一畳、とは昔から言われる人間の必要空間のことである。現代でも3畳間に何人家族かが暮らしている実情は山ほどある。

 広さではなく、その空間だけがあれば人間が暮らしていけるとするのは間違いである。インターネットやWiFiを創り出す空間はどこにあるのか。共用トイレは誰が維持しているのか。コンビニは、トイレだけを利用させるために存在しているのか。カセットコンロは、一個転がっていればそれでいいのか。それが作られ、搬送され、供給されるには、三畳間以外のシステムがこの世に存在しなければならないのだ。

 縮こまって狭い空間に押し込まれていればいいというなら、それは棺桶にでも詰まっていればいいわけだ。いい大人が、子供や老人、世の中の人々と一緒に暮らそうとするなら、自らのもとにそれらが供給されるその道筋をキチンと考えなければならない。

 例えば、たしかに自分のモバイルハウスで消費する電力は、小さなソーラーでまかなえるかもしれないが、それらが作られる時の現場の電力をどう考えるのか。極めて、幼稚で、短絡的で、病的でさえある。 

 このような存在を「天才的」と持ち上げる中沢新一あたりは、当ブログから見れば、ますます可笑しな方向に逃走しているという風にしか見えない。

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「デジタル・ワビサビのすすめ」 「大人の文化」を取り戻せ たくき よしみつ

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「デジタル・ワビサビのすすめ」 「大人の文化」を取り戻せ
たくき よしみつ(著) 2014/04 講談社  新書: 240ページ
Total No.3363★★★★★

 著者とはネット繋がりである。著者の本はほかに何冊か読んだ。「テレビが言えない地デジの正体」(2009/09 ベストセラーズ)には痛く共感した。その後「裸のフクシマ」 原発30km圏内で暮らす(2011/10 講談社)や、「3・11後を生きるきみたちへ」 福島からのメッセージ(2012/04  岩波書店)を読み、ネットで著者を発見して、ネット繋がりになってもらった。

 1955年福島生まれということだから、私とほとんど同時の人生を東北からスタートしたことになる。音楽や文章の才があり、何かの賞を取られて、早くから文壇などで活躍してきた人でもある。

 それとなく著者の書込みなどを拝見しているのだが、共感すべきことが多く、なるほど、と、うなづくことが多い。

 この方と共通の友人がどれだけいるのだろうと見てみると、あるSNSではたった一人しかいなかった。ほへー。この方は、私の感性に近いのだが、まったく別な空間やネットワークで暮らしているのか、と、びっくりする。

 この本のタイトルとなってい「ワビサビ」についてだが、当ブログのボキャブラリーとしてはこれまで数回しか登場していない。

 この方の「視点」は、なかなか絶妙なのである。この「視点」や「感性」をこそ、いわゆる「デジタル・ワビサビ」というなら、私は大賛成だ。我が意を得たり、とさえ叫びたくなる部分が多い。

 ツイッター上で「ジョブズが愛した日本のわびさびは、先端的なクリエーターとは親和性がある美学だが、日本の大企業だけが気づいていないようだね」とつぶやいていた人がいた。確かに、ワビサビの本家である日本は、技術という手段よりも大切なもの---美学や哲学、魂を忘れているのではないかと思わざるを得ない。p140「ワビサビを忘れた日本がジョブズに負けた」

 ZENや京都の古寺を愛したジョブズだったが、それをデジタル・ワビサビと表現してしまうことには、多少の違和感があるが、著者の言わんとすることはよ~~くわかる。

 私はいまもスマホを使っていない。それは「ガラケーで間に合っている」からではなく「スマホに変えたほうが不便だと思うからだ。

 私は通勤していないし、都会に住んでいないから、かなり特殊なライフスタイルかもしれないが、世の中には私と同じように「スマホよりガラケーのほうが都合がいい」人は結構いるはずである。p143「スマホがなくても大丈夫」

 昔、デジタルを嫌って「アナログ親父」を自称する中老年が輩出したが、この方は、デジタルの時代性についてはかなり先端を理解している。パソコン雑誌の記事などを書いているのではないか、とさえ感じるほど詳しい。しかし、それでなお、先端の動向には辛口の評価を下すところが魅力である。

 この本がでた当時、つまり一年間前あたりは、私も、この意見に共感できた。しかし、それから一年経って、私はiPhone6plusにしたのだが、はてさて、著者の環境も多少は変わっているかもしれない。

 ガラケーとは別にモバイルルーターにプラスして別のWi-Fi対応端末(iPod touch や iPadやノートパソコン)を携帯するのは荷物が増えるだけで面倒と思われるだろうが、実際にやってみるとメリットのほうが多い。p147同上

 これはまさに同感。ごく最近まではその状態だった。しかし、モバイルルーターの二年縛りが解けて、しかも会社統合で値上がりする、それに感度が悪くなったので、このスタイルを卒業した。

 「やっぱりauが最強じゃね?」 「アホかお前は!CDMAになぞ未来はないのだよ」 「難しい話はわからないから、わたしは孫さんと心中するわ」 「つながりさえすればソフトバンクが最速」 「いやいや、利用者が多い分遅くなることがあるけど、やっぱりどこに行っても安心なのはドコモ」などなど、いまでもユーザー同士でいろいろやりあっている。

 しかし、こんなことで熱くなって論争したりストレスを抱え込んだりするのはアホらしい。結局は、自分が住んでいる場所、よく出かけていく場所でつながるのかどうか、が最大の問題であろう。p158同上

 わたしは十数年以上同じキャリアを使っているので、あまりあちこち動くつもりはない。ただ、うろうろしていると、この論争にいつも巻き込まれる。

1)イノベーター(革新的採用者)
2)アーリーアダプター(初期採用者)
3)アーリーマジョリティ(初期的多数採用者)
4)レイトマジョリティ(後期多数採用者)
5)ラガード(採用遅滞者)

 この範疇で言えば、わたしはおおよそ3)のアーリーマジョリティにはいるだろう。時には2)であることもあるが、ほとんどの場合3)に留まる。それに対し、著者は、ミュージッシャンや作家としての専門性で言えば、1)のイノベーターとも目されるのに、時には2)や3)に留まり、時には良かれと感じれば、5)のラガードの位置さえ躊躇しない。

 わびさび(侘び寂び)の原意は、質素で静かなる境地、足るを知り必要最小限のもので精神の深みを表現する、といったことだろう。

 しかし、本書の「はじめに」でも紹介したように、スティーブ・ジョブズはわびさびに「魂や直感を信じること」という自身の人生哲学を重ねてみていた。p170「デジタル・ワビサビ」への道

 デジタル・ワビサビを楽しむためには、最初こうした「デジタル化で失われるもの」が何かをしっかり認識しておかなければいけない。失われるものを最小限にする、あるいは失われても文化の本質は別のところにあることを把握することによってワビサビが深められるからだ。p174同上

 デジタルに支配されることをとことん拒否し、デジタルを使い倒して創り出すものこそが文化だというジョブズの信念が本物だったからこそ(ジョブズの言葉を借りるなら、彼が自分の「魂の言葉」に従ったからこそ)、いまのアップル社の成功があるのだろう。

 日本人にアップルファン、ジョブズファンが多いのも、彼のデジタル・ワビサビ精神が伝わってくるからではないだろうか。p226「大人の文化」を取り戻す

 デジタル・ネイティブとか、デジタル・デバイドとか、デジタルを使う言葉はほかにもあるが、なるほど、誰の造語かしらないが(多分著者だろう)、こうして一冊本を読んでみれば、著者のいわんとすることが良くわかるし、自分の言葉としても、「デジタル・ワビサビ」を使ってみたくなる。

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2015/01/06

「現実脱出論」坂口恭平

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「現実脱出論」
坂口恭平 2014/09 講談社 新書 208ページ
Total No.3362★☆☆☆☆

 正月早々、今日が図書館の年初めである。借りていた本の返却にカウンターに行ったところ、新刊本コーナーにも、つい目がいく。いろいろある中、この本にも目が行く。ほう、まだ本を出し続けているのか、と手に取って、まずは借りてみることにした。

 この人については、良いことも書けないが、悪いことも書けない。その理由は、これまですべて書いてきたので、あえて繰り返さない。

 ただ、人間というものは生き物である。常に変化し続けているのだから、それまではともかく、現在は何かの変化をきたして、新しいステージに立っているかもしれない。そういう思いもあって、まずは、この本はこの本として虚心坦懐に読んでみることにした。

 しかし・・・・。

 やはり、私が時間を預けられるような一冊ではないことが、ほんの最初の数ページに目を通しただけで判明した。十人十色というし、百人百様ともいう。いろいろな人があり、いろいろな人がいていいのである。しかし、一人の読み手として、この一人の書き手への距離を詰めなくてはならない理由はなにもない。

 とにかく、一度は手にとり、読みとおす気になり、まずは、全頁めくってみた、ということだけを、メモしておく。

 この分だと、この書き手が、今後大きく変化することはないだろうし、読み手としての私が、この書き手の書いたものに対する印象は大きく変わることはないだろう。

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    2015/01/04

    「災害ユートピア」―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか レベッカ・ソルニット<2>

    <1>からつづく 

    災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
    「災害ユートピア」―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか <2>
    レベッカ・ソルニット (著), Rebecca Solnit (原著), 高月 園子 (翻訳) 2010/12亜紀書房 単行本: 440p
    ★★☆☆☆

     「てつがくカフェ」の次回のテーマは「災害ユートピア」である。直接関係はなかろうが、この本の存在を思い出さずにはいられない。

     てつがくカフェは過去二回しか参加していない。
    第9回震災を読み解くために」課題図書 ジャン=リュック・ナンシー著『フクシマの後で 破局・技術・民主主義』(2014/01/25)
    第39回「震災とメディア技術」(2014/11/30)。
     それぞれレポートはしておいた。

     災害ユートピアという言葉は当然ながら日本語であり、翻訳とは言え、意訳である。日本語における違和感と共に、その言葉に触れる者に対する挑発感がある。

     「災害」とはなにか。定義はともかく、私にとっては、3・11をはずしては災害はあり得ない。あの災害こそが災害であり、時代を大きく画してしまった重大事件であった。阪神淡路とか、利尻島の津波とか、やはり遠いところにおいての災害はよくわからないことが多い。ましてや外国のことなどは。

     そして、「ユートピア」とは何か。この本においてはユートピアではなく、パラダイスという単語が使われている。パラダイスとは「楽園」という意味だから、より具体的な南国のリゾートなイメージが湧いてくる。それに対するユートピアは、そもそもが「あり得ない世界」という意味だから、夢想的な、漠としたイメージのことである。

     この本においても、また、次回のてつがくカフェにおいても「ユートピア」という単語が採用されている。私は基本、そのことについては賛成である。

     震災直後には、普段みたことがない風景をたくさんみた。たくさんありすぎて書ききれない。その中でも、ひとつ上げるとすると、ある被災者たちの収容されている体育館の駐車場を、ベントレーが走り回っていた風景を思い出す。

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     ベントレーは言わずと知れたロールスロイスの兄弟車である。運転手つきの人はロールスロイスの後ろの座席にふんぞり返り、自分で運転する人は、ベントレーをセダン車のように乗りまわす。いずれにしても世界に冠たる高級車である。普段なら東北の片田舎で見かけるような車ではない。

     私は、この車の挙動を見ていて、「災害パラダイス」という単語さえ頭に浮かべてみた。この車は被災地のボランティアにあたっている車であり、 実際にはこの車がどのような経緯でここに来たのかは知らない。しかし、私の目には、まるで「災害」を「愉しんで」いるようにさえ思えたのだった。

     ひょっとすると、年々増え続ける災害の現場に、毎回駆け付けて、このような活動を行っている車なのかもしれない。このような人々にとっては、災害の現場こそ、自分達の義侠心を満足させてくれる、「楽しい」パラダイスかもしれない、などと勝手に想像してみた。

     それに対する「災害ユートピア」は、飛躍のうえに更に飛躍していうなら、今、私たちが進行させようとしている森の生活、あるいは「エコビレッジでパーマカルチャー」のようなプロジェクトが対応するのではないか、と思う。

     普段ならできないことが、あるきっかけにおいてすんなりできてしまう。あるいは、そのきっかけにおいて、あらためてその有用性が顕わになってきた、何かのプロジェクトのようなもの、とも言えるかも知れない。

     

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     ここはちょっと端折りすぎで、急ぎ過ぎている。災害ユートピアとは、避難所などにおける、普段ではみられないような譲り合いや相互扶助のことをいうのだとは分かるが、それは、まだ受け身の、呉越同舟という打算が働いているように思う。

     災害ユートピア

     震災から4年近く経とうとしている今、私たちは「あの時」を名付けることができるようになったでしょうか。今回は、震災直後の他者との関係性を思い出しながら対話を行います。

     たとえば、レベッカ・ソルニットは著書「災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(亜紀書房2010年)の中で「地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりをしめす。」と書いています。

     共感する方もあれば、憤りに近い反感を覚える方もいらっしゃると思います。ある人は、震災直後に避難所だけでなく街の至るところで、他人と家族のように助け合ったり、気を遣い合ったりしたかもしれません。

     一方で、助け合いがうまくいかなかったり、声をあげられずに孤立したり、あるいは危険な目に遭ったりした方の話も耳にします。

     また、「災害ユートピア」と指摘される状況があったとすれば、今はどうでしょうか。確かに、あの時を契機に新しいコミュニティのあり方が続いている場所もあるかと思います。ただ、映像作品<3・11東日本大震災後の仙台市内の扉の景色>からもその変化がわかるように、日が経つにつれ私たちは再びばらばらになっていった感覚もあります。

     この対話では、”災害ユートピア”という語の解釈や賛否についての討論はしません。この語が震災時の地域の状況を指す言葉のひとつとして使われた事実を参考にしつつ、今いちど震災直後の他者との距離感を、私たちの言葉で少しずつ語り直します。

     今もまだ適切な言葉を見つけられないかもしれませんが、それ自体を含めて問いかけて行きます。房内まどか(てつがくカフェ@せんだい) パンフレット案内より

     時間があったら行ってみよう。そして私自身の言葉をもうすこし手繰ってみよう。

    <3>につづく

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    2015/01/03

    「かもめのジョナサン 完成版」 リチャード・バック <8>

    <7>からつづく

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    「かもめのジョナサン完成版」 <8>
    リチャード・バック (著), 五木 寛之 (翻訳) 2014/06 新潮社単行本 170ページ
    ★★★★☆

     いまさらこの本に何を書き残しておくべきだろうか。小説は小説なのである。何年前にでて、新たに最近未発表だった部分が付け加えられたとしても、もう、当ブログとしては、ほとんどの仕事は終わっている。

     Oshoは、この小説を、1980年の段階で、「私が愛した本」の中の一日目の10冊の中の、4番目に挙げている。だが、文中では、細かいことには触れていない。ただタイトルに触れているのみだ。何がどうした、ということではない。

     ただ、同時に挙げられている他の本達をみると、「ツラトウゥストラ」にしても、「カラマゾフの兄弟」にしても、「ミルダットの書」にしても「老子」、「荘子」「バガバッドギータ」、あるいは「ミラレパ」にしても、はっきりとした類型を持っている。

     そしてその類型の典型は、二日目の二冊目に登場しながら、実になんども取り上げられているカリール・ギブランの「預言者」に現れている。言ってみれば、宗教性におけるマスターと弟子のすがたを、ひとつの原型とし、そのマスターの位置に自らを置こうとしたのがOshoである。

     このところが、80年代後半に起きたグルイズム「批判」のルーツともなっている要因である。その時代のグルイズム批判とやらの人々の業績がどれほどのものであったかは定かではないが、私から見れば、ことOshoに関しては、まったく無意味であったと思う。

     やがて、二百年もしないうちに、ジョナサンの教えのほぼすべての内容が、それは<聖なる言葉>であるという宣言によって、日常の営みから遠ざけられていった。ふつうのカモメたちにとっては無縁のものになったのである。ジョナサンの名のもとに確立された儀式典礼は強迫観念になっていった。p143「Part Four」

     この第四章において、「付け加えられた」問題意識は、どこかの、いつの時代かの流れにおいては、的を得ているかもしれないが、こと私のかかわる範囲においては、まったく的外れであると断言しておく。

     すくなくとも、1974年当時の問題意識であろうと、80年代後半に噴出した批判であろうと、あるいは95年代に勃発した大事件についてであろうと、すでに解決済みである。少なくとも私自身はそうありたいし、そうあり続けたい。

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     だから、この小説をどう読むか、と言えば、この小説に関する限り、私は自分の問題としては読めない。もしその問題意識を共有するためにもっと我が身に引きつけて考えるとしても、第四章という形で表現された小説のような「雑」さでは、ちっとも解決も進歩もしていないと思う。

     40年前に発表されようが、ようやく最近付け加えられようが、問題そのものはなにも解決していない。そして、分かっていたとしても、これまで秘匿しておくことによって、作者みずからは、問題意識から責任回避していただけにすぎないのではないか。

     長い年月を経て、この物語が神秘的に神秘化を否定する結末をむかえたことに不思議な感慨をおぼえずにはいられない。p163「ゾーンからのメッセージ」五木寛之

     物語がどのような結末を迎えようと、それは物語の世界の話である。私自身はここから何の教訓もインスピレーションも受けない、ということだけは、メモしておきたい。

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    「小屋の力」 マイクロ・アーキテクチャー 仙波喜代子/今井今朝春<3>

    <2>よりつづく

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    「小屋の力」 マイクロ・アーキテクチャー<3>
    ワールド・ムック仙波喜代子/今井今朝春 2001/05 ワールドフォトプレス ムック 475p
    ★★★★☆

    A)すみません、地主さんですか? この辺で、空き地とか、貸してもいい畑はありませんか?

    B)知らないね。それにオレは地主じゃないし・・・

    A)出来れば、ちょっとだけでも借りて、家庭菜園とかしたいんですが・・

    B)あんた誰? どこから来たの? そんなこと急に聞かれて、すぐ答える人なんかいないよ。

    A)あ、私は、ほらあそこの町内の者なのですが、いつもウォーキングしていて、この河川敷の農地での作業がとってもうらやましくて、お仲間に入りたいと思っているのですが。

    B)ははは、オレも実は、今年始めたばっかりで、ほらこの土地も開墾して、ようやく今度の春から農業を始めるつもりだよ。土地なんか、一杯あまってるよ。貸したい人ばっかりだ。あんた何処捜してるの? だけど、なかなかむずかしいよ。

    Img_1132

    A)私も若い頃は学校で農業も勉強したのですが、やる機会がなくて、最近ようやくやろうかなぁ、と思い立ったんです。もう何十年もこの土手を散歩していて、いつも農作業している皆さんの姿を見ていて、うらやましいなぁ、と思っていたんですよね。

    B)ああ、オレもそうだよ。大学卒業して会社終わるまで、小さなところ何件か借りて、ここで3件目だ。自宅の脇にも90坪ほどの土地を借りているんだが、そこは女房が花を植えて花壇にしている。

    A)こちらは広いですね~。あそこからあそこまでだったら、200坪もあるんじゃないですか・

    B)後ろのこっちも、木のあるところも、全部開墾したからね、おおよそ450坪ある。

    A)すごいですね。そんなに広かったら、一人では耕作できないんじゃないですか?

    B)んなことないよ。オレの実家の農家なんて、県外のちょっと南のほうだが、白菜専門で、年間5000万の実収入を上げて、兄貴なんて、まぁ、いい暮らししてるよ。腕だよ、腕。土づくりが問題だ。

    A)自信がおありなんですか?

    B)ごく最近までは、あのようなヤブだったんだよ。全部刈り取って、根をひとつひとつ掘り起こして、ほら、あそこに積んでいるのが、その根っこだよ。土づくりはこれからだ。コツがあるだよ、コツが。

    A)はぁ~、すごい。この木材で小屋でも立てるんですか。

    B)秘密だがね、河川敷は小屋は立てられないんだ。だけど、ほらあちこちに立っているだろう。交渉が必要なんだよ。オレが毎日こうして作業しているのを、国土交通省が毎日午前と午後に二回、土手の上から見ているよ。そのうち、撤去しろ、って言ってくるかもな。

    A)あ、じゃ、どうするんですか、その時は。

    B)撤去しないよ。交渉力だよ。ちゃんと手は打ってある。撤去しなくてもいいように作ってある。撤去せよ、って張り紙された小屋もあるがね、あいつら下手なんだよ。

    A)へ~、そうなんですか。小屋つくるのお手伝いしましょうか。なんかお手伝いしたいですね。

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    B)いや、結構だね。一人で好きなように作業したほうが効率がいい。余計な手を出されると、邪魔だ。あっと言う間につくるよ。この土地は河川敷だが、私有地だからね、少しは自由がきく。国土交通省に買い上げられてしまった土地は、貸してもくれないし、まったく自由にはならない。

    A)地主さんたちは、一生懸命ですね。

    B)馬鹿な。地主なんてほとんどいないよ。みんな借りている人ばかりだ。地主なんて、ここで農業なんてする気はまったくない。みんな出来れば売りたいと考えている。探してみな、売り地は一杯ある。

    A)え、どこにあるんですか。

    B)法務局行って登記簿見ればすぐわかるよ。ただ、本当の地主に辿り着くまで時間がかかる。ほら、あそこだって、あそこだって、全部売りたがっている。となりのこの200坪も買ってくれ、って言ってきた。坪3万だとよ。

    A)3万×200坪、600万ですね。お買い得なんですか?

    B)馬鹿な、こんな買っても家も建てられない、転売するにも可能性がない土地を買う馬鹿はいないよ。3千円でもたかいね。借りるんだったら、さらにこの10分の1だろう。

    A)え、じゃぁ、お宅様は、どのくらいで借りてるんですか?

    B)んなこと言えないよ。安く借りている、ということは本当だ。本当はただでもいい、と言われたんだ。だけど、それじゃぁ、こちらが開墾していい具合になってきたら返せ、って言われたら、タダ損じゃん。ちゃんと自作の契約書をもっていって、すくなくとも直ぐ出て行け、ってだけは言われないようにしてあるよ。

    A)じゃぁ、450坪×年間100円として、4万5千円くらいですか?

    B)だから、そんなことは言えないよ。あんたが思っているより、ずっと安く借りていることは間違いない。

    A)ほえ~

    B)オレもね、何年もかけて探したんだよ。橋の向こうのあっちなら、もっと沢山土地はあるよ。

    A)いえいえ、私は、この周辺の人々の小屋がうらやましくて、ここがいいなぁ、と思っているんですよ。

    B)ここはね、泥棒ばっかりだ。勝手に他人の作物を盗んでいく。ちょうどいい頃を見計らって、通行人も入ってくるんだ。だから、オレは暴風ネットを全部回してね。出入り口は一カ所しか作らないよ。逃げようと思っても、出口で待っているんだ。

    A)え~、そうなんですか~~~(心の中では、エコビレッジでパーマカルチャー、という夢が簡単にぶちこわされる)

    B)んなもんだよ。

    A)私も近くに借りることができたら、お仲間にいれていただければ幸いです。

    B)ここの人たちは、みんな天狗だ。自分のやり方しか知らない。声をかけてくる奴らはいるが、みんな邪魔するばっかりだ。余計なこと言われたくないね。みんな、な~~んも知らんのよ。

    A)(ガクン) あそこの小屋も河原のカヤを使ったりして、すばらしい出来ですね。

    B)ああ、そう。河原には材料がいっぱいあるからね。使って構わないよ。石も山ほどある。よりどりみどりだ。

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    A)ここはイノシシとか来ませんか。蔵王の友人の家庭菜園は、イノシシやクマ、鹿、ハクビシン、烏、タヌキなどの被害が多いようです。

    B)オレも蔵王のほうに来ないかって友達に言われたが、行かないよ。それに作物の販売するの大変じゃない。近くに道の駅でもあればいいんだが。ここは、河川敷だけど、戦後ここに水が上がったということはないらしいし、動物の被害は少ない。一番の被害は、人間のドロボーだよ。道を歩いている人もそうだが、作っている人たちが盗んでいく。

    A)(ガクガクン) いやぁ、それにしても、ご親切にいろいろ教えていただきまして、ありがとうございました。長時間教えてもらったので、だいぶ理解しました~。

    B)ここはね、河川敷だけど、みんなキチンと通路を作っているからね、車でここまでも、もっと奥までも入れるんだ。

    A)(口でいうほど、この人、不親切ではないなぁ。この人なら、友達になれるな、私は)

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    「おとなのiPhone 」高橋 浩子<5>モンスター・サイエンス

    <4>からつづく

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    「おとなのiPhone」 一目置かれる使いこなし術 <5>
    高橋 浩子(著), パソカレッジ(監修) 2014/5 技術評論社 単行本(ソフトカバー) 208ページ
    ★★★★★

     例年、年賀状はXP機で印刷している。宛名ソフトがXP機対応だからだ。年一度の決算会計ソフトもXPじゃないと動かない。もちろんヴァージョンアップすればいいだけのことなのだが、年に一度であれば、その必要はほとんどない。

     そもそも私にとってはXP機は高嶺の花だった。ずっと98や2000を使っていて、結局はお下がりのXP機を使っているうちに、それを通り越してVistaなどをつかうようになった。

     XP機はすでにサポートされていないので、ネットから切り離してスタンドアロンで使っている。逆にいうと、我が仕事は今でもXP機にお世話にならないと、進行しない。

     私の周りではいまだに黒電話を使っている家庭が複数ある。考えようによっては、別にこれで用は足りる。私は今iPhone6plusに変えたばかりで、夢中になっていて、黒電話オンリーになるなんて考えようもない。

     しかし、黒電話しかなければ、それはそれで生活はしているだろうと思う。私はなぜ黒電話を卒業したのかというと、あの当時、黒電話のコードの長さが決まっていて、それ以上伸ばすには料金がかかったのだ。

     布団の中で電話をしたかった私は、延長コードを有料でつかうなら、と、サードバーティの電話機を使うようになったのではないだろうか。その後、仕事で必要になってミニファックスも導入した。

     パソコン通信なんてものができて、受話器カプラーなんてものもあったなぁ(笑) 公衆電話でこのカプラーから送信できるなんていうことが話題になったこともあった。いまや、公衆電話も街から姿をほとんど消してしまった。

     私は別にiPhone6plusがどうしても欲しかったわけではなく、つまり森でネットつながりになるには、どうしても特定のキャリアと最新通信ソフト環境が必要だったのである。だから私自身が黒電話に戻るということもあり得ないし、できればファクス機を廃棄して添付ファイルオンリーにして欲しいとさえ思うが、時代はまだそこまで行っていない。

    1)イノベーター(革新的採用者)

    2)アーリーアダプター(初期採用者)
    3)アーリーマジョリティ(初期的多数採用者)
    4)レイトマジョリティ(後期多数採用者)
    5)ラガード(採用遅滞者

     私はこの範疇で言えば、3)であろう。世の中のちょうど真ん中か、若干、2)に近い位置か。

     美術品で言えば、どんなに古くても、どんなに突飛でも、個人で所有する分には個人の感性に従って、なんの問題もない。売買を目的としないのであれば、価値などは、自分の中で確認できればそれでいい。

     しかし、ITがインフォーメーション・テクノロジーという限り、発信力も受信力も問われる。そして、それが科学の進歩や技術にサポートされなければ、存在しない。

     私は、スマホや超電子社会に対しては賛成派なのだが、ひとつ心配ごとがでてきている。

     最近、やたらと生活空間に登場しているアンテナ群の増加だ。気付いてみると、あちらにもこちらにも、電波塔がにょきにょきと、あまりにもすごいスピードで繁殖中である。これって、本当に健康被害はないのか。

     モンスター・サイエンスと言えば、あの超音速機コンコルドを思い出す。もっと高速の飛行物体を創り出すことは可能であろう。しかし、弊害も大きい。それを利用する必要のある人も多くない。経費も莫大なものになる。既にコンコルドは廃棄された。

     例えばリニア・モーター。それは誰が誰のために開発しているのか。それは産業界が産業界の利益のために開発しているだけではないのか。窓の外も楽しめないようなトンネル移動手段を、本当に私たちは必要としているのか。


     原発は言わず
    がもなである。すでに完全にモンスター・サイエンスとして葬られるべき段階になっている。今だに必要としているのは、上のレベルで言えば、4)や5)の人々だ。いずれこの人々も消えていくだろう。

     今、イノベーターたちは、原発などと数段違ったレベルを研究しているに違いないし、そうあって欲しい。いま直ぐには消えないが、原発はいずれ消えざるを得ない技術である。

     この地球上にはさまざまなレベルの成長、発展、進化がある。一元的に繋がることはかなり先のことになるだろうが、みんなが同じ空を見ているかぎり、いつかはそうなるはずだ、という想いがある。

     私は専門の科学者でもなければ、グローバル経済を理解している訳でもない。ひとりの老人に過ぎないが、同じ空をみている、という意味では、私もいまだに一人の地球人である。


     あらゆる多様性を受けいれつつも、真理としての内的な空を感じる限り、試行錯誤を重ねた結果、いつかは、全体の進化が着々と進むはずだ、という予感はある。

    <6>につづく

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    2015/01/02

    「無法松の一生」競演

    「無法松の一生」競演

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    2015/01/01

    Osho 「Courage 勇気」 <2>

    <1>よりつづく

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    「Courage 勇気」<2>
    OSHO(著), 山川 紘矢+山川 亜希子(翻訳) 2014/11角川書店 単行本: 247ページ

     人間の意識の歴史において、最初に発達したのは呪術だった。呪術は科学と宗教が結合したものだ。呪術はマインドのいくらかとマインドでないもののいくらかだった。その後、呪術から哲学が生まれた。そして哲学から科学が発達した。呪術はマインドでないものとマインドの両方だった。哲学はマインドだけだった。そして、マインドに実験を加えたものが科学になった。宗教性とはマインドのない状態だ。

     宗教と科学は現実に対する二つのアプローチである。科学は二次的なものを通してアプローチし、宗教は直接的にアプローチする。科学は間接的なアプローチだが、宗教は直接的なアプローチなのだ。科学はぐるぐると回るが、宗教は現実の中心にただ浸透する。p31

    つづく

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    今日の気分はこの3冊<9>「自分で作るハブダイナモ風力発電」、「おとなのiPhone 」、「かもめのジョナサン完成版」

    <8>からつづく

    今日の気分はこの3冊
    <9>「自分で作るハブダイナモ風力発電」、「おとなのiPhone 」、「かもめのジョナサン完成版」

     怒涛のような歳末を通り過ぎ、いささかほっとするような元旦。テレビも面白くないし、かと言って出かけてみたいところもない。これはゴロゴロ寝正月するに限る。と、そこで読みもしない本でも、まずは手に取ってみようかな。

     読みもしないまま、まずは、今日の気分を占ってみようと思うのだが、全然まとまりはない。あえて、現在、現在図書館から借りている本7冊を手に取ってみる。と、まぁ、予測されたことではあるが、そのうちの5冊は、タイニーハウス関係の本であった。

     ここが一番感心のあるところでもあるのだが、どうもいまいち突破口がない。このところグルグル同じところを回って、前に進む気配がない。5冊から三冊を選ぶこともできたのだが、ここはむしろ、一冊に絞ってみたらどうか。

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     そこで一冊目はこれだ。「自分で作るハブダイナモ風力発電」(2012/11総合科学出版)。すでに6回にわたってメモしてきた一冊だが、実際に実験も繰り返している。森の生活にふさわしい電源として風力発電工作の実験を繰り返しているのだ。

     材料はかなり揃っている。今年は、この風力発電を具体化し、実用化できる年にしたい。一部電気工作はできないのだが、いよいよになれば、その部分は誰かに頼むか既製品を購入すればいいだろう。

     二冊目は、高橋 浩子「おとなのiPhone 」(2014/5 技術評論社)。ITの技術書は数限りなくあれど、まずはマイブームのiPhone6plusを我がものにしなければならない。一ケ月も使っていればまずは当たり前に使えるようになったが、この当たり前という奴が曲者である。

     今までの機能を単にiPhoneに置き換えたというだけでは、あまりに拍子抜けである。いままでやらなかったこと、いままで気付いていなかったことなどについて、積極的にチャレンジして行こうと言う情熱が、自分の中から湧いてくることを期待したい。

     そして三冊目は リチャード・バック「かもめのジョナサン完成版」(2014/06新潮社)。こちらも当ブログ定番本ではあるが、「完成版」については、ひと波乱あってしかるべき一冊ではあるのだ。このまま看過してしまっていいのか。

     つまり、この本一冊に限ったわけではなく、スピリチュアリティと地球、つまり、往相と還相の問題がまだ残っている。あるいは、ここが解決しないと、円環しない。極めて重要なポイントである。リチャード・バックは、揶揄的にここを表現してしまっているが、全体から見直して、もう一度、円環づけておかなくてはならない。

     意味じくも、これら三冊は、当ブログの、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの3コン論に繋がる三冊でもある。この三冊のトライアングルから見えてくるものは何か。あるいは、この三冊に引っ掛かっている私とは誰か。

     また、これらは森の生活を始めるにあたって、直感した「トイレ、インターネット、NPO」に対応するものでもある。トイレと風力発電に通じるものは、必要物の供給であり、また技術の確認である。人間が暮らしていく上でのライフラインの確保、自作、供給。これらに通じるものはかぎりなくある。

     インターネット、iPhoneに通じるものもまた多い。しかしながら、我が技術というよりは、世の中の技術革新の方が早い。数年前に夢見ていたものが、いまやすでに実現されている技術というものがたくさんある。インターネットの中心にiPhoneを持ってくるのは、まずそれはそれでいいだろう。さて、それを、どう使うのか。情報リテラシー、というよりも、人生リテラシー、と言っていいほどの重要問題だ。

     そして、NPOと「かもめのジョナサン完成版」。まぁ、ここでは多く語らないでおこう。問題の本質は繋がっている。個的な世界と、認識の共有化。ここは芸術的なセンスが要求される。じわじわと、現実を積み上げながら、説得力のある文字化が必要となってくるであろう。

     なにはともあれ、正月早々、手元の本から三冊を選んで眺めてみるところから始めよう。

    <10>につづく

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    謹賀新年 2015年 元旦

    謹賀新年 

    本年もよろしくお願いします。

    2015年 元旦

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    「ロード・オブ・ザ・リング」<6> 王の帰還

    <5>からつづく


    「ロ-ド・オブ・ザ・リング」<6>王の帰還
    原作:J.R.R.トールキン 制作年:2003年 制作国:アメリカ DVD 179分
    ★★★★☆ 

     イントロはそれとなく始まる。またまた新しい展開。セットも目新しい。さぁ、なにが同始まる。剣ね。チャンバラがどこまでも好きなんだな。チャンバラがないと、映画が作れないのか。

     山のシーン、お城のシーン、湖のシーン。美しい。どこから実写で、どこからCGか、私なぞには全くわからない。

     なぜ、息子が死んだか聞きたい。それはそうだろうな。何かを守ったらからと言って、息子の死を簡単に受け入れることができる人などいない。戦争はやっぱりやっちゃいけないんだよ。

     とかいいつつ、結局、2時間ほど寝てしまった。エンディングテーマ曲で目が覚めた。失敗。(笑)

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