「『貢献人という人間像」―東日本大震災の記録・藤沢周平の作品世界を顧みて 幸津國生
「『貢献人』という人間像」―東日本大震災の記録・藤沢周平の作品世界を顧みて
幸津 國生(著) 2013/1
花伝社 単行本–
単行本 262ページ
No.3414★★★☆☆
1)藤沢周平というキーワードで引っ掛かってきた一冊。まさか、藤沢周平と3・11を関連づけて考えている人がいるとは知らなかったので、意表を突かれた。
2)著者は1943年生まれの文学教授。他に
「時代小説の人間像」藤沢周平とともに歩く
「『たそがれ清兵衛』の人間像」藤沢周平・山田洋次の作品世界
「『隠し剣 鬼の爪』の人間像」藤沢周平・山田洋次の作品世界2
「『武士の一文』・イチローの人間像」藤沢周平・山田洋次の世界3+「サムライ野球」
等の著書がある。ここまでくるとまさに藤沢周平にご執心の方、とお見受けした。
3)本書においては、藤沢周平ワールドと3・11を対比として、その中の人間像を浮き彫りにしようという主旨であるようだ。当ブログは、3・11とは切っても切れない関係にあるが、いま文章で3・11の新たなる考察を読み切るだけの余裕はない。
4)したがって、本書においては「第7章 藤沢周平の作品世界における『にんげん』の捉え方と<貢献>する態度の描写」p176の30ページ弱を読み、他の部分は割愛させてもらった。
5)普遍的なものをあえて時代小説という形で表現することによって、「むかし」存在したものが変化の真っ只中にある「いま」においても存在しており、さらに「これから」もなお変わることなく存在し続けるだろうということを示そうとしているp177「手掛かりとしての時代小説」
6)たしかに薄々感じてはいたのだが、必ずしも時代劇、とりわけ江戸時代の藩政時代の下級武士という設定をせずとも、そこに普遍なものを表現することはかのうであろう。だがこと藤沢周平においてはその時代設定は必要であるし、また剣の達人が登場しなくてはならない。ここがキモである。
7)藤沢の人間理解は、藤沢が時代小説は「人情」を対象とすると言うときの理解であろう。藤沢は、人間のうちに「不変なもの」があると言い、それを時代小説では「人情」と呼ぶという。p187「藤沢周平の作品世界における『にんげん』の捉え方」
8)確かに人情話だ。しかし、ここまで話を持ってこられると、すこし窮屈な思いにもなる。
9)藤沢の作品世界の登場人物たちは、何らかの仕方で「にんげん」としての態度を取るのである。それは、他者のために<貢献>することを<自分>の生き方とし、そして他者に尽くすことによって結果として<自分>も満たされるという態度ではある。p229「藤沢周平の作品世界が示唆すること」
10)なるほど、そう読むのか。
11)読み手のこちらとしても3・11後であることに変わりはないが、「貢献人」という括りはちょっと窮屈すぎる。3・11後においては、よく宮沢賢治が取り上げられた。そちらもまた「人間像」が広く語られたのだが、そこにおいては、「デクノボー」としての生き方が、多方面から評価され、語られた。
12)現在当ブログが藤沢周平の世界に彷徨しているとして、おそらくそこに見つけようとしているのは、「後見人」という姿ではなかろう。ましてや「デクノボー」の姿でもない。人間という形よりも、「情」あるいは「人情」という曖昧模糊としたエモーションであるかもしれない。
13)今はしかとは分からない。
14)藤沢周平ワールドと言っても、当ブログは単に映画やドラマなどの映像を追っかけているだけである。今後のことはともかくとして、まだ藤沢本人の小説の一編も読まないうちに解説本などを引っ張りだすことは、本来タブーであろう。
15)もうすこし量的にも質的にも、作家の世界に入り浸ったあと、他人の解説などにも目を通して巾を広げるべきであろう。
16)この本を含む幸津 國生という方の一連の本はなかなか面白そうだ。いずれ、一通り目を通すことになるやもしれない。
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