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2015/03/08

「70年代のスピリチュアル」書きかけのボツ原稿

 1972年晩春、私たちは80日間日本一周に出かけた。参加したのは4人、まず仙台から北に向かい、三陸を通って下北半島から北海道に抜け、網走、利尻、礼文を経たあと、ひたすら、南へ、そして沖縄へと目指したのだった。

 参加したのは4人、ヒッチハイクが2人、125CCバイクが1人、東京から南に向かう原付バイクが一人。それぞれが、事前にコンタクトしていた地域の人々と交流し、10日に一度ほどの集合地点で情報交換しながら、独自の旅を続けたのだった。

 私たち4人が出会ったのは、1970年のべ平連の活動や街頭デモでのこと。当時、私を含めた2人は高校生。1人が予備校生、1人はすでに東北大生だった。4人にリーダーと言える者はいなかったが、敢えていえば、一番年上で東京生まれの流峰が一番活動的で、企画力があった。

 私が流峰とあったのは、70年の安保騒動の前にしての集会やデモでのことであった。タオルのマスクやカラフルなヘルメットが賑やかな集会において、彼は、頭に円柱形の角を4つ作り、そこには「人・間・解・放」と書いてあった。

 16才の高校生だった私には、正直、政治全体のことはわからなかった。しかし、暴力革命や街頭闘争というものに目を引かれつつも、もうちょっと違う道はないものか、と探していたのかもしれない。そして、時代もまた、いわゆる68/69と言われた過激な時代はすでに終焉し、共同幻想としての敗北感へと、沈潜していこうとしていた。

 まだまだ青年期であった4人ではあったが、体系化さえた公教育秩序からドロップアウトし、また、暴力革命のようなものでないナニカを探そうではないか、とフラクションをもつようになったのだった。

 72年の春にとりあえず市内の一角に共同でアパートを借りて共同生活をすることにした。まずは名前をつけようと、最初は「瞑想の松ビューロー」と呼ばれていた。近くの東北薬科大の構内には、日本へ最初にニーチェを紹介した高山樗牛が若かりし頃にその根元で瞑想したと言われる松の木があった。その所以で地名やバスの停留所は「瞑想の松」と名付けられていた。

 流峰は都内の高校在学中に、校内の政治的集会や新宿西口駅のフォークゲリラ活動に参加し、またそのレポートを深夜放送のDJに何度も書き送っていた。受け取り手はTBCパックインミュージックの桝井論平。二人の交流は「ぼくは深夜を解放する」(ブロンズ社1970)に収録されている。また、同じ高校の同学年に然(ぜん)がいたことも特筆しておくべきことである。

 私たちは、この80日間日本一周を始めるにあたり、各地の人々の活動を知り、またできる限り、今後、仙台で活動する上で連絡を取っていきたいと願っていた。そこで、もうすこし別な共同の名前を考えようということになった。新しい名前はもう一人の高校生だった悪次郎が考えた。「雀の森の住人達」。近くには大きな台の原森林公園があり、そこには雀たちが沢山いた、ということがとりあえずのネーミングの所以である。

 すでに18歳になっていた私は、受験も進学も就職もしない、いわゆるドロップアウトというライフスタイルに飛び込むことになった。そして6月から8月にかけて行なわれたこの80日間日本一周は、実にたくさんの体験をさせてくれたのだった。

 数え上げていけばキリはないが、例えば青森にヒッチハイクでたどりついてみれば、劇団「天井桟敷」が青森県民会館で「邪宗門」を公演中だった。私は仕込中の昼間から劇団に入り込み、寺山修司やシーザー、友川かずきなどといった人々と一時行動を共にした。

 山形では、菅原秀氏らが主催していた「サバイバルゼミ」合宿に参加した。秀さんとは、以前からの知り合いで1971年の朝日ジャーナルの「ミニコミ特集」で連絡をとるようになっっていた。お互いのミニコミがそのリストに掲載されていたのである。

 そこで末永蒼生氏とも知りあった。彼については1969年の頃から発行されていた「黒の手帖」(檸檬社)で知っており、彼が盛んに書いていたアサリ式色彩診断法という心理学的アプローチに私は以前から関心を持っていたのだった。

 金沢のやはり私たちと同じような共同生活体「やさしさの夢」を訪れた。京都を過ぎ、三重県の春日山にあるヤマギシ会では、名古屋の「頭脳戦線」の「恍惚合宿」なるものに参加した。西宮では当時大学生で「週刊月光仮面」を発行していた村上知彦氏を訪問した。

 四国にも渡り、羽倉正人氏の実家である旅館で仲間たちと落ちあい、また当時宇和島でUFOを研究していた清家新一氏を尋ねた。九州では福岡の伝習館高校の教師たちの集まりに参加したり、桜島でテントを張って野宿したりしていると、すでに季節は7月末の真夏になりかかっていた。

 熊本では、いわゆる「部族」の一派と見られる「虹のブランコ族」を尋ねた。加藤清正を祀ってあるといわれる「花園神社」の境内の日本家屋に「新撰堂」という自然食レストランがあった。そこが彼らの拠点だった。私がここを尋ねたのは、このグループに参加していた1人、然(ぜん)が私たちのメンバーでもある流峰と高校の同級生で、以前からその噂を聞いていたからであった。私はこのお店で初めてスチュアート・ブランドたちの「ホール・アース・カタログ」を見た。

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と、ここまで書いてきて、手が止まった。これは依頼原稿の下書きのつもりだったのだが、長すぎて焦点がぼやけているし、そもそものテーマに、依頼字数の中に入らないことが判明したので、ボツにすることにした。

このまま削除してしまうのも忍びないので、ここに断片だけアップしておく。

 

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