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2015/04/01

「カミを詠んだ一茶の俳句」 希望としてのアニミズム 山尾三省<3>

<2>からつづく  

カミを詠んだ一茶の俳句―希望としてのアニミズム
「カミを詠んだ一茶の俳句」 希望としてのアニミズム <3>
山尾 三省 (著) 2000/09 地湧社 単行本: 302p

1)山尾三省は決して寡作な作家ではなく、追っかけてみれば読み切れないほどの作品を遺してくれている。その中にあっても 「聖老人」(1981 めるくまーる社)や「聖なる地球のつどいかな」
(1998 ゲイリー・スナイダーとの対談集/山と渓谷社)
、「インド巡礼日記」(2012野草社)、「ネパール巡礼日記」(2012野草社)などは、どうしても抜きがたい重要な位置を占めている。

2)しかしながら、もし凝縮された山尾三省の思想や哲学、文学の焦点というものがあるとするならば、私が勝手に名付けた晩年の「三省アニミズム三部作」こそが、その結晶であろうと、以前より思っていた。

3)藤沢周平ワールドめぐりの中で森繁久彌朗読の「一茶」CDに出会い、こうして三省の一茶アニミズムに戻ってこれたことに、大いに感謝したい。

4)このCDはなかなか良く出来ていて、もうすでに何回も聞いているのだが、ひょっと思い立って、そもそもの藤沢周平の原作の「一茶」を読み始めているところである。そうして気づくことは、朗読とはいうものの、かなり脚色されていて、またそれぞれに違う味わいがあるのだった。

5)従って、今現在、そもそもの一茶を元にした、藤沢周平ワールドがあり、森繁久彌ワールドがあり、山尾三省ワールドが林立している状態ということになる。そして、いずれもが、わが心の琴線に触れてくる絶妙なリズムなのだが、中でもよりリアリティを持って原寸大でせまってくるのは、やはり三省なのかな、と思っているところである。

6)三省にはこの 「カミを詠んだ一茶の俳句」(2000 地湧社)の他には、 「アニミズムという希望―講演録・琉球大学の五日間」(2000 野草社)、「リグ・ヴェーダの智慧ーアニミズムの深化のために 」(2001 野草社)があり、この三冊は、折に触れて今後なんども読み返していきたいものだと感じている。

7)この本を前回読んだ時も、藤沢周平朗読CDを聞いた時も、実は見逃していたのだが、晩年に遊行者から家住者になった一茶の身の上は、「不幸」の連続だったうえに、村に大火事がおこり、家作を焼失してしまっていたのだった。

8)三省はこの本を、何かの雑誌等に連載したものを再編集したものではないようだ。つまり書き下ろしである。ひとつテーマを決め、「15年前」から案を練っていたものだった。

9)ぼくが今、こうして取り組んでいるこの本は、アニミズムという宗教的なテーマを主題としてはいるが、それはいわゆる宗教に読者を誘いこもうとしているのではなくて、その反対に宗教というものを人間性全般に開放したいという意図のもとにこそ取り組まれているのでである。p106「つひの栖」

10)アニミズムというとどうも誤解を生みやすい。とくに三省のようなパソコンも使わず、太陽光発電にも懐疑的な御仁が提唱するとなれば、上げ足のひとつも取りたくなるのである。

11)万人が、生という感応道交の事実としてその中に立っているその<光>をこそ、ぼくはカミと呼ぶのであるが、神はもとよりカミという言葉でさえも宗教臭がして厭だという人は、もとよりそれを<物のみへたる光>と呼んでもらってもかわないし、もっと端的に<美>と呼んでも、ただ万象との感応道交と言ってもよいのだ。
 ぼくとしては、それをカミと呼ぶことが、美と呼ぶことよりはるかに適切であるのでそう呼ぶのであるし、カミと呼べばまさしくカミとしてそれが現われてくるゆえに、そう呼ぶのである。
p174「下々の下国」

12)ひとそれぞれの感応であり、表現であるならば、別段に議論の余地はないのであるが、三省にとっては、この書は遺言に位置する最後のメッセージであり、積極的に表現され、積極的に受け止められるべき一書であるのである。

13)アニミズムをこそこれから作っていく文明の基礎哲学と考えるのは、東京を昔の田畑しかない武蔵野に戻そうというのではなくて、例えば東京に欠けている森林公園を現在の五倍にも十倍にも増やし、東京を流れるすべての河川の水を都市工学の力を借りてもう一度飲める水に取り戻そうとすることにある。
森こそはアニミズムの発祥の地であり、水こそは全生物を産み出した大源だからである。
p212同上

14)ここに書かれている三省の遺言は、決して理解され得ない内容ではなく、万人の心を打つ内容ではあるが、それを現実化する道筋にリアリティがない。例えば三省遺言の憲法九条をすべての国の憲法にいれよう、というアイディアでさえ、その本国である日本憲法からさえ消えつつあるのだ。

15)下々の下国人と自覚した小林一茶こそは、日本において最初に現われ出た土からの詩人であり、土を価値とした人であり、したがって場=地域=故郷性を思想とした人であった、ということができる。p228「俳諧寺一茶」

16)三省アニミズム三部作は、この一茶と、インド聖典リグ・ヴェーダと、沖縄という「場」に基点をおいているかぎり、この「カミを詠んだ一茶の俳句」は、日本的文化の真髄を、三省なりに一茶の俳句を借りながら、関係に表現したものと言えるだろう。

17)リグ・ヴェーダではインド哲学的神秘を借り、沖縄という場では、現代性、科学性、政治性を語った三省において、この三部作こそ、科学、芸術、宗教のトリニティを余すことなく表現しようとした「最期」の創作と見ることが可能である。

18)雪とけて村一ぱいの子ども哉    (中略)

 子供達が地球という村いっぱいに遊んでいるということが、ぼく達の真実の希望であり、未来でなくて、他に何があろうか。p295「屑屋」

19)三省は、その出発地点においては政治的な視点から始まった人であり、つねに政治的な視点をはずすことはなかった人ではあるが、政治家ではなかった。また科学を重要視するという姿勢を見せながら、いわゆる現代科学の潮流を自らの道とすることはなかった。だから、彼のビジョンは、極めて現実的視点を持ちながら、その解決策はかならずしも実際的ではなかった。

20)百姓として、そして詩人として、彼の表現は、平易でかつ目に写る事象に依拠された日常に彩られたものであったが、その森羅万象のなかに深い神秘を見ようとしてきたのは事実である。三省を科学者や政治家としてみることは出来ないが、また、神秘家という非日常の彼方に追いやることも、勿論できない。三省は詩人なのである。芸術の人であった。

21)三省の遺言をなにかのプロジェクト企画書のようには受け取ることはできない。物事はそうはならないだろう。しかし、そう表現せざるをえなかった三省と、同時代を生き、数少ないとは言え、同じ空間の空気を吸った者としては、彼の遺言をしっかりと受け止め、そして、それは私の生きざまへと統合されていかえるべき質のものであると心得る。

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