「庭仕事の愉しみ」 ヘルマン・ヘッセ <4>
「庭仕事の愉しみ」
<4>
ヘルマン・ヘッセ /フォルカー・ミヒェルス 1996/06 草思社 322p 原書HERMANN HESSE FREUDE
AM GARTEN 1992
★★★★★
1)この季節になると、決まってこの本を読みたくなる。ヘルマン・ヘッセの中から三冊取りだすとしたら、「シッダールタ」と、「ガラス玉演戯」 、そしてこの「庭仕事の愉しみ」 でキマリでしょう。
2)ところで今日、友人のところに行ったら、「菜の花」の種はいらないかい、と来た。お、いいね、というと、どのくらい欲しい、という。できるだけ頂戴、と言ったが、くれたのは100グラムほど。
3)どうやら彼は、ネットで見つけて1キロ程購入したようだ。そもそも私は菜の花の種なんてあることを知らなかった。「菜」の花だから、白菜とか大根とか、畑のものをそのままにしておくと花が咲くのかな、と思っていたのだが。
3)その袋を見ると、「景観緑肥用シロカラシ」とある。つまりこれは最初から花を見て、そのまま鋤き込んで肥料にしようという作物だろうか。正式には「シロカラシ」という名称かもしれない。1キロで2000円ほどらしい。送料をいれて3000円だったとか。
4)ドイツ産である。昨年に採種して、ことしの6月までは発芽保証とかのようだ。友人も自宅の周りに播くだけでは多すぎると思ったのか、試しに私にも分けてくれた。
5)はてさて、私はこれをどこに播こう。自宅のプランターに播くか、花壇の片隅に播くか、それとも、森に持っていって播いてみようか。
6)きょう、私はこのヘッセの本を3分の1程読んだ。小説も悪くはないが、この本は原寸大のヘッセが表現されていて好きである。それに、写真やヘッセの水彩画がいっぱい綴じられている。
7)森にいて、花や樹木、植物を楽しむというのは三省もそうであったが、ところで三省は絵を描いただろうか。寡聞にしていままで聞いたことがない。三省になくてヘッセにあるのは、この水彩画たちである。
8)少年は散歩などしない。少年は、森へ行くなら盗賊か、騎士か、あるいはインディアンになって行く。川に行くなら筏乗りか、漁師か、あるいは水車小屋作りになって行く。草原へ走るのは、蝶の採集か、トカゲ捕りにいくのだ。
こうして私の散歩は、自分が何をしてよいかわからない大人の、上品だが少々退屈な行為のように思われた。p20 「少年の庭」
9)私は森に騎士になっていくのだろうか。トカゲ捕りにいくのだろうか。それとも、本当は、自分は何をしたらよいのかわからない大人なのだろうか。
10)世界がかつては一瞬のあいだあんなにも光で満たされ、完全であったことを、もう思い出すこともできなくなるだろう。考えを切りかえるために、私は夕食後十五分間読書する。が、最近は精選された良い物しか読めない・・・・p108「夏と秋のあいだ」
11)この本は、ヘッセがあちこちに書いた文章を、研究者のフォルカー・ミヒェルスが編集したものだ。だから、出典もまちまち、年代もまちまちだ。だから本当のことを言うと、ヘッセそのものを味わうには、すこし邪道であると言える。
11)この文章は1930年のもの。1877年生まれのヘッセ53歳の時だ。「最近は精選された良い物しか読めない・・・・」。 最近の私も実は、「精選された」ものしか読めなくなっている。もともとは乱読なクセに、どうも最近は再読本が多くなっている。だが、私は、自分が精選したものが「良い物」という自信は本当はない。
12)私はいつか、ゆったりと森の中に沈み、ヘッセの最高峰「ガラス玉演戯」をゆっくりゆっくり読んでみたい。あの高貴な精神の高見に浸ってみたい。だが、それは彼の「作品」だと知っているから、そうするのだ。
13)本当のヘッセは、むしろこちらの「庭仕事の愉しみ」のほうにいる。原寸大のヘッセが夢の世界で「ガラス玉演戯」を夢見ている。そんな風景が好きである。
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