「死について41の答え」 OSHO 伊藤アジータ<3>
「死について41の答え」 <3>
OSHO(著),
伊藤アジータ(翻訳) 2015/01めるくまーる 単行本 456ページ
★★★★★
1)昨日、叔父が亡くなった。享年83歳。決して早い死ではないし、平均寿命とすれば、まずまずの長寿の部類に入るのだが、やはり私としては、もっともっと生きて、楽しい話をしてほしかった。
2)この叔父は、若い時から明るい人柄で他人によく好かれた。ジョークも良く言ったが、また祖父の影響もあったか、仏教にも明るかった。この叔父の紹介で、一時私は、寺の跡取り娘の養子になる話さえあったほどである。
3)その可能性はなかったにせよ、まったくのゼロだったとは言えないとして、もしそうだったら、どうだったのだろう、と考える。
4)インドに行こうと思った頃と、その話があったころはダブっていた。同じころの話である。しかし、こちらはインドに行く話をだす前から、ずっとその方向を探っていたのだから、突然の話のような気がして、気おくれがした。
5)もちろんお寺さんにとっても、ずっと年来の課題に取り組んできたのであろうし、いろいろな可能性を探っていたに違いない。だけど、このラインには縁がなかった。というか、私には、お坊さんになるほどの人徳が備わっていなかったのであろう。
6)人徳が備わっていなかったのは仕方ないとして、求道心においては、必ずしも心遅れするものではない。人が人として生きるにあたって、まずは仏道を学び、生を学び、死を学ぶことは、避けては通れない道であったはずである。
7)檀家もそれほど多くない地方の仏教寺院において、まずは本山に上がって何年か修行をして、それからお寺の娘さんと結ばれ、やがて、お寺の経営にあたる、という人生は、可能性としてはあっても不思議ではない。
8)しかし、若い時分の私にはその道はなかった。なかったわけではないが、その他の可能性がありすぎたというべきだろう。迷いが多すぎたのだ。今となってみれば、そういう人生もあったのかな、と思う。それはそれで、一人の人間の道であっただろうと思う。
9)そこのお寺のことかどうかは定かではないが、後年、その娘さんは若いお坊さんと結ばれ、子供もできたそうだが不仲となり、寺院内別居となり、やがては、娘さんと子供がお寺の外で暮らすようになり、やがて不縁となったという。
10)私がその娘さんと結ばれたとしても、それ以上に幸せにできたかどうかなんてことはまったくわからない。むしろそこまでいくだけの赤い糸は張られていなかった。娘さんが大事なのか、仏道が大事なのか。あるいは、お寺が大切なのか。
11)叔父は仏教大好きだったので、長男の結婚式をこのお寺で仏前で行なった。しかし、先代の和尚さんと懇意だったため、それからはどちらかというと神社さんとなかよしになって、お寺さんとは少し距離を置いていたかに見える。
12)地方社会における人間模様は、そこに住んでみないと分からないことがいっぱいあるが、瞬間瞬間の選択肢のなかで、私たちは、常に決断に迫られ、後戻りのできない人生を生きている。
13)職業の選択や、恋愛や結婚、若い時分のことどもなら、可能性も、再チャレンジもあることはあるが、中年を過ぎれば、もはやそれまでの自分の選択の結果を一身に受けて、全うにその人生を歩んでいくしかない。
14)そうして今思ってみれば、どの可能性をたどったとしても、私は私の人生でよかったな、と思う。瞬間瞬間の決断の結果として、今、ここがあるとするならば、これ以上の幸せはないのだ。
15)80を過ぎたばかりで逝ってしまう叔父のことを考えると、もうすこしやりたいこともあったのではないか、とも思っては見るが、もう十分なのかな、とも思う。それだけの人生の期間を与えられて、立派に生き切った叔父を、人生の先輩として仰ぎ見るだけである。
16)今日、お通夜、明日告別式。
17)叔父さん、ご冥福をお祈りいたします。合掌
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