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2015/07/14

M氏日記に思う<3>

<2>からつづく

M氏日記に思う

<3>寅・ザ・ジーザス

1)ゾルバ・ザ・ブッダについては、ここでは詳細を避ける。いずれにしても、Oshoが自らの人間像を具象化した時に、物質と精神性が統合された人間の生き方として、言葉として提示したものである。

2)おのずとそれは「その男ゾルバ」と「ゴータマ・ブッタ」の掛け合わせであり、かりに、どちらかがフィットしていれば、あえて新しい像は要らなかったわけで、どちらにもフィットしなかったから、あえてゾルバ・ザ・ブッタという像を編み出したわけである。

3)だから、自分がゾルバにもなれなかったし、ブッタにもなれなかった、なんて嘆く必要はなにもない。Oshoにおいては、ゾルバも不完全であれば、ブッタでさえも不完全である、ということになる。どちらになり得たとしても、それは不完全なのである。

4)この言葉を科学的に合理的に捉える必要はない。これはあくまでも文学的な表現なのである。相反する二律背反の語彙を並べて統合しようという遊びは、別にOshoに限ったわけではない。このようなパラドックスやシニシズムは、笑って受け入れるに限る。

5)私がOshoの「存在の詩」に出会ったのは1975年、21歳の時だったが、それから遡ること高校時代から、私はこのようなパラドックスに満ちた言葉が好きだった。例えば、「うつむきながらの渡世人」とか「天真爛漫なるペシミスト」とか「紅顔無垢と厚顔無恥の狭間から」なんてのは、自分で考えた高校時代の自分のキャッチフレーズだった。

6)だから、Oshoの所にいって、ゾルバ・ザ・ブッダという言葉に出遭った時、割とスムーズに受け入れることができた。すくなくともこのマスターは、私でも受け入れることができる言葉遊びをしている、と。

7)Oshoの本に出遭った1975年、私は、ジョージ秋山の「浮浪雲」にも出会った。まだその時は、別冊単行本は第一巻しかなかった。私はこの漫画がすっかり大好きになった。当時はまだ独身青年であったが、その後に結婚して、二人の子供が生まれてからは、我が家のなかの教育方針のようでもあった。

8)私は、この浮浪雲にもゾルバ・ザ・ブッタを見ていた。

9)この浮浪雲にやや飽きてきた頃、私は「男はつらいよ」のフーテンの寅に出遭った。映画シリーズとしてはすでに有名な作品であったが、私が触れたのは割と遅い。だが、1980年代以降、ずっと好きだった。映画館に行ってみるほど映画好きではないのだが、テレビ放映が在る時は、必ず見た。

10)私は、フーテンの寅のなかにも「ゾルバ・ザ・ブッダ」を見ていた。今年の春に10年前のテレビ放映シリーズ録画の47作品を、もう一度見返したものである。

11)米田彰男なんて人は、「寅さんとイエス」 (2012/07 筑摩書房)なんて本も書いている。ニュアンスはそれぞれ多少ずれてはいるが、彼もまた、寅を寅と見限らず、寅の中にイエス(=ジーザス)性を見つけた一人である。

12)ゾルバ・ザ・ブッタに「なる」ということは、当然のことながら、ゾルバになることでも、ブッタになることでもない。両方になる、ということでもない。そんなものをカーボンコピーしても、意味はない。ゾルバ・ザ・ブッダということは、どちらにもならないよ、という宣言と受け取っていいのである。

13)ゾルバになりたいのであれば、あれは架空の物語だから、演劇の世界にでも行って役者人生を送ればいいのだろうし、ブッタになりたいのであれば、旧来の仏教ワールドに軸足を置き、そこに生きる決意をすればいいだけのことだ。

14)しかし、Oshoのゾルバ・ザ・ブッダに関して言えば、これまたOshoのカーボンコピーになどなる必要ないのである。もちろん、なろうとしてもなれるものでもないが、しかし、また、「私」というものに、他の誰かがなろうとしても、なれるものでもないのである。

15)当ブログの現在のカテゴリ名は「空」まで来たが、それでもどうも収まりが悪い。ここからさらに展開しようとするなら、今の私なら「人」としそうだ。マクロとミクロの世界のはざまにおいて、生きているのは「人間」、「人」なのである。

16)「命」も悪くない。しかし命のなかには、その冠のなかに「人」が含まれている。人のほうがよりシンプルであるように思う。人という文字は二本の足で歩く姿が連想される。二本の足、というのがどうも「非二元」的でないとするなら、「一」も悪くない。しかし「一」では、「二」を、あるいは「三」を、時には「無」を連想する。

17)非二元を表わすなら、「人」がいい、と今の私は思う。

18)人間として生きること。ゾルバ・ザ・ブッダであれ、浮浪雲であれ、寅・ザ・ジーザスであれ、そこに人間が生きてあれば、それが究極なのである。少なくとも人間としては。

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