「コンピューターがネットと出会ったら」 モノとモノがつながりあう世界へ 角川インターネット講座14 坂村健監修
「コンピューターがネットと出会ったら」 モノとモノがつながりあう世界へ 角川インターネット講座14
坂村健 (監修) 2015/05 角川学芸出版 Kindle版 11923 KB 紙の本の長さ262 ページ No.3552★★★★☆
1)「角川インターネット講座」の中の一冊。監修者の名前から推察できるように、ユビキタス社会についてのおさらい、及び未来の展望が書かれている。凡庸なタイトルであるが、意外な展開を見せる。
2)インターネットのノードとなっているようなサーバーやパーソナルコンピューター(PC)、スマートフォンなどの---いわゆる情報処理用のコンピューターは、出荷量で観る限り全体の10パーセント程度に過ぎない。残りの多くは制御用としてさまざまな機器に組み込まれる---いわゆる組み込みコンピュータとして使われている。
そして、近年までそれら大多数のコンピューターは、インターネットとは無縁で、機器の中で黙々と仕事をこなしてきた。それが今、ネットと出会ったことでにわかに脚光を浴び始めている。p009「来たるべき未来の姿--IoT(インターネット・オブ・シングス)」
3)最近、よく言われるようなビックデータと相関関係にあるだろう、いわゆるユビキタス、その歴史と現状と、そして未来が展望されている。最初、タイトルの意味を超えた、新たな未来を一瞬見たような気がしたが、いろいろ考えさせられる一冊だった。
4)現代物理学が原子力技術を生み出し、原爆や、そして原発を産み出さざるを得なかったように、情報技術も、ユビキタス社会を生み出し、そして、更には、超管理社会を生み出すのではないか、という疑念である。
5)情報社会に対しては、私は、いささかながら、積極的に発信すべき情報と、抑制し、あるいは遮断すべき情報と分けて考えている。例えば、当ブログやFBなどの、積極発信に対して、例えば、位置情報や個的情報などは、限りなく消極的に参加することにしている。
6)リニアモーター技術が、かつての超音速飛行機コンコルドの終焉のように、ますますマッドサイエンス化して行く中、この情報技術も、ある一定程度まで進んだら、そこで立ち止まるとか、引き返すとか、しなければならない地点がくるのではないだろうか。
7)I o Tは、世界に遍在するコンピューターのネットワークが現実世界を意識するというコンセプトであり、そのように書けば、これがいわゆる「シンギュラリティ」とも深い関係をもつ可能性も見えてくる。
ヴァーナー・ヴィンジが書くように、コンピュータシステムが世界中に張りめぐらされたセンサーによって人間社会を把握することで、人類を超える知能が生まれるかもしれない。その意味でも、I o Tの将来には大きな注意が必要であり、現実の組込み化に対する哲学も求められるのである。p22「ネットワークにつながるとはどういうことか?」
8)いわゆるユビキタスで語ら得る部分と、シンギュラリティで語られる部分では、だいぶズレがあり、同等に語ることはできないが、互いに関連性がないとは言えない。しかし、ユビキタスは、おそらく再現はない。あるいは、全ての「モノ」にICタグをつける、などということは、究極的には出来ない。だが、どんどん細分化されていく可能性はある。
9)ところがシンギュラリティは、ある一点に辿り着けば、ある意味、そのステージはそこで終わりである。というか、ある終わりの一点のことを、シンギュラリティと呼んでいるわけだ。だから、視点はまるで違う。ここにギャップ、ずれがあり、いわゆる哲学が、人間が人間らしい感性を発揮すべき、ある要素が浮き彫りにされてくる。
10)トロン電脳住宅は、これらを組み合わせたユビキタス・コンピューティング環境として1989年に構築された。これは家中にセンサーとアクチュエーターを数千個も張り巡らせたスマートハウスであり、部屋の気温が高ければ自動的に窓を開け、降雨センサーが雨を検知すれば窓を閉じて空調をつけるといった、今やユビキタス・コンピューティングの代表的なアプリケーションである「住環境のこまめな最適制御」を実現していた。
まだパソコンすら一般的でなかった当時に世界に先駆けて実現したものであり、トロンプロジェクトの先駆性を示す一例といえるのではないだろうか。p062「I o T時代のノード」
11)かつて60年代には、車にはクーラーもストーブさえもなかった。それが今やエアコンのない車などほぼ見かけることはできない。そしてさらには自動的に設定温度に室内が保たれるようにオートマチックになっている。便利であるとともに、それがないと困るような時代でさえある。しかし、すべてがこうなるべきだ、と考えることは正常だろうか・・・?
12)暑ければ窓を開け、空気にあたり、寒ければ、靴下を重ねてはいて、時には運転しない、という選択だってあっていいと思う。技術的には、どこまでもどこまでも、と可能性を追求し続けることになるが、本当に、それを「人間」は必要としているのか。
13)車が増えすぎ、エアコンが増えすぎた。エネルギーが無駄遣いされ、環境は一方的に汚染され続けている。どこかで「人間」は立ち止り、考え、思いを巡らし、時には無心になって、初心に帰る必要がある。
14)この本を読んでいて、おお、技術はここまで行くのか、と驚嘆しつつも、もうそれほど長くない人生しか残っていない初老の男としては、もう、技術的なことはこの辺でもういいなぁ、と思う。
15)同じ技術なら、もっと「人間」らしい、生きていてよかった、と心から思えるような根源的で本質的な技術に出遭いたいものだ、と思う。
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