「わがボタニカルライフ」<7>かやの木
<7>かやの木 仙台柳生「かやの木 薬師様保存会」資料集
この植物を、単にボタニカルと表現してしまっていいのだろうか。ましてや「わが」ボタニカルライフ、などと表記したら、不届き千万、ということになってしまうのかもしれない。
しかし、「わが」ボタニカルライフを振り返るなら、やはりこの巨木をひとつ加えておかなければ、なんとも片手おちということになる。
このかやの木は、そんじょそこらにあるかやの木ではないのである、などとわたくしがノタマワっても、まぁ、かやの木そのものの価値に変わりはない。
まぁ、あえてここは柳生(やなぎう)かやの木、と表記しておこう。
「わが」と言ったら、所有している私物のように聞こえるが、この木に関しては、もちろん私個人の所有ではない。だが、私の親族一族が関わっている、という意味では「わが」と言えないこともない。その「保存会」が毎年春に行なうお祭りの幹事でもあるのだから、まぁまぁ、他人ごとではない。
このかやの木に関しては、他にいろいろ語られているし、私も書いたし、資料も集めてある。細かいことは抜きにしよう。ここでは、「わが」という範疇におけるボタニカルとしての、この記念木をここにメモしておくものである。
瑣末ないろいろなことはあれど、そういう外縁的なことにばかりこだわり過ぎて、私自身は、このボタニカルと一対一で対峙したことはどれほどあっただろうか。「わが」とは、私が私のほうに引き寄せた、というニュアンスが残る。
しかるに、このボタニカルにおいては、むしろ主人公はあちらであろう。「わが」と使えるのはむしろあちらだ。彼(あるいは彼女)は、言っているに違いない。おお、わが子孫たちよ。わが血脈たちよ、と。
そうした場合、私は客体である。「あなた」あってのボタニカルライフである。「あなた」とボタニカル、「あなた」に支えられ、包まれてあるボタニカルライフである。あまりに大きい、巨体である。
推定1350年を超える古木ではあるが、まだまだ若い。毎年、たくさんの実をつける。
いつかは、この実からわがガーデンにも鉢としてのかやの木を、と考えてみはみるが、実行に移したことはない。
時代と対峙するボタニカルである。
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